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掌にかかる虹  作者: 繭美
第一章 嘘の話と雲の扉
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記憶

 中年の侍女が、亜季を一つの部屋に案内した。

「ここでお休みになっていて下さいませ」

 案内された部屋は、亜季の自室と同じくらいの広さだ。約六畳、と心で呟き、亜季は部屋に入った。部屋の隅に寝台、そして机と二台の椅子がある。

 壁に掛かった燭台の炎が、部屋を薄く照らしていた。


「夕飯が出来ましたら、お呼びいたします」

 侍女は一礼し、そそくさと去ろうとした。亜季は慌ててそれを止めた。

「あの、何かお手伝いはありませんか?」

「どうなさいましたか」

 侍女が不思議そうな顔をする。

「ただでここまでしてもらうのは心苦しくて。あたし、料理なら少し出来ます」

「それでは」

 侍女は朗らかに笑った。

「彼のお相手を、ぜひともお願いしますね。もうじきこの部屋に来られますから」

「……はい」

 亜季は子守を引き受けた。侍女はもう一度頭を下げて、部屋を去った。


 椅子に置かれていた学生服を机に移して、亜季は腰を降ろした。

 そして自室より薄暗い部屋で、深く溜息をつく。

 亜季は今の状況と、自分に、不安を覚えていた。

 今日は散々な日だ。おかしな夢を見るし、友人はまともに話を聞いてくれなかった。空を飛ぶのは気絶するほど怖かったし、挙げ句、どうにも常識が通じない場所にいる。家の門限を過ぎただろうに、帰られそうにない。

 それなのになぜ、割と平気で事態を受け止めているのか。余裕があるのか。

 理由は簡単だった。子供の頃に夢見た世界に似ているから、亜季は少しだけ、状況を楽しんでいた。


(気が狂ったんじゃないだろうか……)

 自己嫌悪に陥り、机に顔を伏せる。

「早く家に帰りたい」思わずそんな言葉を口にした。

「帰り道、わかったの?」聞き慣れてきた声がした。

 顔を上げると、エルヴァが部屋に来ていた。右手に数冊の書物を抱え、左手には手燭を持っている。

「帰り道はまだ、全然わからないよ」亜季は慌てた。

「そうか」

 エルヴァが椅子に座った。手燭に照らされた黒い瞳が、亜季をじっと見つめている。

「じゃあ居心地が悪いのかな」

 エルヴァの言葉に、亜季はびくりとした。

『家に帰りたい』という独り言が、失言になってしまった。

 子守を約束したし、自分を慕う少年を心配させたくない。失望もされたくない。

 自己嫌悪は無駄と考えた亜季は、素直に別の感情を話した。


「おかげでちっとも居心地は悪くないよ。でも料理をするのは好きだから、夜御飯の準備は手伝いたかったな」

「料理、好きなの?」

「うん。お弁当……毎日、家族全員のお昼御飯を作っているしね。お父さんとお母さんとあたしの、三人分」

「じゃあ亜季は毎日、親にも飯を作ってるんだな」

 亜季は頷いた。

「夕飯の支度も手伝うから。いつもと勝手が違って、落ち着かなかっただけ」

 亜季の言い分に、エルヴァは納得したようだ。持ってきた書物をめくり始めている。

「まあ夜御飯は、もうすぐだよ」

「ありがとう。悪いけど、とっても助かる」

 亜季は感謝を込めて、深く頭を下げた。


 エルヴァが開いている書物は背表紙が無く、紐で綴じられていた。そして中に書かれているのは、亜季には読めない文字だった。見たこともない。

「何を読んでいるの。エルヴァ君」

「魔術の本」

「魔術かぁ」亜季はもう、さほど驚かなかった。

「血止めの魔法の勉強を始めたんだ。怪我した時に使うやつ」

「すごいな。あたしなんて、実はその本の文字すら読めないんだよ」

「何だって」

 エルヴァが目を丸めた。

「亜季は、文字を教わっていない人?」

「ううん。あたしも文字は教わってるよ。ただ使っている文字が、違うみたい」

「文字が違う? 言葉が通じてるのに? ……本当に、これは読めないのか」

 エルヴァは本をめくり、亜季に沢山の文字を見せた。顔は今、笑っていない。

「わからない。亜季の国ってどこにあるんだよ」

「ごめんね。それがわからないから、迷子なの」

「……どんな所?」

「はい?」

「だから!」


 エルヴァがじれったそうに、質問を繰り返した。

「亜季の国って、どんな所なの」

 頭を抱えて考えたあと、亜季はこう答えた。

「この国より、物とか人とかいっぱいな所。乗り物とかすごいんだよ」

「おー」

「四、五百人と乗せて、空を飛ぶのとかあって。飛行機って言うの」

「へー」エルヴァが目を輝かせた。

 そしてすぐ、その目を曇らせた。

「四、五百人? 嘘くさい」

「ほ、本当だって」

「そんな数を乗せて飛ぶなんて、どんな動物を使っているんだよ」

「動物じゃない。科学の力で飛んでいるのっ」

 エルヴァが半信半疑なので、亜季は必死になった。

「そりゃエルヴァ君にとっては、別世界みたいな話かもしれないけどさ」

(……あ)


 自分で口にした『別世界』という言葉に、亜季は引っかかった。

 そうだ。ここは自分がいた場所とは、もう別の世界なんじゃないだろうか。

 どれだけ見聞きしたことを話しても、信じてもらえない別世界の、筈だ。

 一瞬、古い記憶が疼いた――大好きだった友達の顔を、思い出しそうになった。

 黄の花と赤の花で作られた、花冠を被った少女の顔を。

 エルヴァは亜季の動揺には気づいていなかった。

「やっぱり父さんの言う通り、頭が混乱してるんじゃない?」

 椅子で足をぶらつかせ、魔術の書物をめくっている。

「亜季には勉強を教えてもらおうと思ってたのに」

「……多分、復習も手伝えないよ」

 古い記憶を取り出せなかった亜季は、そうエルヴァに話した。

 深呼吸をして、何を言われてもいい覚悟を決める。

「言っておくよ。あたしは魔法とか使えないんだからね」

 亜季は目を閉じて申告した。


 夕食は広い一室で行われている。

 亜季にエルヴァ、そしてエルヴァの家族である父親のベーナと、兄の少年。そしてベーナの職業仲間の男一人という、計五人が、食卓を囲んでいた。

 食卓では、透き通った汁物や、薄く切られた燻製肉が、つややかに光っている。そして中央には硬いパンが盛られた籠があり、育ち盛りのエルヴァが手を伸ばしていた。

 亜季は気分が優れていなかった。

 食事は誰よりも進んでいない。汁物を一口すすっただけで、パンを長く噛んでいる。亜季はとにかく気分が悪かった。

 理由は色々だ。一つ、出会ったばかりの人に食事まで貰うのは気がひけるから。二つ、初めて食べる物は緊張するから――ここで出てくるのは、知らない食材が使われた料理ばかりだった。三つ、箸が用意されていないので、洋食器か手掴みで、物を食べなければいけないから。

 何より亜季は、ベーナの同僚の男が不愉快だった。


 同僚の男はベーナよりも少し若い。男の茶色の髪と、がっちりとした大柄な体は、大樹を思わせる。そしてやや肥満気味でもあり、彼の腹の線は、ゆったりとした衣服の上からでも窺える。

 男に出会った時を思い出すと、亜季はとても腹が立った。

 亜季はその男をベーナに紹介された時、丁寧に挨拶した。手を揃え、正確な角度で頭を下げて『初めまして』と。

 だが男は挨拶を返さず、まずベーナに『なんでこの子を城内に入れた?』と聞いたのだった。ベーナは、森に放っておけば危険だからだ、と返した。

『迷い人をもてなすと幸運が訪れる。そう伝えられているだろう』とも話していた。

 ベーナの言い分を聞いた男は、亜季を観察するように見た。赤茶色の瞳で。

 そしてやっと、亜季にも挨拶したのだが……その時の言葉が亜季にとって、不愉快の決定打だった。

『よろしくな。しっかり食べないと、その肉付きの悪い体は育たんよ』


(あんたの肉付きが良いだけじゃないのかね?)

 劣等感を刺激された亜季は、心の中でだけ、男に言い返していた。

 亜季は標準的な体型に憧れていた。『痩せてて羨ましい』と友人に言われると、複雑だった。標準的な肉付きで胸に膨らみがある友人が、羨ましいから。

 食べてない訳じゃない。せめてそれを証明しようと、ゆっくり完食を目指した。空腹が満たされるにつれて、気分は良くなった。


「亜季、亜季」

 亜季の隣にいるエルヴァが、彼女に皿を差し出した。皿には、赤い野菜の炒め焼きが残されている。彼の言わんとすることは、亜季に予想できた。

「これ嫌いなんだね」

「食べて」

「どうしましょう?」亜季はベーナに聞いた。

「駄目だ。エルヴァ、自分で食べなさい」ベーナは子供を叱った。

 叱られたエルヴァは、兄の少年へと視線を移した。

 エルヴァと同じ黒髪と黒目だが、顔立ちはあまり似ていない少年。彼は一人、寡黙に食事を進めている。

「兄さんは」エルヴァは、兄と目が合うのを待った。

 兄の少年は、空になった皿を傾けて、エルヴァに見せた。

「今日は食えた。だからお前も諦めろ」誇らしげな口調だった。

 エルヴァはしばらくうなだれた後、一気に嫌いな野菜を口に入れた。不味そうに口を押さえている。

 亜季はうらめしい視線を感じたが、あえて何も言わなかった。代わりに、エルヴァが嫌いな野菜を食べてみる。独特の風味はあるが甘味もあり、美味しいと感じた。

 エルヴァは食べ物を飲み込むと、ベーナに話しかけた。


「父さん、亜季は何もできないんだ。魔法はちっとも使えないし、剣も武術も、駄目なんだって。嘘みたいに何もできないんだよ。料理は得意らしいけど……」

 エルヴァが話を続けた。

「……でさぁ父さん、亜季が簡単な魔法ぐらいは、教えてほしいって」

「ちょっと、エルヴァ君」

 亜季は慌てて食事の手を止めた。魔法を教えてほしいなどと、頼んでいない。

 亜季が『魔法が使えない』と言うと、エルヴァは驚き、そしてやはり、己が上だと喜んだ。亜季に質問攻めをした。

 じゃあ、武術は、剣は? 魔法陣は書ける? などと。

 もちろん亜季にそれらの経験はなく、身を縮めていた。

「まだ帰れないんでしょ? 少しは力つけてやんないと可哀想だよ」

「間違ってはいないんだが。亜季、どうしますか」

「頑張ってみます」亜季は弱々しく答えた。

「すみませんね。宜しくお願いします」

 ベーナは息子に困りつつも、笑みを浮かべた。


「レグラン様! ヤハブ様!」

 突然に一人の兵士が、乱暴に扉を開けた。急いで来たらしく、息が乱れている。

「大変です。森の西に、火竜が出ました! 巡回していた我々の前に突然、現れたんです。応援願います!」

「怪我人が出たのか」ヤハブと呼ばれた神官の男が、すかさず聞いた。

「いいえ。竜はまだ攻撃せず、威嚇を続けているだけです。それに」

 男は一度、口に溜まった唾を飲んだ。

「またどういう訳か、竜と一緒に子供がいまして……迂闊に手が出せないのです」

(一緒にいる、子供?)

 亜季は兵士の言葉が、ひどく気がかりに思えた。

「ですが貴方達にも、もう来ていただきたく」

「わかった。すぐに向かおう」

 二人の神官は、食事を中断した。

「亜季」ベーナが呼びかけた。

「貴女を捕まえた竜の特徴は?」

「……大きくて朱かったです。あまり見てないけれど」

「現れたのは火竜のようですから、同じ者かもしれません。何かあれば連絡しますので、それまではエルヴァと部屋にいて下さい」

 亜季はベーナの言う通り、部屋に戻った。

 そして蝋燭の灯りの下、エルヴァに魔法の使い方を教わっていた。

 二人がいる部屋の窓からは、連なる灯が森の中へ進んで行くのが見えていた。灯は、竜に会いに行くベーナ達のものだった。時々、亜季はその灯を眺めた。

 夜が更けていった。


   ◇◇◇

(朱い竜)

(一緒にいる子供)

(別世界)

 亜季は、昨日と同じ夢を見た。


 竜のぬいぐるみを抱きしめた、一人の少女がいた。

 まだ小学校の一年生ぐらいだろうか、と、亜季は思った。


『あたし嘘ついてないもん』

(……そうだ)


 白く光る霧の中、記憶の蓋が開く。

 亜季は嘘など、ついていなかったのだ。

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