後日譚:竈の火
火の精霊を称える言葉を、竈に向かって唱える。小さな炎が竈の中に宿る。炎は薪へと移り、しだいに大きくなってゆく。
再び火の精霊を称えると、炎は高く燃えあがった。
女は竈の火で、骨付きの燻製肉をあぶり、鍋を温めた。
道沿いにある窓からは、行き交う人々が見えていた。誰もかれもが、毛皮や厚い服を着込んでいる。
宿屋の女将は常連客に、燻製肉と、穀物と豆が入った汁物を出した。熱い燻製肉は油が弾ける音を立てていて、長く煮込まれた汁物は、白い湯気を出している。
常連客の男は、泥のついた袖をまくり「寒い季節にありがたい」と、喜んだ。
「だけど、酒がついてないぞ」
「朝は出さないよ。お茶で我慢しな」
「仕事終わりには酒がいる」
「あんたは朝の畑仕事が、終わっただけでしょうが」
「畑でやれることが少ないんだ。もう少し暖かくならないと」
男は手をすり合わせて笑い、頬の皺を深くした。
女将はかっぷくが良い体を揺らし、男の向かいに座った。
「私は忙しいってのに」
「嘘つけ。前より暇そうじゃねえか」
男があぶられた燻製肉に噛りついた。肉汁が溢れて木皿に落ちる。
「暇じゃないさ。暖炉の薪が切れているから、小屋まで取りに行かないと……」
女将は辺りを見回した。すぐ近くに石造りの暖炉がある。
建物の一階で営んでいる食堂には、男の他に、食事をしている者はいない。奥の席にひとり、昨晩から宿泊していた女がいるが……ただ座っているだけだ。食事はいらないと断られた。
そして宿屋を営む二階には、誰もいない。
今朝はそう忙しくない。食堂の暖炉に火をつけるのは、昼からでも良さそうに思えた。
「……まぁ、迷い人や、消えた国を見に来る詩人やらが、いなくなったからね。もともとうちは、昼と夜の食堂が要なんだよ」
「忙しいときは、ここで子供を働かせてたよなぁ」
男が汁物をすくい、口に運ぶ。豆の出汁が効いた汁を飲み込み、体を中から温めた。
「なんて名前だったっけ。あの、よく厨房にいた子」
「アキ」
「そうそう」
「もうひとりは、ミノリ」
女将は首を捻った。
「……子供って年齢でもなかったわ」
「俺達から見たら子供だろう。あの子ら、どうしてるかな」
「さあね」
外では冷たい風の中、年端のいかない子供が歩いている。
「なんの連絡もないから、わからないよ」
宿屋の女将は、数か月前に滞在していた少年少女の顔を、思い浮かべた。
金銭もなく、寝泊りする場所にも困っていた、迷い人達を。
女将は労働を条件に、そのふたりに屋根裏部屋を貸していた。
「便りもなしかい」
「忙しいんだろうさ。あのルカナーディに、帰ったんでしょうし……」
「………」
男はしみじみとしている女将を見ながら、肉の骨をしゃぶった。
「女将は、あの子らがルカナーディから来たと。そう思っていたのか?」
「ええ」
「俺はそう思わない」
男は木皿に骨を置いた。
「は? あの子達がルカナーディのほうから来たって、自分で言っていたんだよ?」
「それは嘘かも」
「どうしてそんな」
「とりあえず、そろそろ茶が欲しい」
「ああ忘れていた」
女将は厨房に戻り、熱い茶を淹れた。常連客の分と、宿泊客の女の分とを。
香辛料が効いた茶をトレイに乗せると、女将は食堂に戻った。
食堂の奥では、女が頬杖をついて外の往来を眺めている。男は汁物の底に残った、豆をすくっている。
女将は女の前に茶を置くと、再び、常連客の向かいに座った。
「どうして、あの子達がルカナーディの人間じゃないって、思うんだい?」
男は声を低くした。
「いや――アキは厨房にいたけれど。ひとりじゃ、竈の火もつけられなかっただろう?」
「まぁね。火をつける魔法も、火打ち石も、使えない娘だったよ」
厨房の竈では、女将が魔法でつけた火が燃えている。
竈の火は、寒い季節には暖房としても役に立つ。
「魔法は全然使えないって、私に言っていた」
「だろう? それに、細っこかったじゃないか」
アキは髪が短い娘で、いつも細いうなじが見えていた。
気配りができる働き者だったが、倒れないか心配になるほど、華奢な体型だった。
「そんな非力な娘が、ルカナーディから来ていたと思うのか? ……あそこの民は山から降りてくる獣と、年中戦っているぞ」
「うーん」
女将は顎に手を当てて、考え込んだ。
「高い身分だったのかも」
「アキは『どうして断食するんですか』って、断食中の神官に聞いていたな」
男が肩をすくめた。
「……その男は真面目に答えていたよ。神や四大精霊に大切な祈りを捧げる日は、魔力の質を高めるために食事を絶つ。これは小さな子でも知っていることだから、覚えておけと」
「………」
「こう言っちゃなんだが、物知らずだった。大体、料理が好きなのに竈に火がつけられないってのも、おかしな話じゃないか」
「魔法が駄目なら、火打ち石の使い方を覚えるわよね……」
「アキはもっと遠い、よその国から来ていたんじゃないか?」
「それも突飛じゃないかしら。……だってミノリは別に、物知らずじゃなかったし」
女将と男は額を近づけた。
そのとき、きぃ、と、戸口から音がした。
見れば年端のいかない子供が、宿屋の入り口に立っていた。
子供は薄い服を着て、頭から外套を被っている。外が寒かったのか、硬い表情をしている。
「いらっしゃい」女将は慌てて立ちあがった。
「寒そうだね。今、暖炉に火を……」
「いい」
途端、食堂の暖炉に火が灯った。
「自分でつけるから」
子供は女将の側を通り抜け、暖炉の前にしゃがみこんだ。
あまりにも素早く火をつけるので、女将は唖然としたが、気を落ちつかせて尋ねた。
「食事をしに来たの? それとも、宿泊?」
「どっちでもない」
子供は外套を被ったままだ。少年の装いだが声は高く、性別ははっきりとわからない。
「……待ち合わせ」
外套の下では、赤い髪と茶の瞳が、凍えて震えていた。
「その子、結構前から外をうろついていたぞ」
男が、香辛料が入った茶をすすった。
女将は温かい茶をすすめたが、子供はそれを断った。
「何もいらないから、さっきの話の続きをして」
子供が上目で、女将達を見た。
「続きと言われても……」
女将は考えあぐねて、常連客と目を合わせた。
「どこから来たかわからんで、話が終わったな」
「そうじゃない」
暖炉の火が、空気を飲み込んで大きくなる。
「……アキとミノリが、どんなことをしていたか、聞きたいの」
揺らめく火の側で子供が呟く。
女将はその横顔を見て、ああ、と声を漏らした。
子供は以前にも、ここへ来たことがある。
「あなた、あの子達の友達ね」
子供は大きく頷いた。
「友達の話が、聞きたいってことね」
「うん。……もう会えないから」
「わかったわ」
女将は子供に、思い出せる限りの話をした。
「で……ここを出ていくときに、またおいでって言ったの」
「うん」
子供は静かに話を聞いていた。
話をする間に、竈の火は小さくなっていた。しかし暖炉の火は、まだ大きく燃えている。
「これくらいでいい?」
「ありがとう」
子供が軽やかに笑う。そして立ちあがり、体を上に伸ばした。
「じゃ、行くね」
「え? 待ち合わせって言ってなかったかい」
「相手はもう来ている」
子供が身を翻して、暖炉に背を向けた。
「……本当は、外で待ち合わせだったの。けれどいつまで経っても、出てきてくれないから」
子供が顔をしかめて、部屋の奥を睨んだ。
「寒かったよ!」と叫ぶ。
奥では若い女が、風味豊かな茶を飲み干そうとしている。こちらは見ていない。
「ああ、あの人とか」常連客の男はとうに、茶を飲み終えていた。
「……ひどいよ」
子供は女を睨んだまま、小さく唸った。
「まぁ、いいじゃないか。暖炉にあたる間、色々と話せた訳だし」
女将は子供の肩に、大きな手を置いた。
「冷えはおさまった?」
「うん。温まったよ」
子供は笑顔に戻った。
「……あのね。ルカナーディじゃないよ。アキ達は、もっと遠くから来ていたの」
奥の女が立ちあがる。それと同時に、暖炉の火が弱まった。
「遠くって――」
「どこよりも遠い所だよ」
子供が戸口に向かうと、暖炉の火は消えた。
「じゃあね」
子供は大きく手を振り、女と去っていった。
急に火が消えたので、女将と男は、暖炉の中を覗いた。
暖炉はただ煤けているだけで、薪も、炭もなかった。……薪を切らしたままだった。
子供はここにいる間、ずっと魔法だけで、火を燃やしていたらしい。
女将は口を開けて驚いたが、常連客の男は「まぁ国が消えるよりは、ましなことだ」と、苦笑いをした。
竈の火は、まだ薪を燃やしていた。