8.優しい時間
文具店を出たあとは、2人そろって喫茶店へ入った。飛彦が下調べをしたのだという老舗の喫茶店だ。上品な造りの店内にはコーヒーのいい香りがただよっている。
コートを脱ぎ椅子の背中にかける。マフラーと手袋は、カバンと一緒に足元の荷物入れへ。少し迷ったが帽子はとらなかった。雪斗の帽子姿に慣れ親しんだ飛彦が、そのことを気にかけた様子はない。
「この喫茶店はカフェオレがお勧めみたいですよ。ミルクの代わりに生クリームをたっぷり入れてくれるんですって」
飛彦の説明を聞きながら、雪斗はメニュー表を眺めた。
「へぇー……じゃあカフェオレを頼んでみようかな。食べ物はどうします?」
「焼き菓子の盛り合わせなんてどうでしょう。色々なお菓子を少しずつ食べられますし」
「んん、いいですねぇ」
店員に注文を済ませた後は、冷えた手を温めながら雑談の時間。飛彦は口数が多い方ではないし、雪斗も積極的な話題作りが得意な方ではない。自然と会話のペースはゆっくりになるけれど、その穏やかな時間が心地いいと雪斗は感じた。
(飛彦さんと一緒にいるのは落ち着く。飛彦さんの方が年上だからとか、そんなことは関係なくて、単純に相性がいいんだろうな。僕を買い物に誘ったということは、飛彦さんも同じように感じてくれているのかな……)
2人分のカフェオレと焼き菓子が運ばれてきたあとも、とりとめのない会話は続く。飛彦の仕事の話、最近読んだ本の話、喫茶わたゆきの新メニューの話。楽しい時間はあっという間に過ぎて、気がつけば時計の針は午後4時半を回っていた。
「暗くなる前に帰りましょうか」
飛彦の提案に、雪斗は無言でうなずいた。
正直を言えば、もう少し飛彦と話をしていたい気持ちはある。しかし冬はあっという間に日が落ちてしまうし、暗くなると雪道を歩くのは大変だ。雪斗の自宅である喫茶わたゆきは町はずれに位置しているから、人通りが少ない時間帯には雪で道が埋まってしまうこともある。
レジで支払いを済ませ、喫茶店の扉を開けた。
瞬間、雪をのせた突風が顔面をたたき、雪斗は息を詰まらせた。
「え、吹雪いてる」
喫茶店に入る前、比較的穏やかだった空模様は、今やすっかり荒れ模様。びゅうびゅうと音を立てて風が吹き、四方から舞い上がる粉雪が視界をふさいでいる。吹雪だ。
呆然と立ち尽くす雪斗の隣で、飛彦がおろおろと謝罪した。
「す、すみません雪斗くん。まさかここまで酷い天気になるとは想像もしなくて……帰れそうですか?」
「……厳しいかもしれないです。うちへと続く道は、遮蔽物がなくてすぐにホワイトアウトするから……」
2人そろって空を見上げた。薄灰色の空は絶え間なく雪を降らせ続けている。5分や10分待ったところで、天気が好転するとは到底思えなかった。
(風が強くなるようなら早めに帰らなきゃ、って思ってたはずなのにな。飛彦さんとのおしゃべりが楽しくて、天気のことなんて全然気にしてなかった)
「僕、今日はどこかに泊まります。この時間ならまだホテルの空きはあると思いますし。飛彦さんは、もし帰れるのなら僕のことは気にせずに――」
少し緊張した飛彦の声が、雪斗の言葉をさえぎった。
「もし雪斗くんさえよければ、うちに泊まっていきますか?」
「――え?」
「私の家、ここの近くなんです。大きな通りに面しているからこの天気でも迷うことはありません。だからその……雪斗くんさえ気にならなければ、一晩泊まっていきませんか?」
雪斗は、こぶし3つ分高いところにある飛彦の顔を見つめた。
飛彦の提案は雪斗にとってもありがたかった。この悪天候の中でホテルを探すことは大変だし、見つけたホテルに空き部屋がある保証もない。うろうろと街をさまよい歩くくらいなら、飛彦の家に泊めてもらう方がどれだけ気楽なことか。
「……飛彦さんはいいんですか? 僕みたいな他人が、一晩中家の中にいることになりますけど」
「私は全然、気になりませんよ。雪斗くんをこの寒空の下に放り出しておく方が気がかりです」
優しく諭されてしまえば、雪斗には飛彦の提案を断る理由はなかった。
「そういうことでしたら……一晩お世話になります」
飛彦の自宅は、喫茶店から徒歩で5分ほどのところにある集合住宅の1室だ。
「せまい部屋ですみません。好きにくつろいでもらって構いませんから」
「ありがとうございます」
もこもこのマフラーを外しながら、雪斗は部屋の中の様子をうかがった。コンパクトなワンルームは隅々まで整理整頓が行き届いている。余計な物は何一つ置かれていない、飛彦らしい部屋だ。
ふとダイニングテーブルの上に書きかけの便箋が散らばっているのが目についた。いつも雪斗に手渡されるシンプルな便箋とは違う、春の訪れを連想させるような華やかな便箋だ。同じデザインの封筒もある。
(そういえば飛彦さん、誰かに手紙を送りたいんだと言っていたっけ。あの華やかな便箋は、その『誰か』のために用意したものなのかな)
ほんの一瞬もやもやとした気持ちを覚えたが、雪斗にはその気持ちの出所がわからなかった。雪斗と飛彦はただの文通友達。飛彦が誰を相手に手紙を送ろうが、どんな便箋を使おうが、雪斗には関係ないこと――のはずだ。
「雪斗くん。身体、冷えていますよね。着替えを準備しておくので、先にシャワーを浴びていてください」
そう言って飛彦がタンスを開け始めるので、雪斗は慌てて静止した。
「そこまでお世話にならなくて大丈夫ですよ! 部屋の隅でころっと横にならせてもらえれば十分……」
「いえいえ、せっかくお招きしたんだからおもてなしさせてください。晩ごはんも準備しますね。お菓子をたくさん食べてしまったし軽めの方がいいかな」
にこにことご機嫌の飛彦は、雪斗の手に寝巻き一式を押し付けた。日頃飛彦が着ている物なのだろう、ほんのりと洗剤の匂いがする。
「少し大きいとは思いますがこれを着てください。お風呂場にある物はなんでも好きに使って構いませんから。タオルも準備しておきますね」
至れり尽くせりの待遇に文句を言うことなどできるはずもなく、雪斗は大人しく風呂場へと向かった。