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プロローグ


「……さ、寒い」


 家に帰り着くなり、私はその寒さに震えた。

 一人暮らしの家は、寒い。体感として寒いというだけではなく、こう、何か心理的にも。

 三十すぎて独身だからわびしいんだろって言われると言い返す言葉がないんだけど。

(でも、別に不自由感じてないし、淋しくないって言えば嘘になるけど、だからってなりふり構わず結婚したいってわけでもないし……)

 一昔前だと負け犬女だとか言われたかもしれないけれど、別に負けたとかも思わない。

 それに、自由に好きなことができる今の生活に満足もしてる。

「さーむーいー」

 誰も答えない暗い家の中で手探りで照明のスイッチみつけて、つける。

 今朝、出かけたときのままにテーブルの上に書きかけのレシピが置きっぱなしだった。

「お湯、お湯」

 電気ケトルのスイッチをいれる。

 家に帰ってくると、何か温かいものを飲んで身体を暖めるのがいつものルーティン。

「今日は何にしようかな」

 何かと声を出すのも一人暮らしの特徴かもしれない。つい、何でもなくても声に出して言ってしまう。

 こたえてくれる人はいないのに。

 テーブルの上の籠には、手作りの柚子茶とかいろんな味の生姜湯の素の瓶詰めや、ネットで買ったお気に入りの白桃烏龍茶の缶なんかがまとめていれてあって、お湯さえあればいつでも飲めるようになっている。

 選ぶ楽しみっていうのが生活の潤いになると思うんだよね。

「今日は冷えるから、檸檬生姜湯にしよっと」

 スライスした檸檬と生姜をハチミツに漬けてある。これは去年漬けたもの。ハチミツにしっかり漬かっていれば檸檬は腐らない。これをお湯に溶かすと甘くて、喉に良くて、身体の温まる冬にぴったりな甘いホットドリンクができる。夏だったら氷をいれて冷たくして飲んでも美味しい。いわば、ジンジャーレモネードだ。

 エアコンはあるけどあんまり使っていない。築二十二年の年代モノの平屋だから隙間風がすごいのだ。

 温まることは温まるけど、電気代がもったいない気がする。コストパフォーマンス的にイマイチな感じ。

 お湯を沸かしている間にコートを脱いで、寝室へと足を向ける。

「やっぱり、ここに忘れてたか……」

 ベッドサイドに置きっぱなしだった携帯電話を発見して、ちょっとほっとした。

 淡いピンクゴールドの色合いの携帯は、三年前の年代物。こんなに厚みのある携帯は今時ないって職場の子たちによく言われる。新しいモデルが発表されるたびに迷うんだけど、なかなか全てが気に入るような携帯が見つからなくて未だに買い替えられない。

 画面を見たら着信が七件も入っていた。

 半日見なくて七件が多いか少ないかは人によると思うけど、私にはだいぶ多い。

「あれ、匂坂先輩だ……」

 珍しく留守電が入ってたので再生してみる。

『まやちゃん?匂坂です。メールもリターンもないからたぶん携帯忘れてるんだと思うけど……帰ってきたら電話ちょうだい。仕事があります』

「……すいません。その通りです~」

 テレビや留守電やそういったものと会話してしまうのも一人暮らしが長い人間のクセのようなものだと思う。

 私は、携帯電話に手を合わせて小さく謝った。 




 私、和泉麻耶は、本業はパティシエで副業がワインバーの臨時コックをしている。

 女だからパティシエールって言うべきなのかもしれないけど、お店の名刺の肩書きがチーフ・パティシエなのでいつもパティシエって言ってしまう。本業、副業のどちらにしても、自分で名乗るときは料理人とか、料理関係の仕事ですで済ませている。

 本業で働いているのは銀座の裏通りにあるフルーツタルト専門店で、ここは雑誌にもしょっちゅうとりあげられる人気の店だ。

 私は三人いるチーフの一人。

 お店には見習いも含めるとパティシエは12人いて、4人が一つのチームになってる。

 チーフの特権は、接客に出なくていいこと。接客しているとお客さんの声が聞けてそれはそれで嬉しいんだけど、私は作っている方が好きだから昇格したときは嬉しかった。

 仕事は嫌いじゃないけど、でもちょっと物足りないところもある。

 当然のことだけど、店ではレシピが厳密に決まっているから自分で工夫するとかそういう余地がないし、季節によって多少の違いはあれど、毎日、毎日、同じものしか作れないって言うのはちょっとストレスがたまる。

 

 そこを補っているのが、もう一つの職場だ。

 私は、週に一、二回、ローテーションで店が休みの前日の夜だけ、うちの店に勤めていた先輩の旦那さんが経営しているワインバーの厨房に入ってる。

 ここはお酒のメニューはあっても、料理のメニューがない。その日仕入れた材料で、お客さんの選んだワインに合う料理を作るのが売りの一つだ。

 オープンキッチンのカウンターは常にお客さんにみられているし、メニューがないっていうのはなかなか難しくて気が抜けない。お客さんとのコミュニケーションとりながらメニューを決めて作るから、料理なんだけど、なんか真剣勝負!って感じがする。その程よい緊張感がすごく好き。

 夜遅い割にはお給料は安いしちょっとキツいこともあるけど、味にうるさいお客様に鍛えられながらワインの味も覚えることが出来て、ここで働くのも、私には大事な時間になっている。

 休みの日にバイトしてるんじゃあ休みにならないんじゃないってよく言われるけど、例えば、休日を趣味に費やすのと同じって思えてもらえばいいかも。

 普通の人は、仕事が休みの日に趣味に時間使うでしょ。それと一緒。

 私の場合はそうやって自分の好きなことをしながら、バイト代までいただけてしまうのだから、まさに一石二鳥なのだ。



「……忙しいのかな?先輩」

 匂坂先輩にリターンしたけどかからなかった。

 メールをいれて、キッチンに立つ。

 料理人は家では料理したくないって人も多いけど、私は家でもする。

 いろいろ研究も兼ねているので斬新な献立ができあがることも珍しくない。もちろん、責任持って最後まで食べるのが基本だ……どうしても食べられないものができることもあるけど。

 大家さんちの離れであるこの平屋は、料理好きだったというおばあさんが住んでいたそうだ。

 そのせいで、台所はなかなか充実している。

 いろいろ考えられて設計されていて使い勝手がなかなかいいし、何よりも、オーブンがついてるのが最高だ。賃貸でこんな本格的なオーブンがあるキッチンというのはすごく珍しい。

 このオーブンがこの家を借りる一番の決め手だった。


 今日の私の夕食のメニューはおでんだ。

 私はおでんを作るとき、土鍋を使う。一度煮込んだ後、鍋ごと新聞紙にくるんで毛布に包んで保温するの。朝それをやっておくと、帰ってきたときにはすごーく味がしみこんでいる。いわば保温調理。専用の鍋もあるみたいだけど、そんなの全然いらない。土鍋ならごはんだって炊けるしいろいろ使えるから一人暮らしでも大きめ土鍋は必需品だ。

 おでんを温めながら、大根や人参の皮のきんぴらを作ってて気がついた。


(辛子がない……)


 辛子なしのおでんなんて、プリンにカラメルソースがかかってないようなもの!私は断固として辛子を要求する!!な~んて、エキサイトしてみても一人暮らしだからね。自分で買いに行くしかない。

(仕方ないなぁ)

 徒歩三分のコンビニに買いに行く事にした。

 スーパーの方が安いんだけど、ちょっと距離がある。この時間じゃあちょっと行く気にならない。

 最近はどこも物騒だ。ここらへんは大通りも近いし、街灯も多いからまだマシ。こういう時は都会でよかったなぁと思う。

 コンビニのあかりが見えてほっとした。

 あのロゴの看板を見ると何となく安心するのは東京生活に馴れたせいだろう。

 もともとの出身は北海道の山ん中なんだけど、もう、東京に来てから10年以上が経った、

 横断歩道の信号が青になる。

 足を踏み出した瞬間にキキーッという耳障りなブレーキ音と誰かの悲鳴が聞こえた。


(……まぶし……)


 なんで眩しいのかわかったと思った瞬間に私の身体はふわりと宙に舞い、そして、意識はホワイトアウトした。




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