創世の再現
育った家。
家族。父や母の手伝い。料理。
生活。学校。みのりとの日々。
(……そうだ)
宿屋で物思いにふける内に、亜季は大切なことを思い出した。
――腕時計の精霊を還す時に見た夢。
青い穴は確か、もう人が通れるほどに大きかった。
元の世界に帰る扉が、きっとどこかに開かれている。
昼をとうに過ぎた頃。亜季は、無骨に部屋の扉を叩かれた。
「ここの二人起きてるかっ」扉の向こうから、知らない男の声。
亜季は身動きを止めて、息を潜めた。
「もう外に行ったのかな」
「いや……おーい、起きろ!」
扉の向こうには、複数の人間がいるらしかった。
亜季は彼らを無視した。傍らではまだみのりが眠っている。一人で対応するのは避けた方が良いだろうし、疲れているみのりを起こす気もない。
亜季は静かに、扉の向こうの彼らが去るのを待った。
「起きないか……」
「とんでもない物が見られるってのに」
扉の向こうの彼らは、足音を立てて去って行った。
(一体、何の話?)
少し前から、外が騒がしかった。大勢のどよめきが、部屋の中の亜季に聞こえてくる。
おそらく先ほどの彼らも、この騒がしさに加わりに行ったのだろう。
亜季は外の様子を確かめようかと考えた。今いる部屋は二階で、窓からは、空と他の建物の屋根が見えている。
悩んだ末、亜季はただみのりの側にいた。
ばさりと羽音がして。
窓の外に、小さな生き物が現れた。
現れたのは竜だった。大きなサキとは違い、窓の外の竜は掌ほどの大きさしかない。
(竜さんだ)
その姿をよく見たくて、亜季は少しばかり窓際に寄った。
小鳥と見間違いそうな大きさの、緑色の竜。竜は一本角でこつこつと、窓を叩いていた。
ここを開けろと、急かしているかのようにも見える。
亜季がそのままにしていると、緑色の竜は、険しい威嚇の声を上げた。
そして亜季の頭に激痛が走った。
すぐに額を押さえる。痛みは額から首まで走った。これまでに感じたことが無い痛みだったが、悲鳴はどうにか堪えた。
痛みは声をあげない内に、治まった。亜季は、思わず押さえた部分が額の紋様であると気づいて……体をよろかせながら、竜がいる窓辺に近づいた。
小さな竜の望み通り、窓を開けた。竜は翼を広げ、地上に降りていった。
窓の下は人通りが少なかった。亜季の方を見ていたのは、ただ一人。
暗い色の衣服を着たその女性は、静かに亜季に手招きをした。
「遅い」
「すみませんっ」
「痛かった?」
「いえ。平気でした」
「……生意気」
「………」
「もう一回、痛めつけようかな」
遊ばれている。薄々そう感じつつも、亜季はメジストに「すみません」と言った。
メジストの足元には、さっきの竜がいた。首を後足で掻いている。
「みのりは」
「眠っています」
「そう。起こせたら起こしてきて。無理だったらこの緑の竜に番をさせて、亜季は私に付いて来なさい」
「人間の味方の、竜なんですか?」亜季は身をかがめ、小鳥のような竜に触ろうとした。
竜がすばやく反応し、鋭い一本角を振るって後方に跳んだ。亜季は拒絶されたと理解して「ごめんね」と、すぐに身を引いた。
「この通り、サキと違って人間が嫌いな竜よ。……絶対に食さないぐらいに人間嫌いだからか、サキの友達。あいつが頼み込んだから数日、助けてくれるだけ」
「さっちゃんの……」
亜季は立ったまま、緑色の竜をよく見た。竜は水滴のような瞳で亜季を睨んでいる。
種族が違う竜と友達なのが、実にサキらしいと亜季は思った。
「ほら早く動いて。外の騒ぎは、あんた達が見るべきものよ」
「あ、はい!」
亜季は急いで部屋に戻り、みのりを揺すって起こした。
緑の小さな竜はその様子を、外で唸りながら見ていた。竜はみのりが起きるのを見届けると、空高くに飛んだ。
亜季とみのりはルカナーディの町を、メジストに付いて歩いた。
人だかりがある方に行き、そしてその中心を見た。
何とも不思議な光景だった。
それは一角。石造りの建物の、地面に接している一角。そこだけが国の姿を戻していなく、荒れ地のままだった。建物は柱が見えないにも関わらず、しっかりと立っている。
そして荒地には、無限の輝きがくすぶっていた。複数の色が、柱があるべき所にきらめいている。
「虹か?」「まただ」人だかりからはそんな声が上がっていた。
虹といっても、円状になっているものではない。硝子や水面のあぶくなどに現れる、輪郭が定まらない虹の輝きが、そこにあった。
「亜季。夢で、虹とか見なかったか?」みのりが傍らの亜季に聞く。
「あ……今、思い出した……」
小さな虹の輪を持っていた。
そして窓くらいの広さになった自分の世界へと、それを還した。
「虹が今回、還した精霊だったよ」亜季は小声で言った。
「……空に出たのはあんなに小さくも、形が悪くも無かったけどね」
メジストが呟いた。そして亜季とみのりに、しっかり眼前の虹を見るように促した。
何者かが輝きに触れようと、前に出ていた。
その者は輝きに近づいた途端……見えない力に大きく体をはじかれていた。彼は地面に倒れ込み、不思議そうに瞬きをしている。
「誰が近づいてもああなる」とメジストが言った。
やがて。
虹は瞬間、強く大きな白い光となり、小さな荒れ地を包み込んだ。
強い光が消えた時には、石造りの建物には柱ができていた。完全な元の姿に、戻っていた。
人だかりはいっそうざわめき、建物の中へ入る者達もいた。
そこで亜季達は騒ぎから離れて、誰にも見られないよう路地裏へと入った。
「今、二人とも何もしなかったわよね」
低い女の声が、路地裏に響く。亜季とみのりは無言で頷いた。
「サキの仕業でもない。あいつは朝から、ずっと空を飛んでいるもの」
メジストが狭い路地裏から、高い空を見上げた。
「あんな風に少しだけ、戻ってない箇所があるのだけれど。こちらが何も仕掛けなくても、もう勝手に現れていってるの」
「……初めて、姿が戻ってくるのを見ました」亜季は茫然としていた。
「これはルカナーディ自身が、還ろうとする力が強いってことでしょうね」
メジストが言い切り、布で隠された少女の額に、指を添えた。
「亜季」
「はい」
「今から、私との契約を解除する」
「え……」
「もうそこまで強大な力は必要ない筈。その紋様が無ければ、亜季が不思議な力の持ち主だとか……疑われもしない」
「そうか。そうだ」亜季は頷いた。
「これ付けて帰る訳には行かないや」と続け、頭部の薄茶色の布を取った。額に描かれた紋様がさらけ出される。
メジストとみのりが、亜季に視線を集中させた。
「……帰るって」
「……サキが気づくことは、やっぱりあんたもわかるのね」
形がついた前髪を指でときながら、亜季がもう一度、頷いた。
「あたしとみのりは、きっと帰れる段階だと思うんです。夢で、元の世界への穴が大きくなってるのを、見てきました」
「ええ。後でその話もするわ」
メジストは亜季に、目を閉じるように命じた。
亜季は主の命に従った。
「お疲れ様」
瞼を閉じた闇の中。みのりのねぎらいの言葉が、亜季に聞こえてくる。
続いてメジストも「ご苦労」と言った。そして彼女の爪先が額に触れる。
知らない言語の呪文が、瞼裏の闇で響いてゆく。
「一つ質問する」
メジストが呪文を区切った。
「夢の中で、元の世界は見た?」
「元の世界ですか」
「そう。あんた達が帰る場所は、見られたかどうか」
「………」
亜季は瞼裏の闇の中、しばらく考えた。
青い空が思い浮かぶ。それから電信柱と信号。
亜季は目をつむったまま、答えた。
「はい……ここに来る前に、いた場所が見えました」
「通学路の、交差点かな」みのりの声。
「うん。やっぱりあたし達、事故に遭いかけた交差点に、帰るんだろうね」
「元通りの場所に?」メジストの声。
亜季は「はい」と返事をした。少し間があって、再び知らない言語の呪文が、瞼裏の闇に流れた。
亜季の額から紋様を消した後で。
メジストは、元の世界への扉がある場所を、二人に教えた。
彼女が示した上空には、よく見れば一筋だけ、不思議に輝く雲があった。
昼の光の中、雪のように白銀色に輝く雲。
その雲が、世界と世界を繋ぐあの扉だと、亜季はすぐにわかった。
「霧が出る日に迎えをよこす。それまでは以前のように過ごして」
メジストはそう言うと、城へと向かって行った。
紋様が無くなった日の晩から、亜季は以前のように、みのりと宿屋の手伝いを始めた。
宿屋の従業員にも、再会を喜ぶ者がいた。彼らにゆっくりしてもらおうと、二人は自ら申し出た。
(ここの食事とも、もうお別れか)
亜季は鍋料理をかき回しながら、そんな感慨にもふけった。
出来あがった鍋料理を食堂に運び、客の器に注いで回る。
その最中で亜季は、ある旅人同士の会話を、耳にした。
それは大陸全体に伝わる創世の神話。
『創造主は初めに虹を用い、世界を創った』
――満月の空に現れた巨大な真円の虹と、今、昼間に現れている小さな虹。
沢山の虹によって、姿を現してゆくルカナーディ王国は、神話の再現をした『神がかりの国』。そう噂されている。
半年も消えていた王国は、以前より他国から一目置かれる存在となった。
巨大な虹は他国の上空でも見られたので、噂は大陸全体に広がりつつある。
「創造主様。今日の料理も美味しいですよ」
余った鍋料理を食べたみのりが、そんな言葉を亜季にかけた。