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旅の終わり 1



 リスベットは眩しくて目を覚ました。


 目を開けてぼんやりと天井を見上げていると、ふと見たことがある部屋だと気付いた。

 クリーム色の控えめな壁紙も。ドレープがたっぷりの薄紫色のカーテンも。開け放たれたステンドグラスの窓から入ってきた風に揺れる、ラベンダーの刺繍が入ったレースのカーテンも、どれも見たことがある。


 壁には、ラベンダーがリボンで束ねられてドライにして吊り下げてあった。お陰で部屋の中は仄かなラベンダーの香りがしている。

 部屋のあちこちにはラザフォード産のガラス工芸品が飾られ、一際豪華なガラス細工の施された大きな花瓶には、淡いオレンジ色のグラジオラスが活けられてあった。


 青臭い初夏のいい匂いが風に乗ってくる。

 リスベットはふわふわとした心地よさを感じて、懐かしい気持ちになった。


 ここはどこだったろう。

 記憶を探っていると、左手を誰かが握っていることに気付いた。ベッドサイドの椅子に座り、しっかりと手を握ってベッドにうつ伏せになって眠っている男がいる。


 リスベットは起き上がろうとして、身体に力が入らなくて断念した。首を振るのもしんどい。油が切れたように関節がギシギシと痛み、動かそうとすると鋭い痛みが走った。


 それより何よりのどが渇いた。顔を洗って歯を磨いて、お手洗いにも行きたい。

 リスベットは痛む腕を動かして、寝ている男の後頭部に手を置いた。申し訳ないが起こすしかない。


「ぐ……」


 掠れた声しか出てこなくて困った。仕方なく手を左右に動かしてみると、腕に痛みが走った。


「いっ……」


 その時、突然寝ていた男が顔を上げた。呆然としてリスベットの顔を覗き込むと、その目にみるみる内に涙が溜まっていく。


「……先輩」


 ノエルはそのままリスベットの顔を両手で包み込むと、泣き笑いの顔になった。


「よかった……あのまま目を覚まさなかったらどうしようかと思いました」


 リスベットも釣られて涙が込み上げてきたが、なんとかそれを飲み込んで微笑み返した。

 本当は夢の中まで連れ戻しに来てくれてありがとうとお礼を言いたかったが、喉が渇いてうまく声が出てこない。


 それを察したようにノエルは立ち上がると、リスベットを抱き起こして背中にクッションを積み上げて、もたれかかれるようにしてくれた。


 それからベッドサイドのテーブルに置かれた水差しでグラスに水を注ぎ、リスベットの口元にそっと押し当てた。傾けられたグラスから水が注ぎ込まれて、こくこくと少しずつ飲み干した。

 ようやく喉が潤ったが、飲みきれなかった水が口端から零れて顎へとしたり落ちてしまった。拭おうと思っても手を動かすのもしんどい。


 するとノエルの手が伸びてきて、顎に垂れた水を優しく指で拭った。そのまま流れるように親指が唇に添えられると、なぞるようにリスベットの唇を往復した。


 リスベットの心臓が跳び跳ねる。今度こそ心臓が止まって死んでしまいそうだ。

 ノエルが至近距離でリスベットの目を覗き込むと、息がかかる距離まで近付いてきて、リスベットの顔が熱くなり脳は停止した。


 身動き一つ出来ずにいると、廊下の方が何やら騒々しい。バタバタと足音をさせて、少女の声が聞こえてきた。それを追いかける男の声。


 ノエルの表情が急にさっと無表情に変わり、渋々といった様子で立ち上がると扉の方へと向かった。その時、扉が勢い良く開かれて、そこからシャーロットが現れた。次いでジャンとマークが顔を出した。


「リスベット先生!」


 シャーロットはリスベットが起きているのを見るなり、喜んで満面の笑顔を浮かべて飛び付いた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、リスベットは痛みで声を漏らした。


 シャーロットは慌てて離れると、今度はボロボロと涙を流し始めた。情緒不安定が最高潮のシャーロットは、祈るように手を握り込んで神に感謝すると、ノエルにも礼を言った。それからそっとリスベットの手を取った。


「先生が十日も起きないから……死んだと思って……私達は生きた心地がしませんでした……よかった。先生が生きていてくれて本当によかった……!」


 シャーロットはそのままベッドに泣き伏せてしまった。リスベットが困ったように顔を上げた時、開け放たれた扉から一人の中年の男が入って来た。

 リスベットは男を見るなり固まって、表情が抜け落ちてしまった。


「リスベット。今治癒師の方を呼んだから」


 穏やかな声。不器用な笑顔。

 懐かしすぎるそのどれもが、弱りきったリスベットの身体と心に響いた。

 リスベットは震える唇で、喉の奥から声を振り絞った。


「お父様……」


 男はアラン・ラザフォード。

 現ラザフォード領の領主であり、血は繋がっていないがリスベットの父親である。


 そうか。ここはラザフォード家別邸のリスベットの部屋だ。幼い頃しか過ごしたことはなかったからすっかり忘れていたけれど、部屋は当時のままだ。残しておいてくれたのかと思うと、リスベットの胸は熱くなった。


「リスベット……。まずは、私からお礼を申し上げる。ラザフォード領を、領民達を、そして私達を守ってくれてありがとう。リスベットのお陰でこうして皆が生きていられる。ラザフォード領を代表して心より感謝申し上げる」


 アランはリスベットの傍までやってくると、微笑みと涙を浮かべて言った。


「……そして、ラザフォード家から追い出したことを、心から謝罪したい。……悪かった。私達はとても愚かだった。……だが、私は今でもリスベットをたった一人の娘だと思っていることは、どうか理解して欲しい」


「分かっています!お父様……!」


 昔も今も、それだけは理解している。リスベットの父親はこの人だけで、父も同じように思っていてくれたことが何より嬉しかった。


「こんな不甲斐ない父親を……許してくれるのか?」


「もちろんです……!」


「……ありがとうリスベット。そして……おかえり。思えば長い長い旅だった。身体が元に戻るまでは時間がかかるだろう。その間、旅の話をゆっくりと聞かせてくれないか?」


 アランはリスベットを優しく抱きしめた。

 父からラベンダーの香りがした。父の上着のポケットから、藍色のリボンが飛び出していた。よく見るとそれは、リスベットが昔置き去りにした匂い袋だった。それは所々擦り切れて、色も変わってしまっていた。


 ……持っていてくれたのか。こんなになるまで。


 リスベットはいよいよ堪えられなくなって、涙腺が決壊してボロボロと涙を流した。

 アランはそんなリスベットの背中をそっと擦った。リスベットは人前にも関わらず、シャーロット以上に泣いて泣いて、中々泣き止むことが出来なかった。




 ◇ ◇ ◇




 丘の麓に咲くラベンダーが風に揺れている。風に乗って爽やかな香りが漂ってきて、リスベットは深呼吸して香りを楽しみながら、ラベンダー畑の真ん中まで歩を進めた。


「腰を痛めますわよ。お祖父様」


 ラベンダーの花をせっせと手入れする背中に声をかけると、驚いた祖父が振り返った。祖父は膝に手をついて腰を上げ、ぴんと背筋を伸ばしてリスベットに向き合った。


「リスベット……もう起きて大丈夫なのか?」


「ええ。三日経ってようやく歩けるようになりましたの」


「……そうか。……それはよかった。大魔導士フィンチ卿に礼を言わねばならぬぞ」


「王都に帰りましたらお礼に伺いますわ」


「そうしなさい……」


 祖父は剪定バサミ片手に、それきり口を閉ざしてしまった。

 使用人の付ける作業用エプロンをして花を摘んで籠に入れる姿は、昔の威厳ある祖父からは到底想像出来ない。使用人の真似事をするくらいなら首を吊ってやると言うような人だったのに。


「このラベンダーは、お祖父様が植えたそうですね」


「ちょっと苗を植えたら増えおってな……勝手にこうなったんだ」


「植えられたのは十五年前だとか。本邸にも植えられているそうですね」


 じろりと祖父がリスベットを睨み付けた。リスベットは負けじと見返す。周囲に険悪な雰囲気が漂ってきたところで、リスベットが折れた。折れてやった。


「お祖父様に申し上げたいことがございます」


 無言の祖父に対して、リスベットはふっと小さく微笑んだ。


「私にはラザフォード家の血は一滴たりとも流れておりません。しかし、私はラザフォード家の中で誰よりもお祖父様に似ていると自負しております」


 ぐぬぬと祖父が歯を食いしばると、戯言をと小さく呟いた。

 昔ならばそのハサミをリスベットに投げ付けて大声で叱咤するだろうに、ただ歯を食いしばるだけとは随分と丸くなったものだ。


「お祖父様はおっしゃいましたね。憎んでくれて構わないと。……ですが私は一度たりともお祖父様を憎んだことなどございません」


 リスベットは胸を張って言い切った。

 祖父は瞠目すると、剪定バサミを取り落として、脱力してその場に座り込んだ。

 リスベットはすっかり年老いて真っ白になった祖父の頭を見下ろした。


「私がこの家の子供ではないと知りながら、私を厳しく育ててくれたことに感謝しております」


 祖父が驚愕してゆっくりと顔を上げる。リスベットは膝を折って祖父と視線を合わせた。


「リスベット……なぜ私を憎まない?私はお前に酷い仕打ちをしたというのに。なぜ……」


 祖父は膝の上に置いた手をぎゅっと握り込んだ。


「あの日頭にきて出て行けと言ってしまったが、貴族の血は流れていなくとも、シュトックマー伯爵はリスベットを気に入っておったから、事情を説明してなんとか嫁にもらってくれないかと思案しておったのだ……。しかし、翌日にはお前はいなくなっていた……」


 祖父は握り込んだ手をわなわなと震わせた。


「私はお前が貴族に少しも未練がなく、それどころか家を追い出されることを察知して、家を出る準備をしていたのかと思うと、とても……とても打ちのめされた。そこで初めて、リスベットのことを知ろうともしなかった自分を恥じた……。私は使用人からリスベットの話を聞いて回って、どれ程リスベットが使用人や領地の者、友人達から慕われていたのかを知って、自分が間違っていたのだと思い至ったのだ……。私はなんて酷いことをしてきたのだろうと……」


 祖父の目から涙が流れ落ちた。威厳ある伯爵ではない、弱々しい老人がそこにいた。


「リスベット。お前の目から見た私はさぞ滑稽だったろう。血統にこだわり、差別的で、矜持だけは人一倍高い私は、なんと愚かだろうと思ったろう」


 リスベットは緩く首を振った。


「確かに腹を立てることもありました。酷いことを言われて悲しいと思ったこともあります……。しかし、お祖父様から学んだことも確かにあります」


 ――貴族たるものいついかなる時も、気丈に振る舞え。相手に弱みを見せて付け込まれるな。みっともない姿を見せてラザフォードの家名に泥を塗るな――


「私はお祖父様から、自分に厳しくすることと誇りを持つこと、そして強い意志を持ってそれを貫く大切さを教えて頂いたと思っております」


 祖父は声を上げて泣き出した。リスベットはラベンダー畑を見渡した。


「お祖父様は私がいなくなってから、必死で私のことを考えて想ってくれたのでしょう?このラベンダー畑を見ればそれが分かります」


 リスベットは、泣いて答えない祖父の手を両手で包み込んだ。

 

「私はあの日、二度とラザフォード家には戻らないと決意して家を出ました。ですが、こんな形でもラザフォード家に帰って来れてよかったと思っています。……お祖父様は知っていますね?」


 はっと顔を上げた祖父に、リスベットは笑いかけた。


「ラベンダーの花言葉は、あなたを待っています」


ラベンダーの香りを乗せた柔らかい風が、二人の間をすり抜けていく。リスベットの短くなった髪が靡いて首筋をくすぐった。


「――ただいま戻りました」




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