回廊の影
亜季は貸された衣服へと着替えた。
簡素な作りの婦人服。足首まで裾がある下衣は、木製の留め具で固定するもの。材質は気候に丁度いい。
手厚くもてなされていると、亜季は着心地から感じていた。
城内の建物に到着した時には、日はもう傾いていた。
しかしエルヴァ・レグランという少年は「まだこの辺りなら遊んでいいから」と、着替えた亜季を外に連れ出した。
彼の目的は建物裏の林。そこに行く途中で、墓地の横を通り過ぎた。
銀の柵で囲まれた墓地には、一際、目立つ墓があった。
その墓は大きく、沢山の花が献じられている。墓標の石柱は立派な石が使われているらしく、夕日を綺麗に反射していた。
「賢者様の墓だよ」エルヴァが言った。
国を支えていた人物が去年に亡くなったらしい。幼いながらも自国を理解しているエルヴァに、亜季は感心した。
二人は建物裏の林に着いた。
「エルヴァ君、あの生き物は何」
亜季は木の枝にいる、うぐいすに似た生物を指した。
「鳥」
「………」
「食べられる方の、鳥」エルヴァは羽毛で覆われた生物を見て、そう答えた。亜季が知らない、固有名詞も言った。
鱗で覆われた『鳥』は訓練すれば、手紙を届けるらしい。
問いかけた亜季も、答えたエルヴァも、困り顔でいた。
「なんでそんなことも知らないの」
「さあ」亜季は生返事をした。
「ま、いいか……。亜季は、そういう奴なんだ」
エルヴァは、林の奥へと駆けていった。
(どういう奴だと思われてるんだろう)
亜季は溜息のあと、地面に咲く草花に視線を向けた。
白い花と黄色い花が、沢山咲いている。どちらも花は小ぶりだが、茎は長い。甘い香りが漂う。頭が疲れているからか、この花達で冠を作りたいと、亜季は考え始めた。
――作るとしたら白い花を基本にして、黄色い花は白の半分だけ使おう。さらにその半分だけ、緑の葉を織り交ぜれば、落ち着いたものに仕上がる。
違う。ここは黄色い花を基本に作ろう。探せば赤い花が見つかるだろうから、赤い花も使えば、活発な色調の花冠に仕上がる。そうしないと。
白い花は摘んではいけない気がする。
見た目と裏腹に、茎に毒を持っている花だから――。
「あの、エルヴァ君」
亜季は白い花について質問しようと、土地に詳しい少年を呼んだ。返事が無いので辺りを見回すと、彼は赤い花が咲く向こうに、かがんでいた。
「何してるの」
亜季は側に寄り、悲鳴に近い、驚きの声を上げた。
エルヴァの足元には、一つの図形が描かれていた。
白い砂を埋め込んで描かれた円。内側には、星の形や象形文字のようなものが、別の色の砂で描かれている。
円の砂は一部が切れており、そこにまた、亜季が知らない生き物がいた。
掌より大きい、黒い芋虫。芋虫は沢山の足をばたつかせながら、高い鳴き声を上げている。その場から動けないでいるらしい。亜季を見ると、口から粘り気のある白い糸を吐いた。
虫が苦手ではない亜季でも、不気味に感じた。
「この魔法陣、壊れかけだ」
エルヴァが図形の前に、しゃがみこんだ。
「壊れると、その虫は、どうなるの?」
「もちろん、こっちを襲ってくるよ」
エルヴァは図形と黒い虫を凝視していた。怯えている様子はない。
「危ないじゃない!」
「このぐらいの奴なら追い払えるかも」
亜季は気がついた。エルヴァの瞳は今、生き生きとしている。危険を楽しむ子供の顔だ。
どうにかしようと、亜季は助けを捜した。建物の中から、杖を持った男が二人出てきたので、彼らを呼びに走る。
エルヴァが虫を捕まえようと構えた時、行動を止められた。
「何をしている!」
片方の男がエルヴァの両肩を掴み、図形から離した。
「平気だよ」エルヴァは悪びれずに話す。
「結界の一部が壊れているなら、手を出さないで連絡しろ!」
もう片方の男は、魔法陣と呼ばれた図形を、見つめていた。
亜季は息を切らせて、エルヴァのもとに戻ってきた。膝に手を当てて、呼吸を整えている。
「亜季がこいつらを呼んだのか」
「だって怪我をしたら大変でしょう」
「しないっ」
「そんなこと言ってる内に怪我するんだよっ。エルヴァ君!」
亜季は、自分が受けてきた説教をした。
「……ああ。お前、エルヴァか」エルヴァの肩を掴んでいた男が、その手を離した。
肩を解放された少年は、自分の名を呼んだ男を、黙って横目で見た。
男はエルヴァと亜季とを見やり、優しく言った。
「怒鳴って悪かったな。友達と一緒にいるなら、もう行っていいぞ」
「急に何だよ」エルヴァが声を尖らせた。
そして再び図形に駆け寄り、中の砂の文字を一つ、踏みにじった。
文字が消えると虫が自由になり、男達へと跳んだ。状況を混乱させたエルヴァは、建物の表側に駆けていった。
亜季は、目の前の状況に手が出せなかった。大慌てで「ごめんなさい!」と叫び、逃げた少年を追いかけた。
エルヴァは白い建物に駆け込み、すばやく廊下を進んでいった。亜季はエルヴァに追いつけなかったが、見失いもしなかった。
廊下の突き当りの階段を上がった所で、エルヴァが亜季を待っていた。
エルヴァはつまらなそうな表情で、壁にもたれている。回廊から差し込む夕日の光が、その影を、長くしていた。
「わざと壊したんだよね。あんなことしちゃ駄目だよ」亜季が言った。
「いいんだ」もう声は尖っていない。
「あれくらいじゃ怪我なんて、するもんか」
彼の言う通りではあった。亜季は走り出したあと、どうにも気になって後ろを見た。……何をどうしたかわからないが、虫は消えていた。顔をしかめた男が二人いるだけだった。
「これだからこっちで遊ぶのは嫌なんだ」
エルヴァが頭の後ろで手を組み、廊下を歩き出した。亜季は横並びで付いていく。
「ああいう、俺を馬鹿にする奴がいるから」
「……そうなの?」
「可哀想がって怒るのをやめる奴なんて、嫌いだ」
「………」
「兄貴はまだ、俺に泣き虫なんて言ってくるし」
「お兄さんがいるんだね」
「うん」エルヴァが声を落とした。
「俺はもう泣いてないのに」
「そっか」
亜季は詳しい事情は聞かず、代わりに一言だけ言った。
「……やっぱり良くないよ。怪我しなくても、わざと壊しちゃ駄目」
二人はしばらく、黙って廊下を歩いた。
廊下の角を曲がった時、エルヴァが言った。
「亜季を見つけて、良かったよ」
自分の名前が出たので、亜季は驚いてエルヴァを見た。背丈が違うので、顔は良く見えないが、彼の口元は笑っていた。
「亜季に会ってすぐに思った。弱そうな奴だなって」
「あたしが?」
「そう」エルヴァが亜季の細い手を握り、顔を上げた。
「こいつなら俺でも馬鹿にできる。そう思った」
「………」
屈託のない笑顔のエルヴァを、亜季は無言で見つめた。
しれっとしていることが多い少年。亜季はエルヴァを、そう捉えていた。行動は活発だが、表情変化は乏しいとも言える子供なのだ。
そんな彼が今、腹立たしい理由で、晴れやかに笑っている。
「なんにも知らないし、拾って正解だ!」
楽しそうにしているのを見守ってやろうか。馬鹿にするなと怒鳴ってやろうか。どちらにするか迷った挙げ句、亜季はただ、疲れた表情で歩いた。
エルヴァは上機嫌で、手を繋いだまま、亜季に話しかけていた。