春の朝
寒さが残る、春の朝。
高等学校二学年に上がったばかりの根木谷亜季は、学校へと向かっていた。
混雑時を避けて電車を使い、一人で通学路を歩いてゆく。
「おはよう、根木谷」
後方から、呼び声がした。
根木谷亜季は振り返り、少年の名前を呼んだ。
「おはよう、みのり。今日は早いんだね」
暮林みのり。
温厚な気性が、顔立ちにも表れている少年。
標準よりやや低い背丈で、制服は目立たない程度に着崩している。
亜季とは中学校三学年の時に同級生となり、同じ高等学校に進んだ。一学年の時は別の学級だったが、この春から再び同級生になった。
彼は分け隔てなく人と接していて、よく下の名前で呼ばれていた。
亜季もそれに習い『みのり』と呼んでいた。
最初は『暮林君』次にしばらく『みのり君』と呼んでいたが、そう呼ぶのは亜季だけで、特別な仲に誤解されることもあった。困るので『みのり君』とは呼ばなくなった。
二人は出会えば会話をするぐらいに仲が良く、地元の駅から一緒に登校する朝もある。
信号待ちの時間。歩道の右隣に建つ家の垣根を覗いて、みのりが亜季に言った。
「あのさ、前から言おうと思ってたんだけど」
「何?」
「ちょっと動きが早すぎてイメージと違う。調べたら、原型らしいけど」
亜季は首を傾げた。みのりが何を話しているか、わからなかった。
「いつか言ってたじゃないか」と、みのりが亜季にも垣根を覗くよう勧めた。
そこには冬眠から覚めたトカゲがいた。
亜季はトカゲを見てすぐに、気恥ずかしい過去を思い出した。
「……そんな昔のこと、覚えてたの?」
「うん。ずっと」
垣根のトカゲは逃げ出し、二人の前の信号は青に変わった。
「竜とトカゲは似てないと、俺は思うよ」
亜季は俯いて歩き始めた。
みのりは携帯電話を取り出し、液晶画面を見ながら、話を続けた。
「……根木谷はトカゲを、竜っぽいって言ってたけど」
「あ、あの。それよりさ、みのり」
亜季は話題を変えようと、白々しい素振りで、桜の開花状況を語った。
他愛のない会話を交わす内に、次の交差点に差しかかった。
赤信号の向こうで、亜季の同級生の少女が、手を振っていた。亜季も、手を振り返した。
目の前を自動車が横切っていく。
横切る自動車はいなくなり、歩行者信号は青に変わった。亜季は、向こう側の友人に追いつこうと、横断歩道に出た。
瞬間の出来事だった。
一台の自動車が、制限を超えた速度で、赤信号の交差点に突入した。
交差点の中央で他の自動車に衝突する。
その衝突音で亜季が左を向いた時には――前がひしゃげた自動車が、彼女の目前に迫っていた。
「……根木谷!」
衝撃の中、亜季の意識は遠のいた。
最後に聞いたのは少年の呼び声だった。
◇◇◇
呼び声に、亜季は目覚めた。
まず彼女の視界に飛び込んできたのは、みのりの心配そうな顔だった。亜季を呼んでいたのは彼のようだ。
目を覚ます前に亜季が見たのは、前面がひしゃげた自動車だった。死を直感した。
「生きている」そんな言葉が、自然と亜季の口に出た。
不思議と体も痛くない。亜季は手足が動かして確認した。学生鞄は手放していた。
「根木谷、無事みたいだな」みのりが息をついた。
(みのり?)
亜季は記憶の詳細を辿った――自動車が来る前に、別の衝撃で飛んだ。
「まさか」
亜季は上半身を起こし、傍らの少年の衣服を見た。膝や腹部の辺りが、擦れて汚れている。
「みのり君が……あたしをかばったの?」
「うん。助けられて良かった」
亜季はしばらく呆然と、みのりを見つめた。そして彼を睨んだ。
「なんて危ないことをするの」亜季は体と声を震わせた。
「あんたが死ぬかもしれなかったんだよ。馬鹿!」
「……ごめんな」すぐの謝罪だった。
意外な反応に、亜季は言葉を詰まらせた。みのりは困ったような笑みを浮かべた。
「だけど二人とも無事なんだから、今は喜ぼうよ」
「馬鹿を言わないで」
死を感じた恐怖やら、目の前の少年の優しさやらで、亜季は涙が出そうになった。顔を見られたくなくて俯き……ここが先ほどの交差点でないと気づく。
アスファルトではなく、草もない地面がそこにあった。
見回すと、乾いた水平の地が広がっていた。遥か遠くにぽつんと、森であろう茂みが見えている。黄色に枯れ始めた茂みが。
肌で感じる風は、先ほどよりも寒い。
頭上は淡い青緑。いつか見た空が広がっていた。
「ここは」
「ああ。どこだろうな。一人で先に困ってた」みのりが立ち上がる。
「天国じゃないとは思う」
「天国だったら、さっきの会話が台無しだ」
みのりが座ったままの亜季に、手を差し伸べた。
「立てる?」
「うん」
亜季は、彼の手を借りずに立ち上がった。
「じゃ、あっちに歩こう」
みのりが、遠くの茂みを視線で示す。そして銀色の携帯電話を亜季に見せた。
「誰かへ連絡するにも、ここは圏外だから」
「そうなんだ」
亜季は戸惑いつつも、みのりと荒野を歩き出した。
――あの別世界に来たのなら、きっとどこまで歩こうが圏外だ。
すぐに亜季はそう思ったが、口にしなかった。違う色の空しか確認できていない状況では『天国じゃないとは思う』と言うのが、精一杯だった。
二人は土だけの地面を歩き出した。
目指す方向にぽつんとくすんだ緑の点があるだけで、あとは青緑色の空と、荒野と、互いの姿しか見るものがない。
亜季は足元をよく観察した。ただ平坦に広がる大地には、ひびわれもない。どうも干ばつの影響で、草木が生えてない訳ではないらしい。建築の為にならした地面と考えるには、土地が広すぎる。不可解だった。
「殺風景すぎるよな」みのりが呟く。
亜季もそう感じていた。
「あの、みのり」
「何」
「今は夢を見てるんじゃないか、とか、考えないの?」
「考えてるよ」
みのりの口調は、通学路を歩いていた時と変わっていなかった。歩き方も同じで、亜季より早く行こうとしていない。
「でも夢だとしても、動かない訳にはいかないし」
「うん」
「この間、親と古い映画を観たんだけど、それで『たとえ倒れることになっても、僕らは前を歩きながら倒れよう』って台詞があった。だから、その精神で」
「前向きだね」
「じっとしていられないだけだ」
「……その映画の内容、教えてよ」
「んー。脱出劇。雪山遭難からの」
延々と映る単調な雪景色が怖かったと、歩きながら語った。その時みのりの視線は遠くにある、小さな目的地に向いていた。
亜季が話題を、最近公開された映画へと繋げた。次にみのりが、音楽へと話題を変えた。時々互いの顔を見つつ、二人は会話を続けた。
気楽な調子の方が沢山歩けるように、亜季には思えていた。
半時間ほど歩くとまた、みのりが携帯電話の電波状況を見た。
「ずっと圏外だ」
「……圏外は当然かも」
亜季は自分が持っている情報を、話そうとした。緊張で体が震える。
(この状況下だし、相手はこの子だ。邪険にはされない)
「実は、今いる場所に心当たりが」
その時だった。規則的な音が、亜季の耳に届いた。
何かが地面を駆けてくる音。
音がする方へ振り返ると、異形の動物が三匹、こちらに向かってきていた。
猿のような顔と体だが人よりも大きく、体を覆う毛は白い。頭には角が、尻尾には棘が生えている。
彼らは獲物を捕まえようと牙を剥き出し、雄叫びをあげていた。
「逃げなきゃ!」亜季はみのりの腕を強く引き、走り出した。
あの別世界に来たと確信したが、それどころじゃなくなった。
亜季はみのりと一緒に、動物から逃げた。だけど必死に走っても、異形の動物達の方が速かった。さっきまで姿が確認できる距離だったが、亜季は今、気配を後ろに感じている。雄叫びで耳が痛い。
もう追いつかれると、亜季が一瞬、恐怖で目を閉じた時。
走る二人の背後に、炎の壁が現れた。
急な熱気に驚いて振り返ると、すでに炎は低くなっていた。炎の向こうには、炎によって行く手を阻まれた動物達。
そして一匹の朱い竜がいた。
朱い竜は、動物達よりも大きかった。亜季達に背を向ける形で動物達と対峙し、威嚇の唸り声を上げている。
「もしかして」亜季は足を止め、朱い竜の姿をよく見た。
蝙蝠と似た翼。枝分かれの形の二本角。橙色のたてがみ。何より、自分を守る姿勢。
亜季は、期待で胸が高鳴った。
竜が一段と大きく唸り、空中に炎を吐くと、動物達は一目散に逃げ出した。竜は逃げた者達をしばらく見やり、それから、亜季達へと振り返った。
竜はすぐ、己を炎に包んだ。
だから亜季が竜の額に紋様を確認できたのは、ほんの一瞬だった。
炎の中から、額に竜と同じ紋様を持つ、中性的な少女が現れた。
「さっちゃん!」
亜季は喜んで、旧友である竜に呼びかけた。
「やっぱり亜季だ!」
竜だった少女が顔を輝かせる。そして子犬のように一直線、亜季に勢いよく抱きついた。無邪気な姿は先ほどの勇敢な竜とは、およそ結びつかなかった。
「この辺りで人間の匂いがしたから、飛んできたの。……まさか亜季に会えるなんて!」
「あたしも、ずっと会いたかったよ」
亜季が懐かしそうに、サキの赤髪を撫でた。
「大好きっ!」
亜季と竜のサキは、共に再会を喜び合った。
「亜季の世界の友達?」
サキが亜季に抱きついたまま、みのりを見た。
「うん。みのりっていうんだよ」
「よろしくねっ。みのり」亜季の体から離れ、元気に一礼する。
「よろしく。助けてくれてありがとう」
みのりも同じように一礼した。
亜季は微笑ましそうに様子を見守った後、首を傾げた。
「みのり……全然、驚かないね?」
「あ、いや」みのりが額の汗を拭き、かぶりを振る。
「内心はずっと動じてるし、思考もついていってないよ……」
みのりはまた、困惑したまま笑みを浮かべていた。
「無事だったら喜ぼうなんて言った手前、実行しないとなぁ、と」
亜季は頼もしい竜の友達と共に、今いる場所を説明した。
『別世界がある』と、彼女は約十年振りに、他者に話した。
「天国じゃないなら良い。そう思うことにした」
説明を受けたみのりが、自分に言い聞かせていた。
「えっと、その白銀色の霧の中に、元の世界に帰れる場所があるよ」
亜季は先ほどのみのりと同じような、薄笑いをした。
「信じがたいよね」
「信じているよ」みのりが瞬きをした。「事故から根木谷を助けて意識が遠のく時、視界が妙に白かったし。ただ帰るのにどのくらい時間がかかるのか、気になって」
「そのことなんだけど」亜季の腕の中のサキが、瞳を曇らせた。
「帰り道がサキにも全然わからない。今回はサキが連れて来たんじゃないから、かな」
「さっちゃん?」
「うー」
サキはぐずぐずと鼻をならし、二人に謝りながら泣き出した。
「泣かないで。さっちゃんのせいじゃないよ。違うよ」
あやす亜季の声も、友達を想ってか、すでに涙混じりだった。
「なあ、さっちゃん」みのりが大泣きしているサキの頭を撫でた。
「ひとまず安全な場所に連れて行ってくれないかな。さっきみたいなことがあったら困るし」
「………」
「それだけで充分、助かるから」
サキは涙をぬぐい、大きく頷いた。
「わかった。一番近い町まで連れて行く。そこに友達もいるから、亜季達のこと、相談してみるね」




