【2】目覚め
病院のある一室で眠そうな直輝は頭をこくり、こくりと動かしながら、女の目覚めを待っていた。深い眠りに落ちる前に、直輝は眠気を無くすために一度立ち上がり背伸びした。なんでこうなったのかなぁ。身元の分からない女に治療費を払うことになったり、胸騒ぎがして夜遅くまで彼女の元でずっと待っているなんて。どうかしているよ、俺。
直輝は椅子に座って大きく欠伸をしていると、直輝の目の端にゆっくりと目を開く女が映った。
驚いた顔つきで、女は突然起き上がった。
「ここは……?」
「ふぅ……やっと起きたか。ここは病院。雨の中、血だらけだったお前をここへ運んだんだぞ」
「……あなたは?」
包帯で巻かれた頭を触りながら女は尋ねた。
「俺は後藤直輝」
「あなたが……直輝」
女は少し笑みを浮かべながら小さくそう呟いた。
ん。俺の名前を知っているのか?
「私は辻本綾。よく分からないけど、助けてくれてありがとう」
「別にいいよ。……って、え? よく分からないってどういう意味なんだ?」
直輝は綾の予想外の返答にきょとんとする。
「私の身に何が遭ったの? どうして怪我してるの?」
「俺に訊いても……。怪我の原因とかは覚えてないのか?」
辻本は、片手で頭を抱えながらしばらく考えていたが、首を横に振った。
「あまり覚えてない。もしかしてこれ……記憶が無くなってる?」
「でも頭部外傷だぞ。脳に異常はなかったから記憶がなくなることはないはずだ」
直輝は断言した。
過去に交通事故に遭ったことがある。頭を怪我したときに記憶がなくなるようなことがあれば、それは脳に異常があると聞いた。内出血によって脳が圧迫されたり、傷つけられたりして、非常に危険な状態になる。もしそうなったらこうやって早く目覚めることはなかったはずだ。ちなみに俺のその交通事故でできた傷は軽く、内出血はしなかった。記憶が無くなるなんてことはなかった。
しかし、辻本も俺と同じように外傷で済んだ。記憶がなくなるはずがない。
「でも……。どうしても思い出せない」
「思い出せないのは怪我する直前と直後なんだな?」
綾は頭を抱えながら必死に記憶を探っている。綾は安心したかのように口の端が若干上がった。
「うん……。他は思い出せられる」
不思議だけど、どうせ自動車事故とかだろう。そろそろ本題へ入ろう。
「ところでさ、辻本さんの両親ってこの近くに住んでいるかな。一応連絡入れたほうがいいと思うんだけど……」
「両親はこの近くにはいないの。あと、お金も住むところもないの」
直輝が次に訊こうと思ったことを答えてくれたので、さらに質問する必要がなくなった。
親も住むところもお金もないとなると、俺がここの病院に治療費などを払わなければならない。貯めてきたお金をこんなことで費やすとは思わなかった。
直輝は下を向いてため息をついた。
「ごめんなさい。助けてくれたのに……」
綾は、直輝が代わりにお金を病院に払わなければいけないと察したのだろうか、申し訳なさそうに謝った。
直輝は笑みのない顔を上げて横に振った。
それより心配していることがある。辻本は住むところもお金もないと言った。無事に退院しても、その後のちゃんとした生活を送れるのだろうか。
でも、俺には関係ないことだ。それに今の生活で精一杯なのに、もう一人分のお金を稼ぐなんて無理だ。それに男一人に女一人はどう考えたって……。あれ、なんで俺は彼女に心配しているんだ? 赤の他人なのに。
「ねぇ。何かポケットに入ってない?」
綾に突然そう訊かれ、直輝の思考は遮られた。
「ポケットの中? なんでそんなことを訊くんだ?」
「いいから」
綾の顔が温厚な顔つきから少し険しい顔つきになっていた。直輝はむっとした顔になる。何でそんな顔をする。俺は恩人だぞ。そう思いながらもポケットに手を突っ込み、中を探る。
「えっと。ハンカチ、財布……。あ、そういえばこんなものを拾ったんだっけかな」
最後に取り出したのは、綾が倒れていたところで拾った羽根だった。真っ暗な空に小さく光を放ち、暖かみのあった青い羽根だ。今もなお、暖かみや光はない。改めて見ると、青は青でも少し深い青だった。
「それ、返して」
直輝は思わず耳を疑った。
「え、この羽根は……お前の? 空から落ちてきたんだぞ」
羽根と綾を一回だけ交互に見ながら言った。綾は少し目を細めた。
「ええ。私のよ」
「渡すついでに教えてくれないか。この羽根は一体何なのか。光ったり、暖かみのある羽根なんて聞いたことがない」
「……」
綾は下に俯き、黙り込んでしまった。この羽根には何か重大な意味があるのか。他の人には教えられないようなことが隠されているのか。直輝は辻本が答えるまでじっと待った。重々しい空気が二人しかいない病室に漂う。外に出て体を動かすようなアウトドア派ではないが、何かをしていないとじっとしていられない。特に病院の診察を待つときや電車の中にいるときは、意味もなく携帯機をいじったりする。今もなにかをして時間をつぶしたい。
綾もこの空気に耐えられなかったのだろうか、とうとう重い口を開いた。
「その羽根は……《ハネ》なのよ」
「……え?」
「カタカナで書いて《ハネ》。つまりただの羽根じゃないの。ここでは見つからない珍しいもの。それだけよ」
「そうかい。それじゃあ、《ハネ》は返すよ」
直輝は辻本に《ハネ》とやらを直接手渡した。
光りや暖かみのある羽根だけだったら、そんなに欲しがるものではないと思うんだけど……。それに、ただ珍しいだけの羽根だったら、そんなに考え込むようなことじゃない気がする。辻本は俺が盗もうとでも思っていたのか? でも、俺はそんなものには興味はない。
綾ははっとなり、元の温厚な顔つきに戻った。
「ごめんね。でもこれは私の大切なものなの」
「いや、俺こそごめん。普段はあまり人に訊かないけど、あまりにも珍しいものだったからつい……」
直輝が頭を下げて謝ると、辻本は口元を両手で隠しながらクスクス笑っていた。
「ん。なんで笑っているんだ?」
直輝は頭を上げるなり、すぐに綾に言った。
「笑ってごめんなさい。私たちが謝罪し合っているのがなんだか可笑しくて」
直輝は綾の笑みにつられ、疲れている顔から笑顔へと変わった。なんだかこの感じ、懐かしいな。
二人で笑い合っていると、扉が突然開き、白衣をまとった病院の先生が現れた。直輝と綾は笑うのを止め、先生の方へ振り向く。現れたその先生は直輝の叔父の健おじさんだった。直輝みたいに身長は高く、体は少しほっそりとしている。そして黒いめがねをかけていた。
「目を覚ましたね。具合はどう? どこか痛いところはある?」
健おじさんは綾に話しかけた。
「はい、大丈夫です」
「君の名前は……」
「辻本綾です。今日はありがとうございました」
綾は一礼した。健おじさんは少し笑みを浮かべる。
「いやいや。無事でなりよりだ」
健おじさんが安心している一方、直輝は浮かない顔で健おじさんに話を切り出した。
「健おじさん。お金のほうだけど……」
「心配するな、直輝。上と相談した結果、おじさんが払うことになった。直輝が払う必要もなくなったわけだ」
「だ、だけど……!」
直輝は思わず椅子から立ち上がる。もしそれが本当だったら、俺がおじさんに迷惑をかけることになる。なるべく、人の迷惑や足手まといをしてしまうようなことはしたくない。ここは俺が支払うべきだ。
しかし、健おじさんは真剣な目で直輝のことを見ていた。目はまっすぐで、微動だにうごいていない。
「まだお前は若い。貯めているお金は将来のことに役立てなさい。分かったかい」
「……はい」
ここは健おじさんの言うとおり、辻本のことは健おじさんに任せたほうがいいかもしれない。
将来、何があるか分からない。大怪我するかもしれないし、結婚するかもしれない。彼女がいないから結婚はまずないとは思うが……。
「本当にありがとうございます、先生」
綾は言った。
「しばらくは安静にしてね。直輝、そろそろ帰った方がいい。明日も大学に行かないといけないんじゃないのかい?」
直輝は腕時計を見て時間を確認する。
今は夜中の二時だ。
時間が分かってしまったせいか、疲労と眠気がどっと押し寄せてきた。
「そうですね。そうさせてもらいます」
直輝は荷物をまとめ、健おじさんの後に続く。そして振り返り、綾に向かって言う。
「お大事にな」
綾は頭を下げただけで何も言わなかった。