ドロップが結ぶ世界
世界を変えたテクノロジーと言って挙げられるだろう候補は多々あれど、それの発見後の時代の人に聞けば、同じ答えが返ってくるだろう。ドロップがその筆頭となることには疑う余地がない。
ドロップが何かと説明する必要がある場合、相手が日本人であればおおむね一言で済む。「開けっ放しのどこでもドア」と。ドアの片方を持ち運んで好きな場所へと設置して瞬間移動に使えるが、閉じて開け直すことで好きな場所へと自在に繋ぎ変えるようなことはできない。
それは、欧州の粒子加速器による実験中に、光子が光速より速く飛んだという間違ったデータが観測され、その原因を調べる内、偶然に発見された。まだ正体不明のままの謎の現象で、その利用に対して、安全性を疑問視する声も少なくはない。安定していると言えるのか、歪んだ空間を通り抜けても健康は大丈夫か、中には、異世界と繋がりでもしたらどうするという突拍子もない意見まであったが。
国際ドロップネットワーク管理局(DIDN:デパートメントオブインターナショナルドロップネットワーク)の職員である旭人は、順番待ちをする狭い車内に閉じ込められていた。
アラスカの端までは順調に辿り着いたが、ここから先、ベーリング海峡を超えるドロップは、今現在の地球上で最も混み合った、人類社会の要衝だ。
空間が繋がった二つのドロップの間には、距離に比例した引力が働くため、好きなだけ遠くへ一気に移動する用途には使えない。10kmほど離すと荷重が3万トンを超えてしまうため、この辺りが実用的な限界だった。遠くへ移動する場合は、10kmおきに設置されたドロップ中継基地を次々に経由していくことになる。費用対効果の高い航空路線や都市間の鉄道から順にドロップ中継基地へと置き換えられてきており、鉄道感覚で世界旅行ができるようになりつつある。
しかし、いくら需要が集中するこの海峡とはいえ、動く気配が無さ過ぎる。今朝、東向きに通過したときはここまで酷くはなかったのだが……。
「はあ……」
ため息を付いて、三時間ほど前にチリの天文台から回収してきたデータに目を落とす。これをミュンヘンの天文台協会本部へ持って行き「状況の説明」をするのが、この日帰り出張の内容だった。
天文学会がインターネットの回線事業者へと「送ったデータが壊れる」という苦情を最初に入れたのはずいぶんと前のことらしい。苦情は順調にたらい回しされ、ついには、DIDNにまで回ってきた。
今やネット回線もドロップ経由の時代だが、大量の人や物が無事に通過している横でデジタルデータだけが壊れるというのはあり得ない。問題は回線事業者の側にあるはずで、それが解決されるまで待つしかないのだが、学会のあまりの剣幕を無視できなくなってきた。「こちら側には特に何もありません」という報告をするだけでも、関係者各位の日程を調整をして会議を設定すればそれで一週間ぐらいはかかる。要は時間稼ぎだ。
世界に冠たるドロップ管理局の職員へとヘッドハントされたときには旭人も希望に満ちていたものだが、回ってくる仕事といえばこの調子で、彼はそろそろ今後の身の振り方に悩み始めていた。
彼が、異世界から来た美女に頼まれて世界を救う運命へと身を投じることになったのは、そんな頃の話だった。
ドロップは、特定の高エネルギー状態に保たれた空間内に、対で偶発的にわき出してくる。互いに引力で引き合っており、接触するとエネルギーを放出して対消滅する。発生時には素粒子サイズで光子ぐらいしか通過できない小さな穴だが、エネルギーを与えると大きくなる。
それ以上には近づけないという意味で、事象の水平面と名付けられた境界面は、力を加えてやることで、自在にその形状を変化させた。ドロップという名前は、覗き込むと、対となるドロップの向こう側が揺らぎながら見える様子から来ている。
旭人が大阪国際空港まで帰ってきたのは、夕暮れ前だった。航空需要の激減で役目を終えた空港は、名前はそのままに、今はドロップターミナルに転用されている。
どうやら、ドロップネットワーク全体に深刻なトラブルが発生しているようで、海峡を越えた後も、動いたり止まったりの安定しない旅路だった。局内は上を下への大騒ぎで、この調子では改めて旭人にまで招集がかかるのは時間の問題だろう。捕まる前に一度家に帰って、出張荷物を置いて風呂にでも入りたい。
そんな事を思いながら、『合わせ鏡』の広場を通る。
『合わせ鏡』は、枠を付けて平らに引き延ばしたドロップを一メートルほどの距離を離して設置したアトラクションだ。普通の合わせ鏡と同様、一見して無限に長い廊下があるように思えるが、実際は同じ一メートルが何度も繰り返し見えているだけだ。間に人が立てば、その人が無限に並んでいるように見えるが、もちろん、それも、一人の人間を少しずつ違う角度から見ているだけのことだ。普通の合わせ鏡とは違って自分と向き合うことはできず、常に自分の後頭部が見える。
より大きな違いは「鏡面」を超えて向こうへ行ける事だ。
ちょっと幅が広めに作られた『合わせ鏡』では、子供が自分自身の後ろを追いまわしていた。同じ子供が目の前を何度も通過していく様はシュールだが、もう見慣れた光景だった。別の狭めのところには、「隣の自分」と手を取り合い、無限に長い人の列を作って壮大なラインダンスをしている少女。実際にはその娘が自分の右手と左手を繋いでいるものが、だまし絵的に多くに見えているだけなのだが。
『合わせ鏡』を見た多くの人が、これを横に寝かすと無限に深い縦穴になってしまうという恐怖に駆られるのだが、その心配は無かった。出入り口で位置ポテンシャルにずれがあるような場合には、ドロップが内部に貯め込んだエネルギーが放出され、収支の帳尻を合わせるのだ。そうやってエネルギーを使い果たせば、もとの素粒子サイズに戻る。無理な場合は物体がドロップを通過できずに弾かれる。そうやってエネルギー保存則に邪魔をされるため、無限に高い滝を作って永久機関にしたりもできない。
旭人はドロップを近道にして広場を通り抜けた。『合わせ鏡』の裏面もドロップの事象の水平面なので、ここを通り抜ければちょっとした距離を稼げる。こういう場所や公園などに『合わせ鏡』がよく設置されているのはこれが理由で、遊具と、通り抜けたい人用の近道とを兼ねている。
「ちょっとあなた、ここの職員でしょ?」
ターミナルビルを出たところで、旭人は突然呼び止められた。
「お願い!助けて!!」
切羽詰まった様子からして、身内の危篤か何かで遠方へと急いでいるのかな、と当たりを付ける。そういえば、慌てていたせいで、管理局のロゴ入り作業着を着たままだった。目に付いた彼を捕まえたのだろう。
「お急ぎでしたら、あちらの窓口は二十四時間開いてますので……」
「そうじゃないの!責任者に合わせて!!誰か話の分かる人に!!」
一般的に言えば、責任者は、多分、話が分からない人だろう、と上司を頭に思い浮かべながら旭人は答えた。
「えっと……クレームでしたら……」
「そうじゃなくて!あーもう!」
遮って女性。声を潜めて言う。
「これを見て」
そう言ってハンドバッグから取りだした物は、手のひらサイズの箱だった。表面に小さな窓が開いていて、中で何やら放電している光が見える。
「『神のサイコロ』よ」
それがさも大変なことであるかのような口ぶりで、女性。
「えっと……?」
女性の意図が分からず聞き返す旭人。
「この放電パターンは世界間の同期から外れているの!だから……」
小声でなにやら電波なことをまくし立てようとした女性だったが、急にはっとした表情を見せ、慌ててその箱をバッグに放り込んだ。
「ヤバい!!」
言って身を翻す。振り回されたバッグから、雑に放り込まれた箱がこぼれ出た。
「おっと」
とっさに受け止める旭人。女性は気付かずに走り出してしまっている。
「あ、ちょっとー!!」
旭人が呼びかけるが、気付かずに走って行ってしまう。
「ったく……しょうがないなぁ」
追いかけようとしたところで、旭人は、その反対からこちらに駆け寄ってくる数名の男に気付いた。状況から察するに、彼女はその男から逃げたのか?
めんどくさいことになりそうな直感から、旭人は箱を鞄の影に隠した。見なかったことにして、後で遺失物窓口へ押しつけよう。そう考えていたが、近づいてくる三人の男達は、旭人の方へ向かって来た。彼女に話しかけられたのを見られていたのかも知れない。
黒スーツを着崩したいかにもな地元のチンピラタイプがリーダーなのだろう。派手な模様のシャツを着たもう一人の男と、ジャージ姿の三人目はさしずめその取り巻きか。
「ちょっと、離してよっ!」
聞こえた声の方を見れば、さっきの女性が腕を掴まれこちらへと引き戻されて来る。
その光景に、旭人はぎょっとした。女性を引っ張っる男の風貌。着崩したスーツは黒ではなく白かったが、いかにもなチンピラ風。思わず目の前の男と見比べてしまったが、二人は、顔から仕草から、そっくりだった。双子なのだろうか。
そう思ってよく見ると、旭人を取り囲む二人とそっくり同じ顔の二人の男が、女性を捕まえているチンピラ風の左右に付いてきていた。
(双子が三組のチンピラ……?)
あり得ないわけではないが、その訳の分からなさに、旭人は恐怖と好奇心の間で混乱した。
「離してってば!!」
目の前にまで連れて来られた女性が男の腕をふりほどく。
「出せよ」
白いスーツの男が言った。
「いやよ!誰があんたなんかにっ!!」
取り巻きが、女性からハンドバッグを奪い取って、中身を路上にぶちまける。
「ちょっと!!止めてよ!!」
「無ぇなぁ……もしかして……」
目的の物を見つけられず、黒スーツの男は旭人を睨め付けてきた。
「え、あ、はい……」
苦手なタイプの迫力を前にして、旭人の判断は一瞬だった。隠し持っていたそれを差し出す。
「だめっ!!」
女性が悲鳴を上げて、男に掴みかかる。
「うるせぇっ!!」
女性を突き飛ばし、旭人から箱をむしり取る。
「ふんっ!」
それを懐に収めて肩で風を切って歩いて行く男の後ろ姿を眺めながら、旭人は正直な所ほっとしていた。
「なんてことをしてくれたのよっ!!」
しかし、ほっとするには早かった。今度は彼女が、すごい剣幕で怒鳴ってきたのだ。
「いや、何かトラブルなら警察に……」
「警察じゃ分かってくれないからここに来たのよ!!」
旭人の言葉を遮って怒鳴りつけてくる。
「あなた、あれが何だか分かってるのっ!?」
「いや、分からないから……」
「あれは、『神のサイコロ』。あれがどれだけ危険なものか分かっていたらあなただって!!……あーもう!!はぁ……」
支離滅裂だ。
「どなたか、ドロップに詳しく、その管理に影響力が高い人に取り次いで貰えないかしら」
言葉こそ穏やかだったが、無理に作った不自然な丁重さで女性。
それならば話は簡単だ。
「俺の上司がそうですけど……何だか分からん話を取り次いだりはできませんよ?」
女性が顔を上げ、旭人を値踏みしてから言った。
「分かったわ。どこか『合わせ鏡』はない?できれば、なるべく人通りの少ない場所に」
旭人は、言われたとおりの場所へと旭人は女性を案内した。ターミナルビルの階段の裏側。彼女は旭人を手で制して、一人、『合わせ鏡』へ近づいた。きょろきょろと誰も居ないことを確認してから旭人を呼ぶ。
「いいわ、来て」
旭人が『合わせ鏡』の間に立つ。
「えっ!?」
突然の男の声。声がした右側を見ると、そこには旭人が居た。いや、旭人が居るのは当然だ。『合わせ鏡』はそういうアトラクションなのだから。だがおかしい。その旭人はこちらを向いている。ということは……ただの鏡か、というわけでもない。その旭人は、こちらを右手で指さしていた。自分は両手を降ろして棒立ちしているにもかかわらず。
「えっ!?」
今度は背後から聞こえて来た声に、旭人は振り向いた。そちらにも居た旭人との間には若干の距離があった。廊下の幅にして三往復分ほど。二人の旭人の呆然とした視線がすれ違う。
と思っていたら、二人の間に別の旭人が割り込んできた。
「えっ!?」
驚く声が三つハモる。
「もう、いいかしら?これがドロップの正体よ」
鏡に映った自分が、自分とは別の行動をしている。そんなふうに訳の分からない目の前の現実に衝撃を受けた旭人の耳には、彼女の声は届いていなかった。
それからしばらく、人目に付かないベンチに落ち着いたところで、女性が言った。
「そういえば名乗ってなかったわね。私は井山恵利。物理学者よ。前に私が、ドロップが異世界へと繋がる危険を訴えて学会から無視されたことは知ってるかしら?」
そういう話があったことは知っている。……ただし与太話として。
「それはただのおまけなのに、そこばっかりが注目されてて腹立たしかったんだけど。本質は、ドロップという現象を説明できるモデルなのに……」
言葉通り、腹立たしげに恵利。
「私のモデルを使ってドロップの性質を調べていく内に『同じ場所から対で発生する』という当たり前の前提が、実は必要とされていないことが分かったの。『周囲の物理環境が全く同じ』という条件さえ満たされれば、ドロップはところ構わず発生しうるわけ。例えば、広い宇宙のどこかに、地球と全く同じ原子の配列を持った惑星が偶然あったとすれば、そこと繋がってもおかしくないのよ。この宇宙のどこかとも限らないわ。量子論的な平行宇宙や、そもそもこの宇宙とは全く接点の無い完全な異世界でも」
どうやら『合わせ鏡』の向こうに別の旭人が居たのは、こことは別の地球だったと言いたいらしい……。
「どうして誰もそのことに気付けなかったかと言えば、ドロップが繋ぐ世界が常に同期していたからなのよ。ドロップの周り全ての素粒子が、もう一方の世界の対応する素粒子とエンタングル状態になっているというのが、ドロップ発生の真の条件。平たく言えば、ドロップで繋がった異なる世界は、最初が全く同じ状態。そして量子の状態が同期しているから、サイコロを振れば全ての世界で同じ目が出る。隣の世界と違う行動を取りたくても、その行動は、今現在の原子の状態と、次に出るサイコロの目で決まってくるから、無理。どんな行動も必ず同じになる。違いを出すためには、少しでも原子の状態が違うか、次に出るサイコロの目が違うかしないとダメだけど、そのどちらかには、現在に違いが無ければダメで、そのためにはその少し前の状態に違いが必要で……、と堂々巡りで解決できない」
声にいよいよ熱が籠もってくる。
「ドロップを通り抜けて別の世界へ行っても、そこには地球と全く同じ環境があるから、違う世界へ来たとは気付けない。また、同時に、別の世界から、全く区別の付かない別の自分がやって来て、出て行った自分の穴を埋める。みんな、世界間移動装置を、地球上の二地点を結ぶ便利なショートカットだと勘違いして使っていたのよ」
話を聞いて、旭人はぞっとするものを感じた。さっき見た、『合わせ鏡』で追いかけっこしていた子は、遙か別の世界へ行ってしまったのだ。それと全く区別出来ない子がこの世界にやってくるのと引き替えに。ラインダンスをしていた子達は、見たままの印象の通り、実は全員別世界に住む別の人間だったのだ……。
おそらくここは、旭人が生まれ育った世界ではないのだ。ここに居る親類縁者は、たまたま本物と同じ原子配列だったというだけの、赤の他人だ。生まれ育った世界へと戻りたいのならば、今までに通ってきたドロップの全てを正確に逆順で通りなおす必要があるが、適当に近道に使った分まで含めて、とてもじゃないがどこをどう通ったかなど、調べようがない……。
「私はモデルが示唆する、単独で発生する特殊なドロップを作ろうとしてたの。それはモデルが間違っていれば存在し得ないから、もし作れれば私のモデルが正しいことの有力な証拠になる。発生条件を求めて、大学のドロップ発生装置を使ってね。やっとのことでできたドロップがあの放電管に入っていたんだけど……」
言って旭人を睨み付ける。
「まあ、あれが『神のサイコロ』になっちゃったのは予想外だったんだけど。単独のドロップがどこに繋がるのかはモデルからは計算できなかったから。管に詰めてどこと繋がっているのか調べようとしていて、ドロップ越しの世界とは違う放電パターンになっている事に気付いたの」
旭人は、状況をはっきりと理解した。自分が異世界生まれかも知れない等という悩みは、差し迫った危機に比べれば、脳天気とさえ言えた。
「あんた、自分が何を作ったか分かってるのかっ!?」
今度は旭人が叫ぶ番だった。
「だから、渡すなって言ったのよ!」
二人は恵利の勤める大学へ行き、ドロップ発生機を起動させた。それを確認した後、旭人はパソコンに向かって何か延々と作業している。恵利は、その隣で、別のパソコンにかじりついていた。
「何でもいいから、今晩以降に起こった、強盗かドロップに関係する事件事故のニュースを見つけて読み上げてくれ。なるべく画像や動画、そういう情報量の多いやつが良い」
それが旭人の指示だった。
ここまでの道すがら、恵利はさっきの六人について語った。
「あいつは乙彦、あたしの幼なじみで、こんなことになる前は付き合ってたんだけど……」
「あれと?」という驚きを旭人は飲み込んだ。
「バカだけどそんなに悪い奴じゃあないと思ってたのよ!」
飲み込んだ言葉は筒抜けだった。よほど毎回言われているのかも知れない。
「あたしは発見に浮かれすぎてて、ついつい、何が起こるのかをやって見せちゃったのよ。『合わせ鏡』の前で、あの放電を見ながらサイコロを振って、偶数が出たときだけ振り向くの。放電は世界ごとに微妙に違うから、それをじっと見てると影響されて、ちょっとだけ体の動きにずれが出ることがあるのよ。すると、違う目が出て、絶対出来ないはずの、隣の世界の自分と異なる動きができる」
そう言って沈んだ表情を見せる。
「それを見て、あいつ、アリバイ作りに使える、って考えたみたいで。勝手に持ち出して、コンビニ強盗をやらかしたのよ。振り向いて自分と向き合えた後にドロップをくぐったら、そっちの自分と落ち合えるから。それが上手くいったからって調子に乗って、もっと人数を増やして銀行強盗をやる、なんて言い出して。別の世界へ逃げてから通ったドロップを消滅させたら、絶対捕まらないから、って。」
瞬間移動装置ではそんな上手い話は成り立たないが、異世界間移動装置ならできてしまう。
「きっとあいつら、ほっといたら、どんどん増長するわ。何をやらかすか分からない。銀行強盗で軍資金を手に入れたらデカいことができるとか、間違いなく考えてるわ……」
その「デカいこと」が、盗み出す金額の大小程度の話に収まってたら良いんだけどな、と思いながら、旭人は計画を練り上げたのだった。
監視を続ける恵利が声を上げたのは、夜明け前だった。
「あ、これ!公園の合わせ鏡が壊れてる、ってSNSに……」
「なにっ?!もうか!!」
言われた旭人が慌てて振り向く。
「えっと、『ちょっ、中之島公園の鏡蹴り倒した奴、誰だよ』って。写真も……。なんか枠がひしゃげてる……」
枠から外れたドロップは、もう一方とぶつかって対消滅する。恵利の声を背中越しに聞きながら、旭人は目の前の画面を注視していた。
「他の写真を探してくれ」
「ちょっと待って……あ、これ!『合わせ鏡が一枚になっとる、なんやこれ』って」
「くそっ!じゃあビンゴだ!!銀行強盗にはまだ早いだろ!!何やらかしたんだ、あいつら!?」
「練習に、またコンビニでも襲ったんじゃない?」
作戦の詳細をまだ詰め切れていないが、こうなったら出たとこ勝負でやるしかない。
徹夜で書き上げたプログラムの出力に注視する旭人。まだ1と0の表示のまま変化がない。そもそもの予想が間違っているのなら、それはそれで杞憂で終わって平和なのだが。
「他に写真は無いか?!」
「えっと……ひしゃげた方を近くから撮ってる人が……写真が……」
恵利がそう言った瞬間、旭人が中止する画面上の数字が18と0に増えた。
「来たっ!」
旭人が短く叫んだ。全身に鳥肌が立つ。
「あ、YouTubeで生中継を始めた人が……」
恵利がそういったとき、ずっと0だった右側の表示が一気に増えた。旭人が身震いする。懸念は大当たりだった。
「勝ちだ!!もう大丈夫だ」
「そ……そう?上手くいきそう?」
監視作業から解放された恵利が、旭人の方のディスプレイを覗き込んでくる。
「……この数字?」
右側の数字は25に増えていた。
「ああ。今、何問解けたかを出してある。練習問題いくつかと、ありったけ集めた暗号解読の懸賞問題、その他、パスワード類」
言っている間に数字は60を超えた。
「ネット上に、賞金付きの暗号解読コンテストの問題が公開されてるんだ。今、使えるあらゆる技術を投入しても解けっこないことを示すため、一千万以上の賞金がかけてある」
賞金を目当てに多くの人が群がって解こうとしても解けないのであれば、多分、その暗号は安全だと言える。
「え?でも、今、解けたって……」
「そう。これが、神のサイコロの本当の力だよ。この問題だと、答えは高々、2の2048乗通りの数字のどれかだから、全部試せば解ける。世界中のコンピュータで何年計算しても話にならないほどの候補だけど、お隣さん達の力を借りたらこんなもんだ。こっちの数字は、繋がってる隣の世界の数で、今は18個。それぞれの世界と無線LANで通信してる」
それは、先刻から、ドロップ製造器で作り出したいくつかのドロップを介して、この世界と接している世界の数だった。元からあったドロップは使えない。『合わせ鏡』のところで見たように、それぞれの世界で微妙に旭人達の運命は違っているので、チンピラに絡まれたり絡まれてなかったり、そこに居たり居なかったりするからだ。
旭人が作戦を立て終わり、準備を終えた後に作ったドロップなら、必ず、同じ準備を終えた旭人が居る世界と繋がる。
「それぞれのお隣さんに、こっちの世界とはまた別のお隣さんが17人ずつ居るんだから、お隣さんのお隣さんは、18かける17で306人。その次の、3軒隣のお隣さんは更にその17倍、と増えて行くから、えっと……、512軒隣までの世界の数は軽く2の2048乗個を越える。みんなで手分けすれば簡単だ」
そのままでは手分けはできないが、神のサイコロが出す、世界ごとに違う目があれば話は変わる。
放電という現象が周囲に及ぼす物理的な影響は極めて小さいが、人間の脳というような、ごく僅かな違いが大きな違いに繋がる複雑な処理系を通せば、影響は大きく増幅される。
今にして思えば、昨日からのドロップネットワークの混乱も、コンビニ強盗とそのニュースが微妙な影響を与えた結果ではなかろうか。隣の世界とのズレがどんどんと大きくなってきているのだ。
旭人の作戦には、準備完了後に作ったドロップで繋がった隣の世界とのズレが新たに必要となる。そこで、『神のサイコロ』を使ってその影響下にある乙彦とやらの行動の結果を恵利に見つけて貰っていたのだ。彼の行動の結果には世界間で微妙なズレがある。そのズレを恵利経由でコンピュータへと入力すれば、コンピュータの動作は隣の世界とどんどんとズレていく。それぞれで別の計算を実行して、たまたま当たりを引いたときだけその情報を共有するようにすれば、どんな総当たりでも一瞬で終わる。
「あんたの論文、ネイチャーデジタル版のトップに置いとくから、ノーベル賞を取ったら、分け前くれよな」
「え?何?」
恵利の疑問には取り合わず、作業を進める。
暗号解読が成功したことを受けて進めたのがこれだった。世界中のこれはというサイトのパスワードの探索。これも、無数の隣人達の力を借りれば簡単は話だった。でたらめにいくつかを試して、当たったら隣人達へと教えてやるだけでいい。無数の旭人とその隣人たちの前では、どんな複雑なパスワードも障害にはならない。
SNSの有名人のアカウントのいくつかを乗っ取り、恵利のホームページを宣伝する。もちろん、彼女のホームページ書き換え用のパスワードも勝手に入手済みで、勝手にネイチャーへのリンク入りの犯行声明をアップロードしてあった。
「やっべぇ。これ楽しいわ。核とか撃っちゃいたくなるなぁ……」
旭人は物騒なことを言いながらキーを叩いている。今の彼の前には、どんなパスワードも無意味だった。
「……止めてよ、絶対」
恵利がかなり本気で怖がっている。
「……それで、どうするの?」
恵利も事態の深刻さを実感できてきたようだ。震える声で聞いてきた。
「助けを待つ」
旭人の行動の意図は、この危機を正しく理解できて、即応で人員を動かせる立場の人に、できる限り迅速に事態を収拾して貰う、というところにあった。
「はっきり言うが、これは世界の危機なんだよ。今やっているお遊びレベルのやり口でも、世界中のクレジットカードや預金を自由に操れる。俺以外でも気付いた奴には、ネット上のあらゆる鍵が開けっ放しの状態になってしまってるんだ。……さすがに核のスイッチなんかは物理キーが要るだろうけど、確証は持てない。それを使うよう指示できる立場の人になりすます方法も、分かる人には分かるだろうし。あらゆる設備の緊急対応を今すぐやらないと世界は滅ぶ」
まず、間違いなく、一旦、全てのドロップを閉じる方向へと話は進むだろう。こちらの世界で無事に事態を収束できたとしても、隣の世界でもそうとは限らない。もしかしたら、ドロップを通して、突然、放射能を持った爆風が吹き込んで来ないとも限らないのだ。
ドロップが世界を変えたテクノロジーのトップの座を維持することには疑う余地がない。
今のように野放図にドロップを使うのであれば、安全なコンピュータやネットワークを構築するのはもはや不可能だ。貨幣と書類の時代が戻ってくる。
それが嫌なら、『神のサイコロ』を勝手に作り出せないようドロップ製造を徹底的に管理する必要があるのだが、その管理者がドロップの力を悪用すれば、世界中の暗号通信を自在に解除できる、万能に近い能力を持って世界を支配することになる。
しかし、旭人には、どうしても引っかかっている点があった。
彼にとっての発端となった、天文台協会のデータ破損事件。あれが起こったのは、恵利が『神のサイコロ』を作るよりもずっと以前だ。
そもそも、恵利の言う「ドロップの周囲」というのはどれぐらいのことを指すのだろうか。宇宙の全てか、ある程度の距離までか。もし、同期しているのが、数光年程度の範囲内だけだったとすれば、それより遠くから飛来する光などは、世界ごとに異なるはずだ。その影響を最初に受けるのは、天文台だろう。光が圏外にあった頃に作られた古いドロップを通して、最新の観測データをやりとりすれば、観察結果が食い違って、「データが壊れた」と見なされるだろう。それは、誰にでも使える、壮大な天然の神のサイコロになる……。
世界を支配するドロップ管理者に対抗するレジスタンス。転職先としては悪くはないかも知れない、と旭人は思った。
本当は怖いどこでもドア、というホラー話がある。あれはドアをくぐっているのではなく、遠方に自分のコピーが作られつつ元の自分は分解されて消えているのではないか?というような仮説だ。瞬間移動装置を分類した場合、テレポーテーションの場合には、分解・再構築で実現されてそうな気がする。ワープだったら自分自身が移動できていそうで安心できる。
さて、それは置いておいて、どこでもドアの怖さはそれだけだろうか?と思ったのがこの話。ワープ方式のどこでもドアだったとして、では、その接続先は本当に思った場所だろうか?思った場所とそっくり似たようで実は違う場所だったり、並行世界のその場所だったりしない保証は?
ただ、それ以外にもどこでもドアには怖さがあると思っていて、その考察は以下に。
「本当は怖いどこでもドア」のこと
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