屈託のない
「白銀色の、霧が見える」
少女が呟いて崩れる。
彗星が音もなく空から落ちてくる。白い光が瞬き、世界が変わる。
魔法陣の中の装飾品が灰へと変わると、亜季はまた倒れ込んだ。
ヤハブが用意した円形の鏡面に、ルカナーディの風景が薄く映り出し。
亜季が掌を動かした、その後で。消えた国が少しだけ還ってきた。
三度目の術で戻ってきたのは、町の一部と、そこで生活していた人間だった。
予想以上の結果に、一同は感動より先に、驚愕を覚えた。誰の体もすぐに動かなかった。
術を使ったファウラは驚きから覚めた後、まずベールを被り、顔を隠した。
町の人間は皆「ただ生活していた」と、答えていた。
◇◇◇
亜季とみのりとファウラ。そしてサキ。
この四名は、ルカナーディの会合に参加せず、町へ帰った。
「亜季を普通の娘として扱ってやってほしい」とみのりが頼むので、亜季が町を戻した事実は隠された。
ルカナーディの森と町は、不意に消えて不意に戻った。そういうことにされた。
ファウラの存在を隠す為にも、それが都合が良かった。
ルカナーディの会合に出ない者達は、明け方、近くの町まで歩いた。サキは護衛について、一緒に戻った。
眠り続けた亜季は、サキが運んだ。
亜季は安らかな寝顔だったし、寝言まで言っていたので、無理に起こそうとは、誰も思わなかった。
みのりと亜季が住み込んでいる宿屋の一室で、一同は休憩を取った。
昼、宿屋に着くと、ファウラは倒れ込むように寝た。
一晩を外で過ごし、沢山歩いたので、疲れ果てていた。共に歩いたみのりが休憩を挟んでくれたものの、限界だった。
みのりも眠った。そしてファウラや亜季よりも前に起きた。起きてからはサキと色々な話をした。
亜季についての話が、多くなった。
◇◇◇
「ファウラ、起きて」
サキの声で、寝台のファウラが目を覚ます。……同じ寝台で寝ている亜季は、まだ起きそうにない。
「ロヅとヤハブが来てるから」
「帰ってきたの?」窓から外を見ると、宵闇の前だった。
軽く身を整えてベールを被った後、ファウラが部屋の扉を開けた。
「早かったのですね。会合、もう少しかかるかと」
「メジストが自分一人の方がごまかせるって言うもんで、なぁ」とヤハブ。
「途中で抜けてきた。ファウラの今後も、話しておかないとな」
「今後……」
ファウラが身構えた。術は目論見以上に成功したが、未来を聞くのは勇気がいた。
ヤハブがロヅより前に出た。
「まずは再確認だ。王家に戻りたいって気持ちは、無いんだな?」
「……はい」
ファウラは本心から答えた。生まれてすぐに己を殺そうとした親とは、血の繋がりさえ煩わしいと、思っていた。
「なら、とりあえず今後も同じように隠れていてくれ。ロヅには引き続き守らせる。おそらく王宮が戻らないと、テムサ様の弟子達も戻らない。テムサ様の弟子達が帰ってきたら、最終的な今後は決める」
「はい」
「それと万が一、誰かに素性を聞かれたら。ファウラ・デクタブルと名乗れ」
「え?」
ファウラが驚いて、ベールの中からヤハブの顔を、まじまじと見た。早朝の森で初めて会ったときよりも、澄んだ印象に思えた。
「あまり顔も、人に見せてないんだろう?」
ファウラがはい、と返事をした。自分の顔立ちは現王妃を彷彿させるものだと、彼女は知っていた。
「じゃあ賢者テムサ様の、一人娘ってことにしとけ。ファウラはあの御方と雰囲気がそっくりだから、納得されるだろう。テムサ様の故郷に預けられていたのを、俺達が協力に迎えた。これでいい」
「お婆様は未婚ですが」
「だから『未婚で年老いてからの娘なんて、隠すだろうな』と周囲が察……」
「ヤハブ、それ以上話すとややこしそうだから。黙ってくれ」
ファウラの表情を見て、ロヅが話を遮った。彼女は『未婚の娘』がわからないらしく、顔をしかめていた。
「まあ名字と素性を用意すれば、少しは楽だってことだ」
ヤハブが笑顔で言い、ファウラに手を差し伸べた。
「王家には背けない。城内暮らしの俺がファウラに存分に会えるのは、多分……城が消えている今だけだ。だから今の内だけ、仲良くしとこうな」
ファウラは一度ロヅを見やり、それから気恥ずかしそうに、好意の握手に応じた。
ヤハブは「別の宿で休む」と、その場を去った。
「嬉しそうだね」
部屋に戻ると、みのりが起きていた。寝台に座る彼は、穏やかな表情だ。
「はいっ」
笑顔のファウラが、声を弾ませた。
「お婆様の姓を名乗って良いと、言われました。ファウラって名前も、お婆様から頂いたものだったのに!」
「良かったね!」
サキがファウラを抱きしめた。二人がはしゃぐ横をロヅが通り過ぎ、みのりの隣に座った。
「喜んでるなぁ」
「……この辺りの地では、他よりも名前に強い意味を持たせるからな。ファウラにとって、新しい形見なんだろ」
ロヅが軽く笑う。そして彼は、寝台で寝続ける亜季に気がついた。
「まだ起きないのか?」
「一回も」
周囲の全員が、一人眠っている亜季へと、視線を集中させた。
「今はぐっすり眠っているだけだよ。亜季、きっと疲れたんだね」
サキはファウラを抱きしめたままで言った。亜季をずっと見ていたので、今は心配しないでいいと、わかっていた。
「人を助けたかったみたいだ。……ルカナーディの人達やファウラを。ルカナーディの人達の中では特に――昔、一晩だけ世話になった子と、その家族を気にかけてたよ」
みのりの言葉に、サキとファウラが顔を見合わせた。
それから二人は、みのりの隣にいるロヅを見た。眉をひそめて、亜季の寝顔を見ている。
「ロヅ。私が聞いた話と違うようですが」
「なんで? なんで?」
ファウラとサキの両者が、ロヅに詰め寄っていく。
「私には亜季のことを『友達だった』とも、言いましたよね」
「うるさい」
ロヅがファウラから顔を背ける。そして亜季を横目で見て、小さく言った。
「……まあ、亜季だから、ファウラと会わせてみたんだ」
◇◇◇
(楽しい夢を見ていた気がする)
亜季は起きてすぐ、そう思った。彼女が目覚めたのは夜だった。壁に付いた燭台が部屋を照らしていて、窓からは月明かりが注がれている。
夢心地で身を起こした亜季は、まず空腹を感じた。
「……お腹が空いた」
「そりゃ、丸一日以上食べてないものな」
「うわ」
独り言に相槌を打たれたので、亜季が驚いた。仄暗くて気づかなかったが、寝台の側にみのりがいた。
「ほら」
椅子に座ったみのりが、用意していたらしい果物を一つ、亜季に差し出した。
「……ありがとう」亜季は両手を揃えて、熟した果物を受け取った。
続いてサキが、後ろから亜季を抱きしめた。
「おはよう亜季。怖い夢は見なかった?」
「あ、うん。二人ともおはよう。夜だけど」
「やったー」サキとみのりが、にこやかに同じ言葉を言った。特にみのりが、よく笑っていた。
亜季は渡された果物を食べることにした。サキを背中にくっつけたまま寝台から降りて、みのりの側に立つ。
「国は戻ったの?」
「無事にばっちり。会合は多分、続行中」みのりが笑顔で答える。
「良かった。……あのね。元の世界への穴が広がっていたのを、夢で見てきた。きっと、ルカナーディが元通りになったら、あたし達も帰れるよ」
「そうか。ありがとう」
亜季が一口、果物にかじりついた。ほどよい酸味が口に広がっていく。果汁が口にある間、亜季はみのりの笑顔を見ていた。
一口目を飲み込んだ後で、こう聞いた。
「みのり。……どうしてそんなに笑ってるの?」
「んー」
みのりは笑顔のまま、言葉を探った。
「大変な時でも、喜ばしいことはあるものだなって。な、さっちゃん」
「……サキは亜季に謝らなきゃ駄目。余計な心配をかけちゃった」
サキはしゅんとなった。
亜季は果物をもう一口食べた後で、話の続きをみのりにねだった。
「ロヅが教えてくれたよ。父親のベーナさんと、あと彼のお兄さん夫婦は、国ごと消えてしまったけれど。エルヴァ君は、ずっと無事だって」
「え。本当に!」
亜季が顔を輝かせて、果物を食べるのも止めた。
「どこから話そうか。……ああ、面白い習慣を教えてくれた。この辺りは、名前の持つ意味が強いらしくて。ルカナーディには望む力によって、名前を変える習慣もあるんだって。ロヅも目指す職業を変える時に、改名したそうだ」
「へえ」
「ロヅは父親と同じ神官を目指すべく、名前を付けられたけど。母親譲りの剣の素質が認められて、方向転換することになったんだって」
「神官さんか」
「ところで亜季、友達から『鈍い』とか言われてない?」
「たまに言われるけど」亜季が眉間にしわを寄せた。「何よ急に」
「たまにか。うん、亜季は鋭い時だってあるよな」
「それより話の続きを」
「あ、ごめん」
みのりは話を逸らしたことを、極めて軽く詫びた。
「ロヅはそれから、思い出話も聞かせてくれた。子供の頃に森で、年上の迷子を拾ったってさ。一日しか一緒にいなかったらしいけど……その迷子が挨拶もしないで帰ったのが、腹立たしいから根に持って。会えなくても名前だけは、しっかり覚えてたって」
亜季はどこかで聞いたような話に、胸が痛んだ。
「それでサキとロヅは、話が合って、友達になったんだけどね。……ロヅが亜季と会ってたのは、前の名前の頃だなんて、知らなかったんだよ」
「竜のサキの友達の『亜季』って言うと、そいつだろうと。いい歳してまた迷子になってるのかと、忙しくても気になって、会いに行ったけれど。あまりにも昔と変わってない姿……自分より年下になって現れたから、最初は別人だと思ったらしいよ?」
「……あれ?」
「なのに三人で野宿した時に、亜季が自分との昔話を話すものだから。……別世界から来た人間で、そして思い出の友達だって、納得したらしい。ああ『すぐ話す必要がないから、後回しにしただけだ』ってさ」
「亜季ごめん。この間に来てくれた時よりも、ずーっと時間が経っているの。サキの姿は変わってないから、説明しなきゃわからなかったんだよね」
「さっちゃん。あたし、ヤハブさんにも前に会ってる?」
「うん。ヤハブは森に来てたから。二回、会ってるよ」
「……エルヴァ君はもう、国から一人で外に出るぐらいに大人?」
「そう。前回は子供の自分といたような、亜季だし。嘘みたいな話は俺より慣れてるだろ」
話を呑み込もうと必死な亜季に対し、みのりは満面の笑みだった。
「……そして、あたしは根に持たれていたのか……」
ほどよく感じた果物の酸味が、口の中で苦くなってゆく。亜季はそれを強く感じて、うなだれた。
「挨拶して帰った方が、良かったのね」
「やーい鈍感。薄情者」
みのりは、本当に楽しそうだった。
亜季は大急ぎで『エルヴァ』という名前だった人物に、会いに向かった。
今日は同じ宿屋に泊まっている。早る気持ちが抑えられず、廊下を走った。
(無事で良かった、じゃ駄目だ……家族は無事じゃないんだし)
亜季は、彼にかける言葉を考えた。
冗談を言う余裕がない、と話していた彼に対して。
間抜けなことを言ってしまいそうだけれど……もう、その方が良いだろう。
部屋の扉をノックすると、少女がまず、笑顔で亜季を迎えた。
目的の青年は表情が無い顔で、壁にもたれて立っていた。
亜季は息を切らせながら、言葉を紡いだ。
「ひ、久しぶり……。それから前は黙って帰っちゃってごめん。本当に、ごめん!」
両手を合わせ、亜季は彼に頭を下げた。
そんな様子を見たせいか。もう家族も故郷も帰ってくるだろうと、希望が出たからか。
ようやくロヅが、以前のような笑顔を、亜季に見せた。
第五章(終)