竜
「沢山の色が見える」
少女が白い空に向けて両手を伸ばした。
途端に空全体が白銀色にきらめく。
それからさらに。
稲妻のようにめまぐるしく、空は色を変化させる。
白銀から赤。赤から黄。黄から青。青から紫へと。
世界の上は数え切れない色を示し、白へと戻る。
無限の色を巡った、無彩の白の上空。
そこには――。
◇◇◇
竜のぬいぐるみを抱きしめた、一人の少女がいた。
まだ小学校の一年生ぐらいだろうか、と、亜季は思った。
夢の中。白く光る霧の中。亜季は真一文字に口を結んだ少女に、睨まれていた。
亜季が見覚えのある少女だった。そして少女が抱きしめている竜のぬいぐるみは、亜季が部屋に飾っている物と同じだった。
少女の竜は新品同様で、亜季の竜は色あせているが。
『どうかしたの?』亜季が聞こうとした矢先。
少女が鋭く叫んだ。
「あたし嘘ついてないもんっ」
その声を聞いて、亜季は目の前の少女が誰だかわかった。
「ね、名前はなんていうの」
優しく尋ねると、子供は「ねぎやあき」と答えた。
ねぎやあき――根木谷亜季。
子供は昔の亜季自身だった。今よりも八年前、六歳の頃だ。
可憐なワンピースを着ているのに、履くのは土で汚れた運動靴。
編んだ髪には桜色のリボンを結び、顔と膝には絆創膏を二枚ずつ。
うさぎや熊のぬいぐるみも大好きだけれど、一番気に入っているのは、珍しい竜のぬいぐるみ。
少女趣味で冒険好きで、自由気まま。幼少期の亜季はそういう子供だった。
(……ひらひらの服もリボンも、似合っていない)
昔の自分を前にして、亜季は顔を赤くした。
思春期である十四歳の彼女にとって、幼少期は自由すぎて、恥ずかしかった。
「お姉ちゃん」
小さな亜季が、亜季の片腕を、そっと掴んだ。
「……あたし、ずっと、お姉ちゃんを捜してたんだよ」
「え?」
「ねえ、誰も信じてくれないの。あたしが一生懸命お話してるのに。さっちゃんは、いない子なんかじゃないのに!」
甲高い声で叫び、竜のぬいぐるみを強く抱きしめる。
その姿に心がざわめくものの、亜季は、幼い自分の訴えがよくわからなかった。
「何があったの。話してみて」
膝を折り、小さな自分と視線を合わせる。
「……嘘じゃ、ないもん。嘘じゃ……」
小さな亜季は泣いていた。
◇◇◇
早朝六時。少女の部屋で、目覚まし時計が鳴る。
少女、亜季はすぐに時計の音を止めた。夢うつつで体を起こす。
そして本棚にある古い竜のぬいぐるみに「おはよう」と声をかけ、暖かなベッドから降りた。中学校の制服に着替えて、自室のカーテンと雨戸をそっと開ける。澄んだ冬の空気が入り込み、部屋を冷やした。
空には白い太陽が、昇り始めていた。
根木谷亜季。素朴な顔立ちの少女。
生まれつき栗色の髪を、肩に付かないよう、いつも短く切り揃えている。
細身の体で、手足などはほぼ直線を描く。華奢だが健康に大きな問題はなく、運動神経も悪くない。
亜季は窓辺で、夢を回想していた。
『あたし嘘ついてないもん』
幼い自分が、何を信じてもらえずに泣いていたのか、わからないままだった。
ただ夢のおかげで、大好きだった友達のことを、思い出し始めた。
◇◇◇
「水瓶座の恋愛運とか、今はいいから。……聞いてほしいことがあるの」
中学校の昼休み。亜季は教室で、級友の少女と弁当を食べていた。
学級机には二人分の弁当箱が広げられている。亜季と向かい合わせで座っている少女は、不服そうな顔だ。
「亜季って占いとか好きなのに、なんでそうなの? 水瓶座、恋愛運一位よ」
水瓶座の亜季は、素知らぬ顔で水筒から紅茶を注いだ。
「好きな男の子もいないのに、恋愛運が良くても仕方ないでしょ」
「『運命の出会いが訪れる』って書いてあったのに!」
「唐揚げ食べる?」
「……もういいや。唐揚げ、ちょうだい」
亜季は彼女に、揚げ物を差し出した。
そして今朝から気になっていたことを、話題にした。
「あのね。子供の頃に遊んで、それっきり会ってない友達っている?」
「沢山いる」
級友の少女は、亜季からもらった揚げ物を食べている。
「その場で会った子と一日遊ぶとか、しょっちゅうだったもの」
「あたしは、大好きだったのに……どう別れたか、思い出せない友達がいるの」
「どんな子だったのよ」
「人見知りするけど本当は明るくて、すごく格好いい子」
亜季は笑顔を浮かべた。
「いい子でね。あたしがまずい御飯を作っちゃっても、食べてくれてた」
「その子、男の子?」
級友の少女が唐揚げを飲み込み、目を輝かせた。
「違う。その子を『さっちゃん』って呼んでたもの」
亜季が笑顔をやめて、かぶりを振る。
「じゃあどうでもいいや。その話」
級友の少女は一言で話を区切った。
「それより亜季、今日の唐揚げも美味しいよ」
「そう。ありがとう」
「もう一個ちょうだい」級友の少女が箸を伸ばす。
「真面目に聞かないと食べさせてやらない」
亜季は彩りの良い弁当を、彼女の前から引いた。箸は宙を掴んだ。
「その子、転校したんじゃない? きっと亜季は、辛くて覚えてないんだよ」
級友の少女は精一杯の返事をした。
「そうかな」
亜季は納得しないまま、今朝に作った唐揚げを、友人に差し出した。
昼食を終えると、亜季はすぐに席を立った。
「昼休みの残り、ちょっと散歩してくる」
「また中庭?」
「そうだね。帰りに購買に寄るけど、何かいる?」
「消しゴムお願い」
会話を楽しみ『二―三』と札のかかった教室を出た。扉の外では同学年の少女達が、恋愛話をしている。亜季はその横を通り抜けた。
……星占い通り、運命の出会いが訪れるのなら。
どう別れたか思い出せない友達と再会したい。そう願った。
亜季は、誰もいない中庭に出た。
校舎裏の中庭には、花壇の他に鯉が泳ぐ噴水がある。憩いの場でもあるのだが、今は寒い冬なので人がいない。
亜季は時々、一人になりたかった。ただ景色を眺めるのが好きだから。
噴水の淵に座り、一種の空想にふける。
頭を空にして風景に向かうと、全てが初めて見るものに思えてくる。
側にある噴水だって、どうして水が透明なのか、逆立っているかが不思議だ。
水が噴き出る音。噴き出た水が落ちる音。それらが空回りする。
噴水の水飛沫と、そこに浮かぶ虹。全てが新鮮に思えてくる。
生まれた頃はこんな想いでいっぱいだったのかも、と、亜季はよく考えていた。
(だけどいつから、こういう一人の時間を過ごしてたっけ)
ふと疑問に思った亜季は、空想をやめて、記憶を探った。
――そうだ。小学校一年の時に、いじめられてからだ。
男子に髪を引っ張られたり、からかわれたり。嫌な目にあった。
一人で泣いている内に、景色を眺める楽しさに気づいたんだ――。
(……今朝の夢に出てきたあたしは、いじめられていた頃だな)
亜季は苦い記憶を振り払おうと、また景色に向かった。
何気なしに水面を覗く。
その時だった。
噴水の水面に、すっと巨大な物が横切った。亜季は水面のそれを見て、慌てて空を見上げた。……信じられないものが、空を飛んでいた。
「嘘だ」
童話や夢で見た『竜』という、憧れの生き物。
想像上である筈の生物が、気持ち良さそうに羽ばたいている。
朱色の鱗で覆われた体に、蝙蝠のような翼。頭には枝分かれの形の二本角。背中には尻尾まで続く橙色のたてがみと、小さな人影が、見て取れた。
竜の朱い鱗が、太陽光に反射してきらめいていた。
ただ立ちすくんでいた亜季に、突風が吹いた。空を飛んでいた竜が、目の前に降りてきたのだ。風で噴水の水面が波立ち、赤い鯉が跳ねた。
(……本物の、竜さんだ)
亜季の心臓が高鳴った。
「ひ、人に見つかっちゃうよ。どこかに隠れないと」
竜と目が合うと、自然と言葉が出た。
竜は亜季の顔に鼻先を近づけ、彼女の匂いを嗅いだ。そして大きな鉤爪で、亜季の胴体を掴みあげた。 亜季の足は、地面から勢いよく離れた。
「やああぁっ!」
風が全身に吹きつけてくる。竜は上昇をやめない。地面はどんどん遠くなる。
ついさっきまで亜季がいた校舎は、街の建物達に飲まれて、どれだかわからなくなった。
恐怖のあまり、亜季の意識は遠のいた。
そして目を覚ました時。




