穏やかな日常
今までは全て自己流で、ただがむしゃらに剣を振るってきた。それも、その「剣」に怯えながらだ。本当は、出来ることならば一生持ちたくはないと思っていた剣だったからだ。
でも、今日からは自分の意志で持つんだ。それも、ひとに教わりながらだ。自然と、柄を握る手に力が込められた。俺は村を出てからはじめて、師事を受けるんだ。そう意気込む。
それを知ってか知らずか、ルシエルはにこりと微笑みながら俺を受け入れてくれた。いつでも彼は、俺よりも先に指定場所に居る。そして、俺を待っていてくれる。それは、ルシエルが俺を「待つ」ことは当たり前なのだと、思わず錯覚してしまうほどだ。落ち着いていて、優雅に俺を招き入れた。
「とりあえず、私と一度剣を交えてみようか。君の力がどれほどのものか知っておきたい。ほら、構えて?」
二日間、ルシエルは丸腰で俺の前に現れたのだが、今日はルシエルも剣を携えてきていた。これといった特徴もない、普通の剣だ。俺の物と見たところ同じだから、城で支給されているものだと思う。普通の剣といっても、他国で主流の銅剣ではなく、銅より質のよい鉄の剣だ。
俺は言われるがままに、ルシエルに向かって剣を構えた。これでも、そこらの兵士よりは強いと自負している。だから、この男がどれほど強いのかは分からないけれども、それなりにはやり合えると思っていたんだ。
しかし、俺の考えは甘かったと思い知らされる。
(なんだよ……こいつ、一撃も入らない!?)
俺の剣は、ことごとくルシエルに返された。向こうは一度も攻撃してこない。ただ、俺の剣を受け止めたりいなして交わしてくるだけだ。それが返って俺に火を注ぎ、俺はだんだんムキになって、本気で打ち込みだした。真剣同士でやりあっているというのにも関わらず、相手の怪我など考えずに俺は踏み込んだ。
それでもなお、結果は変わらなかった。ただ一度、ルシエルが剣を下から上に向かって払ってきた。それによって、俺は剣もろとも吹っ飛ばされた。確かにルシエルよりも俺はずいぶんと身体が小さい。でも、ルシエルだって決して大柄ではなく、むしろ小柄な体型。肉付きも殆どなく、どちらかといえばひょろりとした印象を持たせる。そんな彼の一体どこに、これだけの力が隠されているというんだ。俺は受身も取れずに地べたに打ちのめされた。尻餅をつくと、振り払われた剣は宙を舞って少し遠くへ転がった。
「ふ~ん……なるほどね」
そう呟くと、ルシエルは剣を鞘に収めた。俺としては不服で、すぐさま立ち上がり、剣を拾って向き直った。多からずとも、少しはルシエルとやり合えると思っていた俺にとって、これは屈辱的なことだったのだ。
「待ってくれよ! まだ、勝負はついていない!」
そして再び剣を構えなおしたのだが、ルシエルは俺を相手にはしてくれなかった。
「別に、勝負をしていた訳ではないよ。君の力は分かったから、もういい」
なんだか、勝ち逃げされたみたいで釈然としなかったけれども、これ以上続けても勝てないと自分でも分かっていたから、俺はやむなく剣を下ろした。自分よりもルシエルは強いと、やりあう前から予測はしていた。けれども、ここまで歯が立たないとは、悔しくて手が震えた。
「率直な感想だけれども……」
俺の二年間の賜物は、この男にとってどれ程のものなのか、気になった。あんな奴のために始めた自己流の剣術修行だったけれども、それでも毎日欠かさずやって来たんだ。もしもあまりに低い評価が下されたら、少々へこむ……いや、かなり。俺は、ごくりと息を飲んだ。ただ、この結果で最高の褒め言葉がもらえるとも思ってはいない。少しでも良いから、認められたかっただけだ。そんな淡い期待を持ちながら、ルシエルの言葉を待った。
「基礎がなってないね。動きはそんなに悪くはないんだけど……まずはきちんとした基礎を身に着けないと、結局何も身にはならない。今まで誰に習っていたんだい?」
期待は簡単に打ちのめされた。俺の今までの努力は無駄だったのか? 基礎がなっていない? そんなことを言われても、基礎なんて知らないんだから、仕方ないじゃないか。そんなものを、教えてくれるひとなんて周りに誰も居なかったのだから。
俺には何もなかった。才能も、教えてくれるひとも何もなかった。だからこそ、ひとりで必死に喰らいついてやってきたのに、無駄だったというのか。俺はあからさまに肩を落とした。
「……誰からも、教わったことはない」
小さくそう呟くと、ルシエルは驚きながらも、なんだか喜んでいるような顔をして見せた。笑っている。ルシエルはよく笑みを浮かべる人物だと思った。
「誰からも教わっていない……か。それでここまで出来ていれば、大した物だよ。やはり素質があるのかな。それならば、なおさら基礎を身に着けたほうが良い。基礎が出来上がれば、一気に上達するからね。見たところ、変な癖もついていないようだし、すぐに教えたことを飲み込んでくれそうだ」
(これは……褒められているんだよな?)
そう思った俺は、素直にそのことを心の中で喜んだ。この地獄のような二年間が、無駄にはなっていなかったからだ。ただがむしゃらに握ってきた剣だけれども、もう二度と持たないと決めたはずだった剣だったけれども、今では俺の大切な相棒だ。生きるために必要なものだ。だから、それが少しでも認められると嬉しかった。否定されっぱなしでは、立ち直れまい。
「では、さっそくはじめようか。ほら、これで素振りから練習しよう」
そう言ってルシエルは、竹で出来た剣のような物を俺に渡した。ルシエル自身も、俺に渡したそれと、同じ長さのある物を手にしていた。
「……なんだよ、これ」
剣のような重みもなく、なんだか持った心地のしない物であった。俺は、一気にレベルダウンされたような気がして、乗り気ではなかった。けれども、そんな俺の気持ちはおかまいなしで、ルシエルは上着を脱ぎ始めた。俺とは対照的で、ものすごくやる気を見せている。
堅苦しい軍服を脱ぐと、ルシエルはそれを綺麗にたたんで木陰に置いた。軍服の下にはカッターシャツを着ていた。妙な組み合わせだと思いつつ、俺はルシエルの動きと服装に目をやっていた。
ルシエルはシャツの第一ボタンと第二ボタンを片手ではずすと、再び俺の方を見て微笑んだ。
「何って……竹刀だよ? あぁ、そうか。今の時代では、これはめったに使われていないからね。道場でも木刀を使っているらしいし。でも、私はこれの方が好きなんだ。だから、これで練習しよう」
今の時代では? では、別の時代ではこれが主に使われていたということなのだろうか。教養のない俺には、分からないことだ。想像もつかない。
「あんたの好みを聞いているワケじゃ……」
すると、その竹刀とか言うのを急に掲げ、俺の眼前に一気に振り下ろした。攻撃を避けられないと思った俺は、思わず目をつむって衝撃に堪えるべく歯をかみ締めた。けれども、いっこうに予想していた衝撃は襲ってこない。そのことを確認してから、俺は恐る恐る片目ずつ開けた。すると、ルシエルの厳しい表情が見えた。
「カガリ、言ったであろう? 私は君より年上だし、何より今では君の師匠なんだ。そのような呼び方はやめなさい」
「うるさい。俺はまだ、あんたを師匠だとは認めていない!」
ルシエルは竹刀を下げると、何やら数回頷いていた。そして、なぜだか俺に向かって微笑んできた。ここまでくると、笑みは彼の「癖」なのではないかと思えてきた。
「なるほど、確かにそうだね。私は君に、まだ何も教えてはいないし、師匠と認識させる方がどうかしているかな。君の言うことの方が、どうやら一理ありそうだ。では、意見もまとまったことだし、素振りをはじめようか」
(いや、これはまとまったって言うのか?)
この男は、なんだかよく分からない。いや、よくどころか全然分からない。この男の素性も分からなければ、男が考えていることもまるで不明。年だって、俺より年上と勝手に決め付けているけれども、実際のところはどうか分からない。
俺は、この出来損ないの剣のような物で修行するということに疑問を抱いていたのに、なぜだか話は、この男の呼び方に変わってしまっていた。それに、ルシエルはひとりで納得して先に進もうとしている。いつでも俺の意見は無視だ。俺がたとえ何を聞いても、この男は俺の期待している答えなどくれないと半ば諦めはじめた。
結局これ以上は、話を続けさせてもらえそうにもないので、仕方なく俺はルシエルの言うとおりに竹刀を手に構えてみた。
「う~ん……もう少し、肩の力を抜いて」
そう言われても、俺はどう抜けばいいのかよく分からなかった。とりあえず抜こうとしてみたけれど、逆に力が変に入ったような気がする。試行錯誤して色々試しつつもあたふたしていると、ルシエルは俺に歩み寄ってきて、後ろから手を添えてきてくれた。それから、ある程度俺の姿勢を直すと、今度は俺の前に立って構えてみせてくれた。
何だか、構えが変わってから、姿勢が楽になったような気がする。剣って、こうやって持つものなんだと、初めて知った。ちょっとしたことなのに、そのことが少し嬉しかった。
「その構えだよ。いいかい? ちゃんと身につけるんだ。じゃあ、いったんその体勢を崩そうか。竹刀を下ろして。どんな体勢でいるときでも、瞬時にその構えに持っていけるようにするんだ」
俺は、言われた通りにした。昨日まで、あれほどいがみ合っていたのに……まぁ、俺が勝手に噛み付いていただけだけど。どうして今日はこんなにも素直になっているのかが、自分でも分からなかった。俺は、少なからず自分の心境の変化に戸惑いを抱いていた。
竹刀をゆっくり下ろすと、俺は深く息を吐いた。さっきの姿勢を……と、頭の中に思い描いてみる。
「はい、また構えてみて」
「あ、あぁ……」
俺はまた、先ほどのように構えてみた。でも、なんか……また余計な力が加わっているような気がする。先ほど直された後の姿勢とは違うものであることは、自分でも分かった。でも、自分がどういう姿勢をとっていたのか、どういう姿勢をとればいいのか、よく思い出せない。俺は、あれこれ構えなおしてみることで、思い出そうとした。しかし、なんだかどんどんかけ離れていくような感じがした。そのことに、少しずつ焦りを感じてくる。やればやるほど、遠ざかっていくことに、俺は苛立ちを覚えはじめた。同時に、自分の才能のなさに嫌気がさしてくる。
「……っ!」
ついには癇癪をおこして、俺は竹刀を地面に向かって投げつけた。その様子を、ルシエルはただじっと、黙って見ていた。それからしばらくして、ルシエルは困ったような顔をした。まぁ、こんな現実を見れば、誰でも困るだろう。才能があると思ってみたら、開けてみたらところがどっこい。こんなにもどんくさい人間だったのだから。それはもう、がっかりもすることだろう。
「う~ん……あれだね」
男は率直に言ってきた。
「君が今持っている剣の腕というものは、決して才能があったとかいう訳ではないようだ」
分かってはいたけれども、改めてそう言われると俺は、悔しくて……情けなくて、恥ずかしくて、苦しくなった。この男から視線をそらすと、そのまま俯いた。
必死になって堪えていないと、涙がこぼれそうなほどだ。そして、一歩後退すると、そのまま男に背を向けた。すると、不意に後ろから腕を捕まえられた。昨日と似たような光景だ。
「どこへ行く?」
俺は、捕まれていない方の手でこぼれそうになっていた涙を拭った。他人に、涙なんて見せたくない。これ以上無様な格好を見られたくはなかった。
「……分かっただろ? 俺には、才能なんてないんだ。村一番、鈍くてとろくて、弱い奴だったんだから」
その鈍さと脆さと弱さゆえ、俺は多くの者を失い、自分自身をも見失った。だから必死に努力して、せめてこれ以上失うものをなくしたいと、強くなろうと、生きるためにも前を向こうとしたけれども、どれだけ頑張っても、所詮俺は「俺」である。「ライローク」の最弱者で、大馬鹿な愚か者だという事実からは、逃れられないんだ。この事実は、永遠に変えられない。
心の奥底から、闇が押し寄せて来る。
「誰が弱いと言った?」
闇に、全てが飲み込まれていく……そう、思った瞬間だった。
「君は、弱くなどない。本当に弱い人間っていうのはね、自分が弱いという現実に目を背け、強がって、上っ面だけで生きている者。それか、自分は弱いと認識してはいるものの、開き直って、現状に甘んじる者のことを言うんだよ。君は、そのどちらでもない。そして君は、才能を持たずしてここまで剣の腕をあげていた。それは、誰もが認める努力の賜物。才能で得たものよりも、ずっと価値があるじゃないか」
俺は……弱くない? 違う。俺だって、強がって生きている。人に涙を見せたくないのだって、他人に弱いなんて思われたくないからだ。それに、弱いから俺はこうして城に居続けることしかできないんだ。城を飛び出すことすら出来ないんだ。仇であるはずのザレスの犬として、居続けている俺が、強いはずは無い。
弱い俺には、現状を維持することしか……できないんだ。
「俺は……弱い」
言葉を繰り返す俺に対してルシエルは、ふっと息を漏らした。どうしようもない俺に、呆れたのかもしれない。
「弱くなどない。君は、強くなろうとする努力を、誰よりもしているじゃないか」
「弱いからこそ……強くなろうとしているんだろ!?」
ルシエルは、首を横に振った。そして、長く色白の手で、俺の頭を撫でてくる。まるっきり、子ども扱いだ。
「本当の弱者とは、努力するということさえできないものだ」
「何を言っているんだよ! 強いものは……はじめから、努力なんて必要ないだろ!? 弱いからこそ、努力が嫌でも必要になってくるんじゃないか!」
どうしてこの男は、俺を弱者として見ないんだろう。国王も、ジンレートも、俺のことを弱者としか見ないのに。さらには、俺のことを「罪人」としてしか、俺を見ていないというのに。この男は、本人が弱いと言っているのに、どうしてそれを否定してくるんだろう。こんなにも、ひたすらに言い聞かせるように続けるのだろう。
でも、俺の総てを否定されるのとは、何だか違っていた。この男の「否定」とは、されても心の奥底からの苦しみは生まれず、なんだか別の感情がこみ上げてくるんだ。明らかに国王やジンレートの言うものとは違っていた。国王たちの言葉からは、苦しみと悲しみなどの、黒い感情しか生み出さない。
「カガリ。君は、どうして強くなろうとするんだい?」
急に質問が変えられた。どうして強くなろうとするか? そんなの、決まっている。「生きるために」だ。力がないと、戦場に駆り出されてその瞬間に、俺の命は終わってしまう。
俺がこうして生きていることを、死んでいった村の人たちは、許してくれないかもしれない。けれども、俺は……まだ、死にたくないから。生きるためには、力を手に入れる他なかった。
卑怯で、臆病で、ずるいと、自分でも思っている。戦場に出て、敵を倒し、生きながらえる自分のことを、俺はどんどん嫌いになっていく。醜いと思っていく。
「生きる……ためだ」
俺は、ふとルシエルの方を振り返った。すると、彼は俺に向かって微笑んでいた。それは、俺には眩しすぎるくらいの、優しい微笑だった。
「それなら大丈夫。君は、誰にも負けない剣士になる。カガリ、もっと自分に自信を持ちなさい。君は、自分の力を自覚すれば、きっと化けるよ」
そう言って、ルシエルは彼の持っていた方の竹刀を俺に渡した。それは、俺が手にしていたものと全く変わらないと思っていたけれど……少しだけ、違う部分があった。鍔の
部分に、何かが書いてある。俺は、読み書きができないから、なんて書いてあるかは読めないけれども、随分と、古ぼけた字だと思う。
「さぁ、稽古を続けようか。カガリ」
そう言われても、納得していない俺は戸惑った。
「どうしたんだい? 強くなりたいんだろう?」
そういわれては、どうしようもない。俺はしぶしぶながらも再び構えなおしてみた。けれどもやっぱり、上手く出来ない。今まで褒められてきて、やはりこのような姿をさらすのは、なんだか気恥ずかしかった。
「気にしない、気にしない。ほらほら、腕を上げすぎ。突っ張りすぎ」
俺がどれだけ無様な格好をしても、ルシエルはそのときは決して笑わなかった。時折笑みはこぼすけれども、俺を馬鹿にした笑みではなく、見ていて心地の良いものだった。
飲み込みも悪く、なかなかルシエルが見せてくれる手本のようにはできなかったけれども、それでもルシエルは途中で諦めたりなどせず、俺が出来るまで何度でも見本を見せてくれたし、俺の腕を持ちながら、構え方を直してくれたりもした。
「……面倒じゃないのか?」
小休憩を取ろうということになり、湖を眺めながらルシエルの持ってきた白飯を握ったものを、口に運びながら俺は問いかけた。
「何がだい?」
「物覚えの悪い俺に、指導すること」
俺には、食事は満足に与えられていなかった。その為、こんなにもおにぎりが美味しいなんて、久しぶりだった。俺は夢中になって、塩味のみの握り飯を口いっぱいに入れてもぐもぐさせた。
「面倒なんかじゃないよ。むしろ、楽しいかな」
にこやかに笑みを浮かべると、ルシエルもひとつ、ご飯を口にした。貴族のような容姿をしたルシエルに、握り飯はあまり似合わない。ロールパンやクロワッサンなどを口にする方が、様になる気がする。
「何事も、回り道だよ」
「えっ?」
俺は首を傾げた。どういう意味だろう。
「最短距離で物事を会得しても、つまらないものだから」
「どうして? 楽でいいじゃないか」
「まぁ、そのうち分かるよ」
意味深な表情をふとして見せた。どこか、遠くを見つめている深い青色の瞳。そういえば、この男には額に大きな刀傷がある。古い傷のようにも見えるけれども、こんなにも身のこなしの良いルシエルが、頭部に傷を許すなんて、今ではあまり想像がつかなかった。
「その傷……」
「あぁ、これかい?」
ルシエルは、額を指差して答えた。
「昔、ちょっとね」
「お前でも、怪我をすることがあるのか?」
「お前は呼ばわりは、いい加減やめてくれないかい? 私のことは、師匠と呼びなさい」
「それは……」
出来ない。そんな呼び方をしてしまったら、俺がこのルシエルと関わりを持ったということが、一目瞭然。国王やジンレートに、何をされるか分かったものではない。勿論、俺が……ではなく、このルシエルが……だ。いくら強いとはいえ、レイアスの隊長であるジンレートに、卑劣な国王の魔の手にかかれば、殺されてしまう。俺は顔色を曇らせて俯いた。
「そう、心配することはないよ」
「えっ?」
ふと顔を上げると、ルシエルはとても優しい顔で、笑っていた。こんな笑顔を見るのは、本当に久しぶりだった。村のみんなのような、暖かい微笑み。こんなにも堕ちた俺に、このひとは眩しすぎた。
会話のやり取りを繰り返しているうちに、俺も自然とルシエルに対してのとげとげしさがなくなっていったのを自覚した。彼を受け入れるようになっていったのだ。それはきっと、心のどこかではルシエルの力を信じていたからだと思う。そして、ルシエルの持つ温かい人柄に、俺は惹かれていったのだと思う。
城で孤立してから、こんな風にまた人と関われるようになれるなんて、思いもしなかった。俺は一生を、誰とも口を利かずに、孤独に過ごし命尽きるそのときまで、その生き方を続けるのだと思っていた。
勿論、ルシエルが城の人間だということに変わりは無い。俺のことを、本当に知らないのかどうかは定かではないのだが、どちらにせよ、俺にこうして優しくしてくれる人物がひとりでも居るということは、彼に不幸が降りかからないかという心配とともに、俺に安らぎも与えてくれるのであった。
「師匠とは……呼べない」
「それならせめて、名前で呼んでくれないかな」
「……努力はする」
「それで充分だよ」
ルシエルは、また優しく笑った。やわらかな表情からも、気品高さが伺えた。
「さてと、続きをしようか。お腹は膨れたかな?」
「あ、うん。美味しかった」
「それは何より」
ルシエルはゆっくりと立ち上がると、再び竹刀を持って俺の方に向き直った。それを見て、後に続くように俺も竹刀を持ってルシエルの方を向いた。
こうして、俺は構えだけで何日もの日数を費やした。それでもルシエルは、嫌な顔ひとつせずに、俺に付き合ってくれたんだ。
「人それぞれ、ペースは違うんだ。背丈も顔も、性格も、十人十色だろう? だから、ゆっくりカガリのペースで学べばいいんだよ」
そう、微笑むだけで、物覚えの悪い俺に向かって叱咤することはなかった。声を荒げることもなかった。いつだって俺に微笑みかけてくれる。
ただ、剣を教えているときだけは、真剣な眼差しになる。遊び程度の教えではなく、本格的に教えようとしてくれていることがその視線から伝わってきて、それが俺には嬉しかった。
今日は天気がよくて、俺とルシエルは少しだけ遠出していた。もちろん、国王には内緒で……だ。俺がこの人に対して少しずつ。情を寄せはじめていることを、あの男にだけは、絶対にバレてはいけない。もしもばれてしまったら、この人まで国王に……消されてしまう。
「私の顔に、何かついているかい?」
「えっ……」
俺ははっとした。思わずルシエルを見つめていたらしい。でも、国王のことを話したら、この人はもう、俺に剣を教えてくれなくなるだろう。いや、それだけならまだしも、俺とのかかわりを、一切断ち切ってしまうかもしれない。
(……っ!?)
俺は自分の思考に恐怖を覚えた。俺は今、この人の身に脅威が及ぶかもしれないというのに、自分の損得しか考えていないじゃないか。このひとが国王の毒牙にかかることよりも、剣を教えてもらえないことの方が、重大だという考え方をしていたんだ。
俺は、血の気が引いていくのを覚えた。そしてとうとう、俺は震えだした。その震えは徐々に大きくなり、自分でも抑えられなくなってきた。
「俺、俺……っ」
「フェアじゃないなぁ。話さないでおくなんて……」
それを聞いて、俺は凍りついた。見透かされた? 俺が、卑怯者だと。俺が重大なことを隠してルシエルと共に居ることを……。
俺は、どうしていいかわからなくなった。恐る恐るルシエルを見ると、やはりそこには、いつもの笑顔があった。
「国王から、私に会うな……とでも言われたのかい? 君は、国王に変に気に入られているようだからなぁ」
俺は、ルシエルの言葉を聞いて目を見開いた。ルシエルは、俺と国王との本当の関係を知っている?
俺のことを「変に気に入られている」と言った。ただのお気に入りじゃないっていうことを、ルシエルは知っているのか? でも、だったらどうして? なんでそれを承知で俺との関係を築いているんだ……。
どうして国王とのことを知っているのか。それも気になったが、俺をあの「カガリ」だと知った上で、どうしてルシエルは俺と関わりを持とうとしたのだろうか。
「カガリ。罪悪感なんて持たなくていいよ。私は全てを承知の上で、君に剣を教えているんだから。後で国王に何をされても、君に恨みを持ったりはしないよ」
「そんなんじゃねぇ!……やっぱいい。俺はひとりで修行する!」
ルシエルは嘆息し、肩をすくめた。手のかかる子どもを前にした、親のような素振りだ。
「やれやれ。君はどうもピリピリしていて、いけないね。人生、気を楽にしていないと、辛いことが多くなるよ?」
「気を楽にして生きていけたら、どんなにいいんだろうな。俺はそんな楽観主義者ではない!」
だから、どうあがいたって俺には無理な生き方だと思った。
そんなことを思いながら、この日はそのまま城に戻ることにした。やっぱり、人に関わることはもうやめようと思った。特に、この人は城の人間だなんて考えられないくらい、本当に善い人だ。だから、俺なんかのせいで、不幸にはさせたくなかった。させてはいけないと思ったんだ。
この男との剣の稽古は楽しかったから、少し物寂しい気もしたけれど、仕方がない。数日間、久々に温かい人間と関わりあえただけでも、幸せだったんだ。咎人であるはずの俺に与えられた、奇跡の日々だったんだ。奇跡は何度も起こることではない。彼とはこれで終わるんだと、俺は思うことにした。そう言い聞かせるでもしなければ、俺は彼への気持ちを断ち切ることができなかっただろう。
俺はルシエルから渡された竹刀を握り締めたまま、ルシエルに背を向けた。そして、彼に腕を掴まれる前に一気に走り去った。
後ろを振り返ったりなどしない。
決心が揺らがないよう、俺は前だけを見て走ってその場を去った。
ルシエルは、走ってまで俺を追いかけては来なかった。だから俺は、そのままの足で城内に戻った。城に戻ればいつもの鋭い目が俺を待ち望んでいる。俺に対しての嫌な視線を感じつつも、俺は用意されている個室に戻った。これが本来、俺に向けられるべき目なのだ。俺が異端だとしたら、ルシエルもまた、ある意味異端と言えるかもしれない。城の人間らしくないところが、異端と言えそうだ。
個室といっても、俺の部屋には何もない。ベッドすらない。藁をかき集めてきて、それを床に敷いて寝床にしているだけだ。俺は竹刀を壁に立てかけると、藁の上に無造作に寝転んだ。今日は特に予定も何も入っていない。だから今日一日は、ここで寝過ごそうと思った。窓から見える、のどかな青空を見ながら……誰とも顔を合わせることなく、一日を終えようと思った。自分の下した決意に、迷いを生まないようにするためにも……。
ルシエルの瞳と同じ、「青色」の空を見ながら……。




