異様
別世界から来たと説明された、少女と少年が訪れる前に。
ロヅは先に、故郷ルカナーディの跡地へと着いていた。
荒野となった故郷を見るのは気分が悪い。消滅してから季節を二つ巡った今でも、彼の気持ちは慣れなかった。この辺りには森があった筈だと、早朝に残る星から考え、唇を噛んだ。
闇雲に動いてるなと、一人になって思う。
故郷が無くなり、残った誰もが真相を掴めないまま、時が過ぎていた。
焦りから、今日はルカナーディの名前が出ただけで、ここまで駆けつけてしまった。
あの少女達の故郷への道しるべが、ルカナーディに出たからといって、手がかりを掴めるだろうか。
(いや……闇雲でも動かないと、今の状況は打ち破れない)
迷いを振り切り、ロヅは荒野を見つめながら、他の者が来るのを待った。
やがて上空から朱い竜が降りてきて、少年少女を背から降ろした。
歩み寄ってくる彼らは、少し様子が変だった。
「そいつ、どうした?」
少女の方、亜季を見やり、ロヅが尋ねる。
亜季は真下に俯き、片手で頭を抱えていた。足元がおぼつかない。
肩には獣毛の毛布を掛けていた。空を飛ぶ時に寒いから使用したのだろう。
「さっちゃんに酔ったのかと思ったんだけど、違うみたいで」
少年のみのりは、亜季から目を離さずにいた。
「気分が悪いのかな」
「違うよ。みのり」亜季が顔を上げた。
彼女は生気が薄い、呆けた表情をしていた。表情にそぐわない明快な声で、こう言った。
「霧が濃くて、前が見えないの」
誰も、亜季の言葉を理解できなかった。
天候は晴れている。広い荒野を覆う湿気など出ていない。
だが彼女は、霧が濃いと言った。
「一体、何を」ロヅが聞く。
「霧でよく見えないから。だから、足元だけでも見ておかないと、怖くて」
「そうだ。こっちに掴まって」みのりが亜季に、肩を差し出した。
「はぐれるといけないから」
「助かるよ。……本当に全然、前が、見えなくて」
言葉に従い、亜季はみのりの肩に手を置いた。
「お前も霧を見てるのか?」
ロヅが尋ねると、みのりは無言で首を横に振った。ただ彼女に合わせて、言葉を選んだだけらしい。
霧を見ているのは、やはり亜季だけだ。
ロヅは、何か術を使う者が近くにいるのかと、剣を抜いた。
「構えなくていい」すぐに声がした。
振り返ると、人間に化けたサキが、側に来ていた。
「周りには誰もいない。亜季がどうしたかはわからないけど、亜季に剣は向けないで」
サキが凛とした調子で言い放つ。
「ロヅ。その剣で、見えないものを見てよ」
「……わかった」
この荒野でも、何度も使った方法を試みる。
聖水を用い、刃面を鏡面に変えて不可視の物を覗く方法。
いつ使用してもここで映るのは、肉眼で見るのと同じ風景だった。
今回もそうだった。剣に映っていたのは寒々しい荒野だ。
「変化が無い」と、ロヅ。
「見続けて! サキだって、何が起こってるかわからないんだから!」
叫び、サキが亜季のもとに走った。
亜季はなぜか、足取りを重くしていった。そうしていよいよ、動きを止めた。
「亜季。大丈夫じゃないと、嫌だよ。亜季」
サキが揺さぶっても、掛けていた毛布が落ちても、亜季は何の反応も示さない。表情も先ほどから変わらない。
目が虚ろな、人形のようになっていた。
ロヅは亜季を気にしながらも、剣を見続けた。そして刃面に一瞬、彗星のような光が横切ったのを見た。
「あ」その時だけ、固まっていた少女が一言、放った。
呟いた後で彼女は、ゆっくり両手を揃えて体の前に出していき――それから。
その細い体を、がくりと崩した。
「……亜季っ!」冷静だったみのりが、声を荒げた。
そして亜季の体を支える。仕方なしに、彼女を地面に横たわらせていた。
それから、ロヅにとって信じられないことが起こった。
剣に、鈍くではあるが、樹木が映ってきていた。かつてここに存在した、ルカナーディの森のものだ。
肉眼ではまだ、荒野しか見えていない。
ただならぬ予兆に、ロヅは刃面を見るのをやめ、代わりに亜季を凝視した。
見慣れぬ異国の服を着た、短髪の、か細い少女。
体を崩して横たわったのに、先ほどに揃えた両手はそのままの形だ。眠っている訳じゃない。虚ろではあるが、目は開いている。宙を見つめている。
(……別世界の人間?)
不可視の物を見る魔術には、聖水が必要なように。魔法陣を書かないと結界が張れないように。人は、魔術を媒体や代償なしでは行えない。
なのにこの少女は、呪文も唱えず、その身だけで何かを始める気だ。
確かに少女は別世界から来た――異様の者だと、ロヅは悟った。
倒れた少女がさらに高く、揃えた両手を掲げた。
上空が一瞬光ったのを、少女以外の誰もが見た。
◇◇◇
亜季は夢を見ていた。
陽の下で瞼を閉じた時のような、薄暗い闇が、彼女を包んでいた。そこで亜季は夢特有の、霞がかった思考に入る。
(ここはどこだろう)
薄暗く何も無い中で、声が聞こえてきた。ざわめき声。
(何?)
ざわめきの出所を探そうと、亜季は辺りを見回した。
そして闇の中に並ぶ、二つの点滅を見つけた。
星のようだと思った。
その点滅へと歩いてみる。三歩目ですぐ点滅の側に来た。
亜季が星だと思ったものは、穴だった。
両手で円を作った時くらいの、小さい二つの穴。
一つの穴からは、青色の空が。
もう一つの穴からは、青緑色の空が見えている。
(……ざわめきは、どっちからだったのかな?)
もうざわめきは聞こえなかった。正体を探ろうと、亜季は青い穴を覗いた。
青い空の他に、電信柱の電線が見えた。
(そうだ。こっちが元の世界。帰ろうとしてたんだった)
ふと、亜季は足首に柔らかな感触を得た。
見ると一匹の小さな獣が、擦り寄ってきていた。
昨日見た、半透明の獣だ。闇の中、銀色の毛並みがきらめいている。
獣はしばらく亜季に懐いていたが、やがて上へと興味を示した。亜季が覗いている穴へ追いつこうと、小さな体を跳ねさせている。
「そっか」
亜季はしゃがみ込み、小さな獣と向かい合った。獣は亜季と目が合うと、小首を傾げた。
「みのりの携帯電話から、出てきたんだっけ」
亜季は微笑み、獣の額を撫でた。
それから掌を揃えて台を作り、獣へと差し出す。獣が亜季の掌に乗った。
掌の獣を穴の前へと持って行き、亜季は、こう促した。
「この大きさじゃ、あたしは通れないから。良かったらお先にどうぞ」
半透明の獣は、一度亜季を見て、小さく鳴いた。
そして青い穴へと飛び込んで行った。
◇◇◇
瞬く間に、彼らの周囲を、白い光が包んだ。
その場にいた全員が、眩しさに目を閉じた。
次に彼らが目を開けた時には、風景が変わっていた。
森林が姿を現していた。
丁度、亜季が両手を差し出した方向に、森が出現した――先ほどまでは荒野だった場所に。
「ルカナーディの森だ」まず、サキが口を開いた。
「……本当に……?」
ロヅが声を震わせて、森へと一歩出た。
固唾を呑み、彼は、風景をただ眺めた。
森の澄んだ空気が漂ってきている。懐かしい香り。幻ではない。
「滅んでなかった。一角でも、帰ってきた」
不意にこぼれそうになる笑みを堪え、ロヅはさらに事態を理解すべく、こう言った。
「……どこまで戻ったか、確かめないと。中に人間もいるかもしれない。サキはそいつらの面倒を」
「うん! 任せてっ!」
「頼んだ!」
サキは両手を振って、駆け出すロヅを見送った。
亜季はみのりに支えられ、今度こそ眠っているようだった。彼女の安らかな寝息を、その場に残った両名が聞いた。