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第四章 ケビン

 雨が珍しい土地、そういう場所に暮らしている私達は、今日の天気がどうなるかなど気にもかけずにペダルを漕ぎ出した。雨が降れば、濡れれば良い。テレビの中の、遠く離れた街でニュースレポーターが差しているような傘を用いたことは数えるほどしかなかった。

 睡眠によって私の心は落ち着きを幾分か取り戻した。次の戦闘がいつ開催されるか分からない、その不安はあったが、気にしないようにしていた。気にしてしまった瞬間、不安は波のようになって、自身を飲み込んでしまう。自分の心を調整することは苦手なため、朝からセイラと話し続け、心の中に潜む波の高まりを妨げようとした。

 私達が向かう所、これから行うことをセイラは出発前に説明してくれたが、セイラの考えは、私にとって賛同しにくいものであった。でも、まあ、セイラはこういうことを考える子だからと、自身に言い聞かせ、勢いよく漕ぐセイラの後に続いた。

 サボテンのできるだけ少ない、管理が行き届いた道を選んだ。自転車にとって面倒なのはサボテンだけではなかった。雑草の中には、まきびしのようなものを作り出すものもいる。それを自転車で踏むと厄介なことになる。あまり手入れのされていない家の前は避けた、そういう家の庭にはパンクさせる植物が蔓延っている。

 二人の住む地域は比較的安全な場所であり、子ども同士で出かける姿も目にすることもある。そうは言っても、あまり子が一人で出歩く姿を目にすることは滅多にない。私も一人で行くことを許可されているのは基本、隣のセイラの家に行くときのみである。

 前を走るセイラは出発から十五分ほど走った後で停車し、木の塀が緑色で塗られた家の前で降りた。続いて止まる私を一瞥し、セイラはそのまま塀の中に入っていった。私も慌てて中に入る。こんな初めて来る民家の前で一人置いてきぼりにされたくない。

 塀の中の芝生は丁寧に刈り込まれており、家はこの地域では珍しい二階建てであった。西欧風の古い建物であったが、その古さが建物の雰囲気を深いものとしていた。裏側は見えないが、この雨の少ないラスクルーセス市の中で、庭にきれいな花々を咲かせている。これから春の暖かさが増すにつれ、より多くの花を咲かせるのだろう。一際目立つ真紅のバラで彩られた庭への入り口のアーチに目が奪われ、このような家に住んでみたいという想いでいっぱいになった。春の訪れを喜び歌うように、芝の色はその青さを誇っていた。

 見えない庭の奥のほうにあるであろうスプリンクラーの音が聞こえる、規則正しいカチカチと繰り返す音がある一定時間響くと、サーと水が流れる音のみがするより短い時間があり、またカチカチと鳴る時間に戻って、二つの時間を繰り返すタイプのスプリンクラーだ。

 古くからの風習のように、この砂漠の地では、黄土色の家が一般的なものであり、人々の意識にはその感覚が根付いており、他の色を家に使うとしても、その感覚から逸脱する人は少ない。たまにこのような変わった色の家を目にするが、この家は昔写真で見て憧れた西海岸の建物のようだ。木を基調として形成されている家の形も映画の世界のようで引き込まれる。

 今から会う少年の顔を心に浮かべようとするも、はっきりとしない。本当にここが彼の家なのだろうか。同じ中学校に通っているのだから、私達の家の近くに住んでいてもおかしくはないのだが、セイラはどうやって、彼の情報を手に入れたのだろうか。あまりにもセイラのペースに乗せられてしまっていたので、その辺の事に触れないでいた。セイラと彼は全く接点が無いように思えるのだが。もしかしたら、濃い関係なのかもしれない。好きとか、付き合うとか。どうしよう、気まずい。

 セイラの方を見ると私の心の揺れ等気にもかけてないようだ、その横顔を見て私はセイラに任せることにした。戸惑いに囚われて動かなくなる私より、こういうときはセイラに委ねたほうが良い。結果の良し悪しにかかわらず、現状の停滞には耐えられない。セイラはドアの前まで歩いていくと躊躇なくドアベルを鳴らした。しばらくして、ドアが開き、茶色の髪の落ち着いた女性が顔を出した。私達二人の姿を捉えると、その瞳には微かな疑問の色が浮かぶが、セイラは挨拶をした後に、自己紹介に流れるように移り、少年に会いに来たことを伝えた。その旨を聞いた女性は喜びを露わにして、私達を迎え入れた。女性は息子に会いに来る人など今までいなかったこと、そして、二人の来訪を心より歓迎することを述べ、二階へと案内した。

 セイラはセールスマンに向いているのではないだろうかと思ってしまう。昔見た映画の中でマスクを被ったら緑色になる男がいた。彼はマスクを被ると止めどなく、私が理解できるスピードを超えて話していた。セイラは彼ほど話すわけではないが彼に通ずるものがあるように思う。

 家の中に砂が全く落ちていない。砂漠の地からテレポートしてしまったかのようだ。暗めの木のよく滑るフローリングに足を滑らせた。案内された二階の隅の部屋のドアの手すりは真鍮製であった。フローリングの色と同じく暗めの色のドアは、鈍い色の手すりに相まって重厚感がある。女性はドアをノックしたが返事はなく。続けてノックが繰り返され、ようやく五回目のノックで中から返事があった。ドアを開けると、メガネをかけた少年が机の上のノートに何かを書き込んでいる姿が目に入った。

 私の目を奪ったのは少年の姿よりも床の方であった。部屋の床にはたくさんの紙が散らばっている。セイラの部屋の汚さも相当なものであったが、この少年の部屋もなかなかのものである。比較はしにくい、何しろ、方向性が違う。セイラの部屋の乱雑さは、整理整頓しない性格故のものであるが、少年の方は彼の心理、思考、情熱が床に散らばっていた。床の紙には文字や記号、数字、回路や図のようなものが書かれていた。部屋の外と中の変化に唖然とし、足を踏み入れることに躊躇してしまう。私は誰かによって書かれたものを受け入れているばかりであるが、彼は自身の世界を紙に現している。彼の世界を構成する情報は、今なお溢れ続け、更に増殖を続けているのであろう。少年はドアの開閉には目もくれず、机の上の紙に何かを書き続けている。

「見ての通り、集中しているわ。夕ご飯の時間まで私は二階には来ないから頑張って頂戴」

 少年の状態に顔をしかめることもなく、ウィンクを残しドアを閉じて去って行った。

 頑張るとは何を頑張るのだろうか。私たちに何を期待しているのだろうか。夕ご飯と言っていたが、今はまだ朝、それほど長時間、年頃の男女を同室に置いておくのどうかと思うのだが……教室でも、この部屋の主の少年が他人と話をしているのをあまり見たことがなく、たまに本を読んでいる姿を見かけたことはある、いや、それも確かではない。本を読んでいるのを見たことがある気がするという程度の、記憶に残らない男の子だ。セイラが昨晩、彼の話をしたときは、彼の顔を思い出すのに時間を要した程だ。

 背中を曲げ、腰は半分ほどしか椅子に載っていない状態で、一心不乱の様は、長年書くことを禁止されていた人物が、禁を解かれたかのようだ。本好きの習性のせいか本棚に目がいってしまう。私が持っている本とは種類が違い、学術書のようだ。

「ケビン」

 セイラの呼びかけは少年の耳には届かず、セイラは少年の肩を叩いた。少年は水をかけられたかのような表情で顔をあげ、驚愕の様相のまま固まってしまっている。

 危惧した関係ではなさそうだ。少々期待していた自分もいるけど、一人だけ場違いな状況にはならなさそうで、とりあえず安心しても良さそうだ。

「誰」

 同級生の少年ケビンから発せられた声から察するに、ケビンとセイラは全く接点がないようだ、というよりも同じ学校なのに名前も覚えられていなかったのか。いくつかのクラスは同じ教室で、顔も合わしているはずだが。それよりも、セイラは覚えてももらえていない人の家によく来られたことに感嘆してしまう。

 硬直したケビンの前で、セイラは彼の母親にした自己紹介を繰り返した。

「ちょっと助けてほしいんだ」

 

 ケビンは私の話を余すこと無く拾い上げるように聞いた。北向きのため明るくはない部屋で私は信じてくれるのだろうかと不安を抱きながらも、このセイラが連れ出してくれた場所の先に光が有ることを信じて話した。救いがあるのならば、それが藁であろうと、道に落ちるパンくずであろうと頼りたかった。だが、それとは別に、話すにつれ私の話が道下者の戯言にしか聞こえないような不安で占められていった。

「信じられないかもしれないけど、本当のことよ」

 セイラは私の気持ちを察し、話が終わるとこう付け足した。

「そのオブザーバー、ジョージはもちろんここにはいないのかな」

 ケビンは質問を始めた。

「ええ、それぞれの戦闘の前に現れただけ」

「何か分かることはないかな、こう、例えば打開策とか、裏技とか」

 セイラは最も訊きたいことを尋ねた。

「分からない。ただ、戦闘の仕組みも単純すぎて、それ故につけいる隙がないかのようだ。殺し合いということだが、オリヴィアが三度勝利をしたのは、運が良かったのだろう。オブザーバーの言葉が全て正しいのだとすると、アタッカーは二人以上配置される。見つけるよりも逃げるほうが楽に思えるが、アタッカーにはディフェンダーの方角情報が開示される。かといって二時間以内にディフェンダー全員が死ななければ、アタッカー側の負け。戦闘の度にかなりの数の並行世界が消滅しているが、一体なぜこんなことに?」

「ちょっと待って」

 私は、ケビンの言葉を遮った。彼の話す様はまるで私を……荒唐無稽な私の話を……

「信じてくれるの、私の話を」

「……ああ、うん。君が話を、話を頑張ってしていたから。それに、ええと……君が……困っているみたいだから」

 筋肉の緊張はまだ続いている。簡単には弛緩しない。ただ、胸のつかえが取れたのを感じた。信じてもらえたのか……私は何を怖がっていたのだろうか。ここに来るまでの間も、セイラに任せていて、信じてもらえないということ自体を想像しないように逃げていた。

「並行世界というものは聞くことはよくあるが、あまり分かっていないことが多い。戦闘については、システムというより、並行世界間で戦闘が行われていることが釈然としない。いや、これは釈然としないというより」

「不自然」

 私が出した言葉にケビンは大きく頷いた。そして私は言葉を続ける。

「そう自然じゃないわ。まるでリンゴが空に向かって飛んで行くように。自然の摂理、決まりごとを超えているかのよう」

 私の心に蓄積されていた水は、亀裂を見つけて溢れ出した。

「私がしていることは強制されているのだけど、その強制は悪意に満ちているように感じる。この戦闘は汚く関わりたくない。この世界を形成するとは別の何かと対峙しているよう」

「そうなんだ、この戦闘は世界の理から外れているようにしか思えない。世界の仕組みを知った時は、そこに人は美しさを感じる。しかし、戦闘のシステムに美しさはない。歪なんだ」

 そう、歪んでいる。

「美しさ……」

 ケビンの言葉に、理解できないようにセイラは片眉を上げた。

「そして、戦闘の結果が世界の存在そのものを壊している。まるで世界が自殺しているかのようだ。どれぐらいの頻度でこれから戦闘が発生するのかは分からないけど、このような形で続くのなら、並行世界は殆どが消滅してしまう、三回起きるだけで約半分以上の世界がなくなる」

 二人の言葉は現実の残酷さを現していき、セイラは唾を飲んだ。

 私達三人の心は見えない何かに飲み込まれようとしている、汚い何かに。開いている窓のカーテンが風で揺れる様も、私には不気味に映り、揺れ動くカーテンの波もあたかも三人を暗闇へと引きずり込もうとしているかのようだ。沈黙が部屋を支配し、一区画離れた場所にある公園から、かすかに聞こえる喧騒さえも、偽物に感じる。気をぬくと体が前のめりに倒れ、ケビンの部屋を埋め尽くしている紙の中に沈み込んでしまう。鋭利なもので後ろから狙われているかのような緊張と不安が私を支配していく。

 机の上の携帯電話の着信音で、首根っこをつかまれたように固まった。

「ああ、ごめん、母さんからのメッセージだ、僕に飲み物を取りに来るように言っている」

 母親からのメッセージを確認したケビンは階下へと降りていった。

 二人残された部屋には静けさが残った。

「オリヴィア、私はいつだって味方だよ」

 セイラの言葉が私を包もうとする。しかし、私の心の氷は溶かされないでいた。唇を噛み締めて、必死に耐えている自分がいる。

 私が欲しかった光明は、現実の否定だったのだと今ようやく気づいた。

 私はこの現実に耐えられない。怖いのだ。知れば知るほど救いなど無い。命の奪い合い。世界の生き残りを賭けた戦い。まるでゲームのようだ。私はおもちゃにされている。いや私だけじゃない、セイラもケビンも皆の心が、全てがもて遊ばれているかのようだ。怒りを覚えるところかもしれないが、怖い。考えれば考えるほど、どうしようもないと感じてしまう。為す術もなく、汚いものに、悪意の塊に従わなければいけないように感じる。手足についた重い鎖から解き放たれたくても、鎖をほどくための鍵穴さえも見つからない。その鎖を通して、凶悪な意思が伝わってくるのに、私は拒めない。

 理解できないということを無くしたかったのであるが、言葉にして具体化しようとすればするほど、悪意に飲まれそうになっている自分がいるのを感じ取っていた。それを落ち着いて離れたところから見られるようになればよいのだろうが、今現在、この瞬間も戦闘に巻き込まれているように恐怖に覆われていった。

 セイラは私の手を握ってくれた。

 セイラの世界、私の世界、ケビンの世界。この世界の存在。初夏の日差しを浴び、麦畑は背を伸ばし続けている。ここに来る途中の丘から見た麦畑は風を受け、波のようにうねっていた。その麦畑の側に行くと潮騒のような音が聞こえる。穂の擦れ合う音が浜辺に押し寄せる波のようなのだ。穏やかで平和に満ちた音。もうすぐ焼けるような暑さがやって来て、人々は外に出なくなる。アメリカ南部で内陸の乾燥地帯のこの街に住む人々の中のどれぐらいの人が、海を見たことがあるのだろうか。私はまだ一度も見たことがない。一度でいいから見てみたい。隣のテキサス州に渡り、そのまま南下して海を見たい。

「セイラ、麦の穂は海の波だと思ったことはないかな」

「麦の穂……」

「ほら、風に揺れて動く様はなんだか、海みたい」

「ああ、確かに」

「近くに行くと潮騒みたいに聞こえるの」

「そっかあ、私、潮騒を聞いたことがないからよく分からないなあ」

「私、本当の潮騒を聞いてみたい。月の満ち欠けに伴って満ち干きをする潮を見てみたい。波が押し寄せる浜辺を歩いてみたい」

 まだ私にはしたいこともある。この世界に壊れてほしくない。まだ、終わりたくない。そのために、私は他の世界を壊せるのだろうか。他の並行世界には私がいるのだろうか。この世界のように、セイラがいて、ケビンがいて、両親がいる。私の代わりとなる誰かが両親の子となっているかもしれない。私の代わりの人がセイラの友となっているかもしれない。その事象は私を不安にさせるものではなく、そういうものだとある種の安心を与えてくれる。私の幼さゆえ、世間知らずの安心かもしれない。自分の代わりに誰かが私の場所にいるというのはもっと悲惨なことかもしれない。そうだとしても、私は他の世界を壊したくない。そのようなことを受け入れられない。私にとって、私がそこに居ないということが、そこが崩壊しても良いという理由にはならない。現実は悲しいことが溢れており、受け入れていかなければならないことだらけであろうが、これはそういうものではない。妥協の言葉で受け流せない。仕方ないの言葉で済ませられない、その言葉に甘えられない。

 セイラの手が触れている部分のみが私の身体の中で温度を持った血が流れているようだ。

 ドアが開き、ケビンがジュースを持ってきてくれた。彼の穏やかな顔に目を向けると、私の心は硬直した。ケビンの後ろに、ジョージがいる。セイラの方に目を遣るも、セイラも気づいていない。戦闘の時と同じように他者からはやはり見えないのだろう。

「オリヴィア、五分後に戦闘が開始する、アタッカーかディフェンダーかを選んでくれ」

 無情な声、いや、その表現は正しくないのだろう。ジョージの声は冷徹でもない。機械音声よりも平坦な声。人間味を感じられない。人に用いるので適切でない表現だが、あえて述べると、人ではないものの声。

 ケビンが渡そうとしてもグラスを受け取らずに、明後日の方向を向く私を見て、ケビンははっとした。

「いるのかい」

 ケビンの問いに反応したのはセイラの方だった。

「ケビン、何か、何か方法はないの? 戦闘に参加しない方法は。こんなものに……」

 セイラの懇願を受けるも、ケビンは口を閉じ、オリヴィアの反応を待った。

「ええ、いるわ。五分後に戦闘が開始される。私はアタッカーかディフェンダーのどちらかを選ばなければならない」

「オリヴィア、僕には今、君を優位に立たせる決定打は思いつかない。ただ、オブザーバーが行っていた内容をもとに、この部屋に戻るまで考え続けていた。オリヴィア、こう尋ねて欲しい。開示事項に該当する内容を全て話してくれと」

「そんなことよりも、何かないの? 戦いを避ける方法は。この馬鹿げた戦闘なんて参加する必要はない。ふざけた酷いものなんて無視すればいい。だから、オリヴィアを行かせないで」

 セイラの懇願は私達二人の耳にも届いている。しかし、ケビンと私には分かる、そのようなものはない。救いなどなく、現実は残酷に私達を破壊し続ける。逃げ道など無く、逃げるという行為も許されず、心の慟哭はどこにも届かない。私達の外宇宙は優しくなく、内宇宙を凍らせていく。

「ケビン、私はどちらを選択すればいいの」

「……分からない。オリヴィアが逃げるのが上手ければディフェンダー、攻撃するのが上手ければアタッカー。ディフェンダーとしてアタッカーを攻撃する方法もある。アタッカーとして戦況を見て逃げる方法もある。ただ、対戦相手が分からない。おそらく、どちらを選択しても苦しい戦いとなる……オリヴィア、君は攻撃できるかい」

「私は、私には……」

 できない。何度も考えた。次に選択を迫られた時に私はどうするか。しかし、思考を繰り返し、その度たどり着く先は行き止まりで、それは恐怖という壁であった。人を傷つけるということがどうしようもなく怖いのである。そのような選択肢を取れるのなら、私の人生はもっと楽になったのだろう。かっとなって、セイラに酷いことを言ってしまうこともある。だけど、そんなものとは違うのだ。私はこれからも、現実の残酷さに押しつぶされてしまうに違いない。そして逃げるのだ。そして、時が経てば、冬眠から覚めたカエルのように現れる。平静を装ってはいるが、内心はビクついて隠れる場所を探しながら私は生きていくのだろう。

「無いの? 本当に無いの? ケビン、何も無いの? お願い、オリヴィアを救って」

 鼻がつまったような声を聞いて、横を向くとセイラの顔には涙が流れていた。

「ごめん」

 ケビンの力ない声が、セイラの涙を加速させる。

 部屋の中の緊迫とは打って変わって、外では穏やかな陽気を迎えていた。ケビンの家から一区画離れたところにある公園では、芝の上で遊ぶ子どもを見守る親が座っていた。その親は傍から見ると、幸せそうだが、苦しみを抱えて生きており、今なおその心の闇に囚われ、表面の笑顔とは裏腹に内面は泣いているのかもしれない。

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