怪しい影
トントントン。
規則正しいリズムが台所に響いている。
「…………」
「…………」
トントン、トン。
ゆっくりと、最後の音だけは少し遅れて聞こえて止まった。
「…………」
「…………?」
玉ねぎを切り終えた料理番の女性が振り返ってこちらを見る。
「何でしょうか? 蕾森様」
「え? 何が?」
話しかけられた蕾森はビックリした。
病気のせいで人里離れた森の中に隔離された自分のために、わざわざどこからかやって来て料理や洗濯、掃除などをしてくれる数人の女性たち。
これまで彼女たちは蕾森に対して殆ど口を聞かない態度をとっていた。話しかけても一言二言で済ませ、会話らしい会話などしてこなかったのに……。
それがどういう訳か、今日は彼女の方から話しかけてきたのだ。
「いえ……。蕾森様は最近、よく私たちの仕事をご覧になっているご様子なので……」
「えー。あー、うん。何となく。ちょっと興味を持っただけ。悪い?」
「いいえ。滅相もございません」
料理番の女性が深々と頭を下げる。
「それで? 今日の料理は何?」
「本日はジャガイモの肉じゃがにしようかと」
「ふーん。わかった。あ、そうだ! 今日はたくさん作ってよ」
「たくさん…………ですか?」
女性は不思議そうに首を傾げる。
「それは構いませんが…………」
「じゃあ、お願い!」
「……承りました」
再びお辞儀をすると、料理を作りに戻って行った。
*****
押し入れの中で、フィルはしまった! と後悔した。
「………………!」
朝から蕾森の家へと遊びに来たフィルは、タイミング悪くこの家の使用人らしき女性たちと遭遇しそうになった。慌てた二人は蕾森の指示で咄嗟に押し入れの中に隠れたのだが…………。
「よっこいしょ」
運悪く。隠れた押し入れは布団を仕舞ってある押し入れだったのだ。
朝起きてから敷きっぱなしになっている蕾森の布団を、この使用人が畳んでフィルが隠れた押し入れに仕舞おうとしている最中だ。
「………………」
押し入れの奥で体を丸めて息を殺す。
「…………」
押し入れに押し込まれた布団に体が押される。圧迫感で少し息苦しいが…………。
「ふぅ……」
使用人は気づかずに押し入れの戸を閉めた。
「ふぅ……」
耐えきれたと、フィルが安堵の溜息を吐いた。
「……まだかなぁ?」
そろそろお腹が減ってきた。隠れてる時にお腹の音で気づかれるかもしれない。
と。また押し入れの戸が開いて光が差し込んで来た。
「フィル! もういいぜ!」
「やっとだー!」
蕾森の合図で押し入れの外へと飛び出した。光が眩しくて目がショボショボする。
「あー。びっくりしたー」
「俺もだよ! なーんで今日に限っていつもと違う時間に来るんだよ!」
蕾森の家に来る使用人は、朝と夕方の二回だけ。それも毎日決まった時間にやって来てたらしいのだが、今日だけは違う時間にやって来た。
人間のフィルの存在を秘密にしているので、鉢合わせしないように予め時間をずらしていたにも関わらず、そのせいで今日はニアミスしてしまった。
「ま。たまにはこんな日もあるんじゃない?」
「そうだな。それよりも腹減ったー! ご飯にしようぜ!」
「うん」
フィルは持参した弁当を抱えてテーブルが置いてある部屋へと移動する。
弁当を広げて、蕾森が来るのを待つ。
「じゃじゃじゃーん!」
「おっ!? 何か良い匂い。美味しそう!」
鍋ごと持って来た蕾森。それをそのままテーブルの上に置こうとしてフィルに怒られた。
「ダメだよ。そのまま置いちゃ。ちゃんと下に鍋敷きを敷かないと!」
「鍋敷き?」
「うん。鍋敷き。知らないの?」
「…………知らない」
「じゃあ教えてあげる。待ってて」
フィルは台所へ行き――丸い板のようなものを持って来た。
「多分、これだと思う。この上に置いて」
「わかった。でも何でこんな事するんだ?」
「アツアツのお鍋をそのままテーブルの上に置いたら、テーブルが痛んじゃうからね」
「そうなんだ。フィルってば物知りなんだな」
「いや……。これぐらいは普通だよ。蕾森が何にも知らないんじゃないか」
「…………」
フィルに言われた蕾森はちょっと俯いた。落ち込んだのか、傷ついたのか。
「…………ごめん。言い過ぎた」
「ううん。別に気にしてないよ。さ。ご飯食べよ。たくさん作ってもらったから、フィルも食べていいよ」
「ホント!? ありがとう、じゃ、僕の弁当も食べていいよ」
「ホント!? やったぁ!」
台所からお皿を持ってきて並べる。その上に肉じゃがを取り分けて――。
『いっただきまーす!』
大きく口を開けてジャガイモを一緒に頬張る。
「美味しい!」
ホクホクと口の中で崩れていくジャガイモ。家でも食べるが、こんなに美味しいのは食べた事が無い。
「…………」
さりげなく、持って来た弁当をテーブルの端に追いやる。
「どうしたの?」
「いや…………。この料理が美味しいから…………。僕の作った弁当なんて無い方がいいと思って」
「そんな事ないよ! …………って! その弁当。フィルが作ったの!? 凄い! 本当に何でも出来るんだ!」
「そんな事ないよ」
本当に大した事じゃない。家の手伝いをしてたら自然と身に付いただけだから。
むしろ。フィルには蕾森が殆ど何も出来ない事や物を知らない事に驚いた。
いや。もっと言えば彼の置かれた環境に強い衝撃を受けた。
蕾森と出会ってから今日で十日。初めの頃はぎこちなくて距離感を手探りで探っていたのも、今ではもうすっかり自然体で接する事が出来るようになった。
だからこそ、何かおかしいと思えるのだ。
まずは家族。蕾森には両親の他に兄と姉が一人ずつ居る。だが病気療養のために蕾森だけがこの屋敷で一人暮らしている。いつも来る使用人の女性たちとは違って、家族は不定期に何か月かに一度くらいしか来ないとの事。
その話を聞いた時、正直驚いた。
人間と鬼人。文化が違うとは言え、こんな事ってあり得るのかと。
そしてそのせいだろう。蕾森が世間知らずなのは。
無知では無く、彼は日常生活に置ける必要最低限の知識や教養だけしか教えられていないようなのだ。
「ごちそう様」
「ごちそう様」
二人はテーブルの上の料理を綺麗に平らげた。
「はー喰った食ったー」
お腹をポンポンと摩る蕾森。フィルは皿を重ねて台所へ持って行く。
「じゃあ、これ。洗ってくるね」
「あっ! 俺もやる!」
慌ててその後ろを付いて行く。
「なぁ! 昼からさ。魔法を見せてくれよ」
「いいよ。じゃあ、僕に剣の特訓してるのを見せてよ」
「ああ。いいぜ!」
*****
山奥にある豪華すぎる一軒家の庭先で、楽しそうに燥ぐ種族の違う二人の子供たち。
その様子を少し離れた森の中から伺う二つの人影があった。
一人は先ほど、料理を作っていた料理番の女性。もう一人は黒い鎧を身に纏った男。
「…………どうだった? 会えたか?」
男が女に尋ねると女は首を横に振る。
「いいえ。部下の者にさり気なく探させましたが、上手く隠れたようで見つけられませんでした。とは言え。本人は上手く隠れたつもりでしょうが、玄関に靴がそのまま残してありました」
口元に手を当てて、クスっと笑う。
「…………あの人間の少年が尋ねてくるようになってから、蕾森様は明らかに変わりました。毎日を楽しそうに生きております」
「そうか」
「あの……。本当に宜しいのですか? あの人間をあのままにしておいて」
「構わん。どうせもうすぐ死ぬのだ。人生の最後くらい。楽しい思い出の一つくらいは作らせてやろうではないか」