16.初めてのキスは不慣れで浅いけど、想いは深く熱い
熱心なリールに対し、クロスは羨望の眼差しで呟いた。
「私では決して抱くことができない熱意ですね。色々と羨ましいものです」
こうしてリールが些細な日常に彩りを感じて楽しめるのは、物事に対して真剣に向き合える熱量と活力を心に宿しているからだ。
心が豊かであるほど人生は前向きになれて、更なるプラス要素へ繋がる。
残念ながら今のクロスには欠けていることだ。
そして欠けてしまっているからこそ巨大組織から離反し、リールと共に暮らすという不条理に身を置くことで退屈を打破しようとした。
しかし、彼女の心はまだ深刻に冷めきっている。
冷めているせいで直情的になれず、ずっと大人の対応で接してしまう。
それにリールが新しい楽しみを見出す度、自分の手に幸せが届かないことを痛感する。
「これは一体何なのでしょうね。私の中で輪郭がボヤやけた何かがあると分かっているのに、あまりにも漠然としていて掴みきれない。これが……心に穴が開いた感覚なのでしょうか」
彼女は刺激的な日々を送ることを目標していたが、どうすれば目標に近づけるのか分からないままだった。
どうしても現状が変化せず、強く望んで思いきった行動を起こしても良い方向へ傾いてくれる気配が無い。
絶え間なく続く強烈な退屈が彼女の一生を蝕む。
「気長に頑張るつもりでしたが、兆しが見えないことが辛いですね。せめて僅かな手応えがあれば、この狂気を鎮められるのに……」
気が付けばキッチンに立っていて、クロスの眼光は深淵に沈んでいた。
元々彼女は自由奔放に暮らしていた身だ。
それなのに生活リズムをリールのような無邪気な子どもに合わせるなど、殺戮者の天性を持つ彼女には無謀極まりなかった。
そもそも彼女の殺意は三大欲求のように自然と湧き、理屈で抑えられるものでは無い。
また三大欲求と同じく、その抗いようのない衝動を解消できれば心地良く満足できる。
もしも強引に殺意を我慢するとなれば、本能的な欲求を満たせる代替えが必要不可欠だ。
「はぁ…………」
クロスが溜め息を吐いたとき、彼女はリールの真後ろに立っていた。
自分自身いつの間に移動したのだと思うくらい無意識の行動だ。
それから彼女は絶対破壊である赤いオーラを手に宿し、無防備なリールの後頭部へ手を伸ばそうとした。
「クロス?」
リールに名前を呼ばれた直後、クロスの意識はハッと鮮明になる。
目の前には……見慣れたリビングのテーブルと、小さな汚れが付いた皿にフォークが2本。
更にテーブルを挟んでリールと向かい合って座っている。
これらの痕跡を見たところ、おやつのスイーツ類を食べた後だ。
つまり間食を終えた後になっていて、クロスは自身の深刻な状態を理解する。
「なぜいきなり意識が何度もボヤけるのかと思えば……そこまで変な話では無いみたいですね。私の精神は、リールに会う前から限界を迎えていたのでしょう。それなのに自分自身を騙し続けていたせいで、自覚するのが遅れてしまった」
「何の話~?」
「私は自分が自由だと思い込み、好きに生きていると思い込むことで心が満たされていると錯覚させてたのです。実際は酷く滑稽な話でしかなく、致命的な欠落が続く一方でした。そして私の中身は既に繋ぎ合わせられないほど崩壊しています」
「うーん?」
リールは首を傾げた。
それは言っている意味が分からない末の反応だと受け取れる。
唐突に負の感情を吐露されれば少女の態度は至極当然だ。
それに話題の脈絡が無いだけではなく、少女は現状に満足しているから共感できる訳が無い。
だが、リールが首を傾げた本当の理由は別だった。
「クロスは自分のことを悪く言っているみたいだけど、リールにとってクロスは凄い人だよ?」
「どういう意味でしょうか」
「だってクロスはリールのことを幸せにしてくれるもん。それに色んなことができるから、リールの一番の憧れはクロスだよ。このイメチェンとかもクロスみたいな大人っぽさを出しかっただけだし、勉強するのはクロスに近づきたいからだもん」
「もしかしてリールが真摯に頑張れているのは……、私の姿を思い浮かべてのことですか?」
「そーだよ当たり前じゃん!どんなドラマの登場人物より、ずっと凄いって思ってるよ!それにね、んぇへへへ。この手紙もクロスに渡したいから頑張っていたんだ。これはね、ラブレターでありファンレターだよ!そして家族に送る感謝状のお手紙です!」
リールは半日かけて書いた手紙を広げながらソファの前へ立ち上がった。
それから少女は幸せに満ちた表情で楽し気に語る。
「感謝状だからリールが読んであげる!こほん。
『クロスへ。おいしいご飯をいつもありがとう。あと掃除とか、洗濯とか、いっぱいプレゼントしてもらえて嬉しかったです。
動物園デート楽しかったです。毎日が楽しいです。あと大好きなクロスと一緒に居れてリールは嬉しいです。
これからもいっぱい楽しいことをしようね。大大大好きだよクロス!リールより。』
……で、以上です!」
半日かけた割には短い文章量だが、想いを伝える内容としては充分だった。
そして子どもらしいメッセージを読み上げられた後、リールはクロスの隣へ移動した。
「はい、リールのお手紙。ちゃんと言われた通りキレイに書いたから読んでね。あとキスしてあげる!ちゅ~」
リールはわざわざ声に出しながらクロスの頬へ口づけした。
最大限の愛情表現だ。
するとクロスの目元からは薄っすらと涙が流れ落ちつつ、恥ずかしがるように顔色が紅潮していた。
「あれ?」
正常とは掛け離れた反応に思えて、クロスとリールが揃って戸惑う。
それから少女が無意識の内にクロスへ身を寄せて抱き付くと、彼女は胸中の高揚を強く感じた。
「まさか私は、恋愛事に疎いせいで耐性が皆無だったのでしょうか。かつてない高まりが強まるばかりで、どうすればいいのか混乱します」
「そういえばね、スライムおじさんが言ってたよ!誰かに頼られたり、必要とされるのは誰でも嬉しいことだよって!」
「それは今までもあった……いえ、本当に頼られていると実感を得られたのは今回が初めてかもしれません。依存、共存……まぁ適切な表現なんてどうでも良い話です。大事なこと、そして私に欠落しているものが少し理解できました」
これまで軽視していた感情、他者から与えられたことが無かった新しい感覚。
それを実感した彼女は静かに微笑み、子どもみたいな所作でリールを抱き寄せた。
「何事もこちらから歩み寄り、チャレンジする心意気が大切ですね。ということで、リール」
「なぁに?」
「キスして良いですか?」
「んぇへへ。クロスから誘われると、ちょっと恥ずかしいかも~」
「私の方から甘えることは無いですからね。でも、これからはなるべく対等に生きたいと願います。このキスはその決意表明です」
クロスは吐息が掛かるほどの距離でリールと視線を合わせた後、やや強引に唇を重ねた。
年齢差による体格差と体温の違いを感じる。
それでもお互いを想う情熱に差は無く、それどころか愛情や器の大きさはリールの方が上回っているとクロスは思った。
そして十数秒間ほど経過し、想いを伝え足りない彼女は惜しむように唇を離した。
まだ物足りないが、焦りたくない。
しかし、ようやく希望の輪郭が明瞭になりかけたことに彼女は無意識に舞い上がっていた。
「リール」
「んー、またキスする?リールはクロスとキスするの好きだから、いっぱいしても良いよ!」
「魅力的な言葉ですが、私はこの出会いを運命だと確信しています。つまり……私と結婚しませんか?」
「あふぇっ?クロスと結婚?うん!リールね、結婚する~!」
最初リールは目を丸くしながら硬直したが、それは一瞬のことで即座に笑顔で快諾するのだった。