未知の国
誰かが、亜季の背中を強く踏んだ。
「痛いっ」気絶していた亜季が目を覚ます。
亜季を踏んだのは小さな少年だった。
「踏んじゃったか?」
少年は、まだ舌足らずな口調。亜季と並べば、彼女の腰に頭が届くであろう背丈の、幼い子供だ。手には木の棒を持っている。
「こんな所で寝るなよ。気づかないだろ」
「あのね! まずはごめんなさいでしょっ……。え?」
上半身を起こした亜季は、言葉を止めて辺りを見回した。
周囲は森だった。背の高い草むらに寝ていたようで、髪から草がぱらりと落ちた。
遠くには城が見える。石造りの城が、木々の葉の隙間から見えている。
冬の気温ではない、穏やかな暖かさを、肌で感じる。
頭上を見ると、空の色が変わっていた。いつもの空色より緑がかった、見慣れない空だった。
「変な格好だな、お前」そう言った少年は、髪と目は黒いが、亜季の近所にいる子供とは違う衣服を着ている。
装飾模様の刺繍が入った服を着た少年は、学生服の亜季を珍しそうに見ていた。
彼に踏まれた背中の痛みが、まだ残っている。夢とは思えなかった。
「ここはどこ。日本なの」亜季は少年に尋ねた。
「ルカナーディ。決まってるだろ」少年は答えた。
「漢字でどう書くの」
「かんじって何だ?」
「ねえ僕、お名前は」
「エルヴァ。エルヴァ・レグラン」
「漢字でどう書くの」
「だからかんじって何だよ」
映画の撮影現場かと疑ったが、それらしきものは辺りに無かった。
「……ここはどこ?」
「だから!」
少年が呆然と座る亜季の頭を、平手で叩いた。
不意に車輪のきしむ音と、沢山の砂利を踏む蹄の音が、二人に近づいてきた。それは馬車の音だった。しかし現れたのは馬の代わりに――ラクダに小さな角を生やしたような動物が、手綱によって操られ、二輪の車を引く姿だった。
その乗り物は動物のいななきを最後に、亜季と少年の側で止まった。
「迎えに来たぞ。エルヴァ」手綱を引いていた長身の男が、降りてくる。
「父さん」少年、エルヴァが持っていた棒を大きく放り投げ、男に駆け寄った。
「さあ、そろそろ帰らないと」
「はーい」
「この娘さんは?」
男が、地面に座り込んだままの亜季に目を止めた。
「こいつはここに落ちてたんだ。俺、踏んだ」
エルヴァが父親の男に言った。
「お前、なんてことを。すぐに謝ったか?」
「うん」平然と嘘をついた。
男は、亜季に向かって頭を下げた。
「うちの息子がとんだ失礼をしたようで」
亜季もつられて頭を下げた。それから慌てて聞いた。
「あ、あの! ここはどこですか?」
「ルカナーディの外れの森です」
「ルカナーディって、初めて聞くんですけれど。……地名ですか?」
「……小国ではありますが、我が国の名です」
「ご、ごめんなさい」
男は怪訝そうな顔をした。
「一体どうしたら、名前すら知らない国に迷い込めるのですか? 貴女は、どうやってここに来たのですか」
男の言葉に、亜季は息を呑んだ。ここに来る前のことを、ようやく思い出した。
「竜さんでした」
「何と」
「竜さん……あ、いえ」亜季は口元を押さえた。「竜に捕まえられて、空を飛んで、ここに来たみたいです」
「まさか、竜にさらわれたのですか」
「……そうかも、しれません」
「父さん」エルヴァが男の腕を引っ張り、耳元で何か話した。
男は顎に手をあて、やや間を置いてから、亜季と向かい合った。
「よろしければ我が家に来ませんか」
「え?」
「落ち着くまで休まれるといい。悪さをする竜が近くにいるのなら、貴女に色々と聞きたいし……息子も、貴女と遊びたいようなので」
エルヴァは父親の背中に隠れて、亜季を見ていた。
「でも見ず知らずの方にお世話になるなんて、悪いです」亜季は断ろうとした。
「あのなあ」エルヴァが口を挟んだ。
「この辺は夜に獣が来るから、お前みたいな迷子は襲われるぞ。俺だって昼間しか、遊ばせてもらえないんだからな」
「ええ、本当のことです」男が続けた。
「………」
亜季に選択権はなかった。
馬車のような物に乗ってから、少し時間が過ぎた。
知らない動物が引く乗り物は、屋根が無かったので、亜季は上向くだけで空が見られた。頭上はなおも、淡い青と緑の中間色が続いている。亜季はなぜか、この空が懐かしく思えてきた。
「亜季、ほらあれ」
エルヴァが亜季の腕を引っ張り、前方を指した。
少年の示した下り坂の向こうには、城と、大きな町が見えていた。
「わぁ……城下町だね」
亜季達は、ルカナーディという国の城下町へと到着した。
アスファルトの道路ではなく、平らにしただけの土の道を、蹄と車輪が進む。亜季は顔に風を受けながら、流れる町の景色を眺めていた。やはり今は夢を見ているのでは、と、何度も疑いながら。
石と木で築かれた建物が続く。建物の間に、紐で干された洗濯物がはためいている。
町には様々な者が住んでいた。長いベールを引きずり、杖を付く男。動物を荷物運びに連れて歩く親子や、籠いっぱいの花を頭に乗せて、それを売る娘達。
人々の顔立ちは、東洋系と西洋系の両方が揃っていた。若干、西洋系の顔立ちの方が多いようだが、亜季の顔も違和感なく風景に溶け込む。
進む道が土の上から石畳へと変わった。動物が引く乗り物は中心部にそびえる、塀で囲まれた城に向かっていた。
「家ってお城なの?」
亜季が尋ねると、エルヴァがうん、と頷いた。
「じゃ、エルヴァ君は王子様?」
「まさか」手綱を引いている、ベーナ・レグランという男が笑った。
「私達の家は、城内にある建物の一角です」
「父さんは神官なんだよ。城の神殿の管理をしてる」
「そ、そうなんですか。立派ですね」
エルヴァはまた、うん、と頷いた。
「とんでもない」神官の男は、笑顔で首を横に振った。
それから神官の男は、季節にまつわる神話を話題にした。
いくつか神や精霊の名が出てきたが、どれも亜季は聞いたことがない。占いに登場する神々や精霊の名なら知っていたけれど。……今語られた神々は、申し訳ないくらいにわからない。
無知と戸惑いは隠せず、相手に伝わった。
「……もしや竜にさらわれて、記憶が混乱しているのでは?」
神官の男の言葉に、亜季は俯いた。
今はっきりわかるのは、自分がよそ者だということだ。
「『万物に精霊が宿る』というのは、少しわかるんですけれど……」
亜季は小声で言った。八百万の神がいる――一粒の米にも神を見出す日本神道に、通じるものを感じた。
「とにかく貴女がくつろげるよう、侍女に準備させます」男が言った。
「ご迷惑おかけします。ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ」
男は穏やかに微笑んだ。
動物が引く乗り物は、見張りがいる城門をくぐり、右に曲がった。それから城の右後方にそびえる建物の前で、止まった。
「さあ着きましたよ」
まずエルヴァが飛び降り、亜季の手を引いて、彼女が降りるのを手伝った。
亜季は石畳に降りると、目の前にある大きな建物を見た。城は象牙色の石で出来ているが、こちらの建物は白い石造りだ。
「あ」
亜季は不思議な生き物を見つけた。
屋根にいる、胴体が緑の鱗で覆われた生物。大蛇のような胴体からは、透き通った六枚羽根と、針金のように細い二本足が生えている。顔も蛇に近いが、眼球は突き出るほどに大きい。
その生物は屋根に立ち、亜季達を見下ろしていた。
「エルヴァ君、あの生き物は何」
「え? 鳥じゃないか」
「……鳥? あれが」
亜季はエルヴァが『鳥』と言った生物を、もう一度見た。
彼女にとって初めて見る鳥だった。
「そんなの見てないで、早く遊びに行こう」
幼い少年にとっては日常らしく、学生服を引っ張って急かしている。
「亜季には着替えを貸すから。少し待ちなさい」
彼の父親が側に来て、急かす手をはがしていた。