生家
ロヅとファウラと、そしてサキは、亜季達より先にイメライトへと到着した。
彼らは町に入る前に、森で休息を取ると決めていた。
サキは二人の上空をしばらく飛んでいたが、どうやら己が休める場所を発見したらしい。少し離れた場所へと、翼の向きを変えて降りて行った。
ファウラは手を振ってサキを見送った。それから森に佇む小さな家と、向かい合った。
赤い蔦が這う家を、じっと見つめた。
「ただいま。お婆様」
ファウラはまず、家の裏手にある墓へ行った。
墓まわりに落ちている枯葉を取り除き、道すがら摘んだ花を両手で献じる。そして瞳を閉じて、祈りを捧げた。
ロヅもその横に座り、祈りの言葉を捧げた。
「天の神の御前で、安らかに」
木で作った墓標には、テムサの名前を残していなかった。
ファウラの保護者になるべく、テムサは己の死を偽ったので、とうにルカナーディに墓が立てられていた。しかし亡骸は、この簡素な墓に眠る。
「ロヅがここに来てくれなかったら、このお墓も無かったでしょうね」
祈りを終えたファウラが、目を細めて墓を見つめた。
「一人でも何とか、埋められただろう」
「力仕事の話じゃありませんよ。聖水の清めに、祈り、墓を立てる方角。全て形式通りに、行ってくれたでしょう? あの時はどうして手際が良いのか不思議でしたけれど。貴方が神官を目指していたと聞いて、納得しました」
膝を抱えたファウラが、ロヅに微笑みかける。
「学んだ訳じゃない。埋葬の手順は、親父の仕事を見ていて覚えただけだ」
「時には手伝ったでしょう」
「たまには」
「……お兄様も神官に就いたのですよね。こちらも、手伝われますか?」
「ああ、手が足りない時はな」
ロヅが立ち上がり、墓から離れた。ファウラもそれに続く。
「剣の道に進んだ理由を、聞いても良いですか」
「魔法より準備がかからないから」
二人は話しながら、玄関の鍵を開けた。
燃やして旅立とうかとも考えた、家の戸口をくぐる。しばらく誰も訪れなかった室内は、埃をかぶっていた。ロヅは窓を開け放ち、空気を入れ替えた。
「少し、綺麗にしますね」
ファウラが桶と雑巾を用意した。
「貴方は客人ですから。これ以上は手伝わないで下さい」
奥の部屋へと持ち込み、たどたどしい手つきで床を拭き始める。水は冷たいらしく、雑巾を持つ指先が赤くなっていた。
「……気になったんだが」
「はい」
「満月の晩に俺が来ていたら、あれは、どうなってたんだ?」
ロヅは廊下で天井を見上げていた。
彼は以前、ここでファウラから氷柱の攻撃を受けたことがある。
「あれはお婆様が、私と、私の身柄を頼む者の腕が見たいとおっしゃったので。……私は『倒せたら相手に付いていかなくて良い』と言われていたので、必死になりました」
「それで一番魔力が強い日を、指定してきたんだな」
「ええ。指定通りの、満月の晩に訪れてくれたら……」
ファウラが掃除をする手を止めて、ロヅを見据えた。
「貴方に傷の一つは、軽く負わせられたと思います。……勝ては、しなかったでしょうけど」
穏やかに微笑んで、またファウラは床掃除に戻った。
ロヅはその様子を見た後で、書庫へと向かった。
掃除を終えたファウラは、居間で二人分の茶を煎れた。ロヅは書庫で作業をしていたが、呼ばれて居間まで来た。
「亜季にも教わりましたので、大丈夫ですよ」そう一言、飲む前に添えられる。
茶の表面は明るく輝き、良い香りの湯気が出ていた。
「あのな。実はお前は一つ、俺に勝っているんだ」
ロヅが一口、茶を飲んで言った。……茶の話では無いらしかった。
「俺は七日もかかったが、ファウラは四日間だった」
「え」
ファウラは思考を巡らせた。四日間は確かに、ファウラがかかった時間だった。
身内の死後、泣かないようになるまで――四日、かかった。
ロヅは今、自分は七日かかったと言った。彼は確か、幼い頃に母親を亡くしている。
ファウラは降りてきた考えを、ゆっくり言葉にした。
「……だからお婆様が亡くなった時に『七日間で気持ちの整理をつけろ』と。私への猶予も、七日間だったんですか?」
「そう」
ロヅは相変わらず、こともなげに話していた。
ロヅが片手で茶器を持って、また一口、茶を含む。ファウラはその様子を見て、面映ゆい気持ちになった。
「お前は根が大人だ」と、茶器が空になった時に、告げられた。
ファウラは二人分の茶器を片づけた後も、しばらく一人で居間にいた。
茶を飲み終えると、ロヅはそう休まずに、書庫へ戻って行った。ロヅは今、満月の晩に向けて、参考になりそうな書物を探している。ファウラも後から行くと、約束していた。
その前に少しだけ――ファウラはただ追憶に浸った。
香草の瓶が並べられた棚。二つきりの椅子。暖炉。壁を見るだけでも思い出が甦る。育ての親の姿が、視界に現れる。
母とは決して呼ばせてくれなかった保護者の姿を、どこにでも見た。
『お母様』と呼びたくて仕方なかった時期が、過去にはあった。生みの親へ帰すと視野に入れられていたのか、ただ母は別にいると自覚させたかったのか。それは今でもよくわからない。
ファウラは居間の扉を静かに閉めて、彼の待つ部屋へと向かった。
まず呼び捨てを教育してきた、二番目の保護者のもとへと。ファウラは彼に対しては、今と違う呼び方をしたいとは、思わなかった。
「ロヅ、調子はどうですか」
ファウラが書庫の戸を開けた。廊下の光が、薄暗い部屋に差し込む。
ロヅは垂直な本の壁に囲まれながら、手燭を片手に、書物を見ていた。
書庫は縦長の部屋で、人と人が行き交えるだけの幅しかない。両側の本棚は、天井に面するほど高かった。
「あまり順調じゃない」
ロヅが書物を読むのをやめて、ファウラを手燭で照らした。
「もう、そんな時間か」
窓も時計も無い部屋で、ロヅが言った。
「何色ですか?」ファウラは自分の瞳のことを尋ねた。
「朱に近い橙」
外では、日が暮れ始めていた。ファウラは己の瞳の色がわかれば、おおよその太陽の位置を理解できた。半年近くファウラと過ごしたロヅも、同様である。
今晩中に終えようと、書庫に詳しいファウラが先導して、作業は進められていった。奥に備えられた机の上に、二人によって古い本が積まれていく。
「その本棚の一番上に、魔術の混合についての本が、あったかと」
ファウラが天井に面している、最上段を示した。
「……そいつを貸してくれ」ロヅが、ファウラの足元を視線で示した。
ファウラが、はい、と返事をして、段付きの踏み台を、彼のもとに運んだ。
ロヅが踏み台を使用して、最上段の本を引き出す。ファウラはその姿を見上げて、やがて俯いた。
「これで合っているか」高みから、二冊の本が差し出される。ファウラはそれに気づかずに、床を見つめていた。
「返事しろ」
ロヅが二冊の本を、ファウラの頭に乗せた。
「あ、失礼しました」
ファウラは頭上から本を受け取った。表紙を見て、選んだ本が正しいとロヅに告げた。そして一冊の本を開き、頁に栞を挟んでいく。
ロヅは踏み台に腰をかけ、もう一冊の本を読み始めた。
「……先ほどは少し、考えごとをしていました」
三枚目の栞を挟んだ所で、ファウラが口を開いた。
「何をだ」
「わからないことがあって。貴方に聞いても、良いですか」
「まどろこしい話し方をするな」
ロヅの調子に、ファウラが微笑む。手を止めて、彼に質問をした。
「今一番、貴方が欲しい物は何ですか?」
「力」返答はすぐにされた。
「……贈りにくそうな物を、言いますね」
ファウラが考え込んだ。
「何だ。お前が、何かくれる気だったのか」
「はい。そうです」
ロヅが本の頁をめくるのをやめた。
彼は今、踏み台に座っているので、普段よりファウラと視線の高さが揃う。
「剣を贈れば良いのでしょうか?」
「剣は、今のが使いやすい」携えている剣の柄を叩く。
「ではサキのように、稽古相手になりましょうか」
ファウラが、金色の瞳でロヅを見た。
「よせ」ロヅが顔をしかめて、視線を本に戻した。「……今更、気遣うなよ」
ロヅは作業に戻った。ファウラは、まだ本をめくろうとは思わなかった。
ロヅの側を通り抜け、奥の机へと移動する。そして机に積まれた本の中から、魔導書とは違う、大きな本を見つけた。その本は一際古びている。ファウラはそれを取り出して、中の頁も確認した。
「貴方が欲しい力というのは、広い意味ですか? 気力や、知力なども含む」
ファウラはその本を手にして、ロヅの側に寄った。
「ああ」
「それでは、こういうのはどうですか」
ファウラが古びた本を、ロヅの膝上に乗せた。
「お気に召した本を差し上げます。この書庫のならどれでも何冊でも、構いません」
ファウラが持ってきたのは地図の本。目的とは別に、ロヅが選んでいた本だった。
ロヅは顔をしかめたまま、ファウラを見た。
「ここの本はお前と、テムサ様の物だろう」
「ロヅならお婆様とて許して下さいます。……それに私だって、お婆様の姓『デクタブル』を、無断で拝借しているのですよ」
「………」
「受け取って下さい」真剣な眼差しで詰め寄る。
「……私は貴方に救われた。少しでも、お礼がしたいのです」
二人はしばらく互いの顔を見た。
やがてロヅが膝上の地図本へと、視線を変えた。そして古びた頁をめくりだす。
他所の大陸まで記載された地図。海は紙の地色のままだったが、各国は、色分けされて描かれていた。
「赤い印が付いてあるのは、テムサ様が行かれた所か?」
「ええ」
「テムサ様でも結構、行ってない国があるんだな」
「ロヅの方が、沢山の国に行っているかもしれませんね」
「そんなことはない。よく知っている国は、ルカナーディぐらいだしな」ロヅが本を閉じて、苦々しい声で続けた。「その国だって、暗部を知らないで生きてきた」
「暗部ですから仕方ありません」ファウラが軽く胸を張った。
『暗部』が自分を示しているとは、理解しているらしい。
ロヅが表情を和らげた。
「わかった。これは貰っておく」
ロヅは地図本を傍らに置くと、また魔導書をめくり出した。
手燭の蝋燭が完全に溶ける前に、目的は終えた。二人は書庫を後にして、まずは新しい蝋燭を取りに行った。ロヅが暗くなった廊下を歩きながら、ファウラに話しかけた。
「ファウラこそ必要な物はないのか」
「もう充分に、足りています」ファウラがわずかに声を落とした。
「満月の晩まで日がある。イメライトで調達するから、何かあったら言え」
「はい」
ファウラは必要な物や欲しい物が何であるかを、しばし考えた。すぐに思い浮かぶのは、彼に要求できないものばかりだ。
居間を通る時にふと、求めて良さそうな物が頭に浮かんだ。
「ロヅ、私は」ファウラがそっと、ロヅの左袖を摘む。
「お菓子が欲しいです」
「……必要なさそうな物を、言ってきたな」
「今の時期だけ、イメライトで出回る蜜菓子が、昔から好物なのです。ロヅは、甘い物は嫌いですか?」
「妙な甘味の物が、好きじゃない」
「では率直な甘味の蜜菓子なら、大丈夫ですよね。買っていただけますか」
「亜季に買わせるから、勝手に食べとけ」
「一緒に食べて下さいよ。……お茶は、私が用意しますから」
ファウラは左袖を摘んだままだった。ロヅは「聞くんじゃなかった」と、返答を濁した。
そして蝋燭が置いてある納屋に向かう為、玄関の扉を開けた。
二人は外に出た。夜空には、赤みを帯びた月が輝いている。
「明日の初日も、良い天気になりそうですね」
空を見上げたファウラが言った。