失恋した女 その5
「あの、今度引っ越してきたので、転入届の方を…」
多分、かなり長い間僕は硬直していたのかもしれない。綺麗な女の人は堪らずそう言った。
「あ、す、すみません…。え、ええと、転入届ですね…」
僕は慌てて必要な書類を準備した。あまりに慌てていたから、近くにあったゴミ箱を蹴飛ばしてしまう。事情をしらない他の職員たちから白い目を向けられたが、僕はそんなことを気にしている場合ではなかった。
来た。ついに来たのだ。この町にあんな綺麗な人がやって来たのだ。
僕は高鳴る胸を大量の唾を飲み込んで黙らせながら、平静を装った。
「どうぞ、こちらの書類にご記入くだちゃい」
言い終わった後、僕はハッとした。まさか、くださいを噛んでくだちゃいなんて言ってしまうなんて。
顔から火が出るとはこのことで、僕はすぐさま頭からバケツで水を被りたかったが、そんなことをすれば白い目どころではすまない。
僕は顔が紅潮しているのを自覚しながら、綺麗な人の反応を恐る恐る伺う。
幸い、綺麗な人は全く僕の方を見ることなく、そのまま書類に記入し始めた。
全く無関心といった感じで、それはそれで寂しい気もするが、今は良しとしよう。
この綺麗な人の名前は古川麻衣と言うらしい。
僕はその綺麗な人がペンのインクを使って書類の上に紡ぎ出されるその名前を見つめながら、一人胸をときめかせていた。
なんて素敵な名前なんだ。特に麻衣って名前が素晴らしい。中学の時に初めて恋というのを知った相手の名前と同じなんだから。
しかもこの綺麗な人の書く字のなんて綺麗なこと。僕のまるでミミズが這い回ったような字とは雲泥の差である。もしかして、この人の流れるような美しいセミロングの黒髪を少しだけ頂戴して筆を作れば、僕も少しはマシな字が書けるかもしれないな。
僕はそう思った瞬間、背筋がゾッとした。
なんて気持ち悪いことを考えているんだ。これもこの町で産まれてこの方、一度も異性の付き合ったことがないことの弊害なのかもしれない。
このままでは本当にやばい。早く彼女どころか、嫁さんを貰わないと、僕はどんどんヤバい奴になってしまいそうである…。
「…あの、書きました」
僕は綺麗な人のその言葉で、さっきから目線の少し上にある黒ずんだ照明を見つめながら物思いに耽っていたところを現実に引き戻された。
「あ、すみません…」
僕は慌てて書類を受け取った。いきなり現実に呼び戻され焦ったけど、その呼び出した人がこの綺麗な人だったのだから、悪い気は全然しないし、むしろ嬉しかった。
「え!?」
僕は書類に目を落とした瞬間、思わず声が出てしまった。
「どうかしましたか?何か書類に不備が?」
綺麗な人は心配そうな顔をしている。
あなたみたいな素敵な人にそんな顔をさせてしまってもう少しわけないと思うけど、今は少しの間驚かせてほしい。
さっき折角現実に引き戻して貰ったのに、僕は目の前に広がる光景が現実とは思えなかった。
だって転入届に書かれてある彼女の住所が、まさか僕の住むアパートと同じだったのだから…。