塔
別れる前のひとときを楽しんだ亜季達は。
朝に雨がやんだ後、ロヅによって高い搭へと案内された。
国の端にあるその塔は円形で、灰色と赤色の煉瓦で造られている。階層を数えると、十二もあった。
ロヅの説明によると、主に新しい魔法を編み出す時に、使用する建物らしい。今日はメジストが嘘をついて、借りている。
白銀色の雲は、塔の屋上と同じ高さまで降りてきていた。しかし塔から離れて宙に浮いているので、亜季達はまだ通れない。
メジストは塔の入り口で待っていた。
この塔の屋上で『探知の術』を行うと、彼女は言った。
実体が無い者の、還ろうとする力を利用した術――物から精霊を呼び出して、道を探らせる『探知の術』を。ルカナーディを戻す時に使っていたものを、屋上でまた行う。
これまで通り精霊が道筋を示したら、亜季なら不思議な力で、元の世界に帰れるだろうと。
白銀色の雲の扉を通る為に、高い塔の屋上で、術が行われる。
探知の術に使用する代償は『魔力の流れが違う人間の血』。
亜季とみのりの、血液だった。
「多少の血なんて本来、探知の代償として成り立たないのだけど。……元通りになる力が強いルカナーディで、亜季がいれば、大丈夫でしょう」
「……あたし、自分で自分を送るなんて、出来るのかな」
亜季は戸惑った表情で、己の掌を見つめた。
「今回、私は血を通して、亜季とみのりに呼びかける。元の国に帰れ、とね」
「あ、亜季を最初に呼んで下さい」みのりが手をあげて言った。
亜季は目を丸くした。
「みのりが先の方が良くない? あたし自分はともかく、あんたは送ってあげられそうだよ」
「いや。亜季なら、扉を通れるように出来そうだから」
メジストはみのりを横目で見て「そうね」と呟いた。
「……亜季を最初にするわ。その後にすぐ、みのりも呼ぶ」
メジストは二本の硝子の小瓶を、外衣の下から取り出した。
ロヅは短剣を取り出し、メジストに手渡した。
「これで駄目なら、どうする?」
「しばらく待つ。サキに乗れば、雲の近くに行けるけれど。それは最終手段にしたい」
「そうですよね」亜季が傍らにいるサキの、顎を撫でた。
サキが誤って、亜季の世界に行くのは避けたいと、この場の全員が思っていた。
――ルカナーディのように何かが消えてはたまらない。
今後は世界を行き来できる扉を見かけても、決して入ってはならない。皆がそう考えた。
亜季とみのりは掌を上にして、片手をメジストに差し出した。もう片方の手は、学生服を持っている。
メジストは短剣を握ると、横目でサキを見た。亜季とメジストが契約を結んだ晩とは違い、大人しく座っている。
メジストは短剣で、亜季とみのりの掌を切った。小瓶が一杯になるまで、血を取った。
「魔法陣を完成させておくから、ロヅ、後始末お願い」
メジストはロヅに短剣を返すと、二つの赤い小瓶を手に、塔の階段を上り始めた。ロヅは短剣についた血を拭った。
亜季は右手から、みのりは左手から、まだ血が出ている。短剣によって傷つけられた掌は、痺れのような痛みを伴っていた。
「みのり。亜季。切られた方の手を貸せ」
傷ついた二人の掌が、ロヅに差し出される。ロヅは身に付けていた革の水筒を外し、二人の傷を洗った。水筒から流れる水は赤い血と混ざり、地面に落ちてゆく。
傷を洗い終えると、ロヅは二人と手を繋いだ。
そして癒しの呪文を唱えた。
魔法によって流血が止み、傷口が塞がっていく。サキは呪文を唱えるロヅの真後ろで、その光景を見守っていた。
「完治までは俺じゃ時間がかかるから、ここまでだ」
傷口が半分まで塞がると、ロヅが二人の手を離した。傷はまだ残っているものの、浅いものとなり、痺れるような痛みは消えていた。
「ありがとう。前にも見たけど、すごいね」
亜季の言葉に、ロヅは眉をひそめた。
「亜季の方がすごいだろ。……これは代償に聖水を使った、ただの魔法だ」
「俺達には出来ない魔法だから。ありがとう」みのりも礼を言った。
ロヅは『術が終わるまで近辺を見張るから』と言って、塔の前で立ち止まった。
互いに出来ないことをしあった彼らは、別れの挨拶を始めた。
「ロヅ、その……一回だけ、前みたいに呼んでいいかな」
「一回だけなら」
「エルヴァ君。また会えたのに、最初は気づかなくてごめんね」
亜季が頭を下げると、ロヅが雑に、彼女の栗色の髪を撫でた。
続いて亜季は、大好きなサキに言葉をかけようとして、動きを止めた。
「……さっちゃん?」
サキは大きな首部を垂れて、わずかに唸っている。竜の姿のまま、涙を堪えていた。
「泣かないでよ。元気なさっちゃんでいてて」
亜季がサキの首部を、懸命に撫でた。
みのりもサキに近づき、首部を……紋様のあった額の部分を、撫でた。
「さっちゃん。辛い想いをさせてごめんな」
サキは大きな涙を一粒流し、亜季とみのりの両方に、体を擦り寄らせた。
そして大きな体を後退させて、朱い翼をはためかせる。
強い風を周囲に起こし、サキは高い空へと飛び上がった。
「もう行くだなんて、あいつらしくないな」
風がやんだ時に、ロヅが言った。
「会えなくなっても友達だよって、言いたかったのに」
亜季が声をくぐもらせて、目をこすった。
みのりも言えなかった言葉があるのか、黙ってサキが去った方向を見ていた。
「そろそろ、メジストの所に行け」
ロヅが促すと、亜季がこくりと頷いた。
「……さようなら」亜季は顔を伏せたまま、別れの言葉を言った。
みのりが空を見るのをやめて、穏やかな笑みを浮かべた。
「ロヅ、元気で。さっちゃんに会ったら、亜季が言いたかったことを伝えておいて」
「わかった」
「俺の分も頼む」
亜季とみのりが階段を上ろうと、体の向きを変えた時。
「二人とも」と、引き留める声がかかった。
亜季が振り返ると、ロヅは思いあぐねた表情をしていた。
「……無事に帰れよ」
そう言うと、二人に軽く手を振った。
「最後までありがとう。いつまでも元気で」みのりが同じように手を振る。
「えっと」伏せていた亜季が、顔を上げて笑った。
「かぶるけど、元気でいてね」
亜季達は階段を上っていった。
残されたロヅは、高い塔を見上げながら、静かに両名を心配していた。
たとえば聖水。宝石。呪文の言葉。契約。
自分や周囲が行ってきた魔法には、常に『代償』や『媒体』が伴ってきた。
では消えた国を戻す行為……精霊を還すことは果たして、真に何も無しで行えていたのか。
サキは人間に変身できなくなったことが、代償になったのかもしれないが。
あの二人は、どうだったのか。少女が悪夢を見るだけで、代償は済んだのか。
国の消滅について、明解にされていない事柄の中。彼の最大の気がかりは、そこだった。
国が消えた直接の原因よりも、いつの間にか気になっていた。