昼に浮かぶ月
涼しげな水音に、風の音が加わる。
山上から吹いた風は、小川の水面と木漏れ日を、揺らしていった。
「……やめとけ。その岩は苔で滑る」
ひと気がない山の中腹で、青年の声が響く。
苔むした岩を見つめていた少女が、顔をあげた。金褐色の長い髪が揺れる。
「ですがこの岩くらいしか、足が、届きそうにないのです」
小柄な少女は、細い川をどう渡ろうかと悩み、立ち止まっていた。
長身の青年は、川をたやすく渡り、向こう岸にいる。
黒髪の青年は日焼けした服を着ていて、腰には剣を携えている。そして旅の荷物を背負っていたが、川は飛び越えて渡った。
不安げな少女に、青年が手を差し伸べた。
「なら支えるから、苔がない岩に乗れ」
「……え」
「早く」
「は、はい」
少女は青年の手を借りて、ゆっくり小川を渡った。
川の岩を踏んで向こう岸に渡るのは、少女にとって、初めてのことだ。
少女はこの大陸において、まもなく成人を迎える年齢だった。しかし小さな家で隠れ育ったために、世の中を知らない。
少女の親代わりだった女性は、七日前に命を落とした。
そして少女は家を出て、今は、十四日前に出会った青年と共にいる。
小川を渡るために踏んだ岩の数は、ふたつ。
向こう岸に着くと、少女はほっと胸を撫でおろした。
「こんな川も、まともに渡れないのか」
青年は少女から手を離し、穏やかな川を見つめた。
「はい。支えてくださり、ありがとうございます」
少女は顔にかかった長い髪を、耳の後ろにかけた。
そして青年の手の甲を、じっと見つめる。
「ロヅの手は大きいですね。指の形も、私やお婆様とは全然違います」
「性別も年齢も違うから、当たり前だ」
「もう一度、手を繋いでいただけませんか?」
少女がしなやかな指を伸ばす。
「用も無く触るな」
「……駄目ですか」
少女はすげなく断られたあとも、好奇心の眼差しで、彼の手を見つめていた。
青年は視線に気づき、こめかみを掻いた。
「ファウラ。他人――特に異性の身体は、興味本位で触るもんじゃない」
「わかっています」
「そのうち町に行くが、むやみに人に触るなよ」
「ええ。他の方には近づきません」
少女は話しながら、ふと、小川のせせらぎに耳を傾けた。
清流の音は、心を澄み渡らせるものだった。
「……私はお婆様とふたりで育ちましたし。他人は、怖いものだと思っています」
せせらぎが流れ、少女の記憶が蘇る。山で見た光景が。
「心配しないでください。私はあなた以外の人間に、そう近づきません」
少女は己がいる山道をよく見た。
今、少女と青年がいるのは、人目がつかない獣道だ。
人間の足跡も、途切れた車輪跡も、見当たらない。
「ロヅ」少女が低い声で問う。「この山にはまだ、賊が出ますか」
青年は間を置いてから、答えた。
「ここらを根城にしていた連中なら、もういない。……お前、なんでそんなこと」
青年は少女を見やり、彼女が目を伏せていると気がついた。
「山賊を知っているんだな」
「はい」
「見たことがあるのか?」
「いいえ」
少女は俯いたまま、首を横に振った。
「私が見たのは、彼らに襲われた人間です」
少女は知り合って間もない青年に、より己を知ってもらおうと。
長く封じていた想い出を、語り始めた。
◇◇◇
少女の家は、うっそうとした森の中にあった。
少女は蔦の這う小さな家で、初老の女とふたりで暮らしていた。家と森以外を知らず、魔法の修行にいそしんで過ごしていた。
外に出れば命が危ない。そう聞かされていた少女は、広い世界を望まなかった。
厳しくも優しい育ての親と、彼女が与えてくれる知識。朝露が降りる森……そういった身近なものを、少女はただ愛していた。
その心に影が刺したのは、幼子の秋。
はじめて森の外へ出たときだった。
もうすぐ豊穣祭という日。
少女は育ての親の老婆に連れられて、家を出た。
――祭を見に行きましょう。目で学んだほうが良いから。
と、老婆は微笑んで、少女を連れ出した。
少女は祭には興味があったので、怯えながらも外に出た。
森の外に出てからは、驚きの連続だった。
初めて見る花や生き物。歩きにくい道。山上から見える壮大な景色……。
前に進むたびに、不安だった心が、新鮮な喜びに満ちていった。
祭には特別な料理が出回ると聞いて、声をあげてはしゃいだ。
やがて、少女と老婆が歩く道に、車輪の跡が見られるようになった。
老婆は少女に「これは乗り物が通った印」と教えた。
少女は車輪跡を、目で追って歩いた。そうして老婆より早く、異常を察した。
真っすぐだった車輪跡が、不規則に曲がって――途切れている。壊された車輪が遠くに見える。
かすかな異臭が鼻についた。
少女は制止の声を無視して、車輪跡が途切れた場所へと走った。
◇◇◇
「私は状況を飲み込めなかった。……人が死んでいるともわからなかった。お婆様は私を連れて、急いでその場を離れました」
少女は視線を落としたまま、ぽつぽつと語った。
「かなり道を戻ってから、あれは山賊の仕業だと、教えられました。……私はあの惨状を目にしてから、この世はお婆様みたいな方だけではないのだと、学んだのです」
道は木陰が続いていた。樹木の下は心地よかった。
「理不尽なことはあるのだと。……一歩違えば、私も人に殺されるのだと。……殺される筈だったから、影で育てられたのだと」
少女は言葉を絞り出し、足を止めた。
「私は……人に会うのは怖い」
青年は少女を見ていたが、前方へと視線を変えた。木々が茂る道は終わり、まばゆい日向が見えている。
「そのあと、お前は今まで森から出なかったのか」
「……いいえ。翌年に改めて、祭を見に行きました。町には入りませんでしたが」
「そうか」
春先の空を、鳥が横切る。
「外は嫌いか」
「いいえ。……新しい景色を見るのは好きです」
「……なら、今は子供の時とは違うんだ。お前も無力じゃない」
青年は立ち止まる少女を置いて、前に進んだ。
「俺は、国に帰りたい。何が起こったのか突き止めたい。そのために色々な場所に行きたいから、悪いが、森に居続ける訳にはいかない」
少女は立ち止まったまま、青年の背を見た。彼はもう日向に出ていた。
「止まってないで、こっちに来い」
少女は木々の影で、さらに目を伏せた。
「……眩しそうなので、もう少しここにいたいです」
足元では木漏れ日が揺れていた。
「ファウラ」
青年が少女に手を伸ばした。
「来てくれ。むやみに怖がるな」
少女は躊躇いのあと、青年の手を取った。そして日の当たる場所に出た。
光のまばゆさに、思わず瞼を閉じる。
少女は目をしばたかせたあと、ゆっくり瞼を開いた。
歩を進め、顔を上げ――晴れた空に、白く残る月を見つけた。
眼前に広がる景色を、美しいと思った。
……あの月のように、日の下にいたい。
少女は繋がれた手を、無意識に握り返した。