青褪めた月 3
雨が上がるといよいよ夏の到来だ。
昨日まで空を覆っていた雲はどこへ行ってしまったのか、影も形もない。山の中は幾分マシだが、爛々とした日差しが照り付け、初夏の空気で満ちている。
リスベットは真っ青な空を見上げて、熱気を孕んだ空気を大きく吸い込んだ。カラッとした空気が美味しい。それにしても暑い。立っているだけで汗ばむ。
前世の世界では今頃蝉がミンミン鳴いているところだろうが、リスベットの住む山に蝉はいない。どころか、スピネルに蝉はいない。蝉のような魔物なら西部で見かけたことがあるが。あの蝉の声を聞くとああ夏が来たなと実感するんだけどな。
呑気なことを考えながら家の中に戻った。
リスベットは、スラックスにシャツを着てその上からベストを着ていたが、暑くてベストは脱いだ。その代わりカーキ色の作業用のエプロンをした。
しばらくはローブも着たくないところだが、何かあった時のためにローブを羽織っていたほうが落ち着くし、仕込みポケットがたくさんあるので、装備を整えた薄手の黒いローブを居間の椅子に掛けておいた。
「ワゥゥ……」
居間で寝ていたマルコが暑くてげんなりした顔をしている。マルコは以前のように完全に元気を取り戻していたが、暑さで参っているようだ。毛があるから仕方ないが、これからもっと暑くなるのに今からこんなことでどうする。毛を刈ろうかと考えていると、それを察したようにマルコは居間を出て行った。
リスベットは窓を開けて風が通るようにしてやった。それから作業場に戻って薬の在庫を確認し、材料の加工を始めた。そこに、ピートがやって来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
ピートは礼儀正しく敬礼をすると、この一週間ですっかり慣れた作業の手伝いを始めた。
結局リスベットは雨が降ろうが晴れようが、ピートを家に上げている。今後もそれを変えるつもりは無かった。
作業しながら、ピートは言った。
「今朝シャーロット殿下の一行が出発しました。昼にはあちらに到着する予定です」
「そう。変わったことはない?」
「今のところありません。ヨーク殿もお変わりありませんね?」
「大丈夫です」
リスベットは木の皮を剥ぎながら答えた。
今日まで邪竜は現れなかった。しかし、リスベットはこれからが本番だと思っている。どうやら邪竜を呼び出すには魔法陣を描かなければいけないようなので、雨の降る間は邪竜は現れないだろうと高を括っていた。
実際その通りになったわけだが、ならば晴れた今現れる可能性は高い。
「近々邪竜が現れるかもしれません」
「ノートン卿もそのようにおっしゃってました。山には交替で数名の見張りを配置しております。何かあればこちらにも王宮にも報せが入りますので、ご安心ください」
分かりましたと答えつつ、安心なんて出来るものかと思う。
リスベットには予感がしていた。近々何か起こると。だが、それがいつどこでかは何度占ってみても分からなかった。まるで方位磁石が狂ったように、答えが出ないのだ。こんなことは初めてで、リスベットは一つも安心出来なかった。
その日もピートは昼前に帰って行った。午後からリスベットは仕事をする気になれなかったので、装備を改めることにした。
魔道具の手入れをして、持ち運び出来るように薬品を瓶に詰めて、鞄を傍に置いていつでも飛び出せるように準備した。
夕食を終えて風呂に入るまで、何事も起きなかった。夜になると昼間の暑さは柔いで、涼しい風が吹いていた。
リスベットはスラックスを履いて、シャツとベストを着た。胸には魔道具のバッジをして、懐中時計を首からぶら下げ胸ポケットへ収める。ハイカットの皮靴を履いて靴紐をしっかりと結び、ローブと鞄をソファに置いて隣に腰掛けた。
足元にマルコが寄ってきたので、リスベットは首輪を取り外した。すると魔法陣が展開して、マルコが元の魔物の姿に戻った。
「グゥルルル……」
本性に戻ったマルコーシスはぶるぶると首を振って羽根を広げてみたり立ったり座ったりと、身体の動かし方を確認しているようだ。
「いつでも飛び出せるように準備しておいてね」
マルコーシスは黙ってリスベットを見上げた。黒く艶のある毛並みに羽根。鋭い目付きに逞しい四肢。うねうねと動く蛇の尾。元の凛々しいマルコーシスである。
リスベットは今、きちんと装備をして準備をしておかなければいけないと思った。間もなく何か起こる。それは直感だった。
しばらくすると、急に眠気を覚えた。お腹がいっぱいでお風呂も入って眠かったが、そんな事で眠気が急に来るとは思えない。
夢に引き寄せられている。何かあったのだ。
リスベットはうつらうつらしながら、夢の中へと引き込まれていった。
――先生。助けて……。
リスベットは目を見開いて辺りを見渡した。
どこかの丘の側道に一人立っていた。遠くの方に村が見えた。丘の近くにある小さなその村は、見覚えがあった。石の採掘をする鉱夫とその家族が多く住む村だ。
そして、丘の麓に大きな屋敷が見えた。それは、リスベットが幼少の頃に避暑のために過ごした別邸だった。
リスベットは背後を振り返った。そこには二こぶの山がそびえ立っていた。
「双斧山……ここは、ラザフォード領」
――先生。助けて!攫われてしまったの!
「シャーロット殿下?!どこですか?!」
リスベットは辺りを見渡したが、人の姿はない。薄暗い空に青白い月が浮いている。
丘の側道を馬車がガラガラと音を立てて走っていた。頭まですっぽり被った黒いローブを着た御者が馬車を操っている。顔は見えない。それはリスベットの横を通り過ぎようとしていた。
リスベットは馬車の屋根に飛び乗った。屋根の上から扉を強引に開いて覗くと、そこには眠るシャーロットと、虚空を見つめる金髪に青い瞳をした、シャーロットとよく似た少年が座っていた。恐らく第三王子のレオポルドだ。
「あら嫌だ。人の夢の中に入って来ないでくださいませ」
シャーロットの隣で、エマがこちらを見上げて微笑んだ。今まで見たことない鋭い目をしたエマに、リスベットは驚いた。
「エマさん。あなた……殿下に何をしたの?」
「ちょっと眠らせて一緒に来てもらっただけです」
「……あなた、魔法使いなのね」
「そうです。皆様には黙っていて申し訳ないですけど、仕方がありません。邪竜を蘇らせるためには、必要だったのです。そういうわけで、出て行ってくださる?これは殿下の予知夢の中なのです」
不敵に微笑んだエマが指を鳴らした途端、視界が歪んだ。夢の中から弾き出される。リスベットは息を吸い込んで叫んだ。
「殿下!しばし辛抱を!すぐに……」
行きますと言う前に、リスベットは夢から追い出されて目覚めた。
大きく息を吐いて呼吸を整えた後、周囲を見渡して自宅にいるのを確認すると、マルコーシスを呼んだ。
「行くわよ」
ローブを羽織り鞄を引っ掴むと、マルコーシスの胴体に簡素なベルトをして鞄をくくりつけた。そして家を飛び出したリスベットは、マルコーシスの背に飛び乗って夜空へ舞い上がった。
それからビョールクを呼び出して、ノエルとダグラスに連絡するように言い付けて飛ばした。
本当は王宮まで報せに飛んで行きたかったが、夢の中は夜明け前のようだった。ならば今から全速力で飛ばしていかなければ、ラザフォード領まで間に合わない。事は一刻を争う。王宮に立ち寄る時間さえ惜しかった。
それにしても、あの夢はシャーロットの夢の中のはず。それなのに、エマが中に潜り込んでいた。今まで魔法使いの気配を完全に消して悟らせなかったことといい、それだけでエマが強力な魔法使いだと分かる。
「マルコーシス。全速力でお願い」
「グルルル……」
「まさかこんな形で故郷に帰ることになるとはね……」
嫌な予感が的中してしまった。シャーロットから離れなければよかった。今更後悔しても遅いが、浅はかだった。リスベットはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
マルコーシスは真夜中の夜空を全速力で駆け抜けた。




