鍵となる一手
一度屋敷に戻り、大広間で執事と出会い、これからの計画を練ることになった。しかし納得のいかない意見が出てきた。
「なんで俺を置いていくんだよ?」
不満だったのはそこだった。怪我をしたからという理由で、今夜現れる奴らとの交戦に参加できないとのらしいが、俺なしでどうするつもりなんだ?
「その負傷では万全に動けないでしょう? でしたら他に、警察あたりにでも――」
「それが動けば苦労しないって言ったの、誰だっけ?」
どちらにしろ、まだ大して何も起こっていないのに警察が動くわけもない。
「ほ、他にも、久遠時家の方々に協力を――」
「出来んの、それ?」
執事の方に聞くが、執事はただ苦笑いをしつつ首を振るう。分かってはいるが、そんなことが出来るのなら俺を必要とはしないだろう。
「それは無理なことですな。一日で人員を集めるにしても時間が無さすぎます」
既に夕方六時を過ぎた頃。既に外は暗くなってしまったから、もしかしたら今からでも遅い可能性がある。
「あそこにずっと残ってた方が賢明だったのかもな」
俺が言い出したことだが、一度戻らずに残っていて見張るべきだったかもしれない。
「それは無理よ。学生はさっきの時間から少ししたら全員退去されるし」
「隠れればいいんじゃないか?」
「ちゃんと防犯カメラも起動するわ。あなたにはずさんに見えたかもしれないけどね」
「そうだな、あれはあまり期待できないレベルだ」
正直言って、お粗末すぎる。学校とはそのくらい平和なのだろうか?
「しかし、お嬢様。今から向かったところ、その場で捕らえるのは難しいかと」
「執事が中に侵入するっていうなら別だがな」
「それはちょっとね。あまり大事にしたくないし、事情を説明するわけにもいかないし」
「私も学校内に入るには難しいですね」
「となると、やっぱり俺が行くしかないだろう?」
「私だけで行くっていうのは……?」
「「あり得ない(ですね)な」」
未亜ひとりで行かせるのは危険すぎる。獣の前に餌を引っ提げて出ていくのと同じことだ。
「別に相手の顔が割れればそれで十分なんだろ? 争いになったら未亜は逃げればいいし」
「そしたら牙狼、あなたが一人になるじゃない」
「俺に任せろって。依頼された身だ、それくらいこなしてやる」
「お嬢様、彼の言うとおりです。最悪、相手の素性さえ分かればすぐに撤退しても構いませんから」
「……分かった。その代わり、私の言うことはちゃんと聞くこと! 撤退って言ったらすぐに撤退だからね!」
「はいはい」
ひとまずは方針が決まった。もう一度あの教会周辺に行き、敵がトラップの撤収をしている内を狙う。これという作戦はないが、仕方ないだろう。
「そう簡単に出てくればいいものだけど、な」
期待外れにならないことを祈りながら、学校へと再度向かうことにした。
既に外は暗闇に身をひそめ、気温も下がってきた。時期はまだ春が来て間もないくらいだ。流石に夜になると、まだ寒く感じてしまう。
「で、トラップはどう?」
牙狼に尋ねると地面をチェックしているようだった。結果は首を振るい、
「まだ来てないみたいだな。落とし穴のトラップも残ってる」
「そう、なら茂みの方に隠れて待つとしましょう」
「そうだな。間違っても、残ってるトラップに引っかかるなよ」
「そんなにドジじゃないわよっ!?」
これでも運動神経には自信はあるんだから。流石に牙狼程じゃないけど……
そう思っていた時、ふと自分は牙狼のことを全く知らないことに気づいた。私が知っているのは、彼が暗殺者だということと、歳が私くらいであることだけだ。
「ねぇ、牙狼。あなた、いつ頃から暗殺なんてことを始めてたの?」
「はぁ? なんだよいきなり?」
「気になっただけよ。昨日のことについては色々と話したけど、そもそもあなた自身のことは私は殆ど知らないんだもの。屋敷では、あなたはそんなに私と話をしてくれないし、学校では話すことも出来ないから」
それに、やっぱり彼について興味があった。私とは全く違う、世界観や生き方を聞いてみたかった。
「……あちらさんに動きがあったら、途中でやめるからな」
茂みに隠れつつも、彼は楽な体制にし、声を小さくして言う。こういうことに慣れていることが一目でわかる。
「俺がこの世界に来た理由は執事から聞いているかもしれないが、育て親の跡を引き継いだからだ」
「うん、それはバトラーから聞いた。凄腕の暗殺者だったんだよね」
「今でもまだあの人を越える人はいない位だ。本当にバケモノじみていたよ」
そこから彼は昔のことをいろいろ話してくれた。物心をついたときには、まずは狩りから教えられていたみたいだった。
「その辺の魚とかならまだしも、クマとやりあった時はやばかったな」
「クマっ!? 人間越えちゃってるじゃないっ!?」
「俺一人じゃ全くもって無理だったけど、あの人は、一撃で仕留めてたな」
「本当に人間なの、その人……?」
それからも彼は楽しげに話してくれた。外国に行ったこと、ギャングとの交戦のこと、毒蛇にやられたこと、孤島でサバイバルしたこと、たくさんあって、彼の話は本当に冒険みたいだった。
「だから俺も、あの人みたいに自由に生きようって考えたんだ。暗殺って聞こえはものすごく悪いけど、誰かが引き受けなきゃいけない、闇の仕事だからな」
「育ての親の人はなんて?」
彼は、少しばつの悪そうな顔をし、言おうかどうか迷っているようだった。何かを隠しているようだったから、さらに攻め立てることにした。
「何よ、そんなに言いにくいことなの?」
「『お前はこっちの世界に来るんじゃないよ』だってさ」
「へ?」
変な声が出てしまった。てっきり私は、その人に頼まれて暗殺業を引き継いだものだと思っていたから。
「なんだよその変な声は」
「いや、だって、その人は牙狼に暗殺をしてほしくないんでしょ? なんで牙狼はそれでもそっちの世界に居るの?」
当然の疑問だったが彼は拗ねたように答えた。
「そりゃ他の生き方を知らないからだって。それに、その、なんていうか、あの人に言われたまま生きるのなんてムカつくし……」
「くすっ」
笑いを堪えようしたけどダメだった。笑いがこみあげてきてしまった。そのせいで彼はさらに拗ねた表情をした。
「なんだよ、笑うことないだろ」
「いやごめん。でもだってさ」
ただ単に彼は、言葉で表すとこういうことなんだろう。
「すんごい負けず嫌いで意地っ張りで、その人に対しては素直になれないんだね」
「なっっ!?」
図星なのか、声が大きくなり顔が真っ赤になる。何かと反論しようしていたけど、すぐに目付きが変わる。
「――その話については後にする。誰か来たみたいだ」
「ふふっ、了解です」
少し不貞腐れた彼がちょっとかわいらしかった。今朝のお返しができて、ちょっとうれしい気分になった。
「一人だけみたいだな」
「ここからじゃ顔がよく見えないわね」
背は遠目から見ても私たちと同じくらい。それに、こんな暗い時間帯なのにわざわざ帽子を被っている。むしろ目立つんじゃないのかしら? でもそのせいで顔が見えないのも確かだわ。
「あまり動くなよ。音を立てて気付かれたら面倒だ」
人影が教会へ入っていくのが見えた。中で大量のナイフが散らばっているだろうけれど、どう回収するのかしら?
「少し移動する。ここで待っていろ」
「分かったわ。牙狼、相手がなんであろうと戦わないように」
「それ、今言うか」
苦笑しつつも彼は頷き、教会の入り口付近まで近寄っていった。私とはほぼ逆の位置にいるため、私が中を見えなくても彼が見てくれる。
「全くもって、本当にバカなんだから」
牙狼はただ単に、育ての親に憧れていたのだろう。自分を助けてくれるヒーローに。それが例え暗殺者だろうと、彼にはそう見えてしまったんだろう。
「本当、どうしようもないんだから……」
そうやって物思いに更けていた。彼の過去が本当にとんでもない世界だったってことがわかっただけで満足だった。
「えっ?」
油断していたのだろう。いきなり後ろから誰かに肩を掴まれた。瞬時に警戒し、後ろを振り向く。そこには居たのは――
「ちっ、こっからじゃ見えないな」
教会の入り口から奴は入っていったはずだ。しかしどうだ。中から物音も無ければ人の気配も感じない。一体どういうことなんだ?
「しかし、あのトラップが起動したことは気付いているはずだ。だったら今いるのは回収しに来た張本人だろう?」
仮に一般人が入ってきたら真っ先に落とし穴に引っかかるし、抜けたとしても教会の惨状を見れば驚くはずだ。それなのに反応も何もない。どういうことだ?
「まさかこれが囮だっていうのか……っ!?」
だとしたら未亜を一人にしておくのはマズい。先ほど隠れていた場所を確認すると、何やら茂みの音が少し騒がしく聞こえた。
「しくったかっ!?」
すぐに未亜のもとに戻る。教会に入った奴がが囮だとしたら、今未亜の方にいるのは……っ!
「未亜っ! 大丈夫、か……?」
すぐに駆けつけると、別段何もなかったかのように未亜は居た。しかし、そこに居たのは未亜だけではなかった。
「あ、あれ? 牙狼くん?」
隣には驚いた表情の小城が居た。何も持っていないか、用心するが手に持っていたのは鞄だけだった。
「な、なんで二人共ここに居たの? もう下校時刻なんてとっくに過ぎてるよ?」
「それは小城もだろ。夜遅くに一人で出歩くのは危ないだろ」
「あ、あはは。実は学校に忘れ物しちゃって……」
と、小城は鞄から英語の教科書を取り出した。
「そういえば、明日和訳した部分を発表するの、小城さんだったわね」
「そ、そうなの。だから今から帰ってすぐに訳さないと……」
がっくりと首を項垂れる小城。今のところ何もしてこないようだが、分からない。小城が言ったことは正しいとしても、疑問に思ったことがあった。
「それにしても、なんで教会の方に来たんだ? わざわざこっち側に来る必要はないと思うんだけど」
校門とは真逆の方にある教会に、小城が来る必要はないはずだ。
「わ、わたしも来るつもりはなかったんだけど、帰る時に誰か教会の方に向かっていったのが見えたから、ちょっと気になって寄ってみたの。そしたら牙狼くんと久遠寺さんが居たから……」
「なるほどな」
「そ、それで二人は?」
「ちょっと夜のデートってやつかしら?」
「な、なっ!?」
未亜はクスクスと意味深な笑みを浮かべながら、小城をからかっているようだった。この後もどうだがなんだがと、小城の反応を見て楽しんでいるのがよくわかった。
「そ、そんなの……っ! 破廉恥過ぎますよっっ!!」
「冗談よ、冗談。本当は牙狼と散歩のついでとして、学校周辺の案内や買い物に付き合ってもらってたの」
ナイスフォローだ。つっても小城が目標の敵なら、既に俺らの意図も気づいているはずだ。
「ふ、ふーん。そうなんですか。じゃあそういうことにしておきます」
からかわれてふてくされているのか、疑っているのか、多分両方だが俺らをじっと見た後、「わ、私はもう帰りますね」と、小城は踵を返してしまった。
「おいおい、だから一人じゃ危ないって」
「わ、私の家はすごい近いので大丈夫ですから」
と、取りつく島もなく、彼女は行ってしまった。結局、あいつは一体何だったんだろうか?
「なぁ、未亜。どう思う?」
「どうって、私はわからないけど嘘は言ってないと思ったけど」
「どうだろうかな。もしアレが演技なら流石というべきだが……」
小城はかなり自然体に振舞っているように感じられた。嘘かどうかわからないが、表情や動きは作られたものではなかった気がした。
「それよりも牙狼。教会はどうだったのよ?」
「……一応確認したが、中に誰か居る気配はしなかった。今からもう一度確認してみる」
「残念ながらもうタイムリミットよ。もう学校も閉まっちゃうわ」
時計の針は既に九時を指す手前。もう時間がないか。仕方ないか。
「なら、手っ取り早く行くかっ!」
「えっ? ちょ、ちょっと待ちなさい!」
仕方ないと言って諦める訳もなく、未亜の静止を振りきって、教会の中へと潜り込む。トラップの位置も既に把握している。全て避けて中に入った。
「流石に、どういうことだ?」
既にトラップとして使われていたナイフや鉄球は回収されていた。落とし穴の方はまだ残っているようだが、他は一体どうやって回収したのだろうか? 回収するにしてもあまりに早すぎる。
「牙狼っ! 早く戻って来なさいっ!!」
茂みの中では、見えないけれどあきらかに怒っている未亜が怒鳴ってきた。残念ながら今回の収穫も無しか。
ため息を吐きつつ、教会のドアを開ける。その時にあるものに気づいた。
「おっ?」
ドアの下に落ちていた細い物。こいつは――
「これは収穫あり、だな」
すぐにポケットに仕舞い、未亜のもとに帰る。結局、今夜はこれで作戦終了ってことになった。帰り際に、未亜の怒りの溜まった説教の嵐が俺に降り注いだのは災難だった。
「全くもって牙狼っ! あなたはもう少し危機感を持ちなさいっ! 仮にあそこで敵が居たなら争いになるじゃないのっ!?」
「分かった、分かった。今回は俺が悪かったって。だからもう怒るなって」
屋敷に戻ったところで、未亜の怒りは収まってはくれなかった。そこまで怒らせるようなことだったろうか?
「お嬢様、牙狼くんも反省していますから、そのへんにしましょう。そろそろお湯も沸きましたよ」
「バトラーがそういうなら……」
と、執事が助け舟を出してくれたおかげで、次第に未亜の機嫌も良くなり始めたのは良かった。未亜も疲れたのか、眠たそうに眼を何度もこすっていたが、風呂場へとゆらゆらと不安定ながらもちゃんと歩いて行った。
「すみません、お嬢様もあれでかなり心配してなさっているのですよ」
「あれでか?」
「はい。一度帰ってきた際、かなり自分を責めていました。私のせいで牙狼が、と」
「そんな気にすること無いのにな。俺はこれが普通だっていうのに」
たかがナイフの一本がかすった程度、こんなもん怪我にも入らないくらいだ。それなのに、
「お嬢様が知っている世界では、気にするほどなのです」
「そうか? ただの切り傷だぜ?」
「傷の大きさは関係ありません。お嬢様はあなたに怪我をさせてしまったこと自体を気にしているのです」
「はぁ? 依頼主が怪我しちゃ元も子もないだろうが」
あの時に未亜をかばわなければ、未亜にナイフが直撃していた。それも今の俺の怪我じゃすまないくらいに。
「ええ、確かにあなたの判断は正しいのです。依頼主から護衛を頼まれているのですので、盾になるのは当然。ですがお嬢様は」
執事は目を細め、いつもとは違う笑みを浮かべる。
「……本当に優しい方なのです。見栄を張ってしまったり、素直じゃない一面もありますがそれでも」
――優しい方。残念ながら俺にはピンとこない言葉だ。俺が人に優しくしてもらったのはあの頃だけだから。
「悪いがそういう話は苦手なんだ。親切だとか優しいとかは」
あの頃を思い出してしまうから。何も身につけていない頃の、トアとの一日一日が。
「それでは話を変えましょうか。……何か手がかりでもありましたか?」
執事の目つきが変わった。さっきまでとは真逆の、鋭い目つきだ。
「負けっぱなしは癪だからな。いい戦利品を手に入れたよ」
ポケットから細い物を取り出す。一度床に落としたら、ゴミと一緒に捨ててしまいそうなものだ。
「それは……髪の毛、ですか?」
「ああ、敵さんがトラップを仕掛けた教会の中に落ちててな」
それは一本の髪の毛。色はおおよそが黒、残りが茶色で、そこまで長くも短くもない。
「それくらいの長さですと……おおよそ肩にかかるくらいでしょうか?」
「ああ。後はこの色だな。俺らが気にしている小城は黒だけど、こいつがどっちなのかで決まる」
小城の表面の髪の色が黒とはいえ、もしかしたら地毛は茶色で、外側だけ黒に染めたという可能性が一番高い。頭皮に近い部分は染めにくい分、茶色が残っているのかもしれない。
「それに、俺らが潜んでいた場所に小城はやってきた。こんな遅くに、しかも見えにくいはずの茂みに居た未亜をあっさりと見つけやがった。これは怪しいだろう?」
「ふむ、確かにそこまで情報が集まっているのでしたら……小城汐梨、彼女がお嬢様を狙っていると考えてもおかしくはないですね。しかし――」
納得はしつつも少し眉をひそめ、
「何故、彼女は『アズール』を……?」
「理由なんざ捕まえてから聞けばいいさ」
「……それもそうですな」
相手の理由なんざ、俺には関係ない。頼まれた依頼をこなす、ただそれだけのことだ。
「今日は疲れたことでしょう。そろそろ休まれてはいかがですか?」
「そうだな、今日くらいはゆっくり寝かせてもらうぜ」
これだけの功労だ。今日こそはたっぷりと睡眠をとらせてもらうとしよう。
「おやすみなさいませ」
「ああ、また明日」
大広間を後にする。とはいえ、寝る前に寄っておきたいところがある。
この広い屋敷には、いくつか部屋が分かれている。主に使用しているのは一階にある大広間と二階にある寝室だ。それともう一つ、
「流石に今日はさっぱりしたいからな」
ここ、大浴場だ。流石は屋敷を誇っているだけある。このでかさの風呂はそうそうお目にかかれない。今日一日動き回ったのもあるが、やはり日本人である俺は、湯船につからないで寝ることは出来ない。
「怪我もそんな深くないし、入っても平気だろう」
中に入り、上裸になる。そのまま未亜に付けてもらった包帯をほどいていると、
「あー、気持ちよかった」
風呂場の入り口から声が聞こえる。そのまま入り口を開け、脱衣所に姿を現す。
極めて冷静に、しかし見てはいけないものから目を逸らすことは出来なかった。
この屋敷に居るのは俺を除いて二人。一人はさっき大広間で分かれた執事。そしてもう一人は――
「な、なんでっ!? ここに居るのよ――っっ!?」
俺の目の前には、完全な裸の未亜が風呂から上がる姿があった。
風呂上りのせいか顔が赤く火照っていて、タオルで隠そうとしているが、普段の服装からは想像できないほどの豊満な身体は隠しきれていないようだった。
女性が羨むであろう局部に対し、腰はそれでいてとても細い。濡れた髪が一層艶やかさを強調させている。
未亜はすぐに風呂場へと逃げつつ扉を閉めてしまった。こっちが弁明しようにもこれじゃあ話が出来ない。それに問題はそれだけじゃあない。
「風呂、入れねぇじゃんか……」
せっかくさっぱりしてから寝ようと思ったのに、ため息を吐きつつ諦める。着替え直し、風呂場にいる未亜に何か言おうとしたが、
「……今は止めとくか」
多分聞いてはくれないし、どうせ不貞腐れてしまうのがオチだ。なら一度冷静になって、また明日にでも謝罪すればいい。
諦めて寝室に戻り、横になる。早く起きられれば、朝に風呂へ行くのも悪くないかな。そう思いつつも、眠気が急に襲ってきたため、俺はゆっくりと瞼を閉じた。
「裸見られた、裸見られた、裸見られたっっ!!」
私は浴槽に入りつつ、顔を手で覆う。恥ずかしさで死にそうだ。風呂場であろうとなかろうと顔が真っ赤になっているだろう。
「牙狼、どんな顔だったかな?」
流石に私も気が動転していたから、彼の表情は見れなかったけど、どうだったのだろうかな。
「明日どんな顔して会えっていうのよ……」
裸を見られた。男の人に、しかも同年代の男の人に見られた。見られて恥ずかしいのと、間の悪い牙狼への憤りが織り交ざっていく。
「スタイルはいいって言われるけど、身長低いしなぁ……」
一般的な女性の身長より、私は断然低い。牙狼と比べたら頭一つくらいの差はある。それが私はとてもコンプレックスだった。
「あともう少し背が伸びればなぁ」
浴槽に沈み、泡をブクブクと立てる。牙狼はどんな女性がタイプなんだろうか? そんなことまで気になってきてしまった。
「悩んでも仕方ないか。そろそろ上がろ」
脱衣所をこっそりと覗くと、既に牙狼は居なかった。悪いことさせちゃったなと思いつつ、中に入り身体を拭く。そこである物に気付く。
「あれ? これって」
あったのは細くて長いもの、包帯だ。慌てて置いていってしまったのかもしれない。
「結局牙狼、お風呂入れなかったみたいだし……行こうかなぁ?」
先に入っていたのは私だから、悪いのは牙狼なんだけど、それでも牙狼が風呂に入れなかったんだし……とぐるぐると思考し続けた結果、
「うん、行こう」
と、決心して寝間着へと着替える。とはいえ決心したものの、先ほどのことを思い出してまた顔が熱くなってしまう。
「うぅぅ、なんでこんなことになっちゃうのよ……」
二階へと上がり、牙狼の寝室へと向かう。部屋の前に着き、牙狼に教わったように深い深呼吸を繰り返す。そしてノックする。しかし、
「あれ? 牙狼?」
再度ノックするが返事はない。ドアノブを回すと、ゆっくりとドアが開く。
「牙狼?」
中に入ってもう一度呼ぶ。しかしやはり返事は来なかった。
「居ないの――って」
どっかに行ったのかなと考えつつも、牙狼が部屋の中に居たのが見えた。
「……寝てるのかな?」
ゆっくりと近づく。彼の穏やかな寝息が聞こえる。どうやらかなり疲れていたようだった。
「流石にここ数日間は大変だったよね。睡眠時間を削って勉強させてたし。そりゃ疲れても当然よね」
布団もかけずにベッドの上で完全に寝てしまっている。いつもと違って無防備な様子だ。
「包帯はこれじゃ無理ね。それに――」
彼の表情は、本当に普通の、そこら辺に居る学生と同じだった。
「……やっぱりかなりイケメンよね」
寝顔をじっくりと見るけれど、やはり彼はかなりの美形だ。身長もそれなりにあって、暗殺業なんてものだから筋肉もついている。――その身体には、数えきれないほどの傷を持っていることは、私くらいしか知らないだろうけれど。
今日怪我をさせてしまった箇所を見る。血は止まっているけれど、それなりの大きさの切り傷が残っている。
「牙狼は大した怪我じゃないって言ってたけどさ」
本人はもっと大きな怪我をしたことがあるのだろう。だから怪我にも慣れている。あれだけの傷でもいつもと変わらない動きもできる。だけど、私はそういうことじゃないと言いたい。
「私は気にしちゃうの。心の傷を負ってしまうから……」
いつもそうだった。バトラーが私を守るときも、今回牙狼が私を守るときも。いつもいつも、心の中でごめんねって叫んでいる私が居る。
「私にはそんな力はない。そんなことは分かっているけど」
それでも私は、誰も傷ついて欲しくない。これは私のわがままなんだってことは分かっている。
牙狼に布団をかけてあげてから、ゆっくりと離れる。起こさないよう、音を立てずに部屋から出て行く。
「さっきのことは、私を庇ってくれたことで許すってことにするわ」
心にそう決めて、扉を閉め、私も寝室へと戻る。私のわがままだけど、こうやって理由を作らないと、罪悪感で押しつぶされそうになってしまう。でもこれで、今夜はぐっすりと眠れそうだわ――
「って、寝れるわけないじゃないっっ!!」
やっぱりさっきの出来事を思い出してしまい、結局なかなか寝付けない夜になってしまった――
「お、おはよう……」
「……おはよう」
今日はここ最近の中では目覚めは良かった。なのに朝から気が滅入る出来事が残っていた。
早起きしてからシャワーを浴びてスッキリしたものの、朝食をとる際に、廊下でばったりと未亜と顔を合わせてしまった。
「……ふん」
やはり昨日のことがあったせいか、随分とご機嫌斜めの様子だ。こっちのことを見ようともしない。こういう時は、きっぱりと謝るべきだとどこかで教わった気がしたので、実行することにした。
「……昨日のことは悪かった。俺の不注意だった」
「……いいわよ」
「次から注意する――って、え?」
一瞬何を言われたか分からず、呆けてしまう。そんな俺を未亜はじっと見返す。
「何よ、その顔は」
「いや、もっと怒っているのかと思っていたんだけど……」
「怒ってはいるわよ」
未亜は腰に手を当て、頬を膨らませた。それらしい表情をするがすぐに、
「でも牙狼は今ちゃんと謝ったしね。それに――」
表情がさっきとは打って変わって、悪びれたようになり、
「昨日、牙狼には怪我をさせてしまったこともあるし……それでチャラってことにしましょう?」
「別に怪我のことは未亜が気にすることは――」
「い、い、で、しょ?」
にっこりと笑いつつも、その言葉に重みを掛けてくる。その笑顔が怖いが、まぁ本人が気にしているのなら構わないか。
「オーケー。ならこの話は終わりってことで」
「そういうこと。……でも」
急に未亜はうつむき、人差し指同士でいじいじし始める。
「その、どう、だった?」
「? 何のことだ?」
「なっ、なんでもないわっっ!!」
そう言った後は早足で食堂に行ってしまった。何のことを聞こうとしたのだろうか?
「ま、これでスッキリしたしな」
今日も学校だ。残すところはあと二日だ。明日までに動きがなければ、休日の間俺と執事の二人で屋敷で護衛をしていれば済む話だ。
「っていっても動くだろうな」
あちらさんも既にトラップを仕掛けていた。だったら俺の存在も既に気付かれているはずだ。だったらやることは簡単だ。
「護衛としての任務、きちんと果たさないとな」
目を閉じ、深く深呼吸する。あの時に教わった、一つのおまじない。どんな時にでも、常に冷静に、それでいて的確な行動をする。あの人がよく俺にかけてくれたおまじないだ。
「見ていてくれよ。師匠」
ゆっくりと目を開け、食堂へと向かう。また一日が、ここから始まる。
「おーす。おはよう、牙狼」
「……お、おはようございます。牙狼くん」
「ああ、おはよう」
いつも通りに学校に行くと、狐塚と小城はやっぱり先に席に着いていた。小城の方は昨日のこともあってか、俺のことを少し警戒しているように見えた。
「それで、朝から何してんだ?」
朝から二人は、なにやら机にかじりついている様子だった。
「何って今日朝から抜き打ちテストをやるって噂で持ちきりなんだよっ!?」
狐塚が泣きそうな顔で俺のことを見る。逆に小城の方は苦笑いをしつつも、教科書の内容を必死に覚えようとしているのがわかった。
「皆方先生の授業はな、たまに抜き打ちテストをやるんだよ。それがまさかの今日とはなぁ……」
「皆方先生っていうと、英語か」
「わ、私、英語苦手なんですよね……」
「俺、全く持って無理だ」
諦めて机に突っ伏している狐塚と、諦めずに教科書とにらめっこしている小城。そんなに大変なのだろうか?
「点数やばいとマズイのか?」
「赤点もんなら追試があるくらいだぜ……」
「み、みんな必死ですよ……そういえば、久遠時さんは?」
「そういや居ないな。一緒じゃないのか?」
「あー、っと。ちょっと忘れ物したみたいで」
「ふーん、久遠時さんがねぇ」
本当は、ただ単に俺と一緒に登校するのを拒否られただけの話だ。ただ、何故かその時の未亜の顔が少し赤くなっていたのが気になっていた。
そんなことを思っている矢先に、未亜が教室に入ってきた。その様子は先ほどとは違う、いつもの未亜だった。
「おはよう、久遠時さん」
「お、おはようございます。久遠時さん」
「おはよう。狐塚くん、小城さん」
未亜は挨拶をした後、すぐに席に着いてしまった。こういうところが、人を避けてるように思われてんじゃないのか?
「あ、あの、久遠時さん。今日、抜き打ちテストがあるみたいなんだけど……」
そんな未亜に小城は勇気を振り絞ったかのように声をかけていた。でも、
「あら、そうなの? わざわざありがとね」
「い、いえ、そんな……」
と、これで会話は終了してしまった。小城もおずおずと諦めつつ、また教科書に向き直っていた。
「さて、んじゃ俺も復習し直しとくか」
赤点をとったら面倒らしいしな。いっちょ頑張るか。
何も変わらない日々。それでいてそれが普通な世界。そんな世界を俺は経験してきた。
刃物を振り回すことじゃなく、誰かと話して笑い、知識をお互いに共有しあう。全く別の世界だ、これは。
それでも、俺は思ってしまったんだ。この世界が、こんなにも暖かいということを。こんなにも、楽しいってことを。
俺は、どっちに居るべきなんだ……? 俺は一体、何をしたいんだ……? 俺は――
「はい、そこまで! 全員、筆記用具を置いて!」
はっとして起きると、それは昼前の授業。朝から話題になっていた英語のテストの真っ最中だった。全員、筆記用具を置き、半分諦め、半分終わったという安堵感が教室中に立ち込められる。
「後ろからテスト用紙送って!」
目の前の狐塚に渡す。その顔はかなりげんなりとしていた。
「どうだった、って聞く必要もないか」
「牙狼、俺、英語無理……」
「ほらそこ! 早く用紙回す!」
渡したくないだろう用紙を、前へと送る狐塚をあわれに思いつつも、実際俺もどうだったか不安ではあった。何分、途中で寝ちゃったし。
「それじゃあ放課後に答案を返す。赤点の奴は追試だからな、勝手に帰らないようにな。それじゃあ、これで授業は終わりにする」
昼休みに入り、生徒が一斉に立ち上がる。すぐに教室を出ていくやつもいれば、先ほどのテストの内容で話し合っている生徒もいた。
「よし、昼飯にするか。おい狐塚、行くぞ」
「俺、もう無理。死ぬ……」
ぐったりとしている狐塚は、完全に意気消沈している様子だ。無理もないが諦めるべきだろう。出来なかったのなら、キチンと追試を受けるべきだ。
「仕方ないな。よし、未亜! 昼飯行こうぜ」
驚いた表情の未亜がこちらを向く。学校に来てから未亜と飯を食ったり話したことはあまりなかったし、ちょうどいいかもな。
「な、なんで私っ? こっ、小城さんとかいるでしょ?」
「昼飯の時は、小城は他のグループと食ってるからな。お前とは行ってなかったし」
そのまま腕を掴んで食堂へと引っ張っていく。後ろから、「わ、分かったから離してよっ!」という声が聞こえた気もしたが聞こえていないことにする。
「だから行くからっ! 引っ張んなくても行くからっ! 目立つでしょうがっ!?」
「ん? ああ悪い。気付かなかったわ」
もちろん、おもいっきり聞こえてたし、恥ずかしがっているのは分かってたけどな。
「それで、なんで私と?」
「別に深い意味はないな。ただ単に、未亜と一緒に昼飯食ってなかったしさ。そろそろ学校も終わり、ってことだし」
長くても後二日、俺がこの学校に居られるのはそれだけだ。
「そうね……もう時間もあまり無いのね……」
「なんだよ? 寂しいのか? たかが俺がいなくなった所であまり変わらないだろ?」
「……私は、寂しいわ」
茶化すつもりで言ったのだが、予想外な反応だった。本当に、この数日が楽しかったように、そして終わりが来てしまうことを悲しんでいる様子だった。
「俺が居ると敵さんはずっと居残っちまうぜ?」
仮にだ。俺がこの場に残って学校生活をしたとしても、他に物好きな奴が来てもおかしくない。あっちの世界はそんな奴らばかりだ。こっちの常識は通じない。
「俺がここに居ると、俺以外にも被害が伝わる。真っ先に狙われる対象は勿論、未亜、お前だろうな」
「それでもっ。私は、寂しいわっ!」
悲痛な叫びが俺の心に響く。本当に、あんたが言ったとおりだよ。この子は優しい。優しすぎるよ。
「……さっさと飯を食おうぜ。マズくなる前にな」
これ以上話しても、お互いいい気はしないだろう。話を一旦打ち切ることにするが、
「牙狼は、こっちの世界には居られないの?」
俺の眼を見て、必死に懇願する未亜。居ることは出来るだろう。だけどそれは違う。
「俺はここに居るべきじゃない。俺の汚れたこの手だと、この世界にふさわしくないだろ?」
笑みをちゃんと浮かべ、答える。元々あった答えだ。嘘も偽りもない。俺はそのまま食堂へと先に向かう。
「……嘘つき」
そうやって呟いた彼女の声も、ちゃんと俺は聞き逃さなかった。
結局その後、未亜と飯を食ったものの、話が盛り上がることはなかった。淡々とお互いが頼んだ飯を食べ、そのまま教室へと戻るだけだった。そこに会話は一切なかった。
他の授業も全て受け終え、今日は大して問題はなかった。ついでといえば、今日の抜き打ちのテストの結果は、俺も未亜も小城も問題なかったが、
「はい、今日赤点だった人は、この後すぐに居残りで勉強! すぐにあっちの教室に行くことな! 逃げだそうって考えるなよ?」
「そ、そんな……っ!」
案の定、狐塚は英語がダメらしく、見事追試に引っかかってた。笑えないが、俺も可能性はあったのだから、なんとも言えずに別の教室に連れて行かれる狐塚を見送ってやった。
「さてと、今日は帰るか……」
未亜の方を見ると、今日は何もなければ帰ると決めていたのだ。何か異変があったら調査するつもりだったが、特になかった。休み時間中に、教会やその周辺を調べたが不審な点はなかった。
「未亜、帰る……ぞ?」
未亜に声をかけようとしたが、その前に先に未亜に声をかけている人が居た。それは、
「く、久遠寺さん。こないだはダメだったけど、この後は空いてない? 皆で駅の方にある美味しいクレープ屋さんに行くんだけど、久遠寺さんも行かない?」
話しかけていたのは小城だった。俺は見ていない振りをしつつ、聞き耳を立てる。
「ありがとう小城さん。でも私、甘いモノはちょっと……」
嘘つけ。こないだ大量のケーキを食ってただろうが。
「そ、そうなんだ……残念だなぁ」
本当に残念そうな表情の小城。しかし待て、それなら……
「嘘つけ未亜。お前、甘いもの好きだろうが」
間に入って未亜の嘘を暴露する。小城は驚き、未亜は小城に見えないよう俺を睨む。
「え、えっ!? そうなの? ならやっぱり行こうよ、久遠寺さんっ!」
「ああ、楽しんでこいって」
「……分かったわ。私も行くわ」
その声を聞いた瞬間、小城の表情は花が咲いたような笑顔になり、小城はすぐに、
「じゃ、じゃあ皆に伝えてくるね! ちょっと待っててっ!」
と、教室を飛び出して行ってしまった。その場に残されたのは俺と未亜だけだ。
「どういうことよ、牙狼」
「どういうこともない。ただの親切心だ」
「相手は小城さんよっ!? わざわざ私を誘うなんて怪しすぎるじゃないっ!!」
そりゃそう思うよな。真っ先に俺がストーカーだと疑っていた人だしな。
「まぁ落ち着け。ちゃんと理由はある」
とはいえ俺も危ない橋は渡りたくない。どちらでも大丈夫なようにしている。
「仮に小城がストーカーとかいう敵だとしても、学校外なら俺も執事も見張れる。それにだな――」
これは普通に考えれば分かるのだけど、
「ノコノコと敵自身が、標的をトラップへと誘うか?」
「……それもそうだけど」
それに小城の表情を見ても、本当に未亜を罠に誘っている感じがしない。それでも、もしかしたら小城はそれだけのプロなのかもしれないという可能性も拭い切れない。
「この際、小城が白かは黒か気にしなくてもいい。もし、動きがあれば俺と執事が居るから大丈夫。まったく問題ないだろ?」
「……うん、分かったわ」
それでも未亜は気の乗らない表情だ。やっぱし未亜は、
「友達と遊びに行ったこと、ないのか」
「……っ」
その言葉に未亜はビクッとたじろいだ後、何も言わずに首を動かした。つっても俺も、狐塚と遊んだくらいしか経験はないのだけどな。
「俺が言うのもアレだけどさ……」
「何よ?」
「何も考えずにさ、楽しんでくれば?」
俺がいう言葉じゃないだろうな。現に未亜もそんな眼で訴えている気がする。
「ほんと、あなたが言うことじゃないわよね」
「分かってる」
「でも、ありがとう。少し気が楽になったわ」
大したことはしていない。元々俺はそっちの世界には居ない者だからな。でも少し、理解することが出来た気はしている。
「久遠寺さーん! そろそろ行こうー!」
「分かったわっ!」
未亜は鞄を掴み、教室から出て行った。出て行く前に彼女は、一言だけ告げていった。
「私の背中、預けたからねっ」
そんな映画のワンシーンでいいそうな事を言った。俺は笑みを浮かべた頷きで返してやった。
「っていうことだ、あんたもこれなら来れるだろ?」
「そういうことでしたら。相手の方も、そこまで無策ではないとは思いますが」
電話で執事と連絡を取る。流石に学校外でなら執事も護衛につける。それに、他の理由もあった。
「あんたも外出したいだろうかなって」
「私はそこまで望んでいませんから」
ついでになるが、いつも屋敷に居る執事をたまにはと思って外出させる口実にもなる。まぁこれはさっきまで思いついても居なかったけど。
「そう言わずにさ。あんたも未亜も、もう少し外に目を向けていいんじゃないかなってさ」
「……それは君もでしょう?」
「う、うるさいなっ! 俺のことはいいんだよっ!」
電話越しから軽い笑い声が聴こえた。ムッとしつつも、冷静に努める。
「なんだよ?」
「いえ、似ていると思ったからです」
「誰と?」
学校の校門をくぐり、すぐに未亜達が向かった駅前に足を進める。小城以外にも居るようだからあまり焦る必要もない。
「決まっているじゃないですか」
執事は笑ってごまかす。ああそうだな。聞かなくてもわかってるさ。誰に似ているかなんて。
「それで、どのくらいかかる? 俺はすぐに向かうけど」
「私もすぐに準備いたします。なにか必要な物は?」
「当然、ナイフ一式でっ!」
答えると同時にため息が聞こえる。分かっているくせにな。
「……簡易的な物のみですよ」
「まったく、ケチだなぁ」
電話を切り、駅前へと走る。さて、小城は何か行動を移すかな?
「久遠寺さんっ! これなんてどうですか?」
「え、ええと。これもいいんじゃないかな?」
「そういうのじゃなくてさ。こう、フリフリ、ってした服が久遠寺さんに合うでしょっ!?」
「えぇっと……」
私は今、非常に困っている。ストーカーとやらに追われていることよりも更に困っている。それは、
「そ、そういえば、久遠寺さんはどういう服をいつも着ているの?」
という小城さんの一言から始まった。私と小城さんとその友達二人の、計四人でクレープ屋に行くはずだったのだけれど、今ではうっかり逸れて女性向けの服屋に居る。
「私は、その、そんなに服にこだわりはないから……」
「えぇー! 勿体無いよー! こういうかわいい系の服が似合うって!」
「いいや! かわいい系はもう年頃じゃないのよ! 久遠寺さんはこういう大人系のが絶対いいのよ!」
と、小城さんの友達二人がかなり熱心に、いやむしろそこまでしなくても、と言うくらい服にこだわりを持っているようだ。一方、
「わ、わたしはこういうのが久遠寺さんに合いそうな気がするなぁ……」
小城さんは二人とはまったく違った。個性的ではないにしても、着やすそうなシャツにフレアスカートだった。
「うん。私もこういうのが好きかな」
と告げると小城さんは目に見えて喜び、代わりに二人はがっかりしていた。
「絶対、久遠寺さんはこういう可愛いのがいいのに……」
「久遠寺さんだったら、この服着てもおかしくないのになぁ……」
流石に私もフリフリ系は恥ずかしいし、ちょっと大人過ぎているのも苦手だった。あっちなんて胸のあたりがパックリ開いちゃってるし。
「ちょっと試着してみるよ」
「じゃ、じゃあさ! 買わなくてもいいから試着だけでも!!」
「わ、私も!!」
二人共必死に懇願してくる。参ったなぁ、ここまでされちゃったら断るわけにはいかないし……
「分かったわ。でも、絶対に笑わないでよ?」
恥ずかしいけど、試着くらいなら試してもいいかなって気はした。現に二人も喜んでくれたし。
「じゃあちょっと待ってて」
とは言ったものの、これほんとに着るの? こんなフリフリなやつとパックリ開いたやつを?
数分もせずに着替え終わり、カーテンを開ける。
「き、着たわよ……」
まずはとてもじゃないけど、普段は着れそうにないフリフリ系の服を着てみた。
「う、うわぁ。どこかのお姫様みたい……」
「久遠寺さん、めっちゃかわいいよ!」
「やばっ! 鼻血でそう……」
この服を進めてきた、ツインテールの子は今にも倒れそうだった。小城さんも、もう一人のショートカットの子もすごい羨ましそうだった。
「も、もういいよねっ!? つ、次着るわっ!!」
恥ずかしすぎてすぐにカーテンを閉める。外側から、「写真撮りたかった……」と残念そうな声が聞こえてきた。危ない危ない。こんな姿が学校に広まったら、なんて顔して行けばいいのか……
「こ、これはどう?」
今度は肩なんか完全に露出している服だ。下に引っ張れば簡単に脱げそうな服だし、胸のあたりがパックリと開いている。
「わ、わぁ。胸おっきい……」
「うぅ、分かってたけどショックだわ」
「久遠寺さんバッチ! こっちの路線も全然アリだよ!」
「私はこんなの着て外出られないわよっ!!」
どう考えても、こんな服着て外出るなんて考えられないわ……
「久遠寺さーん」
「ん? 何?」
と、声のした方を向くと、
「……っ!?」
一瞬、機械的な音がした。なんてことはない、スマホで写真を撮ったのだ。勿論撮影対象は、私だった。
「わーすごい! これは永久保存物だね!」
「すぐに消しなさいっ!」
「やだよー」
と、ショートカットの子はその場から逃げてしまった。追いたかったけどこの姿じゃそんなこと出来ない。後で差し押さえて消去させないと。
「……後で一緒に手伝って」
「いいよー」
「わ、分かりました」
と、二人はニコニコしながら答える。……絶対先にコピーしてそうだと思うが、諦めるしかないのだろう。
「最後は、小城さんが選んでくれた服ね」
これは本当に無難な服だ。普段皆が着ていそうなシャツに膝くらいまでのフレアスカートだ。これなら私も納得できる。
「う、うん! 久遠寺さん、似合っているよ」
「ちょっとインパクトないかもだけど、無難なのもいいよね」
「あはは、ありがとう。私もこの服がいいと思うわ」
私も気に入ったし、この服を買うことにした。それに、
「誰かに選んで貰った服だもの。本当はさっきのも買いたかったけど」
あれらは絶対に今後着ないと思うから、買っても意味ないと感じてしまうため、買わないことにした。
「皆わざわざありがとう! 私の服を選んでくれて!」
「そんな気にしなくていいよー」
服を買った後、本命のクレープ屋に行き、近くの休憩所で食べながら話す。確かにこのクレープは美味しい。生クリームの甘さだけでなく、様々な果実が入っていてさらに甘く感じた。
「そうそう、久遠寺さんとはこういう風に遊んだことなかったし」
「わ、私も楽しいですよ? それに久遠寺さん、いつもクラスメイト達と距離をおいている気がして……」
小城さんが少しだけ表情を暗くする。そんなことはないのだけど……
「そんなつもりはないわ。ただ、私は久遠寺家というものがあるから」
「そ、そういうことじゃないの」
小城さんがはっきりと否定の意思を示す。さっきまでとは違って、決意したかのように。
「く、久遠寺さんはいつも家柄の事を気にして、皆とは違うって距離をおいている気がするの」
「それは……」
図星だった。久遠寺家というレッテルがある以上、私は堂々とその責任を負わなければならない。そう思っていた。でも彼女は、そんな私を見ていた訳じゃなかったんだ。
「わ、私は久遠寺家というレッテルなんてどうでもいいの。私は久遠寺未亜という一人の人間と、友達になりたいの」
「小城さん……」
こんなに感情を露わにしている小城さんを見るのは初めてだった。驚きで声も出ない。
「ヒュー、汐梨言うねー」
「突然の告白っ!? カッコいいわー」
「そ、そんなことじゃないよっ!? 私はただ単にね――」
小城さんの友達が冷やしてくると、小城さんはそっちに反論しにいく。私はただそれを呆然として聞いていた。
「く、久遠寺さんと友達になりたいだけなのっ!!」
一瞬時が止まった。そんな気がした。何て言われていたのか、理解できなかった。だけど少しずつだけど、頭の中で意味を理解し始めると、急に顔が熱くなった気がした。
「少し、考えさせてもらっていいかしら……っ?」
「えっ?」
返事も待たずに、その場から逃げ出すように走り去る。後ろから呼ぶ声が聞こえてきたけど振り返ることは出来なかった。それは、目から流れるものを見られたくなかったから――
「おう。今日はお疲れ様」
既に夕暮れ時、俺も執事も見張っては居たものの、大して動きはなかった。所々で俺も執事も交代で自由に行動はしていた。その最中で未亜を駅前で見つけた。
「今回は大した動きはなかったみたいだな。それは良かったこと――」
だったな、そう言おうとしたけど途中で言葉が詰まる。それは、未亜の様子に気づいたからだった。
「お前……泣いてんのか?」
「……泣いてないわよ」
先ほどから変だとは思っていた。駅前に一人でいるのはおかしいし、ずっと俯いたままだった。
「小城が何かしたのか?」
俺らが自由に行動してしまったが故に、どこかで仕掛けてきたのだろうか? しかし、必ずどちらかが見張っているようにしていたはず。
急に未亜が顔を起こす。その目はやはり、少し赤くなっていて、にじみ出ているものがあった。
「違うのっ! そうじゃないの。そうじゃないけど……」
「違うのだったらどうして泣くんだ?」
黙ったまま時間が過ぎる。その間は未亜はずっと俯いたまま、手に持っている袋を抱え込んでいた。
「……友達になってほしいって」
「……よかったことじゃねぇか」
予想外なこと、でもないと俺は思っていた。でも、そうじゃない可能性もある。
「悪いけどこれ以上は口にしない。明日になれば分かることだ」
仮にだ。仮に小城が敵だとしたら、その思いも嘘になる。だからこれ以上は言わない。未亜がこんなにも、
「……うん」
嬉しそうに泣いているのだから。野暮なことを言う必要はないからな。
「さて、だったらもう帰るぞ。明日には全ての決着が着く。それの準備もしないとな」
「うんっ!」
さっきとは打って変わって、晴れ晴れとした笑みを浮かべる未亜。その目の縁には涙がたまっているけど、指摘しないでおいた。
「んじゃ、いつも通りでいいのか?」
屋敷に戻り、夕食をとった後に大広間で明日の計画について話し合う。とはいえそんな大層な計画は何もない。結局いつも通りの様子見ってやつだ。
「仕方ないわ。相手の動きによって臨機応変に変えるしか無いのよ。あっちの動き次第ね」
「それじゃあ対処のしようがないだろ……」
明日はタイムリミットとなる最終日。明日何もない事はないだろうが、明日さえ過ぎれば未亜は安全なはずだ。
「問題しかないのは分かっているわ。でも方法はもう無いわ。それに、何かあったら牙狼に任せればいいんでしょ?」
「問題はそこだろうが……」
いかに戦闘になることが避けられなくても、守りながら戦うのは確実に不利だ。今まで経験したことのない戦い方は難しい。
「なるべく、未亜は安全なところにいてくれ。戦闘になったら落ち着いて俺のことを聞くんだ。いいな?」
「分かったわ」
執事の方に目を向けると、微笑して頷く。ちゃんと理解してくれているようだ。
「じゃあ明日は気を引き締めて行きましょっ!」
「了解」
「お気をつけてください。お嬢様、牙狼くん」
それじゃあ、という風に未亜はすぐに大広間から出ていこうとする。ただ一度立ち止まり、俺の方を見、
「……今日は覗かないでよ」
と、睨みながら言ってから、その場を後にした。やっぱり根に持ってるじゃないか。
「楽しそうでなによりです」
執事の方を見ると、微笑みを浮かべていた。何を考えているのかいまいちわからない彼の表情は、いつもより楽しそうだった。
「何がだよ?」
「いえいえ。お嬢様があんなに嬉しそうにしているのは久しぶりですから」
確かに、あの後からすごく楽しそうだったな。なんのことだがわからないけど、四六時中笑みを浮かべっぱなしだった。
「お嬢様はとても優しいのですが、それ故にこの家柄に縛られている気がしていたのですよ」
執事が自分の娘のように話す。まぁ、執事が育てたと言っても過言ではないらしいけれど。
「久遠寺家という家柄のためなのか、あまり友達を作ろうとしなかったのです。他の人に危険が及ばないためにも、あまり人と接していなかったのです」
「理にはかなっているな。確かにそんな名家の娘の友達、ってんならさらってしまえば好都合だな」
「ですから、今回のことが本当に嬉しいのでしょう。家柄なんて関係なく、友達になりたいと言われたのですから」
俺には分からないことだ。こないだ狐塚と遊んだにしても、そこまで簡単に気を許せるとは思ってもいない。裏切られたらどうするのか、そういうことばかりが頭をよぎってしまうからだ。
「……例えそうだろうと、俺はまだ小城の疑いが晴れたわけじゃないと考えている。警戒から外す訳にはいかない」
それにもし小城が未亜の心を弄んだとしたら、
「誰であろうと、俺が斬り伏せるのみだ」
俺の依頼主を傷つけるやつは許さない。
「……君も変わったのですね」
「どこがだ?」
よくわからないことを告げる執事を睨む。俺は何も変わっていないと思うが?
「見た目はまだまだです。ですが、心が変わってきているのが分かります」
「俺にはわかんねぇよ」
「それでは一つお聞きしましょう」
執事は微笑みつつも、その言葉には確かな重みがあった。俺の回答に対する重みが。
「あなたは、一体どっちの世界に居たいのですか?」
言葉が詰まる。それは驚きだからじゃない。ただ、俺がその質問に対して即答することが出来なかったからだ。
「あなたはこちらの世界に来てから、眼の輝きが変わったように私は感じます」
「……俺は」
俺は答えられなかった。前までは即答できた。俺は暗殺の世界で生きていくと。でも今は違う。
「前回お聞きしましたね。どうしてあの世界で生きているのだと。あの時君は、生まれた世界だから、と」
「そうだな」
「ですが今は違います。こちらの世界を経験し、こちらの世界について理解しました。それでも君は暗殺の世界で生きていくつもりなのですか?」
「俺は、そんな器用な人間じゃない」
溢れるように言葉が出て行く。別に言おうと思ったことじゃない。それでも勝手に言葉が続く。
「俺は不安なんだ。こっちの世界で俺の居場所があるのだろうかって。誰かを信用しても、また裏切られるんじゃないかって」
昔、一緒に暗殺のチームを組んだ時、一緒に居た仲間が裏切って情報を売っていやがったことがあった。それだけじゃない。他にも何人もの奴らに裏切られてばかりだった。
「誰も信用しなければ、俺は安心して独りでいられるって思っていた。それの方が裏切られることよりも何倍も楽だった」
だから俺は独りで暗殺業をするようになった。名前も知られない、孤独の暗殺者として。
「だけどそんな俺がこっちの平和な世界を見て思ってしまったんだよ。こっちの世界じゃ、疑いあっていない。すぐに友達になろう、って誘ってくれるんだよ」
俺から見たらバカな奴らだと思っていた。何も知らないのに、すぐに手を差し伸べてるからな。なのにだ。
「それを見ていると眩しいんだよ。こんな薄汚れた俺でも、友達として見てくれているからな」
俺の本当の姿を知らなくても、友達と接してくれる。だからこそ、俺はこっちの世界も悪く無いって思い始めている。
「それでいいんですよ」
執事は先ほどと変わらずに微笑んだまま、俺を見つめていた。
「誰しもが人に裏切られているのです、そっちの世界では。私も何度も裏切られ、騙されていました。ですが私も、信用することの出来る人が現れました。その人のためでしたら、どのような道でも着いて行く、と」
俺と同じ道を歩んでいた執事は理解しているんだ。俺のことを、俺の苦悩を理解している。だからこそ、答えを言わないんだろう。
「最後は君が決めるのです。私やお嬢様が選択させるのではありません。君が思う道を進むべきなのですよ」
最後まで本当に勝てない人だ。あの人、トア師匠と同じくらい、俺じゃ歯がたたない。それは勿論、力もそうだけどやっぱり、
「本当に敵わないな」
その生きる姿勢や迷いのなさが、俺にはまだ到底及ばないと考えさせられてしまうな。
「さて、そろそろ遅いですし、もうこのお話も終わりにしましょう」
執事が話を切り上げた。確かにもう遅い時間だ。明日の準備もしなくてはならない。だけど、
「悪い、寝る前にコーヒーを一杯入れてくれないか? あんたの煎れたコーヒー、癖になりそうだ」
執事は少し驚いた顔をした後、すぐにまた笑みへと表情が変わった。
「かしこまりました。少々お待ちください」
執事は一度大広間から出て行った。執事も最初会った時よりも、俺に心を許していると言わんばかりに、笑みを浮かべ、俺に接してくれている。彼も少し前は俺と同じだったんだろうな。
「明日が最後の日だ」
誰に言うでもなく自分に言い聞かせる。明日が終われば、俺の学校生活とやらも終わる。
「選択するのは俺自身、か……」
まだ迷っている。でもそれは今夜限り。明日になれば、またいつもの俺に戻っているはずだ。だからこそ、考えこむのは今日だけ。
「『お前はこっちの世界に来るんじゃないよ』ね」
あの言葉を思い出す。あの人のことを気にしているのが間違いなのだろうか――
考えに更けている内に、コーヒーを持ってきてくれた執事が戻ってきて、俺はコーヒーを貰う。うん、やっぱり美味いわ、このコーヒー。