筋雲
長らく消えていた王国、ルカナーディ。
虹によって全貌を戻したと、まことしやかに、大陸中に噂を流した王国。
国民達は、様々な反応を見せた。
二度と消えてはたまらないと、移住を考え出す者。消えていた者との再会を、ただ喜ぶ者。
神の国だと喜ぶ者も、出てきていた。
そんなある日。国王に向かって一人の女が、首をはねられる覚悟で申し出た。
女はその昔『死産』と偽られた姫を取り上げた、産婆だった者。
彼女は長年、心に留めていた思いを。これを機会にと権力者にぶつけた。
……王国が消えたのは災いだ。あの第二王女を死産と偽り、殺めた罰だ。
……罪は結局、賢者の死だけでは償えなかったに違いない。
……あの瞳は殺めたからこそ、災いとなった。殺めるべきでは無かった。
国王は彼女を罰しなかった。数日かけて、言葉を受け止めた。
ルカナーディは『神に加護されし国』と唄われたが。
王家は心の内では決して、そのように考えなかった。
そして人知れず生き延びた、瞳の色を変えるルカナーディの第二王女は。
新しい土地へと出発する、朝を迎えていた。
「ではあの二人が、無事に帰ったかどうか、わからないんですか?」
「捜しても見つからなかった。亜季の奴『みのりがいない方が後悔する』って言い切ってたし、一緒にはいるんじゃないか」
「……そうですか」
「それに……サキの様子を見る限り、心配しなくていいようだ」
瞳の色を変える少女は、青年と二人きりで話し込んでいた。少女の最初の保護者であった、老婆の墓前で。
今日は、少女が新しい保護者達と共に、遠い国に旅立つ日だった。
今朝方、青年と、青年の父の親友である男は、少女を見送りに到着した。
彼らが到着してすぐに少女は「メジスト様とサキがいない」と不満をもらした。
「そんなに都合がつくか」と青年が声を張り上げ、男は「あいつらはその内、会いに行くだろうから」と少女をなだめた。
少女はそれから、会えなくなった友人達のその後を、聞きたがった。
その友人達は少女と同じくらいに、秘密に扱ってきたので……青年は少女と二人きりにしてくれと、周囲に頼んだ。周囲の人間は、快くそれを受けた。
少女が懐から、一通の手紙を取り出して、見つめた。
「不思議な方達でしたね」
手紙は、会えなくなった二人の友人が、残した物だった。
「あの二人は……天の国から来ていたのでしょうか?」
「今となってはどうでもいい。とにかく最後まで迷惑な奴らだった」
「迷惑だなんて。貴方、二人とも気に入っていたじゃないですか」
「馬鹿言え。気に入っていたから、迷惑だったんだ」
「……特に意地を張っている訳じゃ、ないんですよね。話し方に問題があるだけで」
「何の話だ」
「貴方の性格」
少女は久しぶりに出会った青年との、やりとりを楽しんでいた。
ここ数日間、新しい四人の保護者達と暮らしてきた。これからも彼らと共に過ごす。新しい保護者達は最初の保護者の関係者で、彼女を敬愛する者同士、打ち解けられた。
だけれど二番目に自分を保護してくれた、この青年といる時が。
少女にとって至福の時だった。
「サキに出会ったら私からも、亜季やみのりのことを尋ねてみよう」
「そうしとけ」
「あの」少女はもう一つ、気になっていたことを聞いた。
「ロヅもまた、私に会いに来てくれますか?」
すぐに「行かない」と、青年から否定の返事が返ってきた。
……新しい生活の地まで送る役目は果たすが、そこまでだ。と。
青年は、黒髪の頭を押さえて言った。
「ファウラは真面目に魔法の修行でもしろ。俺も忙しくなるから、絶対に、会いに行かない」
「どうして」少女は不安になり、胸を押さえた。
「国を出ると決めたから。今すぐじゃないが、もう話は進めている」
青年は、やや歯切れが悪かった。
「メジストや神官達と繋がっているから、外に出ても国との縁は残る。手伝うこともある。だけど城を出て……テムサ様が知らない国を見てくる。望ましい国が見つかれば……連れて……移住する。それが無理なら、悪いが人のいない所で暮らす」
青年は少女ではなく、老婆の墓を見つめながら、話をしていた。
「どちらにせよ新しい知識が必要だし、剣の腕も磨かないと駄目だ。……早く落ち着きたいから、会わないようにする」
「……貴方が、国を出るなんて」少女は怯えていた。
再会を否定されたことに衝撃を受けて、彼の話を正しく聞ける状態では、無くなっていた。少女はいくつかの言葉を聞き逃した。
「私から行くのも、駄目なんですか」
「邪魔だから来るな」青年は頭を押さえている。
「……嫌です」少女が声を震わせる。
「そんなことを言うなら、剣は返さない」
脅しを始めた。
剣は青年が少女の為に、彼女のもとへ一時的に預けた物。青年が常用している道具。
勝手なことを言い出した少女に怒ろうと、青年が顔を上げた時には。
少女はぽろぽろと、涙を膝に零していた。
「なんで泣くんだよ」
問うと、少女は嗚咽をもらし、青年に真正面から抱きついた。両手を背中に回して、強く抱きつく。
そして青年の胸元で、幼子のように泣き崩れた。少女は老婆との死別以来の、涙を流していた。
「わがままだってわかっているけれど。ロヅに……全然会えなくなることだけは、嫌なんです。本当は、貴方と離れたくないんです」
少女がむせびながら言った。
「会えなくなるのは、我慢できない」
「だからなんで……! ああ、もう」
青年は火照った顔を冷やそうと、青緑色の空を仰いだ。よく晴れた空に、一筋の雲が浮かんでいるのが見えた。
視線を宙に置いたまま、青年は、泣く少女の頭に触れた。髪の中に指を差し込み、くしづけるように撫でた。
「ずっと離れるわけ、ないだろ」
……また会話にずれが生じている。問題があるのは自分の話し方だけじゃない。
……『迎えには行く』と言っても、少女は理解しない。遠回しは通じない。
青年は深く長い溜息をついた。
晴れた空を見ながら、故郷より『いない方が後悔する』相手を選んだ友人を、懐かしんだ。
そして空から墓へ視線を戻し――まずは老婆の魂に、自分と少女の行く末を願った。
人払いが完璧か確認した後で、青年は仕方なく、胸元の少女をそのままに。
さっきと同じ話を、言葉を変えて、繰り返すことにした。
「もう一回話すから、その、泣くな。いいから、よく聞いてろよ」
今度は、やけに歯切れが悪かった。
◇◇◇
朱い竜はなるべく高く空を飛んでいた。
そこには、白い筋雲がいた。
白い筋雲は糸よりも細く、遥か上になびいている。
竜はそれが何であるかを、知っていた。
そしてその雲が、もうすぐ見えなくなることも。
見えなくなる雲に向かって、竜は宙で、雄叫びをあげた。
雲を見守った後、竜は翼の向きを変えて下降して、そしてすぐに降りる速度をあげた。
魔術師の女が見えたからだ。下に見える谷に、己と契約を交わしていた女が手を振ってるのが、竜に見えた。
「結構、久しぶり」
笑みを浮かべている女に、竜は体を擦り寄らせた。
右腕も確認した。以前に竜が火傷を負わせた部分は、もう治っていた。
「出会えたのは偶然よ。あんたのお気に入りが最後に大騒ぎしたから、ルカナーディには居辛くって。……あの手この手で、どうにかごまかしてるけど」
女は竜の体を撫でて、谷底の方を見つめた。
「で、ここならまだあの宝石が残っているかなと、来たんだけど――」
女が竜の瞳を見つめた。
「無駄足?」
竜は大きく、縦に頷いてみせた。
女はやっぱりね、と。
岩の色になってしまった、宝石の原石達を取り出して、谷に捨てた。
「機嫌が良さそうで何より」
魔術師の女が、竜の体に寄りかかり、酒を楽しみ始めた。
寄りかかられている竜は、小さく彼女に鳴いてみせる。そして首を傾げた。
女はそれを見て、少しだけ顔をしかめた。
「……あいつの止めが入らなければ、私達はどちらも、あの時に死んでいたでしょう」
竜はしばらく考えた後、今回は頷かなかった。
女が言う『あの時』とは、自分がこの女に苦しめられた時。そして自分がこの女を、殺そうとした時だったから。過ちは、思い出すだけで体がこわばった。
炎で彼女を焼き殺そうとしたあの瞬間、強引な止めが入らなければ、両方の命は無かった。
彼が現れてくれなければ。
「命を助けられた礼はする。一生に比べたらわずかな命など、惜しい訳がない。それに、あんたや私の為に力を使って……草原だけとは言え、性懲りもなく壊れるような馬鹿よ? ことを急ぐのは当たり前だわ」
女は話をしながら、三杯目の酒を飲み干した。
「ま、あんまり望み通りにしてやるのも癪だから。嫌がらせもしたけどね」
あんたの魔法陣崩しに乗っかかったわよ、と。女が可笑しそうに笑った。
竜はその姿を、じっと見下ろした。
大きな瞳で女を見つめ……そして竜は、鱗が生え揃った額を、彼女に差し出した。魔術師の女と再び、契約を交わすことを望んだ。
「甘い」
魔術師の女は拳で、竜の大きな額を殴った。
「サキは性懲りが無さ過ぎる。あんたが調子に乗って空を高く飛ばなければ。あいつを見つけなかったら、こんなことにはならなかったのよ? 私はサキに力を授けた責任も、取ったつもりだと言うのに」
女は三回、四回と、差し出された額を拳で殴った。
「大体、絶交宣言した癖に」
最後に一際強く、額を殴りつけた。
竜はすごすごと、額を引っ込めた。女はそれを見て、声に出して笑った。
「多少は理知的になってから、出直してきなさい」と得意げに言い、「……ああ、良い物があった」女は何かを企んだ。
女が酒を入れてきた袋から、一つの小瓶を取り出した。
その赤黒い小瓶を片手で持って、竜に見せつける。
それは、竜が一番に気に入っていた少女の、血液が入っている小瓶だった。
「これを飲めば、多少は理知的になるかもよ? そうね、また契約してあげる」
もう片方の手で、赤紫色の果実酒を楽しみながら、女が竜に言った。
竜は驚愕して、抗議の鳴き声を上げた。人間を――彼女は決して食さないと、竜は過去に誓っている。
「あれも利口では無かったけれど、サキよりは小賢しかったからね。良いじゃない。あの娘からの最高の手料理だと考えれば」
言動から、竜にはわかる。女は理解している。
竜が嫌うことを。竜が一番に気に入っていた少女が、約束を破られるのに過敏だったことも。
そしてこの場合の少女の立場は、料理人ではなく、料理か食材だ。
「懐いてきた割には、きちんとわかっていなかったようね」
女は竜を笑っていた。
「私が最後まで亜季を呼ばずに、首尾良くいったってことは……つまり、これが残るってことよ?」
少女の血液が入っている小瓶を片手に、女は勝ち誇っていた。「飲まないなら捨ててしまおうかな」とまで言っている。竜はそれにも抗議の声を上げた。
……最大の餌をちらつかせながら、女は、自分に屈しろと、嘲笑っている。
酒に酔っている訳では無い。ましてや冗談を言っている訳では、決して無い。
竜はさっきまで、今はこの女が一番好きかもしれないと、心で思っていた。実に気の迷いだった。
やはりこの女は最上で底辺な、ゼロ番目だと、竜は苦々しく思った。
『会えなくなっても友達だよ』と言葉を残した少女達に対して。
助けを求めるが如く、朱い竜は上空を仰いで、大きく雄叫びをあげた。
先ほど雲が見えなくなった上空へと。
……見えなくなっただけの、友達へと。
もちろん、返答は無かった。朱い竜はうなだれた。
幸福を噛みしめてはいたのだが。