わからないこと
大樹の下で朝食をとっている時に、ファウラがロヅに尋ねた。
「干し肉って、どうやって作るんですか」
「名前通りというか……そんなことも知らないのか」
干し肉を手に、ファウラが頷いた。
「お婆様が『それより魔法の勉強を』って、料理はあまり教えてくれなくて」
「粥しかまともに作れない癖に、よく一人で暮らそうとしたよな」
ロヅが薄く笑った。彼には珍しい表情だと、ファウラは内心で思った。
「笑わないで下さい。身の回りのことなんて、考えが回らなかっただけです」
ファウラが拗ねた調子で返すと、いや、とロヅが笑顔のまま言った。
「泣かないで話すようになったじゃないか。テムサ様のこと」
「……はい。楽になりました」ファウラが表情を和らげた。
「貴方がいたからです。最初は怖い人だと思っていましたが、誤解でした」
「氷柱で頭を狙ってきた癖に、他人を怖い人呼ばわりか」
「あの件ならお互い様です」ファウラが微笑んだ。
彼女は、よく表情を変えるようになっていた。
「あまり話してないで早く食べろ」
「あ、はい」慌てて、固い干し肉を口に含んだ。
「干し肉の作り方は今度、見せて教える」
ファウラは朝食の前に『今日は町まで歩く』と、ロヅから言われていた。ロヅはすでに食事を終えている。
「今夜は宿屋に泊まるようにするから」
干し肉を噛みながら、ファウラは話を聞いていた。食べ物を飲み込むと、また彼に尋ねた。
「宿屋とは、寝床を貸して下さる所ですよね」
「そう」
ロヅはこの疑問には躊躇わず応じた。ファウラの境遇を考えれば、彼女が宿を利用したことがないと、想像がついた。
「寝床や炊事場を貸してくれる所。言えば、仮の住まいだな」
「住まい」ファウラは少し考え込んだ。
「家ぐらいの広さを、借りられるのですか?」
「借りるのは一部屋だ」
「一部屋ですか」ファウラはますます考え込んだ。
ややあって言われたことを理解して、顔をしかめる。そしてこう言った。
「それは絶対に嫌です」
……男性の貴方と一緒の部屋は気恥ずかしい。野宿とはまた訳が違う。
そう、ファウラは懸命に話した。
野宿が続いても、山道を長く歩いても、ファウラは不満を口にしなかった。
数日振りの反抗だった。
二人は予定通り町まで歩き、宿屋で休んだ。ロヅはファウラの意見を聞いて、宿屋では別に部屋を取った。
だけど望みを聞いたにも関わらず、ファウラは不機嫌になった。
ファウラは晩から部屋に鍵をかけて、ロヅを自分の部屋に入れなかった。挙げ句には「入って来ないで」と叫んだきり、彼女は口も利かなくなった。
そうして一晩が過ぎた。朝が来て、旅立つ時間になった頃に、ようやくファウラが部屋から出てきた。
ロヅは溜息混じりに聞いた。
「なんで閉じ籠ってたんだよ」
「……体調を崩しただけです」目を合わさずに、深く焦茶色のベールを被る。
ファウラの顔色と機嫌は、朝になっても治らなかった。
支払いの時に店主が「元気を出しなよ」と、ファウラに親しげに言っていた。
町での用事が終わり、二人は山道へ入った。
ファウラは無言で、ロヅの後ろを歩いた。深くベールを被っているせいか、いつもより歩くのが遅い。
「休むか? 具合が悪いのならそう言え」
道が険しくなる前に、ロヅが足を止めた。ファウラもぴたりと止まる。
「ベールを取れ。山道じゃ危ない」
ロヅは、ファウラが被っているベールを剥がした。
「勝手に取らないで下さい」反抗的な真紅色の瞳が、あらわになる。
焦茶色のベールを返しても、ファウラは怒ったままだった。
「何をそんなに怒っているんだ」
「……昨日、宿屋で娼婦の方と一緒でしたよね?」
「娼婦って、どこでそんな言葉」
「答えて」
「どういうものかわかってるのか?」
「はぐらかさないで!」ファウラが感情的に叫んだ。
「……まあ、少し一緒にいたな」
ファウラは肩で息をしながら、平然としているロヅを睨んだ。
「ロヅ、あの人と結婚していたんですね」
「してない」
「嘘。性行為って、夫婦間でするものでしょう」
ファウラの言葉を聞いたロヅが、眉をひそめた。……会話に間が空く。
突飛な言葉の意味を汲み取るには、それなりに時間がかかった。
「やっぱり娼婦がどういうものか……わかってない」
「昨日きちんと人に教えてもらいました。娼婦は性行為を行う女性だと! ……どうして、大事な方がいることを黙っていたんですか!」
「わめくな。とにかく結婚なんて話じゃない。あれは夫婦以外でもやるんだ」
「子を成す行為を、夫婦以外でするものですか」
ファウラの声は、怒りで上擦っている。
「いい加減にしろ!」ロヅが、ファウラの頭を平手で叩いた。
「子作りが目的じゃない。教えには背くが、そういう性行為もある。……何より、俺は酒場で誘われただけだ!」
「意味がわかりません」
「黙れ」再び彼女の頭部を軽く叩く。
「こんな話は早すぎるだろ。もうやめだ」
ロヅは早く歩き出したいのか、二度つま先で地面を蹴った。
ファウラは叩かれた頭部を押さえ、なおも不満そうに彼を見上げていた。
「娼婦の方と……結婚はしていないんですね」
「しつこいな。俺が結婚してないのが、何か不満か」
「そうではなくて――」
結婚していたら嫌なのだ。とファウラは言いかけたが、やめた。代わりにこう続ける。
「わからないことがあるのが不満なんです」
「今の説明で納得しろ。子供には過ぎた説明なんだ」
ロヅは吐き捨てるように言い、足早に歩き出した。
ファウラが立ち止まっていたので、ロヅは踵を返し、その腕を引っ張った。
「ほらさっさと歩く!」
「子供扱いは、嫌ですっ」
「お前は子供か、手のかかる動物だ! ……待て。昨日娼婦について教わったのか?」
「……はい」
「誰に」
「あの宿屋で、お酒を飲んでいた男性に」
途端にロヅが息を呑み、足を止めた。ファウラと正面から向かい合い、彼女の両肩を掴む。
「何かされたか」
「え」
「その酔った男に、触られたりとか。それで、様子が変だったのかな、と」
ロヅは歯切れが悪かったが、ファウラにはその理由がわからなかった。
「いいえ。どうしてそんなことを聞くんですか?」瞬きをして返す。
そんな様子に安堵し、ロヅは深く息をついた。そして、懇願した。
「今後一切、そういうことは男に聞くな」
「そういうことって何……」
「娼婦に性行為に子作り。とにかくお前がわからないこと、全部だ! ……大体なんで、そんな質問だけで外に! ああもう! 次から絶対に、部屋は一つだ!」
「そんなの困ります」
「ファウラが危なっかしいのが悪い。妙な疑いはかけてくるし……目を離したからこうなったんだ。どうせ『誘いは断った』って言っても、理解できないんだろ」
ロヅが舌打ちをし、再び早く歩き出した。ファウラは慌ててロヅを追う。
ファウラは困惑していた。
彼は未婚のようだし、一緒の部屋になるのも実は嬉しい。一人でいると不安だった。
わからないことに答えてくれなかったけれど、もう喧嘩を続けたくない。
おずおずと、前を歩く背中に話しかけた。
「すみませんでした……。あの、とにかく、私が誤解していたのですよね?」
「そう」ロヅが足を止めた。
「そんなに怒ってないから、早く歩けよ」
ファウラが、はい、と返事をして、彼の側に追いついた。
◇◇◇
『貴方には先ほどの娘を、守っていただきたい』
それが、ロヅが賢者テムサ・デクタブルから聞いた命令だった。
そして数日を共に過ごした後、彼を心から信頼した賢者は、もう一つ頼みごとをしていた。
『ロヅ。出来れば、あの娘の友達になってあげて』
良い娘なのよ。お茶も満足に煎れられない娘に育ててしまったけど――と。老婆は寝台に寝ながら、可笑しそうに言葉を続けていた。
その姿は、子供を心配する母親のものだった。
第二章(終)