名探偵には通訳が要る!
この世には馬耳東風、と言う故事成語があるが、しかし時に、自分の上司に関しては、馬の方が話が通るのでは無いかと思うことがある。
「相手方は、前回のトラブルから不安を感じてるように見えました。スケジュールをもう一度調整し直した方が良いかと……」
今回の営業先とは、こちらのスケジュールミスで前回トラブルがあったのだ。
にも関わらず、この会社は前回となんら変わらないスケジュールを提示したものだから、相手方も不安を覚えた様子であった。
結局、謝るだけで何も対策をしていないのだから、今回も同じ轍を踏むことになる可能性がある。
僕の言葉を聞くと、上司はいつものように、大きくはぁ、とため息をついて人差し指でトントンと机を叩きだした。眉間にしわが寄っている、イラつき始めた時のいつもの癖だ。
「あのさぁ、春瀬くん、今更調整だなんて、そんなのいちいちやってられないよ」
「ですが、ここはお得意様ですし、今後の取引も考えると……」
「客にばっか良い顔してないで、会社のこと考えろよ……そもそもさ、ただでさえ君は契約数が少ないんだ。数とスピード重視だっていつも言ってるだろ?」
「……はい」
効率、数とスピード重視。これを言われてしまうと僕は何も言えなくなってしまう。
結局今日も僕は何も伝えられず、自席に戻る羽目になるのだ。
出会う1人ひとりと丁寧に関わりたい。相手の気持ちを汲めるようにじっくりと、対話をして、何を求めてるかを知り、信頼を得られるように、応えられるように……。
そう思いながら仕事をしているが、そうなるとやはり時間は掛かってしまうのだ。その事に対しては、必ず渋い顔をされてしまう。
きっと、この会社に自分は必要無いのかもしれない。……僕は、間違っているのだろうか?
そう思っていても、自分のやり方を諦めきれないのだから、面倒臭がられても仕方がないと思う。
「はーっ……」
凝り固まった身体を伸ばす。気がつくと、時刻はもうすぐで20時だった。
営業という職業に就いてから、定時で帰れた試しがない。本当はもう数時間残りたかったが、そろそろ帰らないと明日の仕事に響きそうだ。残りは明日の自分に任せるとしよう。
僕は急いで荷物をまとめて会社を出る。
外に出ると辺りはもうすっかり暗くなっていた。室内の淀んだ空気ばかり吸っていたからか、ヒンヤリとした夜風が心地良い。
「今日こそ定時で帰りたかったなぁ」
つい呟いてしまったが、もちろん返事は無い。
言葉にした所でより切ない気持ちになるだけだ。さっさと家に帰って寝てしまおうと、近道である大きい公園を通り抜けようと歩みを進めると、先の方から声が聞こえた。
「よろしくお願いします!」
こんな時間になんだろうか?思わず声がする方を見てみると
「探偵の助手を募集してまーす!」
探偵事務所、助手募集中!と手書きの文字で書いてある看板を掲げた、自信満々の美形の男が笑顔で立っていた。
『名探偵には通訳が要る!』
存在感を放つその男は、ミルクティー色の前下がりのボブカットヘアーと、整った顔のせいで一見女性のようにも見えた。
しかし、せっかくの美形なのにも関わらず、近寄り難い雰囲気を出している。言ってしまえば言動が怪し過ぎるのだ。
そもそも助手を募集中と言えど、もう夜20時だ、よりによってなぜこんな時間に?
見つかったら何か怪しい勧誘でもされそうな気がする。考えれば考えるほど、頭の中の警戒アラートが鳴り響く。
目を合わせないようにして帰ろう……。そう思い、早足で通り過ぎることにした。
「あのーー、ちょっといいですか?」
聞き覚えのあるおばあさんの声だ。
「ちょっとこの東ビルの行き方が分からなくて……孫と待ち合わせしてるのに……」
おばあさんの正体は、以前自分が担当して、契約をしてくださった田辺製鉄所の会長だった。
まさかよりにもよってあんな怪しい人に話し掛けるとは……会長は人が良い分、何か変なことをされないか心配になってしまい、様子を見ることにした。
「任せてください! ここなら知ってますよ。えっと、ここをバーッと行って、そしたら」
どうやら、男は素直に道を教えるつもりらしい。一応安心だが……
「ぐいっとまがってすーっと」
「ぐいっと……?」
とにかく説明が分かりにくい。擬音だらけでフワッとしたことばかり話している。だが、様子を見ると、男は適当に話している訳ではない。あれでも精一杯説明はしてるのだろう。
それを会長も理解しているのか、分からないとも言えず、困った顔を浮かべている。
そしてその顔を見た男もどんどんしょぼくれていき、語尾が小さくなっていって……。
2人の様子に、あまりにも見ていられなくなってしまい、思わず僕は声を掛けに行ってしまった。
「あの、声が聞こえてたので……。東ビルなら、この道を真っ直ぐ歩くと黄色の看板が出てきますので、右に曲がり、そこからまた一直線に歩いて行けば着きますよ」
僕が話始めると、会長はホッとした顔で道案内を聞き始める。
「あら、ありがとうね。えっと……ごめんさい、黄色の看板を、どっちだったかしら……」
「良ければご一緒しますよ」
「時間も遅いし、気が引けますわ。私一人で行かせてちょうだい」
「わかりました。そうしましたら、少々お待ちくださいね」
この時間だったので心配ではあるが、本人がそう言うなら仕方がない。
僕は鞄に入っている手帳のページを破り、簡易的な地図を書いて会長に渡すことにした。
「良ければどうぞ、分かりにくかったら申し訳ないのですが……」
「まあ! 分かりやすい。助かったわ!」
「ふふ、良かったです」
「あれ……? 貴方、前にも会ったわね?確かこの前ウチの会社に来てくださった……」
「……! はい、春瀬です。覚えててくださったのですね」
夜だったので、顔も見づらいだろうに、まさか覚えててくださっていたとは思わず、顔が綻んでしまった。
「とても丁寧で、優しい人だから覚えてる。今回もありがとうね」
「いえ、そんな……恐縮です」
「そして、貴方も、ありがとうね」
会長は僕にお礼を言ってから、くるりと振り返り、後ろにいた男にもお礼を言った。
「すみません、何もお役に立てず……」
彼は先程の説明が上手くいかなかったからか、恥ずかしそうに頬を指でポリポリとかいていた。
「私はね、貴方が頑張って説明しようとしてくれてたのが嬉しかったのよ」
会長は男の背中をポンポンと優しく叩くと、「ありがとうね〜」とお礼を言いながら手を振って道を歩いて行った。
手を振り返すわけにもいかず、ぺこりとお辞儀をするに留める。
そうして、会長の背中が見えなくなった頃……男がポツリと話し出した。
「あの……私からも、助かりました。ありがとうございます」
男はそう言って僕に向かって深々とお辞儀をした。
先程の奇行からは想像できない礼儀正しさだ。きっと、悪い人では無いんだろうなと思う。少し不器用なだけで……。
「いや、そんな大したことじゃ」
「道案内、とても分かりやすかったです! 凄いですね!」
男は本心から凄いと思っているのだろう。キラキラとした目で僕を見ている。……正直、そんな大したことはしていないので、なんだか居心地が悪い。
「別にそんな大したことじゃないですよ、こんなの誰だってできますから……」
「ふむ、そんなことはないと思いますが。なんだか、随分と自分に自信が無いのですね」
そう言うと、男は急に黙り込んだ。指を口元に当て、何かを考え込んでいるのか、先程の様子とはうってかわり、僕のことを上から下まで、まるで観察するようにジッと見つめ始める。
急な変化すぎてついていけない、この男はどうしてしまったのだろうか?
「どうしましたか?」
耐えきれずに僕が聞くと、男は
「やっぱり、営業の仕事って大変なんですか? 休めて無いのを見ると、随分ブラックみたいですね」と、ケロッとした顔で言い放った。
確かに僕は営業職だ。正直な所、傍から見ればブラック気味なのも何も間違っていない。
彼の言ったことは合っている。
だからおかしいのだ。だって、僕はこの男に自分の職業を明かしてはいない。
なのに、なぜ僕の職業を言い当てられたのだろうか。
「……僕、名刺渡してないですよね?」
まさか社員証を付けっぱなしだったのだろうか? と急いで確認するも、きちんと外している。そうなると、尚更怖い。
この男は一体、何者なのだろうか。
僕が困惑しているのを見ると、目の前の男は何でもないように「そりゃあ、私は探偵ですから、推理すれば分かりますよ」と言った。
探偵。そうか、看板に探偵事務所とは書いてあったが、本当に探偵だったとは……!
僕は小説を好んで読むのだが、中でも探偵物には目がない。シャーロック・ホームズだって勿論読んでいる。僕の中で、目の前の男に対して、怪しさより好奇心が上回っていくのを感じた。
「推理……! 凄い! その推理、聞かせてくださいよ」
「え、あ、あぁ……教え……うん……」
「どうしました?」
「いや、言えるは言えるんですが……」
急に自信が無くなってしまったのか、男は口をもにょもにょとさせ、目をあっちこっちに動かした。そして、「分かりました。じゃあ、話しますね」と言ったかと思えば、意を決したように息を吸った。
「貴方は、スーツは良いのにシャツが惜しいというか……かなり使ってますよね。すぐ買い替えそうなのに。でもそれって、お金に困ってるからじゃなくて……あっでも、身の回りを整えようとする気持ちはあるんですよ、貴方は真面目だから。でも、髪の毛整ってるけど毛先とか気になって、それに、目の下も気になるし、えっと、休めてない。余裕がない、よってブラック企業なのかな、と……」
男は一気に話すと、「伝わらないでしょう。」と、諦めたように目を伏せた。
正直な所、確かに支離滅裂かもしれないが、別に伝わらない訳ではない。
彼は伝えたいことのキーワードは言っているのだから、言いたいことを汲み取れば、何を伝えたいのかはすぐに分かった。
「大丈夫です、伝わりましたよ」
「ふふ、気を使ってくださってありがとうございます」
「いえいえ、本当ですよ。要するに」
しょぼくれている探偵に、僕は頭の中で整理した彼の言葉を伝えてみることにした。
「スーツの着こなしは整っているのにシャツがくたびれてる。身なりはキチンと整えられていることから、真面目な性格であることはうかがえる。よって、シャツを買い替えないのは怠惰ではなく、買う余裕が無いからと推理した」
探偵の目が丸くなったのを感じた。
「隠しきれていない髪の毛の痛みや、目の下の濃いくまから察するに、買えないのは金銭が原因ではなく、休みが取れていないからと考えた。よって、ブラック企業勤めだと思った。……合ってますか?」
僕が言う言葉に、探偵は大きくコクコクと頷いている。どうやら推理の要約は合っていたようだ。
確かに、僕の仕事は何時でも連絡があるため、丸1日休める日はほとんど無い。
人前に立つ仕事なので、身なりは整えているつもりであったが、やはり分かる人には分かるのだろう。気を引き締めなければいけなぁと思う。
「あ、あと! まだあるんです。話しても良いですか?」
勿論。僕が頷くと、探偵は目を輝かせながら続きの推理を話し始めた。
「えっと、意識してないでしょうけど、手がいつもポケットにあって……あっ、スマホが入っている方です。常に連絡待ちしてる感じというか、あと、知らない人ともすぐに話せるのと、靴のかかとが人よりかなり削れてて、それで営業なのかなって……」
僕はまた推理を整理する。
まるで言葉のパズルを組み立てていくようだ。正直……とても面白いと思った。
「空いている手は常にスマホが入っているポケットに置かれている。癖になっていることから、常日頃から連絡が来る職業だと推測した。
そして、他人と話すことに慣れている様子と、靴の踵がかなりすり減っていることから、職業は営業だと判断をした。……合っていますか?」
「あ、合っています……!」
どうやら彼の言いたかったことは全て汲み取れていたようで、安心した。
それにしても、目の前の探偵は短時間で、これだけのことを推理したと言うのか。
彼は凄く優秀な探偵であることに間違いない。
最初は怪しい言動から勧誘か何かだと思ったものだが、やはり、人は良く話さないと理解できないものだ。最初からそう決めつけてしまった己の浅はかさに少し恥ずかしく思う。
「流石探偵さん、素晴らしい観察眼ですね」
「いや、……凄いのは貴方だ!」
「えっ!?」
突然探偵がずいとこちらに顔を寄せてきたので思わず仰け反りそうになる。
「私の説明、いっつも分かりにくくて、何を言っても理解して貰えないのに、貴方は一瞬で汲み取ってくださった……そう、まるで、通訳のように!」
「いやいや! 大袈裟ですよ」
本当に大袈裟だと思う。なのに、目の前の探偵は心からそう思っているみたいだ。
「というか、推理の方が難しいですよ。推理さえできれば、相手に伝えるだけじゃないですか」
「……私は誰かに向けて話すことを意識すると、途端に頭の中がごちゃついて上手く伝えられなくなるんです」
随分難儀な話だ。探偵なのに、そんな事があるのか。
「じゃあなぜ説明するのが苦手なのに探偵に? 随分大変じゃないですか?」
「それは……もちろん、謎に対する好奇心! が大いにありますが。 何より、私の推理で、疑われてる人を1人でも救えたら素敵だと思いませんか?」
「確かにそうですけど、それにしては随分ハンデがありませんか?」
そう言うと、探偵は大きく頷いた。
「そうなんです! ……なので、人助けの為に、貴方! ぜひ、私の助手になってくれませんか!?」
「……ええ!?」
まさかの勧誘に、頭が真っ白になる感覚がした。
「な、ななな何で」
「推理を伝えるのには通訳が……つまり貴方が必要なんです!」
「急に困りますよ」
冗談じゃない。本当に困る。今の会社は副業も禁止されているし、そもそもこの仕事だけでも精一杯なのに、新しく何かを請け負うことは今の僕には考えられない。
「今まで、私の推理をこんなに早く理解してくださった方はいないんです、どうか」
探偵は捨てられた子犬のように目をうるうるとさせながら訴え掛けてくる。可哀想だが、それで流される訳にもいかない。
「いや、僕、今の仕事がありますから」
「そこをなんとか……!」
中々しつこいので、ここはもう強引にでも切り上げた方が良いだろう。僕は分かりやすいように時計を確認した。
「すみません、もう家に帰らないと」
「あっ! こちらこそすみません、気が付かずに……」
「はは、それでは……」
僕は帰ろうとしたが、探偵は引き留めるように僕の腕を控えめに掴んできた。
「せめて最後に、名前を聞いてもよいですか?」
「名前……」
本来、初めて会う人に教えるべきでは無いのかもしれない。ただ、僕は不思議と、この人になら教えても大丈夫だという確信があった。
「春瀬 侑です」
「春瀬、侑さん……ふふ、素敵なお名前ですね」
「あ、ありがとうございます」
「私は清水彰人と申します。では、春瀬さん、また会いましょうね!」
「はは…… それでは、また……」
僕が公園を抜けるまで、清水さんは凄い勢いで手を振っていた。
こちらも軽く手を振ると嬉しそうに、更に腕が取れそうなくらい手を振りだす。
「……変な人」
清水彰人。彼は本当に、変な人だった。 ……だが、話していて悪い気はしなかった。
人に褒められたのはいつぶりだろう。胸がじわりと温かくなる感覚がずっと残っていた。
「これ、やっといて」
先輩の日頼さんが書類を僕の机に雑に置いた。
これは彼の仕事であり、自分の管轄ではないはずだが。
「このくらいならお前でもできるだろ」
どうやら、押し付けようという魂胆らしい。
日頼さんのこの嫌味っぽい言い方が、僕は苦手だった。
「……いつまでにですか?」
「明日まで。会社のためにちょっとは役に立ってくれよな」
「……はい」
結局、先輩からの言いつけは断れないのだ。
縦社会と言うだろう。この会社は特にその色が強い。納得はいかないが、それでもやるしかないだろう。
「そうだ。お前が取ってきた案件だけど、進めるのは俺がやってやるよ」
「えっ、それは!」
僕が取ってきた案件というのは、あの田辺製鉄所の会長との契約のことだ。会長とは、何度も話を重ねてやっと契約を貰えたものだ。
なぜ、突然先輩がやると言い出したのだろう。
「お前、たらたら話ばっかして、効率が悪いんだよ」
「僕は、話を聞くことは大切だと思ってます。相手方の求めるものを理解すれば、より次の契約に……」
「いつも言われてるだろ。うちではスピードと数が全てだって。こっちの条件を飲ませて、さっさと終われば次の契約に向けて動ける。……お前のやり方は誰からも求められてない訳」
お前のやり方は誰からも求められていない。その言葉にギュ、と喉が締まる。
「分かったよな、だから、俺がやる方が良いんだよ。じゃ、あとよろしく!」
僕が何も言い返せないでいると、先輩はさっさと席を離れてしまった。
「どこで飲んでんの?今後輩に仕事任せたから今から行けるわ」
遠くから先輩の声がする。……やるせなくて、とにかく悔しかった。
何より悔しいのは、自分のやり方が正しいと堂々と言い返せないことだ。
実際、この会社では僕のやり方は求められていない。ただそれをいざ言葉で突きつけられると、心にくるものがある。
握りこんだ拳が痛み、目頭が熱くなった。だが、こうしていたって仕事は終わらない。
大きく息を吸って、吐いて。
すって、はいて。
そうして僕は、パソコンへと向き合った。
「春瀬さん、こんばんは、遅くまで大変ですね」
帰路の途中、いつものように公園の中を歩いていると、聞き覚えのある声がした。
「……何でいるんですか?」
思わず僕も声を掛けると、ベンチに座っていた清水さんは、まるでイタズラが成功した子どもみたいに、ニマリと笑った。
「勿論助手を探してるんですよ。いやぁ、また春瀬さんにまた会えるとは、偶然、いやきっと運命ですね」
「運命、ねぇ……」
運命とは、随分白々しい。
もう23時なのだ。当たり前のように、人影なんてひとつも無い。助手を探すにしても、この時間に勧誘など実質不可能なことは、目の前の清水さんも分かっているはずだ。
「助手探しにしては、昨日持っていた看板が無いようですが?」
「……重いから置いてきたんですよ」
「そうでしたか。では、引き続き助手探しを頑張ってくださいね」
僕がその場を離れようとすると清水さんはギョッとした顔で急いで僕を追いかけてきた。
「まあまあまあ、少しだけ話しましょうよ!ねっ」
「ちょっと、……もう」
半ば強引にベンチに座らされてしまった。
疲れて抵抗する気すら起きなかったので、諦めて背もたれに寄りかかることにする。
「ほら! よければどうぞ、食べませんか?」
清水さんはおもむろにカバンからりんごを2つ取り出した。
「りんご?」
「はい。最後の2つだったんです」
正直、どちらも傷がついていて、美味しそうには見えない。
「……傷物なのに、わざわざこれを買ったのですか?」
僕がそう言うと、清水さんは驚いた顔をした後、少し考える素振りを見せた。
貰ったものに対して、文句に聞こえるような言葉をかけてしまった。嫌な気持ちになっても仕方がない。
もしかして、彼は食品が廃棄されることに心を痛めたのかもしれない、あるいは、傷が見えていなかったのかもしれない。
でも、何にせよ、僕はこの人が傷物のりんごを買った理由を無性に知りたかった。
「……人間は、どうしても物事の欠点の方に目がいってしまう生き物ですが、他の部分に目を向けてみれば、良い所は必ずあると思っています」
清水さんはりんごを優しく撫でながら、呟くようにそう言った。
僕が無言で聞いていると、彼はそのままりんごを口に運ぶ。
シャク、シャク、と美味しそうな音が鳴った。
「ほら、このリンゴも、見た目は悪いでしょうが、味はとっても美味しいですよ」
味は美味しい。きっとそうなんだと思う。でも、どうしても傷が気になる時はどうすれば良いのだろう。
顔を伏せている僕に気がついたのか、清水さんはワタワタと話始めた。
「えーっと、詳しく"説明"するなら……この傷だとほら、 確かに綺麗に切るのは微妙かも。ミキサーなら気にしないで済むというか……」
清水さんがチラリとこちらを見る。どうやら通訳して欲しいらしい。
「この傷では、飾り切りには向かない。なら、ジュースにしてしまえば良い。そうすれば傷を気にせずに本来の美味しさを味わえる。……これで合ってますか?」
清水さんは流石ですね、と嬉しそうに笑った。
「そう! だから傷物に見えるリンゴだって、その魅力に気がつくことができれば、工夫次第で活躍できるんですよ」
「……!」
清水さんの一言が、ドクンと大きく胸を突いたような感覚がした。
だって、このリンゴの話は、まるで、
「実は、これは私の話なんです」
「……清水、さんのですか?」
さっきまでの勢いとは変わって、清水さんが静かに話始めた。
「私は説明が苦手です。だから相手に伝わらない。……でも、推理はできる。そして、貴方がいれば、私の推理は相手に伝えることができる……!」
そう言うと、おもむろに清水さんはベンチから立ち上がった。こちらに振り返ると、彼の柔らかい月明かりに照らされたミルクティー色の髪の毛が、ふわりとたなびいた。
「だから、私には貴方が必要なんです」
何も言えずただ彼を見上げている僕に向かって、清水さんはゆっくりと白い手を差し出す。
「お願いします、私の助手になっていただけませんか?」
彼の夜明け前のような優しい青色の瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。それはまるで、祈っているようにも見えた。
素直に自分を認めてくれるのが伝わるその姿に、目の前の景色がじわりと揺らめく。
真っ直ぐに差し出された手を、思わず取りそうだった。
取ってしまいたかった。
「……ありがとうございます、でも、やっぱり僕はまだこの会社で働こうと思います」
僕には、まだ覚悟が足りないのだ。会社を辞める覚悟も、この人の助手になる覚悟も。
こんな中途半端な気持ちで、彼の手を取るのは不誠実だと思った。……断ったというのに、清水さんは気を悪くすることなく、困ったように微笑んだ。
「分かりました。残念ですが、仕方がないですね……」
そして、ちぇーとおどけながら、カチッと何かのボタンを押す。
ん? ボタンを、押した?
「えっ? なんですか?それ」
「録音機です」
「録音機……?」
清水さんはなんでもないように言うと、手元の録音機のボタンをもう一度押す。
すると、ザザ……という環境音と共に、「……ありがとうございます、でも、やっぱり僕はまだこの会社で働こうと思います」と言っている僕の声が流れた。
「ほら、探偵ですから、常に持っているんです。……いやぁ、冗談でも助手になると言ってくれれば、これで言質が取れたんですけどね」
清水さんはえへへ、と悪気が無さそうに笑っている。
こ、この人は……!
「……手を取らなくて正解だったかもしれませんね」
「ご冗談を、ははは!」
清水さんがカラリと笑うのに釣られて、なんだかこちらまでおかしくなってしまい、控えめな2人分の笑い声が公園に響いた。
きっとまた明日からも同じ日常が続く。
だが、清水さんの言葉を思い出すことで、前よりは自分を肯定できるような気がした。
◇◆◇
翌日、日頼は荒れた様子でパソコンを叩いていた。
「なんだあのババア、気に入らねぇ」
日頼はイラつきをぶつけるように缶コーヒーを持つ手に力を込めた。
田辺製鉄所で言われた言葉が、頭の中でグルグルと回って離れないのだ。
「あれ? 貴方は……?」
「日頼と申します。春瀬から引き継いで、この件を担当することになりました」
「そうなの、残念だわ。あ、日頼さんに失礼よね。ごめんなさい……。でも、私彼の人柄に惚れたのよ。春瀬さんは、私の言いたいことをキチンと汲み取ってくれるの。だから……」
なんであいつの名前が出てくるんだ
「……日頼さんは、なんだかお急ぎなのかしら……? 今日はここまでにしましょう」
なんで、この俺が……!
「クソ……!」
「仕事が遅いだけの癖に、無能なのに」
「なんであいつが……!」
俺の方が優秀で、春瀬は無能で、会社にとっても必要のない存在で邪魔なだけ。
スピードと効率重視でやれば上手くいく、契約数が全て。そうやって教わってきた。実際に、上手くいっていた。
なのに何故アイツが求められるんだ。
以前からそうだ。会社では俺の方が上なのに、営業先では春瀬と俺を比べる人がいる。その度にプライドが傷ついた。
あいつは時間を長くかけるだけで、結果は俺の方が出しているのに。俺と比べる対象ですらない奴のはずなのに。
イラつきが止まらない。缶コーヒーを一気飲みして、気を落ち着かせた。
すると、ふと発注書が目に入った。
「そうだ……」
俺は発注書の数字を、わざと大きい数字に書き換え、名前の欄に 春瀬 侑 と書いた。
アイツの字を真似て書いたから、自分でも違いが分からないくらいだった。
会社の邪魔なら、 消せば良いだけだ。
そう、会社のために。
◇◆◇
温かい太陽の光が木々をキラキラと照らしている。
子どもたちの遊んでいる声や、ちゅん、ちゅん、と小鳥の鳴き声が響き、とても可愛らしい。
僕は珍しく、昼間の公園に足を運んでいた。
いつものベンチの前を通ると、聞き馴染みのある声が聞こえてくる。
「春瀬さん、こんにちは。今日も頑張ってますね」
「……こんにちは、清水さん。なんだか僕ら毎日顔を合わせているような気がしますね」
「ええ、不思議と、何故かたまたま会いますよね」
清水さんはまた白々しい態度でそう言うものだから、思わずふ、と笑ってしまった。
だが、白々しさで言えば、僕だってそうだ。
清水さんは、あれから毎日決まって夜の公園で、同じ場所のベンチに座っていた。本当に避けたければ、そこのベンチに近づかないで帰れば良い話だ。
それでも僕は毎回彼のいるベンチの前を通るのだから、彼もその意味に気がついているだろう。
「でも、今日は本当に偶然ですよ。この時間はいつも事務所にいますから」
「へえ、今日は、本当に、偶然なんですね」
僕は少し揶揄うつもりでそう言った。
すると、清水さんは自分が口を滑らせたことに気がついたのだろう。分かりやすく咳払いをすると、急いで話題を変えた。
「昼間に会うのは初めてですね。午後休ですか?」
「休憩時間ですよ。たまには外の空気が吸いたくて」
「そうですか、では、日向ぼっこでもしましょうよ、セロトニンは……」
また、いつもの長い話が始まった。
彼の話を聞いていると、さっきまでピリついた空気の中で仕事をしていた緊張が、じわりと溶けていく感覚がする。
あの日以降、清水さんは僕を勧誘しなくなった。だが、その代わりに夜の少しの時間、僕らは話をするようになった。
その日の仕事やご飯の話や、清水さんの趣味の話などの本当になんでもない世間話ばかり。だけど、僕にとっては、その穏やかな時間が心地よかった。
だが、話の途中で、会社でよく聞く不機嫌な怒鳴り声が突然聞こえてきたのだ。
「オイ、春瀬!」
「日頼先輩? どうして……」
「お前のせいで大変なことになってんだよ! 休んでる暇なんかねぇよ、早く行くぞ」
「ま……待ってください、なんの事ですか?」
「コレだよ! お前が誤発注した書類が出てきたんだよ」
日頼が出してきたのは、発注書だった。
個数が通常より多く書かれているのが分かった。これは紛れもなく誤発注だろう。
だが、おかしい、僕はこの書類に見覚えが無かった。
「これ……僕が発注したものじゃないですよ」
「そんな訳ねーだろ! ここにお前のサインもしっかりあるだろうが」
「なっ…………」
氏名欄には、春瀬 侑 と自分の名前が書かれていた。
「でも、僕は、この発注書を書いてません」
「だが、どう見てもお前の字だ」
僕は本当にこの発注書に見覚えが無い。
だが、名前を見てみると、確かにどう見ても僕の字で間違いないのだ。
本当に、僕が、書いたものなのだろうか。
サーっと血の気が引き、目の前がグワンと揺れるような感覚がした。
でも、おかしい。普段、あんなに確認をしているのに。
いや、記憶に無いだけかもしれない。覚えていないだけで、僕が間違って発注してしまったのかもしれない。
僕が
「うーん、でもこの発注書、違和感ありますよ」
緊迫した空気の中で、どこか間延びした声が響いた。
「……清水さん!」
「…………貴方は誰ですか?」
「初めまして、私は探偵の清水です」
清水さんはこんな状況の中でも、いつも通りに挨拶をすると、にこりと笑った。
日頼さんは、少し気圧された様子であったが、すぐに怪訝そうな顔をした。
「はは! 探偵ってねぇ。それに違和感って……これは我々内部の発注書ですが……貴方に何が分かると言うのです?」
日頼さんの馬鹿にするような話し方にも、清水さんは一切気にしておらず、書類をじっと見つめている。
「春瀬さん、今、貴方の名前が書いてある物はありますか?ご自身で書かれた物です」
「え、ええ」
僕はいつも持ち歩いている手帳を渡した。落としても大丈夫なように、自分の名前が書いてある。
清水さんは、手帳と発注書をじっと観察し始めた。
だが、僕自身が見ても、全く同じ文字だ。全く同じ癖、書き方。
これでは誰が見ても僕が書いたと思うだろう。きっと、清水さんも……
「やはり、この発注書は偽造されている可能性が高いです!」
清水さんは日頼さんが持っている書類を真っ直ぐに指を指すと、日頼さんが狼狽えたように目を大きく開いた。
きっと、僕も同じような顔になっているのだろう。……清水さんは、僕を信じてくれるのか?
「は? 偽造? ……何を言っているんだか……」
「ええ、間違いありません」
「……そんなに言うなら、"説明"してみろよ!」
日頼さんが怒鳴り声をあげた。突然のことで、バクバクと心臓が鳴った。
様子がおかしい。なぜ、こんなに取り乱しているのだろうか。いつも余裕がある彼の、こんな姿は見たことがない。
「せ、せつめい、そ、それは……」
清水さんは固まってしまっていた。恐らく怒鳴り声にではない。
きっと、日頼さんに、苦手な"説明"を求められたからだ。
静かになってしまった清水さんを見て、説明ができないと踏んだのだろう。日頼さんは途端に落ち着きを取り戻し、いつもの、嘲るような顔になった。
「…ふん、説明できないのであれば、口を挟まないでいただきたいですね」
日頼さんの言葉に、清水さんが突きつけた指を降ろそうとしているのが見える。
これで、良いのか?
清水さんはあの時、信じてくれたのだ。
発注書を書いていないという、僕の言葉を。
僕ですら自分のことを疑ってしまったのに。
観察して……違和感を見つけて、知らない人相手だというのに、声をあげてくれたのだ。
僕は……
彼が僕のためにあげてくれた声を、無駄にはしたくない!
僕は清水さんの横に立つと、彼が降ろしかけた腕を下からグッと支えた。
真っ直ぐ、日頼さんに指を突き続けられるように。
「春瀬さん……?」
「春瀬、なんだそれ、一緒に探偵ごっこか?」
僕は清水さんに声を掛ける。
「清水さん、大丈夫。そのまま、思った通りに口に出してください」
「……!」
清水さんの目が大きく見開かれた。
「支離滅裂でも良い、僕が通訳します」
清水さんは、僕の目を真っ直ぐ見つめた。……そして、不敵な笑顔を浮かべてから、堂々と話し始めた。
「確かに、手帳の字も、発注書も、同じ文字だ。でも、比べると違和感なんです、字……そう、インクだ……インク溜り……。力の位置が違うから。きっと、ゆっくり書いたから、真似のために」
「手帳も発注書も全く同じ字体だが、比べてみると、インク溜りの位置がおかしい。普通、インク溜りは力が入る時に起きることですが、発注書の文字は、普通に書けば力が入らない箇所にインクが溜まっている。それは何故か……字を真似しようとゆっくり書いたからと考えられる。」
「な、なんだよ……」
「商品名を間違わないようにではない。これは春瀬さんの名前……普通はありえないんです」
「商品名を間違わないように等、よく確認しながらゆっくり書くことはあれど、この書類の場合は、僕の名前の部分で謎のインク溜りが起きている。おかしいですよね、名前なんて、確認しなくてもすぐ書けるものなのに」
「……!」
「「よって、これは誰かが春瀬さん(僕)にミスを擦り付けようとして書いた書類である」」
「なっ……!」
説明が終わると、清水さんは真っ直ぐ前を向きながら「ありがとう、春瀬さん」と呟いた。
僕は無言で頷いた。
日頼は、明らかに動揺していた。汗を流しながら、口をハクハクとさせている。
やはりおかしい、なぜこんなに彼が動揺する必要がある?
だが、彼は何かに気がついたように、ニヤリと笑った。
「理由は分かった。……だが、結局、他の人がやったという証拠は無いよな?」
「なっ……」
確かに、そうなのだ。誰かが僕にミスを擦り付けたにしても、証拠や犯人が分からなければ、どうすることもできない。
すると、清水さんが「あ!」と声を上げた。
「 まって、……よく見ると、名前の中にインク溜りがない部分がある。 普段から書きなれている部分? これは、日、あと、瀬のさんずいを除いた部分、頼……」
清水さんが独り言のように呟いている。
「日に、頼……!?それって」
僕は咄嗟に日頼さんを見た。すると彼は、ゆっくりと、歪んだ笑顔を見せた。
「残念だが、そこまでだよ。これ以上付き合っている時間も無いものでね」
「監視カメラ……! 監視カメラを見れば分かるはず!」
「探偵さん、うちの会社はね、そこまで暇じゃ無いんだよ。発注ミスの書類には、春瀬の名前が書いてある。それが全てなんだ」
「なんですって……!」
「春瀬、諦めな。これはお前のミスだ。……オイ! 早くしろ!」
日頼さんは怒鳴ると、僕の腕を強引に引っ張って歩き出す。
僕は抵抗することもできず、引きずられるように着いて行くことしかできなかった。
「春瀬さん!」
清水さんの大声に振り返ると、彼は何かを僕に向かって投げていた。
咄嗟に空いている手でキャッチをすると、手のひらには小さくて硬い、機械のような感触がした。
「春瀬さん、それは差し上げます!」
僕は離れていく清水さんに、挨拶もできずにその場を後にした。
その後は散々だった。
言ってしまえば、結局発注書の件は、僕が責任を取ることとなった。
当たり前だ、僕の名前が書いてあるのだから。僕自身が何を言ったところで、言い訳にしかならない。誰も、インク溜りを気にする人などいないのだ。
よりによって、発注先は田辺製鉄所だった。
謝る僕に対して、会長は最後まで
「大丈夫よ、何か事情があったのよね」と優しく声を掛けてくださったから、思わず泣いてしまいそうになった。
「キミは普段から契約の数も少ないのに、更にはこんなミスまで……それに、誤発注をまだ認めていないとはどういう事だ」
「……」
僕は今、上司と2人きりの面談をしている。上司はいつもにも増して不機嫌な様子だ。……話し始めて、もう1時間は経っただろうか。
「あの発注書を書いたのは私ではありません……」
「この期に及んで言い訳か!」
彼が力強く机を叩いたせいで、コップがグラリと揺れる。
そんな中でも、僕は清水さんの言葉を思い出していた。
『疑われてる人が、1人でも救えたら素敵だと思いませんか?』
清水さん。今、僕も心からそう思ってますよ。人間って、いざ自分がその立場にならないと分からないものですね。
「正直言って、我々にとって、君という存在はデメリットでしかない」
『凄いのは貴方だ! 私の説明、いっつも分かりにくくて、何を言っても理解して貰えないのに、貴方は一瞬で汲み取ってくださった……そう、まるで、通訳のように!』
そうは言いますが、僕の大事にしていることを汲み取ってくれたのも、貴方が初めてだったんですよ。
「……今の君のままでは、うちには必要がない。正直、いつだってクビにできるんだぞ」
上司の言葉が面談室に大きく響く。
僕は、月明かりの夜のことを思い出していた。
『私は説明が苦手です。だから相手に伝わらない。……でも、推理はできる。そして、貴方がいれば、私の推理は相手に伝えることができる……!』
『だから、私には貴方が必要なんです』
『お願いします、私の助手になっていただけませんか?』
覚悟は、決まった。
「だからだな、今後は心を入れ替えて」
「僕は、この会社を、辞めさせていただきます」
「……なんだと?」
僕は、スーツの内ポケットから辞表を出し、机の上に置く。
実は、あの日から用意していた物だった。
そう、彼に誘われた日から、覚悟が決まった時にすぐ出せるように。
「……クビにしていただいても構いません」
「本気、なのか」
「はい。突然のことで申し訳ありません。今まで、お世話になりました」
その後は軽い騒ぎになった。
それはそうだろう。発注ミスをしたと思われている人が、上司と面談したかと思えばその日のうちに辞表を出したのだ。
無責任や、非常識等、色んな人が僕を見て噂をしているのが嫌でも耳に入った。しばらく辛い日々になるだろうが、仕方のないことだろう。
辞表を出したからとはいえ、今日辞められる訳ではない。何故なら、引き継ぎや手続きがあるからだ。
それに、僕はまだ他にもやり残したことがある。
そして、出勤最終日。
相変わらず最後まで定時に帰ることはできなかった。いや、最終日こそ定時では帰れないのかもしれないが……。
とにかく、もう遅い時間だからか、もう会社には誰も残ってはいなかった。日頼さんを除いて。
「日頼さん」
僕は、荷物を纏めて帰ろうとしている日頼さんに声を掛けた。
「……おお、春瀬じゃないか、今日で最終日だっけな」
日頼さんは僕に気がつくと、わざとらしく笑いながら返事をした。
「日頼さん、……あの発注書は、貴方が書いたのですよね」
「はは、まだ言ってんのか、それ」
「はぐらかしてもわかってますよ。……もう僕、ここを辞めるんです。最後くらい本心で話しましょうよ」
少し考えた後、日頼さんはニタリと笑った。
「確かにそうだな。そうだよ、俺がお前の字を真似て誤発注をした。これで満足か?」
やはり、この人だったのか……!
「なぜそんなことを?」
「いいよ、教えてやるよ」
彼の顔からフッと笑顔が抜け落ちた、そして、代わりに、背中がゾッとするほど、憎しみのこもった目で僕を睨みつけた。
「お前が、邪魔だからだよ。効率の悪い役立たず。
見てるだけでイライラする。……なのに、田辺製鉄所だっけ?あのババアが随分お前の名前ばかり出すものだからな、クソムカついたんだよ。だから消してやろうと思った」
「……そんなことで?貴方のその身勝手な行動で、どれほど迷惑をかけると思ってるんですか」
「はは、会社の為でもあるんだぞ。役立たずのお前が消えれば、この会社ももっとデカくなれるだろうよ」
唖然として言葉が出ない。こんなくだらない理由で、僕は貶められたのか。こんな人間に……!
「なぁ、……知ったところで今更どうしようって言うんだ? お前はもうこの会社を辞めるんだろ、俺の罪を被ってな」
頭に血が上る。今にも殴り掛かりたい衝動に駆られるが、拳にグッと力を込めて耐える。
「ま、次はうまくいくと良いな!」
日頼さんは、僕の肩をポンと叩くと、そのまま部屋を出ていった。
カチッ……
扉が閉まると、僕は清水さんから貰った録音機のストップボタンを押した。
清水さんがしていたように、もう一度ボタンを押すと、日頼の声が流れ出す。「確かにそうだな。そうだよ、俺がお前の字を真似て誤発注をした。これで満足か?」録音はきちんとできていたようだ。
僕は最後に上司の机に、メモと一緒に録音機を置いた。
これで、やり残したことはない。
だが、やるせない気持ちに僕はすぐに動く気にはなれず、落ち着いてから会社を後にすることにした。
公園のベンチでは、いつものように清水さんが座っていた。月明かりに照らされながら、ボーッと空を見上げている。まだ、僕には気がついていないようだ。
「……お久しぶりですね、清水さん」
僕は静かに声を掛けた。
「春瀬さん、こんばんは、遅くまで大変ですね」
久しぶりだというのに、彼は相変わらずいつもと同じ挨拶だ。
実は、日頼さんとのことがあってから、僕は公園のベンチには行っていなかったのだ。
自分がどうするべきか、どうしたいかは一人で考えるべきだと思ったからだ。
今考えると、そのことを伝えるべきだったかもしれない。彼は、あの日以降もベンチで僕を待ち続けていただろうから。
清水さんが端に身体をずらしたので、僕はいつもの通り隣に座った。
「清水さん、あの日のこと、ありがとうございました」
「……なんのことだか」
僕がお礼を言うと、清水さんはすっとぼけた。
……きっと恥ずかしいのだろう。
きっと、これ以上のお礼は彼も求めてはいない。
「実は、清水さんに謝らないといけないんです」
「どうしましたか?」
「お借りした録音機は、もう返せそうにありません」
僕がそう言うと清水さんは、一瞬だけ驚いた。しかし、その後全てを理解したようで、イタズラが成功したような悪い顔をした。
「あれを使いこなしましたか、さすが春瀬さんですね」
楽しそうにくふくふ笑っている、この人も中々悪い人だ。釣られて僕も一緒になって笑ってしまう。
そうしていると、さっきまでのやるせない気持ちも消えていくようだった。
「あれは貴方へのプレゼントですから、返さなくて結構ですよ」
「それなら良かった」
「……今日は、それを伝えに来てくださったんですね」
勿論、僕が今日伝えたかったのは、録音機のことだけではない。
「実は僕、今日で会社を辞めたんです」
「……えっ」
楽しそうにしていたのが一変、彼はショックを受けた顔をした。
あれだけ僕のことを勧誘していたのに、いざ僕が会社を辞めるとなるとこんな顔をするとは。人が良いというか、何というか……。
「まさか、辞めさせられたのですか?」
「いいえ、きちんと僕の意思で」
「どうして……?」
彼は本当に分からないと言った顔でチラリとこちらを見た。名探偵の癖に、どうも自分のことに関すると鈍いらしい。
僕はベンチから降りて、清水さんの目を真っ直ぐ見た。
「助けてもらったあの日、貴方に着いて行きたいと思ったからです」
清水さんの目が、大きく見開かれた。まるで、信じられないといった顔で。
「僕は、推理ができません。自分を陥れようとした犯人ですら、自分には分かりませんでした。……でも、清水さんの推理の通訳をすることはできます」
「……僕は、貴方のためにこの力を活かしたいのです」
僕はあの日の彼のように、清水さんに向かって手を伸ばした。
「だから、お願いです。……僕を貴方の助手にしていただけませんか?」
そう言い終えるが先に、伸ばした手を強く掴まれて、グイっと引っ張られた。
「……当たり前です! 私は貴方のことをずっと待っていたのですから」
清水さんは、心から嬉しいと言わんばかりに、目を宝石のようにキラキラと輝かせながら、ふにゃりと笑った。
思わず、僕も釣られて顔が綻んでしまう。
「さあ、これからの詳しい話をしないといけませんね……助手くん!」
「なんですか?その呼び方は」
「見ての通り、舞い上がっているのですよ、助手くん……うん、良い響きですね! 助手くんも是非、探偵と呼んでいただいても構いませんが」
「僕は遠慮しておきますね、彰人さん」
「あき……!? む、うん……名前で呼ばれるのも良いものですね……。とにかく! ここは冷え込みますから、事務所に行きませんか? 今までここで貴方を待っている間も寒くて寒くて……」
「あ、僕を待ち伏せてたことは認めるんですね?」
「……さ! 早く行きましょう!」
「誤魔化した……」
僕たちは事務所に向かって歩き出した。どうやら遠くない場所にあるらしい。
彰人さんは、僕が道を覚えられるように、説明をしながら歩いてくれている。
「事務所への道は、えっと、ここをすーっと行くとポストがあるんですけど、騙されずにグイっと行って、するとペットショップが……」
相変わらず、彰人さんの説明は抽象的で、支離滅裂だ。やはり、道案内にしても、この名探偵には通訳が必要らしい。
僕は小さく笑いながら、頭の中で彼の言葉のパズルを組み立て始めた。
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