平穏な日常
目覚まし時計が鳴る。デジタルな音が聞こえた気がしたが、すぐさま時計を叩き止める。カーテンから光が漏れだし、晴れやかな朝がやってきた。
懐かしい夢を見た気がする。あまりちゃんと覚えていないが、あれはもう何年前になるのだろうか。あの頃はかなり熱心に働いていたが、最近は仕事の方も少なくなってしまった。いつも率先して俺に頼っていた依頼主も、今じゃまったく連絡を寄越さなくなった。
布団から起き上がり、カーテンを開け、体を大きく伸ばす。今日も絶好調。朝の目覚めも完璧だ。すぐに顔を洗い、朝食の準備をする。
スマホをいじりながら簡単な料理を作り、そのままキッチンで食べてしまう。この家自体、俺以外住んでいる者は誰も居ないのだから、どこで何をしようが構わないのだ。
「今日の依頼は……お、ついに来たかっ!?」
約一月位、仕事が空いていたため、久しぶりの仕事に歓喜する。最近動いてないから、準備運動になるくらいの仕事だといいけどな。
「えーと、何? ストーカーの撃退?」
思っていたよりもつまらない仕事で落胆してしまった。内容は、学生がストーカーによって付きまとわれているので撃退を行ってほしいということだ。そんなもん、警察にでも頼めばいいだろ。この依頼主は何を考えているのか。
しかし、その仕事の報酬が気になる。そんな大した仕事でもない割に、額がそれなりにいい。どう考えても不釣り合いだが、まぁ最近仕事がなかったし、ついでにやるか。
すぐさま連絡を返す。といってもメールにて仕事の了承をするだけだが。――さて、俺の生業は一体いつから暗殺者から面倒事を引き受ける仕事になったのだろうか?
「はぁー、張り合いねぇな」
ストーカーなんざ、俺の相手にもならん。それは自惚れではなく、当然のことだろう。着信音が鳴り響き、確認する。
「ん? 明日、日曜日の夜実行? 随分と早い仕事だな」
少し不気味にも感じたが、裏の世界の奴らからの依頼かもしれない、そう考えれば不思議でもなんでもない。簡単な仕事で忍ばせておき、本当は俺を殺そうとしているのかもしれないしな。
「つっても、俺の名前なんざ全く広まっていないだろうに」
食後のコーヒーを飲みきった後、家を後にする。今日は仕事の下見だけをして、明日に備えることにした。全くもって、俺は一体何のために生きてんだろうか。嫌になるな。
場所を移動して、約一時間ほど。都会の外れにある裏路地。学生が近道として使う路地らしく、不良が溜まっているわけもないようだ。
結局その場所の付近で、夜中まで様子を見ていたが、そもそもその路地は夜中に歩くには危険な場所だと感じた。
一つ目に、この場所は人目につきにくい。明かりもほぼ無ければ人もいなさすぎる。夜中まででも手で数えられる程度しか通っていない。
二つ目に、周りが郊外なため叫ぼうが誰かが来る前に事は済んでしまう、という具合だ。
「こんなとこ、夜中に歩いてんじゃねぇよ……」
ぼそりと呟くが誰に聞かれるわけもない。男なら別に構わないが、女はこんなとこを通るくらいなら回り道しろってもんだ。
周りは建物に囲まれていて、隠れるスペースはない。そして考えるに、対象が持っているとしても包丁程度の獲物だろう。
「それなら、建物から奇襲、ってとこだな」
片方の建物に窓が見える。こんなところに付けて意味があるのかわからないが、好都合である。確認してみると、運がいいのかその建物は使われていないようだった。
一度自宅へと帰り、次の日の夕方辺りに、建物に隠れた。建物の扉は蹴破ったらすんなりと入ることが出来た。途中で買ってきた食い物食べながら、時間になるのを待つ。
特に何も起こらず、既に夜十時。周りは真っ暗で、数少ない街灯によって、ほんのりと明るくなっている部分がちらほらあるくらいで、ほぼ闇に包まれていると感じる。俺はひっそりと、路地を見渡せる部屋で待機し続けた。
あれから数時間待っているが、まだこの場に現れそうにはない。そもそも今日は、学生どころかこの路地には誰一人として通る人はいなかった。連絡があるかどうかスマホを見るが着信はない。
「さて、今回も騙されたかな?」
窓際にもたれかかりながら呟く。そういうのも、ここ最近仕事がめっきり減り、数少ない仕事の内容もほとんど暗殺者としての仕事ではなかった。主に撃退や監視などの一歩手前の仕事ばかりであるため、なんともやる気がこれと言って出ない。
「まぁ、俺の仕事が少なくなった方が、世の中いいもんなんだろうけどな」
当たり前だが俺の仕事がない方が平和だ。その分俺の生活が危うくなっていくものだが。
「おっと、ついにお出ましか?」
身を隠して窓を少し開けて外の様子を確認する。やっと人が通りかかったようだ。さて、こいつは依頼主なのか、それとも撃退すべき対象者なのかな。
「さすがにここからじゃよく見えないな」
周りが暗いせいもあってかそこに人が居るところまでは確認できた。しかしそれが対象であるストーカーか、それとも依頼主であろう学生かまでは判断できない。
「流石にまだ出るわけにも――ん?」
じっと目を凝らし、神経を尖らせる。もっと奥の方に、殺気を感じた気がする。片方が俺の窓付近まで近づいてきた。そっと見たがやはり風貌までは確認できない。
すると、奥の方に居た人物が急にこちらへと走ってきた。窓側に居た人物は動こうとしていない。よくわからないが最悪どちらも撃退、もしくは殺せばいいだけの話だ。
「さて、いっちょ一仕事行くかっ!」
少し開いていた窓を勢いよく開け、路地へと飛び出し着地する。顔を上げると目の前にはこちらへと向かっている人物が、後ろには深くフードを被っている人物がいる。後ろにいる人物は表情こそ見えないが、殺気は感じない。多分こっちが学生の方だろう。目の前に集中し、襲い掛かってくるだろう対象者へと構える。
「ごめんね」
後ろから声が聞こえたと思った瞬間、銃声が聞こえた。それと同時に俺の周りに網が撒かれ、身体に引っかかって身動きが取れなくなった。
「……っ!? そっちかよっ!?」
驚きのせいで一瞬動きが止まるが、すぐにナイフで掻き切ろうとした。しかしそれより前に、
「あまり動かない方がよろしいですよ。無暗に切ろうとすると、その網は電流が流れるようになっておりますので」
ぞっとするようなことを、淡々と述べる人物が既に後ろに立ち、俺に銃を構えていた。
「これでよろしいですかね、お嬢様?」
「ええ、ばっちりよっ! やっと見つけたわっ!」
まんまと俺を嵌めた、この人物たちの片方はやけに嬉しそうにしていた。声からして片方は少女、もう片方は三十代から四十代ほどの男性だろう。
「おいっ! 俺を捕まえてどうする気なんだっ!?」
少女と思われる人物から、にっこりとした口元だけが見え、こちらへと近づいてくる。ここからどうにかして逃げようと思ったが、打つ手がなく、どうしたものか考えを巡らしているところだったが、
「決まっているじゃない。私の護衛をしてもらうのよ」
「護衛? 依頼された内容とは違うじゃないか」
「あなたに拒否権はないわよ。だって承諾したでしょ? 『ストーカーの撃退』って」
「だからこうして今日来たんだろうが、そのストーカーってやつの撃退をするために」
少女はふふんっと鼻で笑い、男の方もため息を吐いた。
「物わかりが悪いのね。つまりわね、私の学校に潜んでいるストーカーの撃退をこれからしてもらうのよ。勿論、あなたが私の学校に潜入してね」
「おいおいマジかよっ!? んな面倒なことしていられるかよっ!?」
「もう一度言うけど、あなたに拒否権はないわよ。バトラー」
「了解しました」
俺のことを軽々と持ち上げ、どこかへ運び込もうとする。律儀に俺が手にしていたナイフを奪うことも忘れずに。
「ちょっと待てっ!? マジで言ってんのかアンタらっ!?」
少女がフードを外し、にっこりと笑う。こんな暗いなかでも、明るく輝いて見える金髪に、それと同じだけ光っている翡翠色の目が細くなり、
「もちろん。このために色々計画を練ったんだからね、名前のない暗殺者さん」
どこかで聞いた言葉だったが思い出せず、そのまま俺はどこかの屋敷へと運ばれていった。
「さて、それで一体どういうことを依頼してるのか、もう一度事細かによろしく頼む」
俺は椅子に縛り付けられた状態で、目の前の二人を睨む。ここはどこかしらの屋敷らしく、かなり広かった。いやまさに豪邸と言わずしてなんなのだろうかってくらいだ。
「さっきも言った通りよ。あなたは私の学校に一緒に登校して、どこぞの誰かわからないストーカーを撃退してほしいの」
「それは分かったがなんで俺なんかに依頼した。暗殺専門の俺よりか、警察にでも頼めばいいだろうに」
「それが出来ればとっくにしてるわ。バトラー、お願い」
少女の横に居る、バトラーと呼ばれている執事がタブレット端末を操作しつつ、俺に見せてくる。内容はかなり複雑なシステムだが、どんなものかは俺にはまったくわからない。
「これはお嬢様のすべての財産ともいわれるプログラム、『アズール』です。これはまだ試作品ですが、完成すれば現在過去未来のデータを、一気に取得できるプログラムです」
「待て待てっ!? そんなもん、実現できるもんなのか?」
「ですから、これはまだ試作品です。まだ完成までには程遠いものなのです」
完成していたらとんでもないことになる。世界の根底をひっくり返すようなことになる。ただそこで、俺は一つ思うことがあった。
「そんなもん作れたらマズいんじゃねぇのか?」
未来の情報まで取得できるのなら簡単な話、宝くじの一等の番号を当てることだってできる。そんなもんならまだ安いもんだ。国として兵器の製造だって簡単だ。
「その通りです。ですから、私たちは、これ以上の研究は進めず、未完成のまま保存しているのです。しかし、ある集団から聞いた話では、私たちの誰かが完成までのデータを持っているのではないか、と疑われているのです」
「なるほどな。確かにデータは出来ているが公表していないだけって思ってもおかしくないな。んで、そのデータとやらを持っているであろうと目を付けられたのが――」
「私ということよ」
目の前に居る少女が頷く。彼女が知っていようが知っていまいがどっちでもいい。知っていればそれでよし、知らなければ人質としてデータと取引すればいい。
「ん? だったらさらっちまえば手っ取り早いんじゃねぇのか?」
そのデータの所存の有無は関係なく、とりあえず少女を誘拐すればいいだけだ。
「そんな輩もいたけどね。全部バトラーがつぶしてくれたわ」
「マジかよ……。そいつはすごいな」
一本の鉄筋でも入ってるのかと思わせるほど、背筋を綺麗に伸ばし、少女の横に立っている執事に目を向けるが、ただ黙っているだけだった。
と、そこで急に少女の表情が妖しい笑みへと変化していった。
「そうだ、あなたに一つ提案があるわ」
「なんだ? 俺に有益なのか?」
「あるわよ。あなたと私のバトラー、どちらが強いか試してみない?」
「お嬢様っ!」
すぐに執事が声を荒げて止めようとするが、少女は全く気にも留めず、
「あなたが勝ったらこの依頼は無しということで。勿論、ちゃんと解放するわ。その代わり、負けたらちゃんと私の依頼を受けること。どう? 悪くないと思うわよ?」
「……俺がここから脱走するって考えはないのか?」
「それが出来るのならね。この話は無しでいいの?」
「いいや。その勝負、引き受けた」
入るときに見ていたが、ここの監視は尋常ではなかった。確かに本当にそんなプログラムが出来るというのなら、それくらいやっておかないと怖いくらいだと思わせるほどに。
「じゃあ、バトラー。彼をほどいて鍛錬室へ」
「その必要はねぇよ」
するりと、椅子に結ばれていた紐から抜け出し、立ち上がる。驚きの表情である少女と、少しだけ感心した表情の執事だったが、
「でしたらこちらに」
と、すぐにまた執事は表情を消し、部屋から出て行く。こいつがどれだけの奴かはすぐにわかった。あの路地で感じた殺気、かなりの修羅場を乗り越えた証だと分かる。俺も気を引き締め、ゆっくりと執事の後を着いていく。
「ここだ」
案内された部屋は、中は広いが鍛錬用の器具が置いてあるだけだった。他に無駄なものが一切ない。そのうちの空いているスペースに移動する。
「武器はなし。徒手空拳のみの一本勝負よ」
「あいよ」
「お嬢様、本当にやるのですか?」
執事の方はあまり乗り気では無いようだが、少女の方は楽しそうに見学しているようだった。
「あなたも本気でやるのよバトラー。彼の力を確かめたいのよ」
「……分かりました」
不満そうだった執事も、渋々と俺の方へと向き直る。少女も少しだけ、俺たちから距離を置いた。
「先に言っておくが、手加減はできぬぞ?」
「手加減なんてはなっからいらねぇよ」
俺は構えるが、執事の方は構えることなく凛として直立したままだった。だけどそれは俺をなめているわけではないことは分かる。
尋常ではない殺気を感じる。それでも、
「言っておくけど、俺は素手の方が強いからなっ!」
一直線に突っ込む。どちらも動かないのならこっちから攻めるのみ。攻撃は最大の防御っていうしな。
「ふっっ!!」
首筋を狙って手刀を振るう。しかし、そう簡単にはいかないことは分かっている。
執事の腕によって抑えられた。でも、俺はここで止めずに反動を生かし、腕を曲げて肘打ちを狙うが、
「甘いぞっ」
あっさりと片手で払われる。腕が跳ね上げられたせいで身体が浮き上がり、ガードががら空きになってしまう。そこに蹴りが飛んでくる。
「そっちもな!」
その蹴りを逆の手で受け止め、身体を宙へと舞い一回転して着地する。今の攻防だけでどれだけの手練れかよく分かる。どう考えてもこいつは、
「しっっ!」
懐へと一気に詰め、連撃を繰り出す。しかしどれも防がれてしまい、カウンターをされ、なんとか受け止めることを成功する。こいつは俺とは逆の人種だ。
自ら攻めることはせず、相手の隙を見つけてカウンターでつぶす。守りに徹している戦い方だ。俺は敵を一撃で仕留める暗殺者だ。どう考えても不利だ。さらに、
「お前、なんで片腕だけしか使わないんだ?」
そう、この執事は守りの際でも右腕だけしか使っていない。左腕はだらりとおろしたままだ。
「別に理由はありません。ですが、そろそろ」
執事の身体が前へと傾き、重心がブレる。ついに来る。
「攻めさせていただきましょうか」
執事が前進したと同時に、俺の身体目掛けて右手の拳が飛んでくる。受けようとはせず、しゃがんで避け、そのまま足払いをするが跳んで避けられる。
「ちっ!」
体勢が悪く、追撃することが出来ずにいる俺に、執事は着地と同時に接近してきた。
一瞬。本当に瞬きをしたと同時に、執事は俺の目の前へと移動していた。
「っっ!?」
ガードしようとするがすでに遅かった。腕で防ごうとする前に、どてっぱらに鋭い蹴りが叩き込まれ、吹き飛ばされる。
「ふむ、歳の割にはなかなか。これならお嬢様をお守りできますでしょう」
「勝負、ありね」
的確に急所を狙って蹴ってきたが、なんとかギリギリで当たり所をずらせた。動けなくはないが、これ以上やっても勝てないことは目に見えていた。
「……悔しいが俺の完敗だ」
あの男はどう考えても俺より強い。生きていた中で俺より強いのは二人目だ。俺が負けるのはいつ以来だろうか。
「それじゃあ契約成立ね! よろしくね、えーと」
少女が床に座っている俺へと近寄る。何やら困っているようだが、何が言いたいのだろうか?
「えーと、あなた名前は?」
困っていた理由はそれか。単に俺のことをどう呼べばいいのかわからなかったのだろう。
「俺の名前? 悪いけど名前なんてものはない」
困惑して表情で少女は俺を見つめる。一方、執事の方は納得しているようだった。
「名前がない? 誰かしらに付けてもらったり呼んでもらったことくらいあるでしょう?」
「あったとしても偽名だったり呼称くらいしか無かったんだ。大体決まって『ウルフ』って呼ばれてたけどな」
群れないやつから、一匹狼、そこから転じて『ウルフ』。安直だったが、結構俺のスタイルに合っていたからちょっとは気に入っていた呼び名だ。
「それは却下。日本なのにそんな名前で呼ぶわけにはいかないわ。バトラー、何かアイデアない?」
「そうですな……狼というのは本来、群れてその牙で獲物を捕獲するといいますし、狼が持つ牙ということで、牙狼というのはどうでしょうか?」
「決まりね。とりあえず、契約中はあなたを牙狼って呼ぶわね。私は久遠時未亜よ。よろしくね」
「了解。牙狼な。その名前は意外と悪くないな。こちらこそよろしくな、久遠時さんとやら」
和解の握手を促すよう、右手を差し出す。しかし彼女は応じてくれなかった。彼女は顔を不満そうにし、
「さん付けは無し。あと名前で呼んで。あまり苗字で呼ばれるの好きじゃないの」
「分かった。じゃあ改めてよろしくな、未亜」
「ええ、こちらこそよろしく、牙狼」
今度こそちゃんと握手を交わす。これにて契約成立ってわけだ。
「それじゃあバトラー、すぐに学校の方に手配を。転校理由はでっち上げといて。それと牙狼、あなたはすぐに風呂に入ってその長ったらしい髪の毛を切ってもらいなさい。こっちが見ているだけでもうっとうしいわ」
「了解しました」
「え? 俺の意見は?」
「づベこべ言わずにさっさと行きなさいっ! バトラー! すぐに浴場まで案内して!」
有無言わずに俺は執事に腕を掴まれ、浴場へと連れて行かれる。なんというか、面倒なことに巻き込まれた気がするんだよな。
「申し訳ありません。君には迷惑をかけてしまって」
俺を案内してくれている、執事が突然俺のことを見ずに謝罪の言葉を口にする。なんのことだと聞いた。
「あんな手荒い真似をしてしまいまして。君の生活もいろいろと事情があったと思うのですが……」
「べつにいいさ。どうせ仕事自体ほとんど来てなかったし」
「暗殺者として、ですか。君は、どうしてそんな世界にいるのですか?」
「簡単な事さ。他の道を知らないからだ。俺が生まれて物心を抱いた時には、手にはナイフが常だったからな。生死をさまよう世界こそ、俺の生きる意味だった」
この世界こそが当然である、そうとしか思えない。俺にはこの生き方以外知らないのだから。
「本当に君は、少し前の私にそっくりです」
やっぱりな。この執事は俺と同業者、つまりは暗殺者だったのだ。先ほどの手合わせでも、暗殺者としての動きがいくつかあった。
「あんたはどうしてこの屋敷の執事に? 昔はどうだったかは知らないけど、あんたは執事なんかに収まる器じゃないだろ」
「そうですね。私も君みたいに、戦うことだけしか生きる価値のない人間だと思っていました。ですからあの時、私は救われたのです」
執事は左腕の袖を捲る。その中に隠れていたのは生身の腕ではなかった。
「まさかとは思っていたけどな。だからさっきは片腕だけでやっていたのか?」
見えたのは鈍く輝く銀色の鉄の腕。つまりは義手だった。
「ある暗殺任務の時に、私の左腕は切り落とされてしまったのです。なんとか止血して生き延びてはみたものの、限界が近づいてきていました。そんな時、私は久遠時家の当主に出会いました」
「そうか、それでか。久遠寺家と言えば医療機器にも発達している家柄だしな」
久遠時というのは、有名なシステムや電子機器に携わっている会社の名前でもある。特に医療系の分野に力を注いでいて、この業界で知らない人はいないはずだ。
「彼に助けてもらい、私は左腕に義手を付けてもらった。彼が言うには、まだ開発中だった物のテスターとして選んだだけらしいけどね」
その結果大成功へと導き、今では各地方に商品として販売しているほどだ。
「その時からお嬢様の執事として働くようになりました。私も何分、暗殺の仕事しか知らなかったものだからよく当主やお嬢様に怒られたものです」
苦笑いしながら、懐かしそうに執事は目を細める。だからこそ、俺に共感しているのだろう。
「君も私と同じように、彼女に救われるとおもうのです。……ここが浴室です。中で身体をゆっくり休ませてください。上がったらすぐに散髪を致しますので」
「了解。しっかしまぁ、本当にでかい屋敷だな」
さっきの鍛錬室と言いいくつ部屋があるのかわからない。どう考えても数人住むだけならこんなには要らない。
「ここは元々パーティー専用の屋敷ですので。本来、お嬢様や当主が過ごすために使用している家屋は、ここまで広くはありません」
なるほど、と納得しつつ、執事と別れる。さて、ちゃんとした風呂に入るのはいつ振りだろうかな……
そう考えつつも、風呂の温度が思っていたよりも高かったため、結局長湯せずにものの数分で上がることになってしまった。
パソコンと睨み合い、ひたすらキーボードを叩く。先日出された課題であるレポートを完成させ送信する。
「ふー、これで大丈夫ね」
ついさっきまで彼のことで頭がいっぱいだったせいか、学校に提出する課題を完全に忘れていた。流石にこのまますっぽかすわけにはいかなかったので、少し雑に書いて終わらせた。
「危ない危ない。学校ではこんな姿見せちゃマズいって」
自分でもいうのはなんだけど、私は学校では優等生で通っている。久遠時家次期党当主になるのに、ヘマをしていてはいけない。
「それにしても、計画通り彼を捕まえられたのは幸運ね」
学校にいるストーカー、いつも私が一人になったときだけ気配を感じるあいつ。どんな奴なのか分からないけど気色悪い。外だったらバトラーに任せられるのに、いつもそいつは学校内部でしか現れない。
「ちょうどいい理由があったのは、本当良かったのか、悪いのかなぁ」
深いため息を吐く。そんな時にちょうどノックが掛かる。
「どうぞ」
現れたのはバトラーだった。大体予想はついている。今現在、この屋敷に居るのは私とバトラー、それと牙狼だけだ。
「まずは牙狼くんの転校についてはすでに手配しました。明日から登校可能になるかと」
「ご苦労様。牙狼は?」
「全く、切り過ぎじゃないのか?」
悪態吐きながら私の部屋に入ってくる少年。間違いなく牙狼なのだけど、そこに居たのは先ほどとは全く違う彼だった。
漆黒のように暗いけれど、彼に似合っている短い黒い髪。それとは逆に吸い寄せられるような綺麗に輝く蒼い瞳。それらが合わさり、かつ彼が元々放つ尋常ではない大人びた雰囲気がより一層引き立てている。
――要するに、かなりの美形であった。
「おい、なんとか言ったらどうなんだ?」
何も言わずにぽかんとしていた私を見てか、彼は呆れたように告げた。慌ててすぐに、
「……悔しいけれど、あなたイケメンね」
率直に、思ったことを口にする。バトラーの方は微笑するだけで何も言おうとはしない。
「そうか? よくは分からないがそんなもんなのか」
「もう少し自信持ったら? まぁ明日になれば嫌でも分かるわよ」
皮肉を言って目を逸らすが、本当はちょっとドキドキしてしまった。年は分からないけど、大人びている感じなのに少し抜けていて、それでいてかっこいいとか、完璧じゃないのっ!?
「んで、明日から俺はどうしろと? 流石に学校の中でいつも一緒ってわけにはいかないだろ?」
「そ、そうだったわね!」
気を取り直し、明日からの計画について説明するとしましょう。
「まず、あなたは私のクラスに転校することになっているから。とりあえずは、そこであなたも学校に慣れるといいわ。後は問題が起こりそうなとき、つまり放課後あたりには私に同行しなさい」
「それだけか?」
「それだけよ。何か問題でも?」
ジロリと見てやると、牙狼はげんなりした顔で、
「いや問題ありまくりだろ。そんなに俺がべったりついていたらストーカーなんざ現れるわけないだろう?」
「それについては大丈夫よ。現れなかったらそれはそれで問題ないから」
「なんでだ?」
「『アズール』の情報について、一つ嘘があってね。あと一週間もしたら、プログラム自体を自動消去するっていう情報も流れているの。だから、相手が何もしてこなければそれはそれで構わないってわけ」
「なるほどな。つっても、襲ってこないとは思えないけどな」
「ご名答。だから、一週間の間、護衛してもらうってわけ」
理解が早いようで、彼はちゃんと納得してくれたようだ。
「じゃあ、明日の朝八時に学校に登校だから。あなたは転校生としてちゃんと後から来るのよ」
「あー、最後に質問なんだけどさ」
そろそろ夜も更けてきたので、寝ようと思った時に彼からとんでもない言葉を聞かされた。
「学校って、何するところなんだ?」
「……え?」
彼が何を言ったのかすぐには理解できなかった。
「いやだから、学校って何をする場所なんだ? 多くの子供が収容されてる、ってことくらいしか知らないんだけど」
「……これは重症ね」
まさかそこまで知識がないとは思ってもいなかった。確かにあっちの世界では、学力よりも戦闘力の方が重要視されてるとは聞いていたけど、これほどとは……
「仕方ないわね。バトラー、彼に教育してあげて。できるだけ簡潔に、かつ濃厚にね」
「かしこまりました」
「え? ちょっとっ!? まだ話は終わってないだろっ!?」
「後はバトラーに聞きなさい。私には手に負えないからね」
そう執事に告げた後、二人は部屋から出て行った。といっても、牙狼はバトラーに連れて行かれたのも同然だったけど。
「ふふっ」
誰もいなくなった部屋で、私は笑ってしまった。やっと彼に会えた。その嬉しさがこみ上げてきたのだろう。
机に近づき、引き出しから小さな細長いものを出す。昔、ある事件の時に、助けてもらった人から貰ったものだ。
「やっぱり、そうだよね?」
あの時に、私を助けてくれた人。記憶はおぼろげだったけど、その人は暗殺者だと言っていた。
「彼が、あの時の人……だよね?」
バトラーに頼んで、そっちの世界の情報を集めてもらっていた。結果、歳や風貌からして彼がそうではないかということになった。
実際彼に会って、あの時の人だと確信した。激しい雨の中だったけど、かいま見えたあの蒼い瞳は印象的だったからだ。
「後は彼を――」
ベッドに倒れこみ、ゆっくりと瞼を閉じる。今日は色々とあって、本当に疲れた。私はそのまま、深い眠りに落ちていった。
「なんでこんなことをしなきゃならないんだよ……」
大広間に連れ行かれた俺は、豪華そうな長机に置かれた大量の資料を読んでいた。すべて学校についての知識であり学問でもある。いわば教材の類だ。
「諦めてください。学校というものを知らない君にとっては、無知というものはあまりに危険な場所ですので」
執事はそう脅しながらも、早く読みなさいと勧めてくる。量だけでなく、これら全てを理解しないといけないのだ。それも今日一晩でだ。はっきり言って無理だ。
「つっても勉学なんざ俺には全く無縁な話だぜ? むしろ実力主義の世界で生きてきたんだから」
「あっちもこっちも同じことです。ただ使う獲物が違うだけです。ナイフと知識の本は、同等な物なのです」
なんだか意味が分からなくなってきた。なんだって俺は学校とやらに行くことになったのやら。
「全くもって、こんな量覚えられるわけないだろうが」
「愚痴を言う暇があれば読むのです。私でもそこら辺の知識はあっちの世界でも知ってましたよ」
「わかったよっ! 読めばいいんだろっ!? 読めばっ!?」
「その通りです。私も微力ながらお手伝いさせていただきますので」
分厚い本を手に取り、頭のなかに詰め込んでいく。これは、数学? よく分からない数字の羅列が並んでいる。これは暗号化何かの類か?
「よく、君は依頼を受けてくださいましたね?」
「んあ?」
横に座ってコーヒーを飲んでいる執事が、ふと尋ねてきた。
「いえ、わざわざ君はこんな面倒な依頼を受けてくださるとは思っていなかったので」
「そうだろうな。俺も思ってもいなかったよ」
一度、本から執事へと目線を変える。
「俺も最初は胡散臭いとは思ってたさ。こんな簡単なもので報酬金が高過ぎる、ってな。でも、他に仕事がなかったからだ」
あまりに仕事がなさすぎて、金に困っていたのは事実だ。そろそろマズい頃にタイミングよくきた依頼だ。
「……先に申し上げときます。依頼が届かなくなったのは、私たちのせいです」
「なんだと?」
「君に繋がるであろう依頼主を、全てこちらで済ませてしまいました。そして、ここ最近君に依頼していたのは私なのです」
「そんなバカなことが――」
「これが証拠です」
執事が、手にしていたタブレットを俺に見せる。メールのやりとりをしているソフトだ。内容は執事が言ったとおりだった。
「マジかよ……」
全部、俺が最近依頼されていた内容だった。護衛や撃退を行ってくれという依頼ばかりで、名前も一致していた。
「申し訳ございません。全て、君に来てもらいたかったためなのです」
「なんで、こんな周りくどいことしたんだ?」
「依頼を頼んだのは、君がお嬢様を守ってくれるほどの力を持っているかテストしていたのです」
「そうじゃなくてだ。わざわざ俺の依頼主との連絡を断ち切らせて、俺をここに呼んだ理由は何だ?」
あまりにおかしすぎる。俺に依頼するだけならまだしも、ここまでやる必要はないはずだ。
「そこまでは私からは言えません」
「……そうかい。んでも、俺は嫌々この依頼を受けたわけじゃないからな」
「それは良かったです。無理やり頼んだものですから、少し心配しておりましたので」
「まぁ、こっちの世界のことも、少しは知りたいと思っていたからな」
俺の知らない世界。不安もあるけれど、知りたいという好奇心もあった。
「左様ですか。では、口を動かすのはそのくらいにして、そろそろ勉学に戻りましょうか」
「分かったよ。まったく、小休憩くらいいいだろうに」
「もう五分も休憩しましたよ。夜もそんなに長くはありませんので」
「はいはい。一通り読むよ」
「ダメです。ちゃんと理解してください」
執事は厳しく言うが、量が量だ。少しは妥協して欲しい。
結局、時計の短針が四時の方向を向くまで、俺は寝ることを許されなかった。