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波の帰り道

いつもお読みいただき、ありがとうございます。


第2話の公開が遅れてしまい、申し訳ございません。

前回の内容を見直し、一部修正を加えたため、投稿が遅れました。


より良い作品をお届けしたいと思い、時間をかけて書き直しました。

少しでも楽しんでいただければ幸いです。


引き続き、『波が帰る場所』をよろしくお願いいたします。

その朝も、俺はいつも通りの日常を繰り返していた。何も特別なことはない。すべては元通り――まるで波が砂浜を打ち、また海へと戻っていくように。


ゆっくりとペダルを漕ぎながら、朝の空気を吸い込む。いつも通りのはずなのに、どうにも頭の中はそうではなかった。


何かが引っかかっている。


昨日、あの手紙を届けてから、なぜか頭の中はそれでいっぱいになりそうだった。仕事の邪魔になるわけじゃない。いつも考えているわけでもない。たまに顔を出すだけなら、まだ構わない……けれど、できれば消えてほしいと思っている自分もいた。


「はあ……変だな」


白いひげの老人の家の前で、自転車を止めた。この家の主は、毎日同じ差出人からの手紙を受け取る。だから俺は、毎朝この老人の少し寂しげな顔を見ることになる。


ノックをする間もなく、木の扉が開いた。


「ああ、朝陽……来たか」


老人は温かく微笑んだ。けれど、それはどこか作り物めいた笑顔にも見えた。


「そんな寂しそうな顔をしてたら、手紙のありがたみが減りますよ」


「ははっ、若いのに、年寄りをからかうのが上手いな」


老人は怒ることもなく、まるでそれが日常の一部であるかのように応じた。


「本気で言ってるんですけどね」


「で、朝陽よ……あの『誰か』の意味が、もうわかったのか?」


俺の記憶は、あの古びたカフェへと戻る。最後の手紙。そして――あの少女。


首を振った。


「まだです」


軽口を叩きながら、その話題をそらそうとした。


「この手紙を届け続けている限り、わかるはずもないでしょう」


老人は軽く笑った。けれど、その笑みはすぐに消えた。空気が変わった。老人の口調が、否定と哀しみを帯びたものに変わる。


「だが、もし可能なら……」


彼は手にした封筒を見つめた。


「郵便配達員を、辞めないでほしい」


俺は一瞬、言葉を失った。


「すみません……朝から暗い気持ちにさせてしまいましたか」


慌てて頭を下げた。


「いや、違うよ、若者よ。ただの願いだ。だが、もしお前に目的があるなら、それを追いかけるべきだ――たとえこの仕事を離れることになっても」


目的。


その言葉が、頭の中で反響した。


「目的、か……」


俺は呟いた。


初めて、今日の配達を終えた後、どこへ向かえばいいのかわからなかった。


自転車に跨り、仕事を続けることにした。老人に手を振ってから、再びペダルを漕ぎ出す。


道は昨日と同じだ。同じ木々、同じ路地、同じ暖かな朝の空気。すべては変わらない。ただ――気持ちだけが、そうではなかった。


複合施設の周りで遊ぶ子どもたちが、寄ってきた。昨日の三人だ。目を輝かせて、俺を見上げる。


「朝陽お兄ちゃん! 食べ物の手紙、持ってきてくれた?」


頭の中を整理しようとしたけれど、うまくいかない。


「言っただろ? 食べ物が書いてある手紙は、郵便屋さんが先に食べちゃうんだよ」


悪戯っぽく笑いながら言った。


「じゃあ……今日は本当にないの?」


声が沈み、泣きそうになる。だが、すぐに明るさを取り戻した。


「でもいいや! 食べ物の手紙が来る日は、絶対に来る! 俺は待ち続けるんだ!」


そう言って、手にした木の枝を高く掲げた。


しばらく黙り込んでしまった。


「お兄ちゃん、遊ぼうよ!」


一人の子どもが、俺の服の裾を引っ張った。


「ああ、ごめん。仕事がたくさんあるんだ。急がないと」


すぐにペダルを漕ぎ出した。振り返りながら手を振り、笑顔を見せてから、前を向く。


「朝陽お兄ちゃん、今日はあんまり冗談言わなかったな……」


「いつもは一番長く遊ぶのに」


「上司に怒られたのかな?」


振り返らずに漕ぎ続けた。けれど、なぜか三人の視線が背中に突き刺さる気がした。もしかすると……今、俺は彼らの噂の的になっているのかもしれない。


「何か、変わったのか?」


呟く。何かが変わったような気がする。けれど、それが何なのかはわからない。


答えはない。ただ、自転車のチェーンが擦れる音だけが響く。


考える間もなく――


「おい、朝陽!」


大きな声に、反射的に顔を上げた。


パン屋の前で、工藤が手を振っている。思わず口元が緩んだ。一瞬、頭の中の騒がしさを忘れた。


ハンドルを切って、パン屋へと向かい、自転車を止める。中に入ると同時に――


「ほら、焼きたてのトーストだ」


工藤が皿を差し出した。その上には、湯気が立つトーストが一枚。俺の立っている場所から一番近いテーブルに置かれる。


椅子を引いて座る。工藤も向かいに座り、片足を組み、背もたれに手を掛けてだらしなく座った。


「お前、最近よく一人で笑ってるな」


「笑ってるって……それは嬉しいってことか? 給料も上がらないのに、どうやったら嬉しくなれるんだよ」


工藤は、給料の話に笑った。


「あーあ、大事なのは環境だろ。金が多くても、俺みたいな友達がいなきゃ、やってけないぞ?」


工藤の口調が次第に大きくなっていく。自信満々な様子を隠そうともしない。


「お前は人を甘く見すぎだ。俺は熊だって友達になれるぞ」


「熊と友達になれるだって? はっ、お前は熊の昼飯になるだけだろ」


「そういう時に、友達の出番だろ。お前が熊の近くに肉パンを持っていけばいいんだよ」


「本当に、恩知らずな友達だな」


工藤が笑う。俺も釣られて笑った。


しばらく話し込んでから、仕事に戻ることにした。手を振ってから、再びハンドルを握る。


すべてはいつも通りだった。


手紙を届ける。見知った顔に、知らない顔に。時には、追い払われることもある。


「まあ、無理に好かれる必要もない。俺の仕事は手紙を届けることだからな」


今日は、いつもより早く仕事が終わった。


いつもなら、夕焼けが空を染め始める頃に自転車を止める。だが今日は、まだ日も高い。


事務所に戻って、そのまま家でゴロゴロする前に、ふと立ち止まった。


「……」


「またあの住所か」


足が、あの場所へと向かっていた。


数分ほど漕ぐと、砂浜に自転車を止めた。昨日と同じ場所に、同じように停める。


歩いて、入口へと向かう。


チン……


小さな鐘が鳴り、中の人物が振り返る。


「手紙を届けに来た」


三本の指で封筒を持ち上げる。


少女は、掃除の手を止めて、ほうきを持ったまま近づいてきた。小さな笑みを浮かべて、それを受け取る。


それから、何事もなかったかのように、また掃除を再開した。


俺の仕事は終わった。彼女の邪魔をしたくなかったから、背を向けて、手を小さく振った。


「失礼します。良い一日を」


ドアノブに手を掛けた、その時――


「今日は、いつもより早かったね」


「……」


「……もし、急いでなかったら」


栞が、ほうきの柄を少し強く握った。


「お茶、飲んでいかない?」


足が止まった。


ドアノブを掴んだまま、ゆっくりと振り返る。


「……」


数秒、彼女を見つめた。


「まさか、いつも最後の手紙が来るからって、毒を盛ろうとしてるわけじゃないよな?」


「そ、そんなことするわけないでしょ!」


声が少し高くなった。


俺は瞬きを一つした。


それから、窓際の席を引いた。海が一望できる場所だ。


「……」


「いいよ」

翌朝……


窓のカーテンを閉め忘れたせいで、朝日が部屋に差し込んでいた。目を細めながら、眩しさに瞬く。


体を起こして、固まった体を伸ばす。布団をたたむ。まだ寝ぼけたままの、いつもの動作。


でも、今日は違った。昨日、郵便局の管理者から休みをもらったばかりだからだ。


「少しはゆっくりできるな」


キッチンへ向かい、朝食の準備をする。トーストに卵を乗せただけの簡単なもの。でも、時間に追われずに食べる朝食は、なぜか格別に美味しい。


食べ終わると、シャワーを浴びて身支度を整え、小さなアパートの部屋を掃除した。


すべてが終わると、外へ出ることにした。静かな日本の朝を味わうために。


いつも着ている作業着のまま、ゆっくりと自転車にまたがる。


澄んだ朝の空気が肺に広がる。気持ちがいい。


いつもは仕事のことでいっぱいの頭も、今日は少しだけ軽い。


「竜二……代わってくれて助かった」


特にあてもなく、ペダルを漕ぎ続けた。


海沿いの道は、まだ静かだった。


「……」


久しぶりに、こんな時間を過ごした気がする。


気づけば、自転車は止まっていた。


目の前には――あの古びた建物。


もう一度ペダルを漕ごうとした、その時。カフェの入り口がきしみながら開いた。肩に布製のバッグをかけた栞が、俯きながら何かを数えるようにして現れる。


彼女がゆっくりと階段を下りる。やがて、目が合った。


「あ、朝陽さん?」


「どこに行くんだ?」


「市場です。食材を買いに」


「……」


俺は、彼女の肩に掛かったバッグに視線を向けた。


「乗っていけ」


そう言うと、彼女は少し驚いたように目を丸くした。


「え? お、お構いなく……」


「構わない。俺も特に行くあてはない」


彼女は歩み寄りながら、指をもじもじと弄った。


「で、でも……後ろに乗るのは、初めてで……」


「乗り方、教えようか?」


「そ、そういう意味じゃなくて!」


「ただ……ちょっと緊張してて……」


「……」


自転車を少し傾けて、乗りやすくする。


「落ちないよ」


栞は小さく頷き、バッグの端をぎゅっと握りしめた。


ゆっくりと、慎重に後ろにまたがる。


「も、もういいです……」


彼女がしっかりと座ったのを確認して、ゆっくりとペダルを漕ぎ出した。


「乗り心地が悪かったら、言えよ」


「は、はい」


タイヤが回り、俺は――いや、俺たちは、目的地へと向かう。


潮風が顔を打つ。一人で走った昨日とは、違う風景だった。


「速すぎないか?」


「ぜ、ぜんぜん」


「そうか」


しばらくの間、沈黙が流れた。前方の道路に集中していると、背後から声が聞こえた。


「朝陽さん……」


「ん?」


「毎日、この道を通るんですか?」


「ああ」


「毎日通っても……景色はやっぱり綺麗ですね」


「……」


「もう見慣れたよ」


海沿いの道は、ところどころ凸凹している。ちょうど前輪が少し浮き上がった、その瞬間――


ドン!


「きゃっ……」


後ろから、栞の指が反射的に俺の服を掴んだのを感じた。


「道が悪いんだ」


「す、すみません……」


「掴んでていいぞ」少し間を置いて。「転ぶよりはましだ」


「は、はい……」


チェーンの音だけが響く。潮風が頬を撫でる。


数羽の小鳥が空を横切った。分厚い雲の隙間から、日差しが差し込んでいる。


建物がだんだんと密集してくる。食べ物の香りが風に乗って流れてきた。信号を過ぎると、目的地はもう目の前だった。賑わい始めた商店街だ。


信号が青に変わり、ゆっくりと進む。市場の前に到着した。


「ここからは歩こう。中は結構混んでる」


足を止めると、後ろで彼女も降りた。


自転車を押しながら中へ入る。入り口の小さな鐘が、涼やかな音を立てた。日差しが遮られ、ひんやりとした空気が広がる。


プラスチックの椅子に寄りかかって眠るおじいさん。隣では、衣類が風に揺れている。


向かいの店では、店主と話す主婦たちが、こちらに気づいて微笑んだ。


「ごゆっくりどうぞ」


小さく手を振り返す。


子どもたちが、団子を片手に駆け回る。彼らを避けて体をずらした、その時――


「朝陽さん……」


周囲の喧騒に気を取られていると、栞が風鈴の揺れる店を指さした。


「ん?」


「かわいいですね……」


しばらく見つめてから、俺は言った。


「帰りにまだあったら、また見よう」


栞が頷き、再び歩き出す。


「で、何を買うんだ?」


「えっと……」栞が一瞬止まり、「忘れました」


彼女は明らかに恥ずかしそうだった。


「じゃあ、歩きながら考えよう。立ち止まると迷惑だ」


市場を進む。が、順調に進むわけもなく。数分後、小さな子どもが俺の服を引っ張った。


「お兄ちゃん! 見て!」


指差す方を見ると、おばあさんのビニール袋が破れて、買った果物が床に散らばっていた。


すぐに駆け寄り、自転車をスタンドで支えて、一つ一つ拾い集める。


「手伝うよ」


「ありがとう、坊や」


頭を下げる。


さっきの子どもが、友達を連れて戻ってきた。


「わあ、かっこいい!」と一人が言う。


「でも……顔が怖いけど」


俺はただ瞬きをした。だが、隣の彼女は違った。


「ぷっ……」


慌てて口を押さえる。


「ご、ごめんなさい。わざとじゃ……」


「慣れてるよ」


平然と自転車を押しながら、何事もなかったかのように歩く。


「ぷっ……」後ろで、彼女の肩がまだ震えているのがわかった。


再び歩き出す。市場の光景が目に入ってくる。木の上で眠る猫を、子どもたちが長い草で突いている。こちらに手を振るおじいさんがいた。


「おい、朝陽! ちょっと寄っていけよ!」


「5分だけ」


「5分だって! 先月も『5分』って言ってたじゃないか!」


「今度な! 今は忙しいんだ!」


「わかったよ! でも、忘れるなよ!」


大きく頷いて、再び前に向き直る。


「朝陽さん……」


「ん?」


「みんな、あなたのこと知ってるんですね」


「この街で生まれたからな」


栞が突然立ち止まった。


「あっ……」


「どうした?」


「買いたいものを思い出しました」


「何だ?」


「糸です」


「何に使うんだ?」


栞は微笑んだ。


「何か作りたくて」


「何を?」


「秘密です」


これ以上は詮索しないことにした。店へと向かう。


色とりどりの糸が、木製の棚に並んでいる。隅には、埃をかぶった段ボールが天井近くまで積まれていた。


カウンターの奥から、腰を支えながら老婆が立ち上がる。


「あら、若いの。ゆっくり見ていってね」


「あ、えっと……朝陽さん、どの色がいいと思います?」


栞が問いかける。俺は近づき、糸の色を一通り見る。


だが、口を開く前に。


「こほっ……」


栞が急に咳き込む。


「……」


「大丈夫か?」


「すみません……埃が多いですね」


周囲を見渡す。埃をかぶった段ボール。扇風機の風に舞う細かな繊維。確かに、埃っぽい。


「さっきの質問だけど……青がいいと思う」


「は、はい」


栞は控えめに笑って、紺碧の糸を手に取った。


さっきまで、彼女の指は白い糸の上で止まっていた。それでも、彼女は青を選んだ。


店を出て、再び買い物を続ける。


「次は何を買う?」


「えっと……」栞は人差し指を立てて、「エビです」


「……」


「どうかしました?」


「エビは嫌いだ」


「えっ?」


「面倒くさい」


「どういう意味ですか?」


「剥くのが面倒だ」


「それだけですか?」


俺は、彼女の方を見ずに頷いた。手は、ハンドルをしっかりと握っていた。


背後で、彼女が笑いをこらえる気配がした。


「ははは……」


それからしばらく歩いて、魚屋の前に着いた。


氷の上に並ぶ新鮮なエビ。タコや魚も並んでいる。威勢のいい店員の声が響く。


栞がエビを選んでいる間、俺は少し離れた場所で腕を組んで立っていた。


「さあさあ、買ってくれ! 今朝獲れたばかりのエビだ!」


威勢のいい声。店主がこちらを見て言う。


「おや、朝陽! 彼女のエビ、剥いてやるんだぞ!」


顔が赤くなる栞。


「ち、違います……」


「違う」


冷たく答える。周囲から笑い声が聞こえた。


視線をそらすと、子供が大きなロブスターを両手で抱えている。目を輝かせて、真剣な表情だ。


「母さん! ハサミが動いてるよ!」


「気をつけな、挟まれるから」


「うん……」子供は従いながら、俺に振り返って小さく笑った。


微かに頷き返す。


「これでいいです」


栞の声で、意識が戻る。彼女が選んだエビが入った袋を差し出している。


「決まったか」


「はい」


小さく頷き、再び自転車を押しながら歩き出す。


二人はゆっくりと市場を歩いた。彼女が気になるものに立ち止まるたび、俺は隣で待った。


いつの間にか、空は夕焼けに染まり始めていた。店仕舞いをする商人たちの姿が目立つ。


帰り際、風鈴が揺れる店の前で立ち止まった。風が吹くたび、涼やかな音を立てる。


団子を一本ずつ買った。


「美味しい」


「うん」


それ以上は何も言わなかった。


食べ終わると、再びペダルを漕いで、栞のカフェへと戻った。


空はすっかり暗くなっていた。月が海の上に浮かび、星が瞬いている。遠くで波の音が聞こえる。


まもなく、カフェの前に着いた。


栞が先に降りて、買い物袋を確かめる。


「……」


「全部、揃ってます」


俺が頷く。


「じゃあ、帰るよ」


背を向けた、その時。


「あ、朝陽さん……」


声が足を止めさせた。振り返る。


「ん?」


栞は買い物袋をしっかりと握りしめていた。


「よかったら……明日、カフェに来てくれませんか?」


「明日?」


「はい……」彼女は一呼吸置いて。「新作のメニューを試してほしいんです」


しばらく沈黙が流れた。


「新作?」


栞は頷いた。


「それに……あなたが初めてなんです」


「……」


「だから」


彼女は息を吸い込んだ。


「来てくれるって、約束してくれますか?」


俺は、小さく息を吐いた。


「わかった」


「約束する」


栞の顔に、優しい笑みが浮かんだ。


「ありがとうございます」


その笑顔に軽く頷いて、再び自転車に跨がった。


翌日、またいつもの仕事が始まった。


一軒の家から、次の家へ。手紙を届ける。


気づけば、日が暮れていた。郵便局へ戻る。


「はあ……」


長椅子に体を預けて、深く息を吐く。今日も疲れた。


突然、冷たい感触が頬に当たる。


振り返ると、竜二が水滴のついたペットボトルを差し出していた。


「飲めよ」


「……ありがとう」


受け取って、一口飲む。


竜二が隣に腰を下ろした。二人で、暗くなっていく空を見上げる。


「なあ、朝陽」


「ん?」


「明日の夜、祭りだろ」


「ああ」


「行くのか?」


一瞬、言葉が詰まる。


「……一人だし……行かない」


竜二が、小さく笑った。


「それはもったいないな」


沈黙が訪れる。


もう一度、ペットボトルに口をつける――ふと、手が止まった。


「……」


「約束、してたんだった」


「しまった」


俺は、立ち上がった。ペットボトルはそのままに。


何も言わずに、自転車にまたがった。


「おい? 朝陽?」


答えず、全力でペダルを漕ぎ出す。


「おい、朝陽!」


竜二の声が、後ろで小さくなっていく。


ひたすら、一つの場所を目指して。


栞のカフェ。


やがて、見覚えのある建物が視界に飛び込んできた。自転車を止める。


「はあ……」息を切らしながら、中を覗く。


明かりがついている。


「……」


ホッとした。


ドアを開ける。


チリン……。


中で片付けをしていた栞が、顔を上げた。


「あ、朝陽さん?」彼女の目が見開かれる。「来ないかと思ってました……」


「……すまない」


栞は首を振った。


「いいえ」


「それに……来てくれた」


なぜか、その言葉で罪悪感が少し和らいだ。


「座っててください。すぐに持ってきます」


彼女は、キッチンへと消えた。


数分後、湯気の立つ皿を手に戻ってくる。


「どうぞ」


フォークを手に取り、一口食べる。


「……」


栞は、じっと見つめている。手を胸の前で組みながら。


「どうですか?」


「……美味い」


その瞬間、栞の肩の力が抜けた。


「よかった……」彼女の顔が綻んだ。「失敗してたらどうしようかと」


もう一口、口に運ぶ。


「いつもより美味いな」


「えっ?」彼女の顔が赤くなる。「あ、ありがとうございます……」


再び沈黙が流れる。食べ終わる頃。


「朝陽さん……」


「ん?」


栞が膝の上で指を絡めた。


「もし……明日の夜……」


「予定はありますか?」


「たぶん、ない」


彼女が息を吸う。


「それなら……」


「一緒に……祭りに行きませんか?」


俺は、しばらく彼女を見つめた。


「……いいよ」


栞が顔を上げる。


「本当ですか?」


「ああ」


彼女の表情が、再び優しく緩んだ。


「……ありがとうございます」


その夜は、なぜだかいつもより温かく感じられた。

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