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20 壁の外

 青く染まりはじめた夕暮れの中、眼下にはあふれんばかりの光が広がっている。

 私たちが地下で逃げ惑っているうちに、どうやら地上では夕闇が支配する時刻になっていたらしい。

煌々と輝く光、ヒカリ、ひかり……それは、ぼんやりと濃淡がありながらも、薄闇を塗りつぶすかのように吞み込んで昼間のような明るさを地上にもたらしていた。

 私とエレーヌ様は、しばし無言でその光景を眺める。


「……なんて、美しい光景なのでしょう……」


 どこか呑気にも聞こえるその声音に、私ははっとした。

(私たちが逃げ込んだのは王宮の地下で……なのに視界に遮るものがないってことは、きっと……)

 きょろきょろと見回し、そして自分たちの背後に己の身長よりも高い塀があることに気づいて、思わず額を押さえた。

(あーーー……)

 やらかしてしまった。思わずため息がこぼれる。


「……妃殿下?」

 エレーヌ様が不思議そうに首を傾げる。

「……外に……出てしまいました」

「そと?」

「はい。ここは、王宮の外です」


 そう。ここは王宮を囲む外壁の外側だった。

 背後の壁を見上げる。実に私の身長の三倍はある高さ……聳え立つその威容は重量級の威圧感がある。この壁を上ることは、まず正攻法では無理だろう。

 もう一枚最外壁があるけれど、最外壁は壁というよりは柵のようなもの。これは王宮の敷地と王都とを分ける区切りでしかないので、この白い外壁こそが実質、王宮を守る城壁と言ってもいい。

 前に向きなおって目線を少し下にやれば最外壁の柵が目に入る。

(どう考えても、王宮に戻るより外に出る方が楽ですね)

 別に外に出たことがないわけじゃない。これまでだって数えるほどではあるけれど、お忍びで王宮の外に連れて行ってもらったことがある。

 でもそれは、いつだって絶対の安全が確保されていた。

(殿下と一緒だったから……)


 王宮の中でずっと息苦しさを感じていて、自由に外に出ることを夢見ていたはずなのに、いざこうして外に出る機会が巡ってくると自由を感じる嬉しさよりもどうしていいかわからない不安を強く感じる。

 そして、何よりもいつも自分を守ってくれる人がいないというこの心細さときたら!

(……ずっと一人で大丈夫だったはずなのにな)

 もちろん、己の幼さでは皆の助けを借りなければ何もできないことはわかっているけれど、でも、自分でしっかりと殿下の隣に立っているつもりでいた。

(なのに、こんなにも頼りにしていたんだ……)

 こんな状況ではあったけれど外に出られたことは素直に嬉しい。でも、つい傍らに立つ人の存在を求めてしまう。


(ナディルさま……)


 夫……王太子ナディル・エセルバート=ディア=ディール=ヴェラ=ダーディエ殿下。

 そこにはいないことはわかっているのについ傍らを見上げてしまうのは、もう癖になっているのかもしれない。

 深い呼吸を一つして、ぐっと拳を握り締めて気持ちを立て直す。

(これ、たぶんお説教されるけど……)

 でも、それは仕方ない。あの時、逃げないという選択肢はなかったし、地下に逃げ込んだのも間違いじゃないと思っている。

(あの場所でおとなしく助けを待っていられるような勇気はないんです)


「……妃殿下、ここは、どこなのでしょうか?」


 おそらく初めて見るだろう王都の姿に見惚れていたエレーヌ様も、ようやく周辺に気を回す余裕ができたらしく不安げな表情で私に問うた。


「……王宮の外です」


 すごいバカな答えだとおもったけれど、それ以上は私にもわからない。

 見たままだけど……でも、本当にそれくらいしかわからない。

(塔があって、鐘楼があって……えーと、私がよく見ている景色からすると、たぶんずっと北よりだと思うんだけど)

 だいたい、エレーヌ様と私という組み合わせが酷すぎる。

(たぶんこの国で一、二を争う箱入りだと思うんだよ、私たちって)


「私の事情に妃殿下を巻き込んでしまって申し訳ございません」

 エレーヌ様はその場で膝をついて頭を下げた。

「立ってください。エレーヌ様のせいではないかもしれません」

「でも……」

「もしかしたら、狙われたのは私かもしれないじゃないですか」

「……その可能性がないとはいえませんが、私の方がより可能性が高いと思います」

 心当たりのあるエレーヌ様は、ゆるゆると首を横に振る。

「ここで悩んでいても埒があきません。それよりも、まずは今後のことを考えましょう」


 私はエレーヌ様の肩に触れ、再度立ち上がるように促した。

 身分のことを考えれば、私の前で皆が膝をつくのは当たり前のことなのだけれど、まだ慣れることはできない。

「今後のことですか?」

「はい」

 私は、背後の壁に顔を近づけてよーく観察しながら、周囲をペタペタと触れる。

 見知らぬ景色に見惚れている間に、さっきまでぽっかりと空いていたはずの出口がいつの間にか消えてしまったのだ。

(継ぎ目は見当たらない……)

 これも何かのからくりなのだろうが、触れても出口や扉が現れる様子はない。

(……ってことは、これは一方通行の出口ってことだと思う)

 中からしか開けられないタイプで、たぶん、ここから戻ることはできない。


「……今使った出口から戻ることは不可能なようです」

「まあ……」


 どうしましょう、とエレーヌ様は困惑の表情を見せる。


「この外壁の周辺をぐるりと回れば、どこかに入り口があるかもしれませんが……」

「でもその間、不審者に間違えられてしまったり、私たちとわかれば騒ぎになってしまいますわね」

「ええ、そうです」


 それはまずい、と私とエレーヌ様の意見は一致した。


「それに、先に見つけてくれるのが味方とは限りません」

 さっき私たちを狙ってきた輩が先に見つけるということもある。

「……では、どうしたらいいのでしょう?」


 エレーヌ様は不安げな顔で私を見た。

 そう問いたいのは私だよ、と思いながらも、私の気持ちには余裕がある。

 あんまり嬉しくないことながら、突発事態には慣れている。

(……最初にこの世界で目覚めた時よりも驚くことって、あんまりないと思うんだよね)

 だから、私は大概のことには余裕をもって接することができると思う。


(……ああ、そっか)

 同時に腑に落ちた。

(エレーヌ様を年長の老婦人と思わなければいいんだ)

 言葉はあんまりよくないかもしれないけれど、エレーヌ様はものすごく頑丈な箱入りのままこの年齢までずっと保管……というか保護されてきてしまったお姫様だ。

いわば究極の世間知らずで、かつ、強力に庇護されてきたせいで自主的な積極性に欠けるようなところがある。

 現況は私も人のことを言える状態ではないんだけど……もしかしたら、それ以上に悪いかもしれないのだけれど、異なる世界とはいえ三十三歳の社会人として生活してきた経験がいろいろと助けてくれている。

 だから、こういう事態になったときに積極的に自分で動くことを躊躇うことはない。

 対して、エレーヌ様は自分でどうこうしようという意欲というか気概というか、そういう積極性はまったくないように思える。


 たぶん、幼少時からの家庭環境がそういうものだったのだと思う。

(普通ならこんなスポイル状態、どこかで絶対に破綻するんだけど……)

 普通なら結婚した時に生家と婚家の違いに対するカルチャーショックとともに、盛大にそれまでの価値観をぶち壊されるところだけれど、エレーヌ様の護り手……騎士たるのはグラーシェス老公で、その守護は強力でなおかつ鉄壁だった ──── 結果、ありえない状態のまま、ここまで来てしまったのだ。

 その是非についてはともかくとして、エレーヌ様が年長者だからと遠慮していたらいつまでたってもここから一歩も動けないだろう。


「エレーヌ様」

「はい」

「ここでこうしていても、たぶん、迎えは来ません」

「……はい」

 エレーヌ様は素直にうなづく。育ちの良さからくるこの鷹揚さは得難いものだ。変に騒ぎ立てないのも有難い。

「……無謀かなとも思わないでもありませんが、一度、街へ降りましょう」

「街へ、ですか?」

「はい」


 王宮は、小高い丘の上にある。……というか、この小高い丘を含んだ一帯がすべて王宮の敷地なのだ。外壁の外にいるということは、私たちは知らないうちに地下を随分と下ってしまったらしい。

(階段なんてほとんど下りなかったのに……)


「一応、まだ完全には丘からおりていませんから王宮の敷地内にいますけれど、こんな場所で不審者として見つかったり、あるいは大騒ぎになってしまうよりは、一度ここを離れて態勢を整えてからこっそりと帰るのがいいと思うのです」

「……そうですね。で、あれば、王都の我が家においでいただくのが良いのではないかと思います」


 躊躇いがちな口調でエレーヌ様が言った。

(……そっか。王宮に戻る事ばかり考えていたけれど、エレーヌ様は別に王宮に戻る必要はないんだわ)


「それは有難いです」


 外から帰るために街へ降りることは決めていたけれど、具体的にはどうするべきか決めあぐねていた。

(……王宮よりも、公爵家の方が戻りやすいよね)

 できれば王宮近くから離れたくない、というのが私の正直な気持ちだったけど、近くにいても戻る手立てがあるわけではない。戻る方法にしても、一番近い離宮に駆け込んでそこから王宮に戻るか、あるいは、外からつながっている地下通路を使ってこっそりと戻れないかと考えたくらいだった。

(ちょっと無謀な気もしますが……)


 王都に暮らしている人間はほとんど気にしないことだけれど、この王都アル・グレアは地下にも都があるのだ……地に沈んだ都市遺跡が。

 そう。古代の遺跡の上に建っているのは何も王宮ばかりではない。この王都アル・グレア全体が都市遺跡の上にある。

(……ナディル様が言っていました。アルセイ=ネイは王宮だけでなく、王都の都市計画にも携わっていたって)

 あの伝説の天才建築家アルセイ=ネイは、王宮ばかりでなく、王都もまた遺跡を利用して作り上げた。


 王都の地下に人は住むことができない。

 けれど、通ることのできる道はある────王宮と同じように縦横無尽に走る地下の道が。

(王宮の地下と違って衛兵も番人もいない代わりに、その大半が水路になっていて、別な意味での危険があるんだよね)


 そして、当然、王宮へと続く道もある。   


 私が知っているのは二つ。

 一つがナディル殿下に教えてもらった、王宮と今は中央師団の詰所となっている一番最初の政庁があった場所を結ぶ通路。

 これは実際に使ったことがある。ただ、中央師団の詰所として使われている場所だから、普通よりも警戒が厳重だ。こちらの身分を明かさずに敷地内に入ることはできないし、身分を明かせば大騒ぎになるだろう。

 二つ目が西宮の聖堂と王都大聖堂とを結ぶ通路。

 これは私は使ったことはないけれど、使えることは知っている。実際にそこをよく使っているというシオン猊下から詳しく聞いたから。

(問題は、地上の道と地下の道は一致していないってことと、私が道をあんまり知らないってことだ)

 話に聞くのと、実際に歩くのは大違いってやつだからね! 


 それに、地上で迷子になるのと違って地下で迷子になるのはもはや迷子ではなく遭難だ。たぶん、生命にかかわる。

 王宮の研究者たちが『地下迷宮』とか『王都迷宮』とか言うのは伊達ではないと私は思っている。そんな場所に正確な道を知らずに踏み込む気にはなれない。

(正確な道を知っていたって、私の場合、危険だし!)

 いつも殿下に抱き上げられて移動していたから、あんまり意識することはなかったのだけれど、どうも私はかなり方向音痴っぽいのだ。


 そして、離宮に駆け込むのにもちょっと躊躇う理由がある。

 というのは、王都にある二つの離宮は、今はそれぞれ前王の王妃様方……ユーリア第一王妃とアルジェナ第二王妃を主としているからだ。

つまり離宮に駆け込めば、ユーリア妃殿下かアルジェナ妃殿下に今回のことがバレてしまう。

(それも、できれば避けたい)

 だから、エレーヌ様の申し出は私にはとてもありがたかった。

(で、公爵家からこっそりと使者をだしてもらって、お迎えに来てもらうのがいいと思うんだよね)


「グラーシェス公爵家の王都屋敷は、旧市街の最も北端でしたよね?」


 頭の中で、王都の大まかな地図を思い描く。

 どこに何があるのかくらいはだいたい知っているのだ。知っているだけで、現実にそこに行ったことはないのだけれど。


「はい。北の鐘楼のすぐ近くで……毎日、とても賑やかですのよ」


(………ならば、鐘が鳴ればだいたいの場所がわかるはず)

 王都に住んでいる人はわりとできると思うんだけど、私は鐘楼の鐘の音を聞き分けられる。

だから、聞こえてくる音の中から北の鐘の音を聞き分けて、どちらの方向からのものかが解れば、そちらを目指せばいい。


(問題は、たぶん歩いて行ける距離ではないことです)

 今日の靴の踵はほとんどペタンコでとても歩きやすいけれど、私もエレーヌ様もそれほど長い距離は歩けない。そもそもの基礎体力がないからだ。かつての十連勤だってどんとこいだった体力の十分の一もない気がする。


(それと、この格好ですね)

 どちらも普段着で華美ではないけれど、質の良い布地とレースを贅沢に使ったガウン姿だ。しかも、外に出ることなど想定していなかったからかなりの薄着である。


(王都はまだまだ寒いですし……)

 暦の上では春が来たと言うけれど、外出するにはマントやコートが必要だ。

くしゅん、とタイミングよくエレーヌ様がくしゃみをした。

(……うん。早急に上着が必要です)

 一度意識しはじめると、何だかすごく寒いような気がしてくるから不思議だ。今は動いているからそれほど寒さを意識しないでいられるけれど、これからだんだんと夜も更けてくる。そうなればさらに気温は下がってくるだろう。

 自分の恰好を見ながら、頭の中で再度点検する。

(肌着の上にシュミーズを重ねてて、その上にソフトタイプのコルセットとレースのパニエ。それからアンダードレスとオーバーガウン……充分重ね着はしてるはずだけど、一部、どうしても防寒できてませんよね)


 具体的に言えば、デコルテ周辺というか……首まわりね。

 今、流行しはじめているタイプのガウンは大きくデコルテが開いているもので、私が着ているガウンもそう。

 これは、遅い時間に着るものほどデコルテが開いたデザインになる。朝だと今私が着ているように首回りが開いているくらいだけど、夜になると大胆に肩を出す人もいるくらい。まだまだ流行しはじめだから、様子見をしている人が多いけれど、そのうちもっと大胆に胸元をみせたりする人も現れるかもしれない。

 エレーヌ様は首回りをショールで隠すタイプのドレスを着ているから、私よりはだいぶ温かいはずだけれど、それでもこの格好でいつまでもいられるものではないだろう。

(……それに、この格好で街を歩いていたらすごく目立つと思う)


 遠目に見える街を行き交う人々の服の色は全体的にくすんでいる。というのは、外套とかマントなどの防寒具に一番多い色が灰色だからだ。

 アリスに聞いたのだけれど、外套などは汚れやすいから、皆汚れが目立たない色を選ぶ傾向にあるのだという。一番人気は灰色。次が茶色やカーキ色になる。汚れが一番目立たないのは黒とか紺じゃないのかな? と思ったんだけど、黒や紺は染めるのが割高だからあまり選ばれないのだそうだ。

 エレーヌ様のガウンの色はクリーム色で、私のガウンの色は鮮やかな孔雀緑色。どちらも、灰色や茶色の中ではさぞ目立つだろう。


(でも、とりあえずはここを下りないと……)


私は頭の中で、眼下に見える下町に降りることを検討しはじめた。

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