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三十年後に届いた白い手紙

作者: 柳澈涵
掲載日:2026/01/10

 「公爵令嬢。


 今日は、私の戴冠舞踏会です」


 若い皇帝は、そう言って私を見た。


 微笑みは礼儀正しく、声も抑制されていたが、その奥にある苛立ちは隠しきれていなかった。


 「このような日に、三十年前に処刑された者の話を持ち出す必要が、あるのでしょうか」


 音楽は続いていた。


 天井から垂れ下がる無数の燭台が、舞踏会場を柔らかく照らしている。


 笑い声、衣擦れの音、グラスが触れ合う乾いた響き。


 ただ、私に向けられる視線だけが、少しずつ重さを増していた。


 私は何も答えず、ドレスの内側から一通の手紙を取り出した。


 黄ばんだ封筒だった。


 角は擦り切れ、封蝋は乾いてひび割れ、紋章の形も判別できない。


 両手で持ち、皇帝の前に差し出す。


 「祖母が亡くなる直前、私に託したものです」


 それだけを告げた。


 皇帝は短く息を吐き、半ば投げるように封を切った。


 最初は、ただ形式的に目を走らせているように見えた。


 だが、数行を読んだところで、彼の動きが止まった。


 顔から血の気が引いていくのが、はっきりとわかった。


 指先が、わずかに震えていた。


 三十年前、帝国では一度きりの反乱が起きた。


 それはすぐに鎮圧され、公式の記録からも姿を消した。


 代わりに、一人の少年の名だけが「反逆者」として残された。


 皇太子——後の太上皇の側近。


 「帝国の剣」と呼ばれた、若い護衛だった。


 処刑の日、街には人が溢れていた。


 歓声と罵声が入り混じり、断頭台の周囲は祭りのようだったと聞く。


 ただ一人、その罪を信じなかった者がいる。


 当時の公爵家令嬢。


 私の祖母だ。


 冬の朝、彼女は裸足で屋敷を飛び出し、雪の積もった道を走った。


 靴を落とし、裾を汚し、それでも足を止めなかった。


 だが、間に合わなかった。


 処刑が終わった後、雪の上に残されていたのは、引き裂かれた衣の切れ端だけだった。


 そこに、血で小さく書かれていた名を見た瞬間、


 祖母はその場に崩れ落ちたと、後に聞いた。


 それは、幼い頃に彼だけが呼んでいた、彼女の名だった。


 人々は言った。


 「公爵家の令嬢は、気が触れた」と。


 彼女は縁談をすべて断り、


 帝国の辺境、ほとんど人の通らない山道に、小さな郵便局を開いた。


 三十年。


 その郵便局は、一日も閉じられることがなかった。


 「……この手紙には、何が書かれているのですか」


 皇帝の声は、掠れていた。


 私は彼を見て、静かに答えた。


 「謝罪でも、王家への抗議でもありません」


 「彼が処刑される前に書いた、ただの記録です」


 皇帝は視線を落としたまま、続きを促さなかった。


 「彼は、自分が切り捨てられる存在だと、最初から理解していました」


 「もし弁明すれば、真実を隠すために、王家は公爵家を滅ぼすだろう、と」


 「だから、彼は沈黙を選びました」


 言葉を選びながら、私は続けた。


 「彼が悔やんだのは、ただ一つだけです」


 「雪が止む前に、この手紙を、彼女に直接渡せなかったこと」


 信の最後に記されていた一文を、私はそのまま口にした。


 「もし三十年後、


 私が別の名で生きていたなら、


 あの郵便局の前で、もう一度、彼女の手を取りたい」


 皇帝は、ゆっくりと玉座に腰を下ろした。


 北境で戦果を挙げながら、


 褒賞をすべて辞退し、


 辺境への配属を願い出た若い将軍。


 その存在を、彼が知らないはずがなかった。


 音楽は、いつの間にか止んでいた。


 私はドレスの裾を持ち、舞踏会の中央で、静かに一礼した。


 「この婚約は、お受けできません」


 それ以上の説明はしなかった。


 私は背を向け、扉へ向かう。


 重い扉が閉じる音が、光と囁きと視線を、すべて遮断した。


 夜、雪は音もなく降り続いていた。


 辺境の山道に、郵便局の灯りが見えた。


 三十年間、変わらず灯り続けてきた光だ。


 門の前で、黒い軍服の青年が馬を降りる。


 彼が顔を上げた瞬間、私は理解した。


 説明は、必要なかった。


 彼は私を「公爵令嬢」と呼ばなかった。


 手紙に記されていた通り、


 祖母だけが知っていた、その名で、私を呼んだ。


 雪は、相変わらず降り続いている。


 三十年遅れの手紙は、


 その夜、ようやく宛先に届いた。

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