破片
亜季は一人、夢の中で灰色に包まれていた。
灰色は前回と比べて大分明るいが、未だ光源を感じなくて単調である。
白に近い灰色の闇の中に、亜季はいた。
そして手には、輝く虹の輪を抱えていた。
(子供の頃は、虹の橋を渡ろうとしてたな)
虹がかかっている場所へ向かって走ったけれど、追いつくことは無かった。
その場所に行く前にいつも、虹は姿を消していた。
憧れの虹が今、手の中にある。
(やっぱり、綺麗)
自分の顔ほどの虹の輪。渡れなくても触れることが出来た。亜季はぼんやりと、幸福を感じた。
満足したので、その憧れのものを元に還そうと、青い穴を探し始めた。
青い穴を見つけた。青緑の穴は、今日は隣にいなかった。
穴は前より広がり、丁度、窓くらいの大きさになっていた。
亜季は豊穣の祭の、宴の時のように、窓から世界を覗いた。
通う高等学校へ行く道の、最後の交差点――自分が帰るであろう場所を見た。
風景は写真のように止まっていた。
青い空。灰色の電信柱と、それらを繋ぐ電線。
青信号。
……無数の硝子の破片。
白色と黒色が連なっている横断歩道。その上に何かが引き摺られた跡。黒の上の赤。
群衆が、何かを囲んでいた。
『……急車を呼べ』
『手遅れ』
動かぬ風景から聞こえてくるざわめきが、亜季の耳に張り付いた。
(嫌だ。あそこには戻りたくない)
すぐに亜季は、風景が見えない場所へと逃げたくなった。
だけれど約束は守りたいし。
何より手持ちの虹には、多くの命がかかっていたので、逃げる訳にはいかなかった。亜季は怯えながらも、怖い風景に手を入れて、虹を落とすように還した。
動かぬ風景の中に、一陣の風が吹いた。
虹はその風に煽られ、高みへと上って行った。
亜季は逃げようとしたけれど、駄目だった。
恐怖と絶望のあまり、立つことも出来なくなった。その場にへたり込み、両手で自分を抱えた。
動けなくなった亜季が唯一、出来た行動は。
一人の友達の名を、呟くことだった。
すると再び、どこからか強風が吹いた。
気味の悪いざわめきと、亜季の恐怖の記憶は、それで消し飛んだ。
恐怖で冷えた体も、温もりを取り戻していった。
亜季は無意識に、青い穴に背を向けて立ち上がり。灰色の闇の中。
風が吹いた方向へと歩き出した。
◇◇◇
魔法陣の中の灰が、夜風にさらわれた。
空は、魔術を行う前の色へと戻った。濃紺の空に、車輪のような満月が輝いている。
そして一同は平坦な荒野ではなく、崖上にいた。
崖下では、行方を眩ませていた国が現れていた。
月光が国全体をうっすらと包んでいる。町明かりも見て取れた。どうやら崖下の王国も、夜を過ごしていたらしい。
代償となった腕時計――夜風にさらわれた灰は、崖下に消えていった。
空からサキが降りてきた。
静かに術を行うと、一同は取り決めていたのだが。
サキは大きな振動を響かせて、着地した。倒れそうになる自分の体を、必死に支えている。
一歩動いた後で、右足を崩した。ロヅが側に駆け寄り、サキに呼びかけた。
「静かに倒れろ。亜季の心配は、しないでいいから」
サキはロヅを信じ、体を横たわらせて眠りに就いた。
地面ではサキよりも前に、亜季とみのりが倒れていた。
みのりは俯せに倒れていた。
亜季は仰向けに倒れ、小刻みに震えている。両腕を胸の前で交差させて、己を抱えている。喘ぎ苦しみながら、何かうわ言を言ったが、周囲には聞き取れなかった。
皆が二人に声をかけると、まずみのりが上半身を起こして、顔を上げた。
そして彼は疲労の表情のまま、震える亜季の方へと、片手を伸ばした。
「負荷が掛かったのは、亜季だけか」
メジストが冷静に言い、傍らに準備しておいた道具の方を見た。自分が何かできないか、考え始めていた。
この中で最も癒しの術が得意なヤハブが、亜季の側へ寄ろうとした。
それよりも前に。
ファウラが亜季のもとへと、駆けつけていた。
交差させている両手をほどき、自分を抱えるのをやめさせる。そしてファウラは、そっと亜季を抱きしめた。
背中に回した右手には、細い杖を構えている。
「最後だから私が」
そう呟きファウラが、己が苦手とする癒しの魔法の呪文を、唱え始めた。
亜季の表情が和らいでいく。
ようやく身を起こしたみのりが、亜季に手を重ねると、彼女は静かな眠りに就いた。苦しそうだった表情は、安らかな寝顔へと変わった。
「本当にありがとう。亜季」
ファウラが亜季を両手で抱きしめ、言葉の届かない耳元に囁く。
「……貴女も無事に自分の国へ帰って、どうか幸せにお過ごし下さいね」
そうしてファウラは亜季の体を、再び地面に横たわらせた。みのりはまだ、亜季に手を重ねている。
ファウラがみのりに微笑みかけた。別れを惜しんだ分、歪んだ笑みとなる。
「みのりも、亜季も、お元気で。短い間でしたが大変お世話になりました。あの時ロヅと外に出て、本当に良かった。貴方達にも会えた」
何とか身を起こしているみのりと、眠っている亜季に。
ファウラは深々と頭を下げた。
「出会ってからすぐ、友のように私を心配してくれた。そして何の偏見もなく接してくれて、命も助けてくれた。……私は貴方達のことを、生涯忘れません」
「こちらこそ本当にありがとう」
みのりも疲労の色を抑え、笑顔を見せた。
「俺も亜季も、一生ファウラを忘れないよ」
「……嬉しいです」
ファウラが肩に掛けていた焦茶色のベールを、頭に掛けた。
顔を隠す前に――最後に満面の笑みで、みのりに言った。
「亜季が起きたら『頂いた手紙は宝物にします』と、お伝え下さいね」
そして彼女は一人、杖と小さな灯りを手にして、一同から離れた。
ヤハブはロヅの様子を見ていた。
術は成功を遂げている。
別世界の少年少女が残っている分、まだ元通りになっていない所があるかもしれないが、傍目にはそれは窺えない。
何より、城が戻ってきた。町も全て戻ってきた。
人々が帰ってきた。ヤハブやロヅの家族も、おそらく帰ってきた。
術が成功した時、ヤハブは戻ってきた国を感激の想いで見つめた。中央部の城をしばらく眺めた後で、ファウラに頼まれた用件を思い出した。
そしてヤハブが、ロヅの方を振り向いた時にはすでに。
彼は全く故郷を見ていなかった。
竜の友のもとへと一番に駆けつけ。地面に倒れていた二人へ必死に呼びかけ。
ルカナーディで待機する二人と別れを惜しむ、彼女を見守り。
走り出した背中を、無言で見送っていた。
今もまだ、走り去った方向を見ている。
稀にしか見せない、戸惑いの表情で。
『もしもロヅが私を追おうとしたら、ヤハブ様が止めて下さい』
それがヤハブへの手紙に託された、ファウラの願いだった。
ファウラは生きることへの執着を持っているし、強い力もある。
ただ一人でイメライトの家に戻り、そこで待機するには。やはり余裕が無いと言えた。昼間は夜間ほどの魔力は無いし、体力の面でも劣りを見せる。人に出会った時の対応も、どれだけ機転が利くかはわからない。
ロヅはファウラを送るにも、適任者だった。
ファウラを皆に会わせるまでは、一人で彼女の護衛を果たしていたのだ。
彼は剣と、ある程度の魔法も扱う。剣の威力が不足している分は、魔法の応用で補えている。癒しの術も扱えた。神官の任務として癒しを行う、ヤハブや家族には及ばないものの、この術においてはファウラより上手だった。
自分達で決めたこととはいえ、ロヅが戸惑うのは、ヤハブには当然に思えた。
ファウラの守りをテムサに頼まれているのだ。それに、彼自身の感情もある。
ヤハブがファウラと二人で話す機会が、一度だけあった。
その時ファウラは窓辺で外を見ながら、ロヅの帰りを待ち侘びていた。
すかさずヤハブは、からかいたい一心で『好いているな』と言ってみた。
彼女は数秒の沈黙の後、はい、と。いつもの調子で返答をした。
そして『他の方には、言わないで下さいね』と前置きをして、胸の内を語りだした。
ファウラはまず、保護者であったテムサへの想いを告白した。
彼女を敬愛してやまなかったが。時々、非常に苦しく思う時があった。
……自分のせいで、これまでの暮らしや地位を捨てさせてしまった。
王家が呪いの赤子の始末を、テムサ一人に負わせなければ。王が玉座を降り、自らの手を汚してくれれば、こんなことにはならなかった。そんな想いまでヤハブにこぼした。
『お婆様から命を受けて、代わりを務めてくれるロヅにも、同じような気持ちを抱えているのですよ』
俯いて微笑んでいた。それから変化する真紅色の瞳を指で示し、彼女はこう言った。
『あの人には、日向に居てほしい』
物わかりが良いとも言えるその様は、つまらなくもあったので、ヤハブは『あいつは婚約者がいるのを内緒にしてるぞ』と嘘をついてみた。
ファウラはそれには過剰に動揺し、嫉妬の態度も見せた。まだ割り切れていないらしい。
自分を追おうとしたら止めろ。
テムサの弟子に会い、自分のもとへ連れて来ることを盾にしているが、要はファウラは。
ロヅをいち早く、消えていた家族や友と再会させてやりたいのだ。その気持ちはわかるのだが、ヤハブは了承しかねた。
ファウラは去り際、全くロヅを見なかった。
みのりと言葉を交わした後、サキの側にいるメジストに会釈をした。ヤハブには訴えの眼差しを向けた。そして一度も振り向かずに走って行った。
その行動に、彼女も葛藤していたことが、表れていた。ファウラは強く慕う人間を見ないことで、甘えと迷いを堪えた。
ロヅはまだ、ファウラが去った方を見ている。
すばやい判断を心掛けている人間が、未練で動かなくなっている。
ヤハブはファウラの意志に反する方へ背中を押すつもりで、彼に尋ねた。
「どうするんだ。お前は」
その言葉で、ロヅはようやく我に返った。
そして瞬時に考えた。どちらが早く無事を守れるか。
あの家までの距離と、かかる時間。それまでの獣の数。宝玉。人間に出会う率。
金の瞳が色を変える日出まではまだ長く、今宵は満月。
「決まっている。打合せ通りだ」
他の気持ちを抑えてそう言い放ち。
少女が去った方向に背を向けて、故郷の国へと駆け出した。
一人起きたみのりが、亜季を運ぶと言い出した。
運ぶ場所を再確認した後で、彼もヤハブに、早く城に行くように告げた。
察しの良い少年のことだ。
文字が読めなくとも、ヤハブやファウラの表情から。手紙の内容は。彼女の考えは。
ある程度はわかっていたのかもしれない。
第九章(終)