霞
「ちょっと待って」
階段の途中。屋上への入り口が見えた所で、みのりが言った。
「これ」と、抱えた学生服を、亜季に見せる。
「……そうだった」亜季も自分が抱えている、紺色の制服を見た。
「俺はここで着替えていくから」
「わかった」
みのりが階段の途中で止まった。
亜季は屋上に出ると、その片隅で、高等学校の制服へと着替えた。
「そんな格好してきたのね」
魔法陣の前に座ったメジストが、学生服姿の亜季を見て、笑みを浮かべた。
「やっぱり変ですか」
亜季は着ている制服の、大きなセーラー襟を摘んだ。
「その格好の方が、変わったことをしそうに見える」
近くに来るようにと、メジストが亜季に手招きをした。
「これに悪戯をされた」と。
側にある魔法陣を示して、メジストが顔をしかめた。魔法陣の上には血液入りの瓶が二本並んでいる。
「陣の一箇所が消されている。サキの仕業だ」
「さっちゃん、さっきまで一緒にいましたけど」
「私が上がった時、例の友達の小さい竜がいたのよ。……全く知恵の浅い真似を」
メジストが苛立たしげに、懐から煙管を取り出した。
「よっぽどあんた達と別れたくないのね」
彼女が煙管に火を灯す。亜季は複雑な気持ちになり、小さく溜息をついた。
「そうだ、これ。メジストさんと、さっちゃん宛です」
亜季が脱いだ服の中から、手紙を取り出した。
感謝の一文が綴られた手紙を二通、メジストに手渡した。彼女もロヅと同様に、すぐに手紙を開いた。
そしてあることを聞いた。
「これは『サキ』って書いているの?」
「あ、はい。さっちゃんの名前は一応、あたしの世界の文字でも書きました」
「『亜季』とは、字面まで似てる名前だったのね。どういう意味の名前なの」
「意味は考えないで付けたんです……子供の頃に、憧れた名前だったから」
亜季が恥ずかしそうに、頬を掻いた。
「文字が持つ意味は『早い季節』ですけど」
「……そう」メジストが手紙を畳んだ。
亜季はサキへの宛名を『早季』と、漢字でも書いていた。
「ところでみのりは」
「階段にいます。着替えの時はこっちが呼ぶまで、外で待っててくれるから」
「なるほど」
「呼んできますね」
「待ちなさい」メジストが亜季の腕を掴んだ。
「契約を結んでいた仲だし、少し二人きりで話をしましょう」
微笑み、亜季にも座るように促す。亜季が隣に座ると、吸っていた煙管を消した。
「えっと……メジストさんにも、大変お世話になりました」
正座をした亜季が、緊張した面持ちで言った。
「私はあんたが嫌い。よく世話をやいたものだと、自分ながら思う」
厳しい言葉が返された。
すぐさま亜季が言葉に詰まった。メジストは亜季を放って、立ち上がった。
「素直で主体性に欠けている所が、嫌いなのよ。……誰かの為になろうだとか、ある意味、傲慢な考え方だと知りなさいな」
話しながら塔の端へと歩き、彼女は高みから景色を眺めた。
「今回の騒動も、私は暇つぶしに関わっただけだし」
「メジストさんが命を削ったのは……ルカナーディの為でしょう?」
隣まで来た亜季が、同じように景色を望んだ――霧で霞んでいた。
「どうでもいい物を捨てて、恩を売ったの。私はあんたとは違うわ」
亜季は様々な風景を望んだが、メジストはあるものだけを見ていた。
「亜季、時には自分の願いだけで動きなさい」
「あたし、充分にわがままですけど……」
「亜季は迷いが多い。言いたいことすら、飲み込んでばかりでしょう」
「………」
亜季は返す言葉を失った。思い当たる節は、これまでに沢山あった。
今だって、サキに言いたかった別れの言葉が、胸につかえている。
「何が重石にかかろうと迷わず、願い通りに。……そういう強さも持たないと、いずれは色々と失う。奪われもするわ」
メジストの声は澄んでいた。
「……わかりました。ありがとうございます」
亜季は戸惑いつつも、助言を受け取った。
「その素直さは……どうしようもないかもね。大嫌い」
メジストが穏やかに、意地悪を言った。
亜季はその横顔を見た後、また塔から風景を眺めた。風景は霧に霞み、取り戻された国はよく見えなかった。
ぼやけた景色の中、亜季達の世界への扉である雲は、白銀色に輝いていた。
「扉の雲、近づいて来ましたね」その輝きに目を止めて、亜季が言った。
「……あの雲は、時間と空間の流れの、歪みだそうよ」
「え?」
亜季がメジストの方に振り向く。彼女は亜季と話している間ずっと、輝く雲を凝視していた。
「時間と空間の流れが、ここと亜季達の世界を分けている。流れが歪んだ所が、世界を行き来できる扉となっている。これは私が、サキから聞き出したこと」
「………」
「言っても仕方がないから、皆には伝えなかったの」
メジストがつまらなそうに言った。
そして床にあった、亜季が着ていた衣服を抱えた。
「みのりの分も、私が預かっていく。下まで、魔法陣を修復する道具を取りに行くから」
メジストは屋上の出口へと歩いていった。
亜季は呆然と、主であった女の背中を見つめていた。
メジストが去り、少ししてから、みのりが屋上に現れた。
「久しぶりに見る格好だ」と笑顔で言う。
そんな彼ももう、亜季と同様に学生服を着ていた。
霧で覆われた風景。
煉瓦造りの塔。足元には、血の瓶が二本、中央に置かれた魔法陣。
「制服、違和感あるね」亜季が、自分の胸元のネクタイに手をやる。
「うん。すぐに着替えたものな」みのりは上着のポケットに手を入れて、塔の端に歩いた。
「せっかくの高い所だから、絶景が楽しめるかと期待したけど」
そりゃそうだよな、と。霧で霞んだ景色を見たみのりが、苦笑いした。
「聞いた? さっちゃんが、魔法陣に悪戯しちゃったんだって」
亜季が壊された魔法陣へと近づく。
「ああ。大人しく待とうか」
「うん」亜季は、胸騒ぎを覚えていた。
壊された魔法陣と、中央に置かれた血液の瓶を見ていると、胸騒ぎは大きくなった。
塔の屋上は霧で冷えていた。多少の寒さに不満を言わず、亜季はみのりと会話を続けた。
「もうすぐ、久々の登校生活か」
「……こっちで過ごす内に、あんたとは前より親しくなったよね」
「戻っても仲良しでいような」
「そうだね。どこか二人で、遊びに行こう」
他愛のない会話をしてみても、奇妙な胸騒ぎは治まらない。
亜季は今、側にいる少年に、聞きたいことがあった。
――本当に、元の世界に帰りたい?
(……どうしてそんな変なこと、聞きたくなってるんだろう)
別れたくない友がいる。暮らそうと思えば、きっと何とか暮らしてゆける。
それでも今まで培ってきた関係……生きてきた世界、故郷を切り離すことは考えられない。到底、天秤にかけられない。
けれどどうしてか。相手もその筈だというのに。
側にいる彼には、聞かなければならない気がする。
「みのり」
「うん」
「……あの車、避けられたんだよね?」
「……大丈夫だって。制服が汚れてるの見ただろう」
「念は押したくなるよ」
相手の笑みを見ても、言葉を聞いても。亜季の胸騒ぎは治まらなかった。
いつに帰るか、はっきりとわからない。それにも問題があるのだろうけれど。
やはり『本当に帰りたいか』を聞いてみたくて、たまらない。夜中に窓辺に佇んでいたのが気になる……。
「どうしたんだよ。黙って」
無言を続けた亜季に、みのりが声をかけてきた。
「ちょっと、あんたに言い辛いことがあって」
「……何でも聞くよ? 言っていい」
「そう言われても」亜季はみのりと顔を合わせられず、じっと足元の魔法陣を見ていた。
「じゃあ、こうしようか」みのりが明るい口調で言う。
「今から俺が、亜季に言い辛かった話をする。そっちの話は、その後で」
「おあいこってこと?」
「そう」
「……わかった」
亜季は話を聞く為に、彼のすぐ側に行こうとした。
「ごめん。そこにいてて」みのりがそれを止めて「それから、後ろを向いててほしい」と、言葉を続けた。
「どうして」
「それぐらい言い辛い話なんだ。俺、どんな顔するかわからないから」
みのりが明るい口調のまま、わずかに顔を伏せた。
「出来ればもう、目もつむっていてほしいな」
「……そんなに?」
「頼むよっ」おどけた調子で、みのりが手を合わせる。
「良いけど。あたしの話も相当に変だから、ちゃんと聞いてよ?」
亜季は不思議に思いながらも、その頼みを聞き入れることにした。
数歩離れると、みのりと反対方向を向き、目を閉じた。
闇の中、後ろから声が聞こえてくる。
「……確かここに来る直前に、話題にしてたよな」
彼は二年近く前の思い出話を、語り始めた。
第十一章(終)