天秤ばかり
サキは竜の姿で、ファウラから教わった山岳地帯へと飛んでいた。
今は背中にメジストを乗せている。彼女は亜季やみのりとは違い、竜に乗る準備を整えてから、サキに乗っていた。
上空から谷が見えると、サキは地上へ降りていった。
背中のメジストが降りるのを確認した後、サキがいつものように人に姿を変えた。そしてメジストへと駆け寄った。
「手綱つけられるの、嫌いっ」
くつわが消えた口元をさすりながら、サキが開口一番に叫んだ。
「嫌いでも我慢なさい」メジストはサキを見ないで、返事をした。
サキは竜から人に変身した時、いつも同じ姿だった。服装までも常に同じ。
尖った耳を持つ、少年の装いを着た幼い少女へと、変身していた。
竜の身で人語を理解する様を面白がったメジストが、サキに人の姿を与えた。竜の額に、紋様を描いた。
額に紋様を描き、全身に魔力を巡らせる。そうすることによって、サキの潜在能力を引き出していた。――竜は強い者だけが、老年に変身する能力を身につける。
サキはまだ若い竜だったが、メジストに紋様を描かれたことで、未来に持つであろう力も、手にしていた。
サキ達はルカナーディの隣国の、山岳地帯を歩いた。
山岳の一番小さい谷が宝石の発掘地だと、ファウラから説明を受けていた。
賢者テムサとファウラ以外は、知る由もなかったらしい発掘場所。テムサが死ぬ前は、幻術で隠されていた場所でもあった。
「あそこみたい」
前方に見える急な谷を指差し、サキが言った。
「谷を降りる前に……」メジストは後方の、山下を気にしていた。
二人の足元が振動で揺れていた。獣の群れが二人に近づいてきている。サキも山下の方に振り返り、様子を感じ取った。
「サキより小さな奴らだけど、結構いるよ」
「威嚇で効かない数なら、まずは一括して」
「わかった」
サキが地面を蹴り、体を宙に浮かせた。そして炎に身を包み、本来の姿へと戻った。
翼を動かし、空へ飛び上がる。空に浮かぶと、六つ目が蜘蛛のように顔に並んだ、四つ足の獣の群れが、向かってきているのが見えた。
何体かの獣は、上空の竜を見ただけで、群れから離脱した。
サキは獣達の群れの横へ移動すると、尻尾を大きく回転させて、獣の何体かを殴り倒した。彼らは同じ方向へ倒れていった。
そうしてサキは固めた群れに、炎を吐いて、一斉に焼いた。
メジストは両手で印を結び、彼女の大陸の言葉で呪文を唱えている。炎から逃れた獣達が、メジストに向かってきた所で、呪文は終わった。
手の印をほどいた後、メジストは掌中に持っていた石を、群れに投げた。石は円弧を描いてから上昇し、稲妻の如く光って、群れに落ちた。炎から逃れた獣達も、その閃光で焼かれた。
現れた獣達は、すぐに動かない身となった。
メジストは手持ちの鞄から、短剣と硝子瓶を取り出した。
そして焦げた獣から、血を抜き取っていった。彼女は様々な生物の血液を、魔術用に溜めていた。
「サキも手伝うよーっ」サキは早々、人間に変身した。
「じゃ、頼んだわ」
メジストはサキに、別の短剣と硝子瓶を渡した。
二人は同じ作業に取りかかった。
サキはメジストに隠れて、こっそり獣の目玉を引き抜いた。
水晶玉くらいの目玉に、大口を開けて噛りつく。瞳孔を食べ尽くし、次は虹彩を食べようという時に、共にいる相手にばれた。
「……サキ。つまみ食いなんてしないで、堂々と食べれば?」
「ち、ちょっとだけを、食べたかったんだよ」
サキは口の周りをごしごしと拭った。食べ物の残りは地面に捨てて、遠くへ蹴った。
充分に獣の血液を採取すると、二人は、谷底に向かった。
本来の目的の、宝石の発掘場所へと。
サキとメジストは急な谷壁を降りて、平坦な谷底を歩いた。
サキは、岩間に輝く真紅色の原石を見て、一人の少女を思い出した。
「ねえ」
「何?」メジストは丹念に、岩壁を探っていた。
「サキはファウラから、こんなに離れていいの。メジストはサキに、ファウラの保護と監視を頼んでたよ」
二人になった今なら聞けそうだった。サキはずっと気になっていたことを、主に聞いた。
「ファウラのこと『場合によっては殺せ』って言ったの、もう無しでいいの?」
「……ああ、それ?」
作業をしていたメジストが手を止めて、サキの方に振り返った。
「無しでいいわよ。万が一の選択肢だから、あの瞳に偏見を持たないサキに、監視を頼んでいたけれど。もうファウラは疑っていないしね」
「……万が一は、本当に殺さないといけなかったの」
「……だから場合によってはよ。大体ロヅの無警戒さを見れば、サキがどう行動してたかなんて丸わかりよ?」
「………」
「そんな顔をしないの」
メジストが手持ちの煙管で、口を尖らせているサキの額をこづいた。
メジストが発掘作業へと取りかかった、サキはしばらく、不機嫌そうにそれを手伝った。
やがて日が暮れて、作業を続け難くなった。
「今日はもう休んで、明日の朝に続きをしましょう」
メジストが言って、緑の硝子で囲われた手燭に、火を灯した。仄かな灯りが辺りを包む。
メジストが手燭を地面に置く。鞄から酒瓶と器を取り出す。芳醇な香りの果実酒を、器に注ぐ。
サキは向かいに座り、メジストの様子を見ていた。
「しかしルカナーディに関することを、サキが掴んでくるとは」
メジストが酒を喉で鳴らしてから、言った。
「サキも驚いたよ。ただ亜季の匂いがしたから、飛んで行っただけだもん」
「そう言えばあの娘、術中に『白銀色の霧が見える』と言っていたわ」
「そうだっけ」サキは一瞬、視線を泳がせた。
「本人は記憶が曖昧だったけれど。はっきり聞いた」
「じゃあやっぱり亜季は、帰り道の霧を見ていたんだ」
「その話もよくしてくれたわね」メジストが可笑しそうに笑って、サキを見た。「また昔話を聞かせてくれる?」
「……うんっ!」
サキは亜季との思い出話を、主人に楽しく語った。
その後、サキは竜の姿に戻って眠るつもりだった。しかし谷底は狭かったので、サキはこの晩、人の姿のまま眠りに就いた。
良くない気配がした。
サキは瞬時に身を起こし、炎を操った。
メジストの後方の地面に、小さな炎が現れる。炎の中では、彼女を襲おうとした毒虫が燃えていた。
「……流石ね」
メジストは虫が燃えるのを見て、構えていた短剣を降ろした。
「メジスト、まだ寝ないの?」サキが大きな瞳を瞬かせた。
主人の魔術師は、毒虫の気配で起きたようではなかった。彼女の手元には天秤ばかりや擂り鉢、それに乾燥させた薬草、香木などが広げられている。
「もう少し後で寝るつもり」
メジストは短剣を鞘に戻し、乾燥させた薬草を数枚、手に取った。そして天秤を用いて、葉の重さを計っている。
用途は不明だが、メジストが薬の調合を行っていると、サキにもわかった。
「サキも手伝う」
「あんたには、これは任せられない」即答だった。
「なんでそんなこと言うの」
「正確に計れないでしょう? サキは、自分が好きな香りの薬草を多く入れたりするんじゃない?」
「えー。それじゃ駄目?」
「駄目」
無下にされ、サキは少々ふてくされた。「メジストの馬鹿」と尖った声で言い、ごろりと横たわった。
「サキ」
眠ろうと目を閉じたサキに、女の声がかかる。……サキは身構えた。
「今『馬鹿』ってサキが言ったから、怒ったの?」
「違うわよ」
メジストが声を低くした。
「さっきの話で引っ掛かっていることがあるの。今、聞いてもいいかしら」
「うん」
「亜季の世界に行く雲に飛び込んだ時……杖を携えた人間がいたから、身を翻したのよね」
「そうだよ」
「その人間、女じゃなかった?」
「………」
サキは再び身構えた。
杖を携えた人間を見たのは一瞬だったし、長寿の自分にとっても、古い記憶にあたる。詳細など覚えていない。だが言われてみれば、あの時の人間は、女だった気がする。
「大きな杖を持った女なら『あいつ』だったんじゃないかと、思って」
メジストの視線は冷たく、岩面に向いていた。
彼女の言う『あいつ』とは、ここから宝石の原石を採取していた賢者だ――それに気づいたサキは、しばらく返事を考えた。そしてこう言った。
「女だったかもしれない。だけど杖が大きかったかどうかは、覚えてないよ」
メジストは表情を和らげた。
「昔のことだものね」
「……思い出したら言うよ」
「了解。おやすみ」
メジストが調合作業を再開した。
サキは体を横たえ、目を閉じた状態で、主の気配を感じとっていた。
メジストは調合を終えてから、就寝の準備を始めた。白に近い金髪を櫛でとかした後、果実酒を少しだけ飲む。手燭の灯りを消す。
そして彼女は、速やかに眠りに就いた。
サキは主の就寝がそう遅くなかったことに安心し、自身も眠った。