全て
初夏。中学校の、部活動が無い日の放課後。
下校時刻を過ぎても、中庭に残っている少女がいた。
みのりと同じ『三―二』の学級の女子生徒だった。一人でしゃがんでいる後ろ姿が、気にかかった。
日直を終えて帰ろうとしていた足を止め、声をかけた。
「何やっているの。根木谷」
少女がしゃがみ込んだまま、みのりの方へ振り返る。初夏の夕日の下で彼女は汗ばみ、やや顔を赤くしていた。
「………。みのり君」
少女、根木谷亜季は素朴で大人しい性格な為、学級では特に目立たない生徒だった。
分け隔てなく人に接するみのりでさえ、この時まで彼女と、一対一で話したことは無かった。
具合でも悪くしているのだろうかと、近づいてみて。そしてわかった。
根木谷亜季は芝生の中にいる、一匹のトカゲを眺めていただけだった。
同世代の女子が観察するものとしては、風変わりだと、みのりは思った。
「……好きなのか?」
「好きなのかな」トカゲを見つめつつ、彼女は首を傾げた。
それからもう一度、反対方向に首を傾げた後で、彼女はみのりに向き直し、こう言った。
「トカゲってほら、竜さんっぽくない?」
「え」
あまりに突拍子もない言葉に、みのりはすぐに返答が出来なかった。
「……ごめん。悪いけどもう一回、言ってくれる?」
みのりは、笑顔で聞き返した。
その反応をまのあたりに、根木谷亜季は赤面していき……恥じらいで、口元を押さえた。
「……おかしなことを言った。ごめん、忘れて……」
顔を背けてそう言い、彼女は駆け足で、夕暮れの中庭を後にした。
残されたみのりは「待てって言ったのに」と、中庭に零した。
その突拍子もない言葉と、去り際に見せた照れの仕草が、みのりの中に強く印象づいた。
だからそれから、さり気なく彼女を追ってみた。話せそうな時は、話してみた。
トカゲだけでなく、色々な生き物を楽しそうに見ていること。
昼の弁当は自分で作っているらしいこと。手料理を友人に食べさせるのが、大好きなこと。
恋愛話が苦手で、特定の相手はこれまでにいないこと。
運動神経は悪くないこと。童話好きなこと。約束は守ること。
なぜかたまに、自分から一人きりになることなど。色々な面を知った。
夏休みに入る前にはもう、根木谷亜季を、気になる存在として見るようになっていた。
◇◇◇
「待って。どうして今、そんな話をするの」
「今だから」
「だからっ……、みのりには見えてないの? あたし、今」
「……亜季を最初に呼んでくれって、頼んだのに」
「目を閉じても霧が見えている」
「亜季の話は聞けそうにないな」
「もう時間切れか」
亜季は目を開いた。
目を開いても、白銀色の霧が周囲にあった。
目を閉じていた時と変わらない光景が彼女の前に広がる。
雪のように輝く白銀色の霧が、辺りを包んでいる。前方は他に何も見えない。
足元は見えた。壊れた魔法陣の中央で、小瓶が一つ、灰へと変わっていた。
背後の少年の声色は、低くて抑揚のないものに変わっていた。
「亜季に会いたいという気持ち。共鳴する部分を持つ彼だからこそ、姿を借りられた。それに彼の方がひどい状態だったから、助ける為にも、中に入る必要があった」
何かがおかしかった。亜季の心はざわめいた。
「亜季と、亜季も意識していた彼とを、どうしても事故から助けたかった。だけど干渉したら、こんなことになるなんて。……俺は、知らなかったんだ」
声色と話し方の変化。
亜季がごくわずかに抱いていた、彼への違和感が、大きくなっていく。
「二度とこういうことを起こさない為だ。完全に元へ還る。歪みは、今ある心は、全て消す」
ただならぬ言葉に、亜季が振り返った。
そして、彼の姿が透けていっているのを見た。
腕の肘までが半透明になっていて、指先はすでに消えている。足ももう見えない。
周囲の白銀色の霧と、同化しているようだった。
半透明になった部分も、輪郭だけは淡い虹のように、様々な色の反射を残していた。
「こっちは見ないでほしかったな」彼はたまに見せる、困ったような笑顔をしていた。
口調も、明るいものへと戻っていた。
「彼が霧になっている訳じゃない。帰っていってるだけだ……と言っても、気持ちの良いものじゃないか。ごめん」
「………」
「亜季はあの時だって――みのり君を、一目でも見たくて。だから中庭に残っていたんだ。そろそろ感情を、自覚した方がいいよ」
第三者の助言をした。消えながらも、日頃と変わらない調子で。
落差に、亜季は身が震えた。
「それと、亜季にあんなに助けてもらうことになるとも、知らなかったんだ。怖い思いを、沢山させて悪かった」
亜季は透明になっていく少年へと、急いで手を伸ばした。
「ごめんな。最初はここでの記憶を消して、帰すつもりだったけれど……覚えててほしくなった。本音、言ってもいいんだよな?」
指先に続いて、肘も消えた。肩までが透けた少年を、亜季は見た。
「……本当に迷惑をかけたけど。こんな形でも、俺は亜季達と友達になれて」
少年は最後に笑顔のまま、かすかに声を震わせた。
「楽しかった」
亜季の手は少年に触れなかった。彼の姿は一気に消えて、白銀色の霧だけが残る。
そして突然、亜季の意識は遠ざかる。刹那、あの場所に飛ばされる。
夢のような意識。真っ白になった闇の中で、別世界に来る前にいた、通学路の交差点を見た。
光景は一瞬で消え去ったのだけれども……亜季は、はっきりと見た。
忘れたくなるほど、陰惨な光景だった。
地面を流れてくるガソリン。赤い車輪跡。
悲鳴。雑音でしかない群衆のざわめき。
横がひしゃげた自動車と、前がひしゃげた自動車。散らばる硝子片。
……車道に倒れたまま、人形のように動かない自分。
言葉を失い、驚愕と恐怖の表情で、体を震わせている友人の少女。
彼女の視線の先は、横たわる動かない自分ではなく。
赤い車輪跡の終着点――前がひしゃげた自動車の、下だった。
(違う。現実に起こったことじゃない)
先に散ったそれの心が、亜季の中に伝わってきていた。
(これは、あの子が避けてくれた未来像だ)
(万物に精霊が宿るって。実体が無い者は還ろうとする力が強いって……あたしは、教えられていたのに!)
全てを理解した。
いつかの町の魔術師の言葉が、少女の頭に浮かぶ。
『姿をあげるから出ておいで』
と。男は動物の姿を与えることで、精霊を呼び出していた。
この呼びかけは、不可視でも存在しているものがある、という意味も示す。
少年の姿を借りる前に、それがいた場所。それ自身。
時間と空間の流れが、それの体。
六回、少女が通った虹色の雲が、時間と空間の流れの、歪みであり心。
境目に漂い、視界を遮る白銀色の狭霧。世界と世界を繋ぐ虹。
時間と空間を司る、精霊とも呼べる存在。
それは、確かな心を持って、動き出し。
その体を壊していた。
本当は、時間と空間に、それは生まれる予定はなかった。
時間と空間が物事に干渉すれば、世界の均衡が大きく崩れるから。
心のようなものは、持たない筈だった。
だけど永い時を経て、わずかな歪みが誕生した。
時間と空間も、わずかな心を持った。
時間と空間は、心の誕生後も永く、傍観者でいた。
しかしある時から、人間的な感情を、強めていった。
世界と世界を行き来した二名。朱い火竜と、人間の少女。
自分を訪れた彼女達に、興味を強く持った。会いたいと願った。
そして人間の少女の為に、初めて己の力を、強い感情で使った。
世界とは比べものにならない二つの命を、よくあることから助ける為に。
初めて感情で、時と空間を動かして。
一国を消しさるほどに、その体を壊した。
『物事に干渉しない』という理を破った罰を受けた。
己ですぐに治せなかったぐらい、体を壊された。見守っていたより多くのものを、隠された。
人間の少女が時間と空間を、最も治せた。多くのものを元に戻せた。
時間と空間の心である、それを訪れた回数の多さと。
時間と空間が壊れた、原因であるが故に。
……少女の協力を得る為に、それは少女の側にいた、少年の殻に入っていた。
亜季の目の前に、平穏な交差点の風景が広がった。
信号が青色に変わり、人々も車も無事に渡っている。気づかない内に好意を寄せていた少年も、目の前で横断歩道を渡っていた。
亜季は彼が無事だとわかると、その背中を黙って見送った。
そして、踵を返した。自分の願いだけで動いた。
平穏な風景に背を向けて、無彩の中を走り出し。
望む世界へと抜け出した。