明け方
明け方に亜季は目覚めた。
静かに寝台から降りると、この国では浮いて見える学生服へと、着替え始めた。
(早く行かないと)焦りながら、制服の金具を上げる。
亜季は一刻も早く、ベーナ達のもとへ駆けつけたかった。ただ出発前に、どうにも悩むこともあった。
エルヴァのことだ。
昨晩遅くまで、彼は懸命に魔法を教えてくれた。
本を持ったままうとうとしだしたので、亜季は『ここで一緒に眠る?』と聞いてみた。途端にエルヴァは本を閉じて立ち上がり、『俺は一人で眠れるよ』と、眠そうなまま部屋を出て行った。
そんなエルヴァのもとに行こうか、迷いつつ、亜季は部屋の外に出た。
そこである人物に出くわした。
「……おはようございます」
「……おはよう、ございます」
亜季とその人物は、ぎこちない挨拶を交わした。
夕べ食事の席でだけ一緒だった、エルヴァの兄の少年。背は亜季より高いが、声変わりはまだのよう。
彼もすでに寝衣から着替えており、手には硝子瓶を持っていた。
「ずいぶん早いお目覚めですね。客人」
「お兄さんこそ」
「私は聖水に使う朝露を取りに行く所です」
亜季は彼の名前を覚えていなかったので『お兄さん』と呼んだ。食事の前に紹介されたものの、その時しか明確に名前を聞いていない。
『客人』と呼んでくる彼も、同じ状況なのかもしれない。
「あたしはベーナさんの所に、急いで行かなきゃいけないの」
「父の所にですか」
亜季は真剣な顔で頷いた。
「竜と一緒にいる子は知り合いだから。その子と話せば、状況を治められる」
少年が眉をひそめた。
「それからもう、帰らなきゃいけなくて」気まずそうに顔を伏せた。
まだ寝ているエルヴァを起こして、挨拶して行くべきか。亜季は悩んでいた。
彼に関して、察していることがある。
最初に出会った時、一人で遠くの森にいた理由。よそ者の自分を慕う理由。
……何かがあって、周りが嫌になったからだ。
亜季はいじめられた経験から、そう察していた。
「貴女の国は遠いのですか?」
「多分、すごく遠いです」
「ではエルヴァには、何も言わずに行った方が良いでしょう」
少年が静かに言い切った。
「弟は諦めが悪いので。起きれば貴女を引き留めかねません。さて貴女は、弟の手を振りほどけますか?」
「………」
再会を約束できないなら、黙って行けということらしい。
亜季は提案に頷き、彼からベーナ達がいる場所を確認した。
「私が森までご案内しましょうか」
「大丈夫。どうもありがとう」
亜季が申し出を断る。少年もそれを受ける。
二人は互いの名前を呼ばずに、建物の外まで歩いた。
別れる手前、亜季は少年に言った。
「ねえお兄さん、エルヴァ君に泣き虫なんて、言っているんだって?」
少年が、亜季を鋭く睨んだ。
亜季は怯まなかった。少しでもエルヴァの環境を良くしてやりたかった。
「何があったか知らないけど。もうやめてあげなよ」
「お節介な女だな」彼が丁寧な口調を崩した。
それから煩わしそうに、エルヴァと同じ黒髪の頭を押さえた。
「父からも似たような注意をされた。よそ者に言われなくたって、やめてやる」
「そう。なら良かった」
亜季は微笑んだ。
少年は失礼、と口調を崩したことを詫びた。咳払いをしてこう続けた。
「二度と会わないので教えましょう。私とエルヴァは去年の暮れに、母を亡くしましてね。あいつはひどく塞ぎ込み、それで今も周囲から、腫れ物に触る扱いを受けています」
「……そうだったんだ」
亜季は昨日の、エルヴァと大人二人のやりとりを思い出した。一人の大人は、エルヴァの名前を聞くなり、叱るのを止めた。
「私は弟を立ち直らせようと、冷やかし始めて。……まあ、度が過ぎました」
少年は頭を下げた。亜季は、その謝罪はエルヴァにするよう促した。
亜季はエルヴァとも、エルヴァの兄の少年とも別れて、森に向かった。
(早くさっちゃんに、会いに行かないと)
もう記憶はごまかせなかった。会えなかった大好きな友達は今、近くにいる。
自分を急かす為に、過去が夢に出てきたに違いない。
緑に囲まれた泉の傍で、一人の少女と多くの大人達が、竜を挟んで騒いでいる。もう朝だというのに、彼らの表情は暗い。
「いいか、お前達。よく覚えておけ。額に紋様のある火竜は特別だ」
神官のヤハブは、原因の見張り番達に、再三言い聞かせていた。
「あれは主人付きの竜なんだ。手出ししなきゃ、襲ってこない筈だ。今後は見かけてもすぐに騒ぐな。……神と四大の精霊に誓え」
ヤハブは友人との食事を中断して、徹夜の仕事に出ていたので、機嫌が悪かった。
「主人の奴がいてくれたら、こんな苦労は」と愚痴をこぼしていた。
対立している紋様のある火竜は、本来は友好的な性質だった。だが兵士に襲いかかられたので、警戒を解こうとしない。爪を立てて構えている。
そしてどうやら、小さな少女を、守っているらしかった。
「あんた達、どこか行ってよっ! 竜さんに何する気なんだよ!」
竜の足元にいる少女は、昨日の晩から怒り続けていた。
竜と対立しているのは、剣を携えた者に、杖を携えた者など。そんな大人達を相手に、その少女は一晩刃向った。丈夫な子供だと、竜と対立している者達は思っていた。
「君は早く竜から離れなさい」杖を地面に置いた者が、座ったまま呼びかけた。
「やだやだ! あたしがこの子から離れたら、あんた達は何するかわかんない。あたしの世界でも、おまわりさんが竜さんをいじめたもん!」
小さな少女が大きな竜にしがみつく。少女の栗色の髪と、髪に結んだリボンが揺れた。
「おまわりさんって、何者だろうな」
ヤハブが呟くと、傍らの兵士は首を傾げた。
暗い面持ちでいる彼らに、頼りない声がかかった。
「あの、これからあの子達と話してくるので……少し下がってもらえますか?」
「……細っこいの。どうしてここに来た?」
「……体型のことは、放っといて下さい」
現れたのは亜季だった。兵士は学生服を着た亜季を、不思議そうに眺める。
「危ないぞ。城に戻っていろ」
「平気です」
亜季は一歩、紋様のある火竜へと踏み出した。竜は亜季に気がつくと、大人達を睨むのをやめた。立てていた爪をしまい、ゆったりと尻尾を振っている。
竜の突然の変化に、周囲はざわめいた。
「あたし、竜にさらわれたんじゃなかったんです。……記憶が混乱しちゃって、皆さんに沢山、ご迷惑をおかけしました。本当にごめんなさい」
大人達が下がると、亜季は竜と子供に近づいた。竜は穏やかだが、少女の顔はまだ険しい。
亜季は少女をじっと見た――可憐なワンピースを着ているのに、履くのは汚れた運動靴。髪には桜色のリボンを結び、顔と膝には絆創膏を貼っている――。
そして黄と赤の花で作った花冠を持った、少女の姿を。
亜季は少女の名前を呼んだ。
「亜季ちゃん」
突然名前を呼ばれた少女は、目を丸くして驚いた。
亜季は幼い自分に、皮の水筒と柔らかいパンを差し出した。
「喉が乾いたでしょう。これも食べていいよ」
幼い亜季は突然の施しに瞬きをし、パンと、それをくれた亜季を、交互に見た。
「竜さんは亜季ちゃんのおかげで、すっかり元気になったみたい。それからあそこにいる人達には、何もしないで下さいって、あたしがお願いしてきたから」
亜季は膝を折り、小さな自分と視線を合わせる。
「あとは竜さんからもお願いすれば、もう大丈夫」
「お姉ちゃん、誰」
亜季は笑った。
「亜季ちゃん達があたしを、ここに連れて来たんでしょ。ほら、竜さんが途中でどこかに、寄り道した筈だよ」
「竜さんに」幼い亜季が傍らの、朱い竜に体を付けた。
「さっちゃんが、途中から掴んでいた人?」
「そうだってば。あたしもさっちゃんと友達なの。だから、亜季ちゃんの名前も知っているんだよ」
「そっか」
幼い亜季は納得した。朱い竜が、亜季にも親しげに擦り寄ったからだ。
幼い亜季は持っていた花冠を被り、パンと水筒を受け取った。
「さっちゃん」
亜季が、竜の茶色の瞳を見つめた。
「さっちゃんから話せば大丈夫だよ。信じて」
竜は首を縦に振り、了解の合図を出した。少女達から少し離れ――そして瞬間で、己を炎の塊に変えた。
炎はすぐに消え、そして赤い髪の少女が、姿を現した。
幼い亜季と十四歳の亜季の、中間ぐらいの年齢の少女。
肩にかかる髪と大きな茶色の瞳は少女らしく、服装や体型は少年らしさがある。中性的な少女の額には竜と同じ紋様があり、耳の先は、角のように上へ尖っていた。
「もう、何もしないーっ?」
竜だった少女が、大人達に大声で問いかける。
多くの者は、何が起こったか理解できずに、うろたえていた。竜の素性を知っていた何人かは、そう驚かなかった。
「何もしない! 約束する。誤解だったんだ!」
神官のヤハブが、少女の問いかけに大きく応じた。
「じゃあサキも、何もしないよ。帰っていいよー」
少女は両手を何度も振り、明るく答えた。
ヤハブと、それから何人かの者が、撤退の指示を出した。
事態はあっけなく収束した。
亜季は駆け足で、ベーナのもとに行った。ベーナが優しく目を細めた。
「ありがとう亜季。実に助かりました」
「こちらこそ」亜季は空になった革の水筒を、ベーナに返した。
ベーナは、泉の淵に立つ赤髪の少女を見て、微笑んだ。
「驚きましたが、あの竜の御友人だったのですね。帰り道は送ってもらえそうですか?」
「はい」
亜季は穏やかに微笑んだ。
「あたし、もう帰らないといけません。一晩お世話になりました。……エルヴァ君が起きたら、エルヴァ君にも御礼を言っておいて下さい」
「わかりました。お気をつけて」
「さようなら。本当にありがとうございました」
亜季とベーナは、互いに丁寧に頭を下げた。
「またいつでも、いらして下さいね」
彼の締めの言葉に、亜季は笑顔のまま、力なく頷いた。