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掌にかかる虹  作者: 繭美
終章 帰結
39/47

無限

 高等学校二学年に進級してすぐの、桜の季節に。

 暮林(くればやし)みのりは横断歩道で交通事故に遭い、しばらく入院生活を送った。

 青信号で進入してきた車と、赤信号で進入してきた車の、交差点での衝突事故。

 この事故に巻き込まれたもう一人の歩行者、根木谷(ねぎや)亜季も、同じ病院に一週間入院していた。暮林みのりは彼女をかばって、事故に巻き込まれた。

 彼女は入院している間、毎日、暮林みのりの病室へと訪れていた。

 根木谷亜季は自分に責任を感じたのか、最初は暗い面持ちでいた。口数も事故前より、減っていた。

 そんな彼女に根気よく、暮林みのりが話しかけていると……日に日に、表情を明るくしていった。入院前にはあまりしなかった表情さえ、よくするようになった。

 そして自分が退院した後も、彼女は暮林みのりの見舞いに通った。

 毎日、彼の世話をかいがいしくやいていた。一度だけ、自動車の運転手にまで見舞いをしていた。それも彼女らしい行動だと、暮林みのりは思っていた。

 彼の退院の日も、迎えに来たのは彼女だった。


 天気の良い青空の日。

 葉桜の下に一人、少女はいた。

 亜季は白い自転車に乗って、みのりを迎えに来たようだった。

 病院の門を入った所にある、葉桜の下に自転車を止めて、それにもたれている。ジーンズパンツに重ねた麻のワンピースが、風に揺れていた。

 いつからそこにいたのだろう。亜季はぼんやりとした面持ちで、頭上を見つめている。わずかに散ってくる桜の花びらを掴みたいのか、一人で空に手を伸ばしたりしていた。


 退院手続きを済ませて、車で帰る親と別れたみのりは。

 亜季の様子をじっと見つめた後で、玄関から彼女を呼んだ。

「根木谷」

 途端に亜季はぼんやりを止め、嬉しそうな表情でみのりへと振り返った。

 自転車を置いたまま、みのりのもとへと走ってくる。みのりも円形の階段を降りていく。

 みのりが玄関の階段を降りきった所で、二人は向かい合った。

「退院、おめでとう」

 自分を笑顔で迎える亜季を、みのりは不思議そうに見つめた。

「予定より早くなって、本当に良かったよ。ほら、荷物貸して」

「あ。うん」

 亜季は少し戸惑うみのりの様子をよそに、彼のスポーツバッグを受け取った。

 二人は白い自転車のもとへと歩き出した。

「根木谷、あのさ」

「なぁに」

「一人で来たのか?」

 みのりは、亜季を見た時から気になっていたことを、口にした。

「皆で行くって、連絡してこなかったっけ」

 みのりが携帯電話を取り出して、友達同士のやりとりを確認しようとした。

 すると機嫌良さそうにしていた亜季が、急に、表情を変えた。

「……皆が一人で行けって。今日になって誰からも断られたっ……」

「ああ、そういうこと……」

 みのりは照れ笑いを浮かべたが、亜季は赤くなってむくれた。受け取ったスポーツバッグを前方の籠に入れて、勢いよく自転車のブレーキを外す。

 不機嫌なまま、亜季は帰路を歩き出した。

 みのりは携帯電話をパーカーのポケットにしまい、車道側に当たる彼女の左横を歩いた。

「もうやだ。学校に行きたくないっ」と、亜季。

「勉強が遅れるよ」

「……みのりだって、嫌だよね」

「うん。勉強はやだよね」

「………」亜季が、みのりを睨んだ。

 みのりは笑顔を崩さず、悔しそうな亜季を観察した。睨んだ後にますます頬を赤くして、自転車のハンドルにもたれるように俯く。その様子には、笑いを堪えた。

「わざとだ。意地悪だ」

「何が」

「今の!」

 亜季は俯いたままだった。もう、みのりとは顔を合わせようとしていない。

 そんな亜季をさらに困らせるべく、彼は言葉を選んで話しかけた。

「そういう反応が見たくて、ついというか。俺の気持ちはばれているだろうから、浮かれ半分の自棄(やけ)半分なだけだ。いつでもいいから返事頼むよ。二年越しの本気だけれど、身を引く覚悟もばっちりだし」

「何を言って……!」

「またそういう返し方をする……。とぼけるのも大概にしないと、直球で行くよ」

「直球って」

「もう言えるよ。俺は根木谷が」

 直球が投げられよう瞬間、亜季が真っ赤な顔を上げて、それを遮った。

「駄目やめてっ! 悪かったから! それ以上は聞くの、無理!」

「……返事してくれるんなら、やめるよー」

「こ、ここ今度するからっ! お願い、もう言わないで! 嫌いになるよ!」


 このぐらいはふざけても良い筈だ、と。暮林みのりは思っていた。

 好意が見て取れるのが楽しいし。お互い様とは言え、彼女は奥手だし。

 何よりこうして動揺でもさせていないと。

 彼女は事故後、不意に儚い表情をするようになったのだから、仕方ない。

 泣きそうな表情で振り返る時がある。あまり自覚していないのが、余計やりきれない。

 他に仕様がなかった。

(……だけどやっぱり、ごまかしにしかならないか)

 彼は一つ決意をした。

 これからしっかりと、彼女を救おう。あんな顔など見たくない。

 勝手に人の持ち物を壊したり、好意を告白したりした、あの性質の悪い恩人の為にも。

 実行する手段は、まだ的確か定かじゃない。……笑われるだけの行動かもしれないけれど。


「根木谷ぁ」

「もう、何っ……」

「根木谷を下の名前で呼んでいい?」

「………」

 亜季が、急に憂いげになる。頬の赤みは見る間に消えた。

 しばらく口を閉ざし、また俯いて歩いた。やがて顔を上げた。

「断る理由が、無いよね。あたしもみのりって呼んでるし」

 口調は落ち着いていた。だけど何かを思い詰めた、悲壮な笑顔だった。

 みのりは亜季の裏の感情を見透かしてから、それを気に止めない素振りで、こう言った。

「いや。俺はこれからも根木谷のことは、絶対に、根木谷って呼ぶ」

「え」

「嫌そうだし」

「……ごめん」

 亜季は、無理に笑うのをやめた。

 春風を顔に受けた後、透き通った声で言った。

「みのりとはもっと仲良くなりたいけれど……。でも、嫌なの。あたしのことはこれからも、根木谷って呼んでほしい」

「ん。そのつもりだよ」

 みのりは風が吹く方を向いて、さり気なく言った。

「下の名前で呼ぶのは、俺じゃない方だったものな」

 亜季がまた、表情を変えた。


「どう、したの?」

 目の前の少年の言葉に、完全に不意をつかれ。

 亜季は呆然として、立ち止まった。

 みのりは通行を妨げないように、亜季と同じ歩道の右横に寄った。

 自転車の前方で、亜季に横顔を見せる形で立ち止まる。視線は合わさずに宙を見ていた。

「ちょっと探りを入れた。傷ついてたらごめんな」

「………」

「今から嘘みたいな話をするけど、笑わないで聞いてくれるか」

「まさか」

「医者に調べられるの嫌だから、聞いた話は誰にも言わないでほしい」

「絶対言わないって約束する」

「後ろを向けとか目をつむれとか、ひどいことは言わないし」

「……お願い。何でもいいから、早く話して」亜季が固唾を呑んだ。

「じゃあ話す。俺自身、夢だと思っていた話なんだ」

 宙を見たまま、みのりが微笑んだ。

 少しずつしか思い出せなかったから、今日までかかったと。

 立ち止まったまま、彼が話を始めた。


「わずかにしか覚えてないけれど。俺は一人の女の子と知らない国にいた。一緒の部屋で生活したりもした。女の子には竜の友達がいて、他の友達も出来た……そうだ。その友達のその後は、女の子よりも知っている。そこは今度ゆっくり話すけど、皆は元気だよ」

「うん」

「……で、実はその時の俺は、俺だったけれど俺じゃない方だった」

「うん」

「上手く表現できなくてごめん」

「……ちゃんと伝わってるよ」声が震えた。

「助かる」みのりが亜季の右手に、自分の左手を重ねた。

 亜季はすぐに手を払おうとしたが、それは拒まれた。みのりにハンドルごと手を掴まれて、薄く汗をかいた。

「話が終わるまで。俺はこの手を離さないよ」

 みのりは亜季の手を握ったまま、話を続けた。

「そいつは女の子の為に動き出して、世界の為に消えようとした。だけどその子が最後に自分を迎えに来たから……ひどく、迷い始めたんだ。自分の居場所はどこだろうって。還るのに必死な奴だったから、別場所からのお迎えは、本当に困るものだった。ほんのわずかに消えずに残って、俺の中で迷子になっていた」

 その姿は見えなかったけれど、まるで幼い子供のように感じたと、みのりが笑った。

 一呼吸おいて、話の続きをした。

「それがもう、今の根木谷と同じくらい放っておけなくなって。俺はつい、女の子と同じようなことをそいつに言った」

「………」

「いいからここにいろって。頑固者を説得した。そうしたらようやく、事故から目を覚ませた。……だから先に姿が消えたのに、起きたのは俺が後だったんだよ」

 亜季の震えが、手を通してみのりに伝わった。

「根木谷の願いは通じたから。おかげで俺じゃない方が――一人きりで永いこといた奴が、少し中にいるから、たまに俺も」

 みのりが眼前の風景を眺めた。彼の頭上では街路樹の若葉が、陽光に透けていた。

「色々なものが新鮮に思える時がある」

 何人かの人々が、立ち止まる二人の側を、通り過ぎていった。何事かと離れた場所から、様子を窺う恋人達もいた。散歩中の小型犬が足に擦り寄っても、亜季は何の反応も示さなかった。

 少年は何気ない日常の風景に、無限の色を見た。

 隣は見なかった。彼女が泣き出したことは、とっくにわかっていた。

「また俺じゃない方が、ごくたまには。根木谷に会いに……遊びに来ると思う。もう何か出来るような力は残ってないし、何より反省して、二度と贔屓しないってさ」

「……うん、うん」

「とは言え、怖い。だからそいつや根木谷が無茶しないように、俺も気をつけとくよ」

 話を終えたみのりが、亜季の右手を放し、視線を風景から彼女に移した。

「今の話を信じてくれるか?」

「全部、信じる」

 頷き、亜季は涙を流したまま、この上なく幸せそうに笑った。

「ああ良かった」

 みのりも同じように笑顔を見せた。

「こんな話ができるのは、亜季だけだ」


 亜季が自転車を、ブレーキをかけて止めた。

 少年の名前を呼び、自由になった両手でしっかりと、彼の両の手を握った。



 そして二人は一緒にいた。

(終)

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