記憶
中年の侍女が、亜季を一つの部屋に案内した。
「ここでお休みになっていて下さいませ」
案内された部屋は、亜季の自室と同じくらいの広さだ。約六畳、と心で呟き、亜季は部屋に入った。部屋の隅に寝台、そして机と二台の椅子がある。
壁に掛かった燭台の炎が、部屋を薄く照らしていた。
「夕飯が出来ましたら、お呼びいたします」
侍女は一礼し、そそくさと去ろうとした。亜季は慌ててそれを止めた。
「あの、何かお手伝いはありませんか?」
「どうなさいましたか」
侍女が不思議そうな顔をする。
「ただでここまでしてもらうのは心苦しくて。あたし、料理なら少し出来ます」
「それでは」
侍女は朗らかに笑った。
「彼のお相手を、ぜひともお願いしますね。もうじきこの部屋に来られますから」
「……はい」
亜季は子守を引き受けた。侍女はもう一度頭を下げて、部屋を去った。
椅子に置かれていた学生服を机に移して、亜季は腰を降ろした。
そして自室より薄暗い部屋で、深く溜息をつく。
亜季は今の状況と、自分に、不安を覚えていた。
今日は散々な日だ。おかしな夢を見るし、友人はまともに話を聞いてくれなかった。空を飛ぶのは気絶するほど怖かったし、挙げ句、どうにも常識が通じない場所にいる。家の門限を過ぎただろうに、帰られそうにない。
それなのになぜ、割と平気で事態を受け止めているのか。余裕があるのか。
理由は簡単だった。子供の頃に夢見た世界に似ているから、亜季は少しだけ、状況を楽しんでいた。
(気が狂ったんじゃないだろうか……)
自己嫌悪に陥り、机に顔を伏せる。
「早く家に帰りたい」思わずそんな言葉を口にした。
「帰り道、わかったの?」聞き慣れてきた声がした。
顔を上げると、エルヴァが部屋に来ていた。右手に数冊の書物を抱え、左手には手燭を持っている。
「帰り道はまだ、全然わからないよ」亜季は慌てた。
「そうか」
エルヴァが椅子に座った。手燭に照らされた黒い瞳が、亜季をじっと見つめている。
「じゃあ居心地が悪いのかな」
エルヴァの言葉に、亜季はびくりとした。
『家に帰りたい』という独り言が、失言になってしまった。
子守を約束したし、自分を慕う少年を心配させたくない。失望もされたくない。
自己嫌悪は無駄と考えた亜季は、素直に別の感情を話した。
「おかげでちっとも居心地は悪くないよ。でも料理をするのは好きだから、夜御飯の準備は手伝いたかったな」
「料理、好きなの?」
「うん。お弁当……毎日、家族全員のお昼御飯を作っているしね。お父さんとお母さんとあたしの、三人分」
「じゃあ亜季は毎日、親にも飯を作ってるんだな」
亜季は頷いた。
「夕飯の支度も手伝うから。いつもと勝手が違って、落ち着かなかっただけ」
亜季の言い分に、エルヴァは納得したようだ。持ってきた書物をめくり始めている。
「まあ夜御飯は、もうすぐだよ」
「ありがとう。悪いけど、とっても助かる」
亜季は感謝を込めて、深く頭を下げた。
エルヴァが開いている書物は背表紙が無く、紐で綴じられていた。そして中に書かれているのは、亜季には読めない文字だった。見たこともない。
「何を読んでいるの。エルヴァ君」
「魔術の本」
「魔術かぁ」亜季はもう、さほど驚かなかった。
「血止めの魔法の勉強を始めたんだ。怪我した時に使うやつ」
「すごいな。あたしなんて、実はその本の文字すら読めないんだよ」
「何だって」
エルヴァが目を丸めた。
「亜季は、文字を教わっていない人?」
「ううん。あたしも文字は教わってるよ。ただ使っている文字が、違うみたい」
「文字が違う? 言葉が通じてるのに? ……本当に、これは読めないのか」
エルヴァは本をめくり、亜季に沢山の文字を見せた。顔は今、笑っていない。
「わからない。亜季の国ってどこにあるんだよ」
「ごめんね。それがわからないから、迷子なの」
「……どんな所?」
「はい?」
「だから!」
エルヴァがじれったそうに、質問を繰り返した。
「亜季の国って、どんな所なの」
頭を抱えて考えたあと、亜季はこう答えた。
「この国より、物とか人とかいっぱいな所。乗り物とかすごいんだよ」
「おー」
「四、五百人と乗せて、空を飛ぶのとかあって。飛行機って言うの」
「へー」エルヴァが目を輝かせた。
そしてすぐ、その目を曇らせた。
「四、五百人? 嘘くさい」
「ほ、本当だって」
「そんな数を乗せて飛ぶなんて、どんな動物を使っているんだよ」
「動物じゃない。科学の力で飛んでいるのっ」
エルヴァが半信半疑なので、亜季は必死になった。
「そりゃエルヴァ君にとっては、別世界みたいな話かもしれないけどさ」
(……あ)
自分で口にした『別世界』という言葉に、亜季は引っかかった。
そうだ。ここは自分がいた場所とは、もう別の世界なんじゃないだろうか。
どれだけ見聞きしたことを話しても、信じてもらえない別世界の、筈だ。
一瞬、古い記憶が疼いた――大好きだった友達の顔を、思い出しそうになった。
黄の花と赤の花で作られた、花冠を被った少女の顔を。
エルヴァは亜季の動揺には気づいていなかった。
「やっぱり父さんの言う通り、頭が混乱してるんじゃない?」
椅子で足をぶらつかせ、魔術の書物をめくっている。
「亜季には勉強を教えてもらおうと思ってたのに」
「……多分、復習も手伝えないよ」
古い記憶を取り出せなかった亜季は、そうエルヴァに話した。
深呼吸をして、何を言われてもいい覚悟を決める。
「言っておくよ。あたしは魔法とか使えないんだからね」
亜季は目を閉じて申告した。
夕食は広い一室で行われている。
亜季にエルヴァ、そしてエルヴァの家族である父親のベーナと、兄の少年。そしてベーナの職業仲間の男一人という、計五人が、食卓を囲んでいた。
食卓では、透き通った汁物や、薄く切られた燻製肉が、つややかに光っている。そして中央には硬いパンが盛られた籠があり、育ち盛りのエルヴァが手を伸ばしていた。
亜季は気分が優れていなかった。
食事は誰よりも進んでいない。汁物を一口すすっただけで、パンを長く噛んでいる。亜季はとにかく気分が悪かった。
理由は色々だ。一つ、出会ったばかりの人に食事まで貰うのは気がひけるから。二つ、初めて食べる物は緊張するから――ここで出てくるのは、知らない食材が使われた料理ばかりだった。三つ、箸が用意されていないので、洋食器か手掴みで、物を食べなければいけないから。
何より亜季は、ベーナの同僚の男が不愉快だった。
同僚の男はベーナよりも少し若い。男の茶色の髪と、がっちりとした大柄な体は、大樹を思わせる。そしてやや肥満気味でもあり、彼の腹の線は、ゆったりとした衣服の上からでも窺える。
男に出会った時を思い出すと、亜季はとても腹が立った。
亜季はその男をベーナに紹介された時、丁寧に挨拶した。手を揃え、正確な角度で頭を下げて『初めまして』と。
だが男は挨拶を返さず、まずベーナに『なんでこの子を城内に入れた?』と聞いたのだった。ベーナは、森に放っておけば危険だからだ、と返した。
『迷い人をもてなすと幸運が訪れる。そう伝えられているだろう』とも話していた。
ベーナの言い分を聞いた男は、亜季を観察するように見た。赤茶色の瞳で。
そしてやっと、亜季にも挨拶したのだが……その時の言葉が亜季にとって、不愉快の決定打だった。
『よろしくな。しっかり食べないと、その肉付きの悪い体は育たんよ』
(あんたの肉付きが良いだけじゃないのかね?)
劣等感を刺激された亜季は、心の中でだけ、男に言い返していた。
亜季は標準的な体型に憧れていた。『痩せてて羨ましい』と友人に言われると、複雑だった。標準的な肉付きで胸に膨らみがある友人が、羨ましいから。
食べてない訳じゃない。せめてそれを証明しようと、ゆっくり完食を目指した。空腹が満たされるにつれて、気分は良くなった。
「亜季、亜季」
亜季の隣にいるエルヴァが、彼女に皿を差し出した。皿には、赤い野菜の炒め焼きが残されている。彼の言わんとすることは、亜季に予想できた。
「これ嫌いなんだね」
「食べて」
「どうしましょう?」亜季はベーナに聞いた。
「駄目だ。エルヴァ、自分で食べなさい」ベーナは子供を叱った。
叱られたエルヴァは、兄の少年へと視線を移した。
エルヴァと同じ黒髪と黒目だが、顔立ちはあまり似ていない少年。彼は一人、寡黙に食事を進めている。
「兄さんは」エルヴァは、兄と目が合うのを待った。
兄の少年は、空になった皿を傾けて、エルヴァに見せた。
「今日は食えた。だからお前も諦めろ」誇らしげな口調だった。
エルヴァはしばらくうなだれた後、一気に嫌いな野菜を口に入れた。不味そうに口を押さえている。
亜季はうらめしい視線を感じたが、あえて何も言わなかった。代わりに、エルヴァが嫌いな野菜を食べてみる。独特の風味はあるが甘味もあり、美味しいと感じた。
エルヴァは食べ物を飲み込むと、ベーナに話しかけた。
「父さん、亜季は何もできないんだ。魔法はちっとも使えないし、剣も武術も、駄目なんだって。嘘みたいに何もできないんだよ。料理は得意らしいけど……」
エルヴァが話を続けた。
「……でさぁ父さん、亜季が簡単な魔法ぐらいは、教えてほしいって」
「ちょっと、エルヴァ君」
亜季は慌てて食事の手を止めた。魔法を教えてほしいなどと、頼んでいない。
亜季が『魔法が使えない』と言うと、エルヴァは驚き、そしてやはり、己が上だと喜んだ。亜季に質問攻めをした。
じゃあ、武術は、剣は? 魔法陣は書ける? などと。
もちろん亜季にそれらの経験はなく、身を縮めていた。
「まだ帰れないんでしょ? 少しは力つけてやんないと可哀想だよ」
「間違ってはいないんだが。亜季、どうしますか」
「頑張ってみます」亜季は弱々しく答えた。
「すみませんね。宜しくお願いします」
ベーナは息子に困りつつも、笑みを浮かべた。
「レグラン様! ヤハブ様!」
突然に一人の兵士が、乱暴に扉を開けた。急いで来たらしく、息が乱れている。
「大変です。森の西に、火竜が出ました! 巡回していた我々の前に突然、現れたんです。応援願います!」
「怪我人が出たのか」ヤハブと呼ばれた神官の男が、すかさず聞いた。
「いいえ。竜はまだ攻撃せず、威嚇を続けているだけです。それに」
男は一度、口に溜まった唾を飲んだ。
「またどういう訳か、竜と一緒に子供がいまして……迂闊に手が出せないのです」
(一緒にいる、子供?)
亜季は兵士の言葉が、ひどく気がかりに思えた。
「ですが貴方達にも、もう来ていただきたく」
「わかった。すぐに向かおう」
二人の神官は、食事を中断した。
「亜季」ベーナが呼びかけた。
「貴女を捕まえた竜の特徴は?」
「……大きくて朱かったです。あまり見てないけれど」
「現れたのは火竜のようですから、同じ者かもしれません。何かあれば連絡しますので、それまではエルヴァと部屋にいて下さい」
亜季はベーナの言う通り、部屋に戻った。
そして蝋燭の灯りの下、エルヴァに魔法の使い方を教わっていた。
二人がいる部屋の窓からは、連なる灯が森の中へ進んで行くのが見えていた。灯は、竜に会いに行くベーナ達のものだった。時々、亜季はその灯を眺めた。
夜が更けていった。
◇◇◇
(朱い竜)
(一緒にいる子供)
(別世界)
亜季は、昨日と同じ夢を見た。
竜のぬいぐるみを抱きしめた、一人の少女がいた。
まだ小学校の一年生ぐらいだろうか、と、亜季は思った。
『あたし嘘ついてないもん』
(……そうだ)
白く光る霧の中、記憶の蓋が開く。
亜季は嘘など、ついていなかったのだ。




