11. 心が冷えて
銀色の雪景色がオレンジ色の夕陽を映していた。
厚手のコートをはおった雪斗は、街の中心部へと続く一本道を黙々と歩く。ふぅと吐き出した吐息が夕暮れの空気に溶けていく。
コートのポケットに手を入れれば、冷えた指先が封筒に触れた。雪斗はその封筒を飛彦に届けるために、こうして寒空の下を歩いているのだ。
「わざわざ今日、届けなくたっていいじゃない。飛彦さんが喫茶店に来たときで十分よ」
祖母はそう言って雪斗を引き留めようとしたけれど、雪斗は聞かなかった。
「どこかで落としたのかもしれないって探し回ってたら気の毒でしょ」
それらしい理由をつけて喫茶わたゆきを飛び出してきた。
(飛彦さんがずっと手紙を送りたかった相手は『若葉さん』? 若葉さんが飛彦さんの好きな人? 手紙で想いを伝えたい相手?)
封筒の宛名である『若葉様』の文字を見たときからずっと、もやもやした気持ちが消えない。飛彦と話をすれば、若葉さんの正体が明らかになれば、このもやもやは消えてくれるのだろうか。
日も暮れかかった頃、雪斗は配達局の前に立っていた。飛彦の所属は配達局の郵便配達部、まだ仕事が終わっていなければ建物のどこかにはいるはずだ。
「すみません。郵便配達部の飛彦さんはいらっしゃいますか? 渡したい物があるんですけれど」
配達局の受付でそう声をかけると、事務員はすぐに飛彦を呼んできてくれた。寒さに頬を赤らめた雪斗を見て、飛彦は驚いた表情だ。
「雪斗くん、どうしたんですか?」
雪斗は一拍を置いて話し出した。
「喫茶わたゆき宛の手紙の中に、飛彦さんの手紙が紛れていたんです。それで、すぐにお届けした方がいいかなと思って。この手紙なんですけど……」
雪斗はコートのポケットから取り出した封筒を、飛彦の胸の前に差し出した。瞬間、飛彦は目を丸くして雪斗の手から封筒を奪い取った。まるでその手紙を他人の目には触れさせたくないのだというように。
「あの……雪斗くん。もしかしてこの手紙、読みました?」
雪斗は慌てて否定した。
「いえ、読んでいないですよ。その手紙が飛彦さんの物だとわかったのは封筒のおかげです。以前、自宅へお邪魔したときに、その封筒を見かけていたから……」
「ああ……なるほど。そういえばそうでしたね……」
居心地の悪い沈黙が落ちた。適当に会話を切り上げてその場を立ち去りたい衝動に駆られたけれど、雪斗は勇気を奮い起こして質問した。
「その『若葉さん』という方が、飛彦さんがずっと手紙を送りたかった相手ですか?」
飛彦は決まりが悪そうに答えた。
「……そうです」
「その方に送る手紙を書くために、僕と文通を始めたってことですよね」
「そういうことになります」
(あー……やっぱりそうか。僕と仲良くなる前からずっと、飛彦さんは若葉さんのことが好きだったんだ)
そう結論付ければさらに居心地が悪くなって、雪斗はわざと婉曲的に質問した。
「若葉さんは飛彦さんにとって大切な人ですか?」
「……大切な人です。でも――」
それだけ聞けば十分だった。雪斗は唇を噛み、飛彦に背中を向けて駆けだした。配達局の玄関口を飛び出して、雪にうずもれた石畳の上を駆ける駆ける。「雪斗くん!」と飛彦の声が聞こえたけれど、足を止める気にはなれなかった。
(飛彦さんは若葉さんが好き。飛彦さんは若葉さんが好き。ずっと前から想っていた……)
現実を突きつけられればじわりと涙が滲んだ。
『若葉さん』の存在を知ったその日から、雪斗は飛彦を避けるようになった。手紙のやりとりをすることはおろか、顔を合わせることもしない。飛彦が喫茶わたゆきを訪れる頻度は週に2回程度で、滞在時間も長くて30分というところ。その時間、雪斗が適当な理由をつけて厨房にこもってしまえば、顔を合わさずにいることは簡単なのだ。
会話に夢中になるご婦人方、そして忙しく働く祖父母が、雪斗の不可解な行動に気がつくことはない。
「雪斗くん」
飛彦を避け始めてから2週間が経った頃。厨房で洗い物をしていた雪斗は、背中越しに名前を呼ばれはっと顔をあげた。見れば厨房ののれん口には飛彦が立っていた。口をへの字に引き結び、するどい眼差しで雪斗のことを見つめている。
雪斗はタオルで手のひらを拭い、そそくさと厨房を出て行こうとした。厨房には喫茶スペースへと続くのれん口の他に、住宅部分へと続くドアが設けられている。住宅部分へと逃げてしまえば飛彦に捕まる心配は万に一つもない。
「雪斗くん。なぜ私を避けるんですか?」
強い口調で問いただされて、雪斗は足を止めた。目の前には住宅部分へと続くドアがある。そのドアをくぐることは簡単で、雪斗は振り返ることなく答えた。
「別に避けてはいないですよ」
「それならすぐにこっちへ来てください」
「なぜ?」
「手紙を渡したいからです」
雪斗は頭だけを動かして飛彦の様子をうかがった。不機嫌顔の飛彦は、厨房ののれん口に仁王立ちしてる。雪斗の態度にいらだちを覚えながらも、「客人は厨房に入らない」という喫茶わたゆきのルールを律儀に守っているあたりが飛彦らしい。
(そういえばこの2週間、飛彦さんとは手紙のやりとりもしていない。不自然に思われても当然か……)
そうだとしても、今の雪斗には飛彦と文通を続ける気力はなかった。飛彦に宛てた手紙を書くことも、飛彦が書いた手紙を読むことも億劫だった。
理由は――わかっている。でもその理由を真実だと認めることができずにいる。
雪斗は2週間ぶりに飛彦の顔を見据えた。
「飛彦さん。もう文通はおしまいにしませんか?」
飛彦は怪訝な表情で訊き返した。
「え?」
「だってもう必要ないですよね。飛彦さんは、若葉さんに手紙を送りたくて僕との文通を始めたわけじゃないですか。もう手紙は書けたんだから」
早口でそう告げると、雪斗は目の前にあるドアを開けた。「雪斗くん」と呼ぶ声は、分厚いドアに阻まれて聞こえなくなってしまう。
雪斗は冷たいドアに背中をつけたままズルズルと座り込んだ。
(わざと飛彦さんを突き放すような言い方をした。最悪……)




