【3】病院
次の日のお昼、健おじさんの知らせで直輝はまた病院にいる。薬品などの独特の匂いが鼻を刺激する。俺は受付前に並べてある柔らかい一人用のソファに腰掛けていた。そろそろ辻本が現れる頃だと思うのだが……。
健おじさんの聞くところによると、今日退院する日で、病院から出なければならない辻本がどうしても俺に会いたいと言い出し、その場から動いていないそうだ。暴力を振るうことはしていないらしいけど、場合によっては警察に通報しなければならないらしい。このお願いは健おじさんの頼みでもあった。
ズボンのポケットに入れている携帯機のバイブが鳴った。直輝は携帯機を取り出して画面を見てみると、健おじさんから一着のメールが届いていた。内容によると、健おじさんの言うことを、辻本は信用していないらしく、俺が病院にいることを言っても信じてもらえていない。直接病室へ来て欲しい、と言う内容だった。
「はぁ……」
面倒くさい。そう思うのに、なぜ彼女のために服をそろえて、病院まで持ってきたんだろう。おかげで友人らに怪しまれた。「なんで後藤が女物の服を欲しがるんだ? もしかして、好きな人へのプレゼント!?」とかなんとか。さすがに女子から服をもらうのは気が引けたから、俺は一人の女子と買い物して手に入れた。ここまで人のために動いたのは、きっと何か悪い予兆があるからかもしれない。
直輝は隣においた大きな紙袋の取っ手をつかみ、立ち上がった。病院の入り口とは反対側にあるエレベーターまで進んで、乗り込む。
「すみませーん。乗せてくださーい」
もう少しで扉を閉めるボタンを押すところだった。髪の毛をオールバックした金髪の青年が悠々と乗り込んできた。
しかし、ブーと言う音がエレベーター内から響いた。俺一人しか乗っていないけど、どうやら重量オーバーだ。
「は? 何でだよ」
「定員オーバーみたいですね?」
直輝は嫌味たらしく言った。青年は納得しないまま降りた。音は止み、再び静かになった。青年は直輝のことをにらみつけ、エレベーターの隣にある階段を登っていった。なんだあいつ、田舎者か?
直輝は携帯機を取り出して、携帯機に映ったエレベーター内を見た。すると、動物や人がたくさん居た。吹き出しに「早く閉めてくれ」、「わんわん」、「にゃーにゃー」などと書かれていた。
彼らは人のために創られたデータたちだ。いろんな目的があるけど、主に人の心を癒すために創られたらしい。もしくは技術者や開発者の手助けとなるパートナーとして、高性能のデータを創られたとも言われている。この拡張世界は――通称ARと呼ばれているこの世界は――去年創られて以来、普段の生活でも使われるようになった。
「すみません。今押します」
ボタンを押し、綾の居る階まで上がった。
綾の居る病室まで脚を運ぶまで複数の患者が通り過ぎていく。空間に向かって口を開いて何かを語りかけたり、手を使ってしぐさをしたりと、傍から見ればとても奇妙に思える。でも親族や友人らが居ない間、彼らにとってはデータとは唯一の話し相手だ。まだ開発されたばかりのARによって、患者さんの心のケアを務まるかどうかは分からないけど、少しでも患者の具合が良くなればな、と思う。
表札に『辻本綾』と書かれた病室までたどり着き、扉に向かってノックする。「はーい」と若い女性の声が返って来た。ドアノブをひねり、扉を押し開けると、そこにはぽつんとベッドに座っている辻本がいた。辻本の頭には包帯が巻かれていた。赤く滲んでいないことから、新しく取り替えたと見える。
綾は直輝の顔を見るなり、顔に笑みがこぼれた。
「後藤さん! 本当に来てくれたんですね!」
「まあ、ね……。なんで俺のことを会いたがっているのか知らないけど、お前のわがままな行動のせいで、みんなに迷惑をかけているんだ」
直輝の言葉に、綾はしゅんとした。
「ごめんなさい……。私はただ……」
「とりあえずこれに着替えて。一緒に謝りに行くぞ。俺も付き添うから」
「それは?」
綾が指差した方向の先には、直輝が持っている紙袋があった。
「辻本の着替え。汚れた服でぶらぶらするよりも、こっちのほうがいいでしょ」
「え? いいんですか?」
「血でどす黒くなった洋服を着ている人と、一緒に歩きたくないし。着替えてよ」
直輝は紙袋を綾に手渡す。そのとき、直輝の手に綾の手が触れた。すると、顔がしかめるほどの激しい頭痛が直輝を襲った。
――たすけ…て……を。
「後藤さん? 大丈夫……ですか?」
不安そうな綾の呼びかけと同時に痛みはすぐに引いた。
「あ、あぁ……」
あの声は……辻本の声だった。幻聴だなんて、俺、やっぱりどこかが変で、おかしくなっているんじゃないのか。
「やっぱり、私のせいで……」
「いや、違う違う」
直輝が首を振って否定していると、扉が開き、健おじさんが綾の部屋に入ってきた。辻本のわがままで相当疲れてしまったのだろう、少し髪の毛が乱れていた。健おじさんの癖で、困ったときや気を紛らわしたいときに頭をよく掻いたりする。
「あ、健おじさん。こんにちは」
「こんにちは、直輝」
直輝は綾に向かって目で合図を送った。
おい、謝るなら今のうちだぞ。
「先生。その……ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
綾はベッドに座ったまま、深々と頭を下げた。
「まったく、辻本さんには困ったよ。ここの病院は――いや、他のところでもそうだけど――空きがある病室なんてないんだ。あったとしても、一日も満たない期間だ。これ以上うちに障害が起きたら、警察を呼ぼうと思っていたところだよ」
健おじさんの顔は険しいものの、声に迫力がない。温厚だからという理由もあるが、ここが病院だから、大声を出したり、怒鳴ったりしなかったと思う。
健おじさんは優しい声で言った。
「でも、直輝が迎えに来てくれた。約束どおり、退院してもらうよ」
「はい……お世話になりました」
「お大事にね。あ、着替えはあるのかい?」
健おじさんがはっと思いついたように、綾の服装を見てそう言った。いまだに綾の服装は病院から借りた服だった。
「大丈夫です。俺が持ってきてありますから」
「そうかい? じゃあ私はまだ仕事があるから、これで失礼するよ」
直輝と綾はお辞儀した。健おじさんは微笑みながら部屋から出た。
さて、と言いながら綾が立ち上がる。「後藤さん。私、ここで着替えるから、廊下で待ってくれる?」
「あぁ、分かった」
直輝は言われるがままに部屋から出た。
なんでこうなったんだろう。知らない女に手を貸すし、その女から――間接的だけど――会いたいと言われるし。俺らしくない。俺じゃないみたいだ。普段だったら極力貸し借りしないように努め、そして嫌な事や面倒事に巻き込まれないように消極的に行動する。いわゆる、面倒くさがりやだ。
このまま病院から離れようか。辻本から離れようか。一緒に謝りに行くぞとは言ったものの、部屋から出てみたら、なんだかそれが面倒に思えてきた。辻本はただの赤の他人だ。さっさと帰宅したほうがよさそうだ。
「さっきの人か。なぁ、マイガールは知らないかい?」
いつの間にか目の前に、エレベーターに乗ろうとした青年がいた。突然訊いてきたで思わず驚いた。体がびくっと動いたが、すぐに平常心を保つ。
「は?」
「だから、愛しのマイガールはどこかって訊いているんだよ」
愛しのマイガール? お前の彼女のことか?
「知らない」
直輝はそっけなく言った。
「おいおい、それで終わり? 普通訊くだろう? 『名前はなんと言うんですかー』とかさ」
「聞こえませんでしたか? 『知らない』って言ったんですが」
「お前、友だちがいない人だろ? 人が困っているのにその言いぐさはどうかと思うよ? 困っている人に声をかけられたら、素直に助ける。これ、常識ね。まぁ別にいいや。親切じゃない人に何を言っても無駄なのは分かってるし。はぁ、困ったもんだねぇ」
青年は言うだけ言った。ごめんな、外見で先入観を持ってしまうから、お前のことを助けようとは微塵も思っていないんだ。他をあたってくれないか、と心の中で本音を言った。
それにしても、友だち――か。いると言えばいるけど、うっとうしい存在でしかないからなぁ……。それに、辻本のために買ってきた服を買うときに付き添ってくれた女子は、顔見知り程度で名前は分からず、今までに一度か二度くらい話した程度だ。知人はいくらでもいても、友だちはたった一人だ。他の人とは違う、俺の唯一の話し相手だ。
直輝は青年をにらみつけた。「まだ何か?」
「だから言ってるだろ? 何を言っても無駄だって。お前に言ってもどうにもならないよ。じゃあな、寂しい少年さん」
オールバックの青年は、すたすたと歩いていき、長い廊下の角を曲がったところでようやく姿が消えた。
「じゃあね、気障野郎」
直輝はオールバックの青年が見えなくなったところで、小さくそうつぶやいた。
誰だか知らないけど、彼女くらい自力で探せ。院内で迷子になってしまったことを気障野郎の彼女さんに伝えたら、きっと悲しむだろうな。それはつまり、彼女に対してそんな強い想いがないってことだ。無論、俺には関係のないことだけど。
扉が開き、のこのこと綾が部屋から出てきた。服装は赤と黒のチェック柄があるチュニック、ショートパンツを着ていた。初めて見た辻本はどこか幼い感じをかもし出していたが、今着ている服装のせいか、大学生みたいに大人びていた。
「本当にコレ、いいんですか?」
「あ、まぁ……ね」
しまった。気障野郎のせいで辻本の傍から離れる機会を逃してしまった。
「お返しに何か差し上げたらいいんですけど、今は一文無しなので……」
「無理しなくてもいいよ。そんな大金はたいて買ったものじゃないし」
「借りができたら必ず返さないと満足できない主義ですので、絶対にお返ししますね」
そう言って辻本は俺に笑顔を見せた。
これ以上接点を持つのはごめんだ。関わりたくない。
「いや、本当に大丈夫だから……」
弱々しい口調でそう言いながら、頭を掻いた。綾は直輝の困ったような顔を見て黙り込んだ。お互いに視線を下に下ろす。
廊下にただ棒立ちする二人の間に気まずい空気が漂う。逃げたいけれど逃げられない俺と、何を話していればいいのか分からないと思われる辻本。患者や看護婦、医師からはじろじろと見られ、進行の妨げとなっていた。
「外に出ようか?」
情けなくも、必死に考えた結果がこれだ。
「……はい!」
綾は満面の笑みを浮かべる。
直輝の後に綾が続く。直輝は綾と同じ速さで歩く。
綾は直輝の腕に手を伸ばそうとした。しかし、悲しげな顔を小さく横に振り、直輝の横で歩き続けた。
彼女と会うことがきっかけで、いろんな事件に巻き込まれるなんて思いもしなかった。そして別れるときの辛さや痛みが、こんなに苦しいことを初めて知ることになる。