朝の支度
短めの作品と思ってましたが、意外と長くなるかも知れません。
気長にお付き合いください。
あの日、僕とお母さんは黒塗りの高級車で自宅まで送ってもらった。
まるで夢物語としか思えない。
だけど、実際に進行中の問題なんだよな。
車窓から眺める高層ビルの明かりは素晴らしく綺麗で、何事も無かったの如く静かに夜の闇を明るくデコレーションしている。
気分はいいとは言えない。
僕の意思が介在しない僕の将来。
こんなのは生きてるとは言えない。
あの時は言えなかったとはいえ、漠然としてなら夢らしきものはあった。
別にあやめさんが嫌いという訳ではないが、彼女を僕の仲間として受け入れるのは、もっと人柄を知りたい。まして、婚約者なら、尚更のことだ。
一応、マンションへの引っ越しは、暫くしてからと決められたが、毎日、あやめさんとお昼を食べることが条件となった。お弁当は、あちらさんが用意してくれるので、それは助かるのだが、身なりを常に気にするようにと忠告されているため、なんとなくだが気が重い。
それに今まで一緒にお昼を食べていた香澄達に何と説明しようか?
まさか、あやめさんまでも一緒にお昼を食べようとは口が裂けても言えない。
只でさえ、今まで数人の人が一緒したいと言って来た時にキッパリ断っていたから尚更難しい。
色々と考えることはあるものの、後ろ向きの考えしか出ないから途中で考えることをやめて、香澄に事の次第を簡単に説明するためメールした。香澄から受け入れてもらえるかどうかは分からないけど、なんと無く説明しておく必要があると強く思った。
そのまま、寝るまでスマホを持ち歩いていたが、香澄からはその日に返事が来なかった。
☆
次の日の朝、スマホを見たがやはり返事は来ていない。
……嫌われたかな?
しかし、席が隣だから説明すべき事はしておきたい。それでも香澄に理解されなければ、以前の関係に戻るだけのこと。
僕が女子にならなければ、そもそも香澄やゆりはと友達になる事も無かった。そう思えば失うものはない。
新たな暮らしに慣れるだけでも精一杯だろうし、男に戻る希望だけを心の支えとして生きていこう。
新調された制服を着ると、今まで着ていたものと明らかに違いがあった。
既製品とオーダーメードは全然違う。
麻と化繊の混合した生地のブラウスでは無く、麻だけの生地にしてくれた。あやめさんからは、シルクを勧めてくれたけど、洗いざらしの麻の生地は僕のお気に入りだと説得して、麻だけの生地のブラウスを注文した。
今まで使っていた物も、実は麻だけのブラウスを両親にお願いしている。
この身体は贅沢にも化繊は、肌に合わないらしい。
僕は前々から、麻地のものを気に入っている。
ざっくりとした感じは変化に富んでいて、それでいて清潔感があり、着心地もいい。
そう説明すると、あやめさんまでも、麻地のブラウスを注文したらしい。
シルクのブラウスは未開封のものがあるとのことだが、僕の説明でとても興味を持ったらしい。何方かと言えば、シルクも麻も天然素材だから後は好きずきなのだろうが、あやめさんが僕の好みに合わせたいという気持ちが全面に出ていた。
こんな事で、僕の中では彼女への好感度が多少は上がる。嬉しいという気持ちが僕の心を動かす。
僕の中で何時ぞやのかっこいい少年みたいなお姉さんは、実に少女らしいイメージに変わっている。
一文字家の力の凄さも、このブラウス一枚に表されていた。
麻地や化繊系のブラウスには、普通はイニシャルは無い。シルクのみ、サービスでポケットにイニシャルが刺繍されている。
だから、麻地のブラウスにイニシャルが入るなんてかなり特別なことだった。
また、イニシャルの有無で生徒の分別がされる。
ハイソかノーマルか。
この学校の中での小さなカーストという認識でもある。ただし、生徒の大半はそんな事は気にしていないから実害は無い。
しかし、ノーマルには憧れの気持ちが付いて回る。
実に馬鹿馬鹿しい事ではあるが、女子の方々にはかなり重要な問題らしい。
これが、お婿さん探しに多大な影響をもたらすということだった。
まあ、確かに容姿と頭の出来が同じなら、金持ちを選ぶ奴が多いのは否定しない。
だからと言って、その娘が素晴らしい人格と約束された訳でもない。
ただ単に見栄の問題としか思えないが、男子にとっても、それは重要な要素であり、付き合う相手は慎重にならざるを得ない。
ホントにくだらないことだ!
誰かが自分より下にいると思う事で優越感を得るなんて、最低で最悪だと思うのに、なかなかそんな輩は絶滅しない。
自分がハイソ側になって、未熟な考えの持ち主達と同類になったことに自己嫌悪を感じるよ。そんなことを頭の中で考えながら、手鏡を覗くと眉間に皺が寄っていた。
やばい、やばい。
美容にも気を付けなければならないのは、女子の基本だ。条件を抜きにして、僕自身が気を付けるべきことだ。
じっと姿見を見て、自分で自分にOKを出す。
姿見なんて、この要件を言われる迄はなるべく見ないようにしていた。
多分、心の中では女の子の姿を否定したかったんだろう。
髪の毛は乱れてない。
睫毛を揃えて、すっぴんの顔に化粧水を惜しげも無く使う。グリスリップを薄めに塗って、これで終わり。
ブラウスを着る前に日焼け止めとお気に入りのコロンを付けた。ブ○ルガリのプールオムがお気に入り。
これを使い始めたのには中学二年生だった。実はこれには秘めた理由があった。
両性とも使えるオーデコロンだから特に問題は無い。
あやめさんも好きな方の香りと言っていたから、この香りはずっと使いたい。
最後に髪を結うのだが、これは自分では出来ない。簡単なリボン結びでは無く、婚約者がいるものはある複雑な結び方をしなければならない。
お母さんは、二つ返事で引き受けてくれる。
もう、僕を一文字家に嫁がせるつもりなのだろう。
鞄の中を確認して、パジャマのズボンの上から制服のスカートを履いた所で、お迎えが来た。
短いクラクションが一度鳴る。
急いで上着を着て、パジャマのズボンを脱ぐと、自宅前に待っている車の運転手に紙コップに入れたコーヒーを差し出しながら、出発時間を告げる。
あと五分だけ待ってもらった。
リビングの机の上に母が並べた物をポケットに入れていく。
ハンカチが二枚にポケットティッシュ、お財布、目薬、手鏡に頭痛薬をいつものポケットの場所に入れると準備が出来た。
「行ってきまーす!」
玄関から靴を履きながら、聞こえるか分からない程度の控えめな声で伝えると、背後にはお父さんとお母さんの二人が僕を送り出す為に並んでいた。
小さく手を振って玄関の扉を抜けると、既に黒塗りの高級車の後部座の横に運転手さんが直立して待っていた。
慣れない足取りで後部座に近づくと、運転手さんが車のドアを開けたので、「ありがとうございます」と伝え、運転席の後ろに座った。
なんだか慣れないと緊張する。
「お嬢様、出発します」
そう告げられて、車が走り出すや否や、僕は無意識のうちに「チッ」と舌打ちしてしまった。
運転手さんは聞かなかったフリをしてくれたが、その音は車内に響き、バツが悪くて、学校迄はずっと黙ったままとなってしまった。
お嬢様への道のりは、実に遠いのだと初めて実感した朝だった。




