歪み
亜季は真っ白な闇を走り、瞬間で、交差点から、塔の屋上に戻ってきた。
元へ還そうとする力に、逆らえたようだった。
煉瓦造りの床を踏んだ所で、振り返る。背後には光の柱が立っていた。
魔法陣があった場所から、淡い虹の輝きを持つ光の柱が、空へと伸びている。虹の輝きは縦にゆらめき、あたかも滝のようだった。
亜季は一人だった。
体を借りられていた少年は、この光の柱を通って、無事に帰ったようだった。
そして、彼とは違うあの少年は。
別世界に来た時から、一緒だった少年は、近くにはいなかった。
元の世界へと続く眼前の虹からは、亜季は何も、感じなかった。
(だけどまだどこかにいる)
亜季は空を見回した。
遠くに、消えかかった虹を見つける。……そこへ行こうと決めた。そこにいると感じた。
駆け出した時に、血液が入った小瓶を、知らずに蹴飛ばした。
塔の長い階段を、足がもつれそうになりながらも、一気に駆け下りる。
塔から出て、森林を走り始めた頃だった。
「亜季!」誰かが走る亜季の腕を、背後から掴んだ。
腕を掴んだのはロヅだった。亜季は強い力で引き留められ、体を前に倒しそうになる。
「どうしてこんな所に。あの光なら、もう弱くなってきてる!」
ロヅが目で示した先は、先ほどの円形の塔の上。
屋上を包む霧雲と、中に立つ淡い光の柱は、二人がいる場所からでも、はっきりと見えていた。
「帰れなくなるぞ。さっさと戻れ!」
「違う! 大変なの!」
亜季はロヅの手を振り払おうと、掴まれた腕を大きく振った。手は振り払えなかった。
「みのりの馬鹿がいなくなった。……帰ったんじゃなくて、まだこの世界にいるの! それだけはわかるから……あたし捜しに行かなきゃ!」
「俺が今から捜す。だから亜季は塔に戻っておけ!」間髪入れずの返答だった。
「嫌だ! この世界に残っても、構わないから!」
もう一度、自分を制止する手を払おうと、亜季は腕を振った。試みはまた失敗した。
「それよりみのりを捜せない方が、みのりがいない方が、後悔するんだ」
「入れ違いになったらどうする気だ」
「あの子は一人じゃ帰らない! ……説明してる時間も無いの。お願いロヅ! あたしを止めないで!」
「……じゃあ勝手にしろ」ロヅが、亜季の腕を放した。
そして「早く行け!」と命じるように言い、亜季の背中を強く押した。
二人は離れ、それぞれ別方向に駆け出した。
――完全に元へ還る。歪みは、今ある心は、全て消す。
少年の言った言葉が、亜季の体を急がせていた。
亜季は、虹が出ている方向へ走っていく。
霧は塔に上る前より、晴れていた。先ほどよりも確かな景色が、走る亜季の視界に飛び込んでくる。
消えていた国の景色。
国が姿を現していった分だけ、別れは近づいていた。
少年は、己の決意へと向かっていた。
自分は何も知らずに、手伝っていた。……それを心底悔やみながら、亜季は走り続けた。
そんな亜季の頭上を、大きな影が横切った。
「さっちゃん!」
亜季が空を仰ぎ、友の名前を呼ぶ。
サキは亜季が走る少し前に着地した。国の中心部に建つ、城の前へと。
突然、空から降りてきた大きな火竜に、近くにいた人々は一斉にどよめいた。城の中からは、兵士が駆けつけようとしていた。
以前、似たような風景をまのあたりにした亜季は。
すぐさま彼らに怒鳴った。
「騒がないで! その竜は『サキ』です!」
場を裂くような声が出た。人々が亜季の方を向く。
亜季はサキの側まで駆けつけ、両手を広げてかばう姿勢を取った。
立ち止まった亜季の体に、疲労が襲いかかる。亜季は息も整えず、喉が痛むような声を張り上げた。
「紋様が、今は見えてないだけで、この子はサキなんです。メジスト様の、使いの!」
「しかし」
「何度もこの国に来てるんだから! 紋様が無くたって、わかってくれて良いでしょう!」
亜季は何か言おうとした者の言葉を遮った。
サキは亜季の後ろで、首部を地面に付けていた。
何もしてこない朱い竜と、竜をかばう風変わりな少女に、人々は戸惑った。
「……とにかく今は、この子はあたしを迎えに来ただけですから!」
亜季は叫び、頭部からサキの背中へと、乗り込んだ。
サキは軽く唸って、人々を自分から離し、高い空へと飛び上がった。
「ごめん。……本当にごめんね。さっちゃん。あたし、やっと知ったの」
上空。亜季は全身で竜の背中にしがみつきながら、悲痛な声で話しかけた。
「さっちゃんはきっと、とっくに知っていたんだよね。メジストさんと契約する時にかばったのは、あたしだけじゃ、なかったんだね……」
サキはルカナーディの町が戻ってきた時、時間と空間の歪みの気配を、少年から感じた。そして、少年から真実を知らされていた。
「あたしや国を戻すと、あいつが還るから……さっちゃんは、板挟みだったんだよね?」
サキからの返答は無いが、気持ちは通じ合っている。
亜季もサキも、互いにそれを理解していた。
亜季が人々からサキをかばい、乗り込んだから。サキは亜季を乗せて、一直線に虹が出ている方向へと向かったから。
「謝ってばかりだけど、本当にごめん。……だから、今からあたしも手伝う」
ロヅに『別世界に残っても構わない』と、啖呵を切った亜季だが。
本当は、これから自分がどうなるかなど、頭に無かった。
この時の亜季には、まさに二の次だった。
「あいつ……とんでもない所に、還るつもりなんだよ」亜季の声が震えた。
サキは少年が還るのを止める気でいたが――あの少年がどこに還るかは、先ほど明確に知った。
虹は見る間に、夕闇の空に消えようとしていた。
サキは亜季を乗せて、ルカナーディの国境を超えた。山岳地帯へと突入した。
その頃にはもう、とうに日は暮れており、虹も消えていた。
そんな暗闇の中でも、亜季とサキが向かった場所だけは、薄く様々な色に光っていた。
その光は、彼女達にしか見えていないかもしれなかった。
サキは小さな谷の側で着地した。この谷の底が、あの虹の根元だった。
谷の側に到着した時には、光は色を変えていた。
上空から見た時には淡い虹色をしていたが、今は白銀色。
霞のような薄い光が、谷底に瞬いた。谷底に求めるものがいると、亜季とサキは感じた。
サキは、何とか谷底まで亜季を連れて行けないかと、往生していた。谷底へ行くには、竜の体は大きすぎた。
「あたしが行ってくる!」サキの体を押して、亜季が谷へ足を踏み入れた。
そして一人、谷底へと向かい始めた。
急な谷壁を降りたことがない亜季の体に、谷風が吹き付けてくる。来ることを、拒んでいるかのように。
亜季は少し降りた所で、谷底の光が、より鈍くなっていると気がついた。
(間に合わなくなる!)
危機を感じた亜季は、谷壁を滑り降りた。途中で細い体を崩した。亜季は体に傷をつけ、地面に強く打ちつける形で、谷底に到着した。口の中が切れた。どこか骨も折ったかもしれないが、それらに構う気はなかった。
体を起こし、求めるものを捜し始める。
谷底では、様々な光が失われていっていた。
ここの岩面には、青以外の色の、輝く石が埋まっていた。だがそれらは全て、岩の色に同化していっていた。
そうして光が失われている谷底の、一角だけ。
白銀色の光が、くすぶっていた。
小さな輝きだった。亜季よりも小さくなっていて、もう雲のように見えない。
虹色の輝きなど欠片も窺えない。
しかしそこに彼はいた。亜季はそれを感じた。彼に言いたいことは、はっきりとしていた。
傷ついた体で、力の限り。
亜季は白銀色の光に向かって叫んだ。
「嘘つき! あんただけはって、信じてたのに! ……大嘘つきっ!」
裏切られたことへの腹立たしさ。
それが亜季の体を、最大限に動かしていた。
「前に言ってくれたじゃない。一緒にいようって、二人で考えようって! あんたが……あたしが、知っていたみのり君じゃなくても。嬉しかったに、決まってるじゃない。……あの時、あたしがどれだけ安心したか、わかってなかっただなんて……本当にひどい本音だよ。馬鹿!」
勢いよく、まくしたてていく。亜季はこれまで生きてきた中で、一番怒っていた。
「もう充分に元通りじゃない! せっかく、生まれた心じゃないの。全部消さなくていいよ!」
亜季はいつかの夢を思い出していた。永い間、何も無い場所で孤独になる夢。
あれは、少年が体験した記憶が、流れ込んでしまったらしかった。
永い孤独を感じていた魂が、目の前で消えようとしている。自ら無に還ろうとしている。
それも自分を助けたことへの償いとして。理に逆らう代償として。
「それに……あんただけが一人でいる必要なんて、無い! ……言ってやる。あんたを仲間外れにする世界なら、そんな世界なんて! 本当に、放っとけば良かったんだ!」
もう少年は肉眼では見えないけれど、そこにいるとわかる。
だけど何の返答も無い。
「世界なんて二人で考えようよ。それか……こんな方法で命を助けてもらっても、あたしは喜べない。だから」
もう、言葉など届いてないのかもしれない。
叫んでいる内に、亜季は涙が堪えられなくなった。
亜季は泣きながら、最も言いたかった言葉を、彼に告げた。
「勝手なことはやめて。約束守ってよ。……あたしと」
今回は還すつもりはない。掴みたい。
命や世界よりも大事なこの想いが届くようにと、願いながら。
亜季は白銀色の光に手を差し伸べた。
「一緒にいよう」
白銀がすっと膨れあがり、白くなった。
亜季の全身はその中に包まれた。そして、ある方向へと大きくはじかれた。
◇◇◇
亜季は目を開いた。
青い空の彼方で、一筋の輝く雲が、消えるのを見た。
亜季は、交差点の横断歩道に倒れていた。交通事故に遭っていた。
雑音のようなざわめきが聞こえてくる。群衆が視界に飛び込んでくる。
一人の少女が、亜季の手を強く握っていた。真剣な表情……友人の少女だ。
「根木谷ちゃん動かないで。救急車を呼んだから。……絶対に動かないで!」
体は痛かった。白い輝きにはじかれる前と同じ所が、亜季は痛かった。
「君の御両親にも連絡したよ。病院で会える筈だ」
背広を着た男性が、亜季の携帯電話と、別の携帯電話を手にして言った。……亜季が知らない人物。親切な通りすがりの者なのだろう。
慣れ親しんだ友人の顔。久しぶりに会える両親。自分の命の無事。
望んでいたものが、嬉しく感じられてこない。……気がかりがあったから。
亜季はまず周囲に、彼が無事かどうかを聞いた。
暮林みのりのこと。
彼の怪我は亜季よりひどかった。亜季をかばって、車に跳ねられたからだ。
一日は意識が戻らず、緊急治療室にいた。頭も怪我したが、幸い脳の損傷は無かった。
暮林みのりは目覚めた後も、油断できない状態が続いた。
それでも彼が意識を戻した時に、口にした言葉は、根木谷亜季の無事を問うものだった。
そして。彼が事故前に手に握っていた筈の、携帯電話は。
どうしてか事故現場からも、どこからも、見つからなかった。
亜季が左腕にはめていた腕時計も、見つからなかった。
今度になって、別世界の体験は夢じゃないという証拠が、亜季の記憶の他に残った。
夢であってほしいと、初めて願った時間だったというのに。
時間と空間の歪みが消滅するのを、青空に見た。
世界と世界は完全に分かれ、二度と交わらない。
間接的とは言え、一国を消してしまっていた。あの女性の命も削った。
大切に想った友達は、存在ごと消えてしまった。消してしまった。
これならもう、自分も消してしまいたいと。
亜季は不意に強く思うようになった。
……だけど決して、実行はしなかった。
消したいと願ったその後に必ず。
最後に感じた、あの少年の返事を思い出していたから。
償いだから仕方ない。
だけど最高に楽しかった。
かけがえのない時を過ごしたから、実は何の不満もない。
ありがとう。
一人で帰っても元気でやってくれ。支えになる人も待っている。
……せっかくここまでして助けた命なのだから、喜んでほしい。
(……遺言じゃないの)
本当に無神経に明るい少年で。
彼を思い出すと、亜季は涙が出た。
第十二章(終)