王子が愛した月女神
「あら、何がいけませんの?」
きょとんとした一人の令嬢――ソティス・グレイシアの一言で、騒然としていた会場は水を打ったように静かになった。それほどに周囲は彼女に注目していたし、その声色はよく澄んでいたからすんなりと耳に入ったのだろう。
不思議げにかすかに首を傾げたソティスの銀の髪がさらりと揺れる。その銀糸の柔らかさとは反対にどちらかと言えば釣り上がり気味の紅の瞳は強く相手を見つめ、その眼差しを正面から受けたオーウェン・フラーゲン第一王子は一瞬言葉に詰まった。
フラーゲン王国の将来を担う若者が集う王都の学園。その一年を締めくくる卒業生との交流会兼ダンスパーティでの思わぬ騒動に、参加者らの目は釘付けだった。
かたや三大公爵家が一つ、グレイシア公爵の息女・ソティス。
かたやフラーゲン国王の第一子たるオーウェン。
ただし、ソティスが一人で対峙しているのに対してオーウェンは腹心を従え、更にその隣には一人の少女が寄り添っていた。ともすると複数対一人の虐めにも見えかねない構図だが、その『複数』の先頭に立っているのが学園ヒエラルキーのトップである王子で、連れている少女はソティスの双子の姉であるラティナだということが衆人の好奇心をくすぐっていた。
「とぼけるんじゃないぞ、ソティス・グレイシア!」
「とぼけてなどおりませんが……何をそんなにお怒りなのか、私にはよく分かりませんの」
大きく声を張るオーウェンに対して、それを受け流すかのようなソティスの言葉。その言葉を文字通り受け止めると彼女には状況が把握できていないようだったが、何が起こっているのか全く理解していないのは固唾をのんで状況を見守っている野次馬たちも同じだった。
ただ、一国の王子に糾弾されているというその図から、ソティスが何らかの罪に問われている『被告人』なのだと解釈するには十分だったし、王子側に立つラティナが『月女神の再来』と称えられるほど評判が高いのも、その見方を後押ししていた。
ソティスとラティナは、双子であると疑いようがないほどにそっくりだ。
けれどラティナの瞳は蒼く澄んでいていつも微笑みを絶やさず、交友関係が狭いソティスとは正反対に常に人に囲まれている。第一王子とともに学園執行部にも所属していて、ラティナが学園の中心人物であることは疑いようもない。顔の造りは似ているかもしれないが、同世代の学園生徒たちにとってはラティナとソティスは天と地ほどの差がある二人だった。
そのラティナが瞳に涙を浮かべながら、オーウェンの側にいるのだ。ラティナに心酔している者は勿論、そうではない者も瞬時にソティスが加害者なのだと認識したのも当然といえば当然だった。
「確認いたしますけれど、殿下は私がこの『月女神の涙』をつけていることをお咎めになったのですよね?」
ソティスは周囲を気にするでもなく、自らの胸元を飾る首飾りにそっと触れて確認する。大ぶりの雫型の宝石が中心となった首飾りで、宝石は闇のような漆黒をたたえながらも角度を変えれば銀色に輝いても見える。不思議な魅力を持つそれは、グレイシア公爵家の家宝でもあった。
――グレイシア家に関わるものに『月女神』の名が冠されることが多いのには、当然理由がある。
この国の王家と、王家に縁が深い三大公爵家には血によって受け継がれてきた『加護』がある。貴族であれば大半の者が魔力を持っていて、訓練次第でそれなりの魔術を使えるようになるが加護は各家固有のものだ。
けれどその家に生まれたら全員が加護を持つかといえばそうではなく、寧ろ加護持ちの者は極めて少数である上に、その力量も各個人によるという稀有な力。何より、その力によって国の瘴気を祓い安寧を保っているフラーゲン王国にとっては、加護を持つ者は何より重要視される大事な人材でもあった。
その加護は全部で四つ。王家の『太陽神の加護』・デラファルト公爵家の『大地の加護』・フェリド公爵家の『天空の加護』、そしてグレイシア公爵家に受け継がれてきた『月女神の加護』だ。ある意味でグレイシア家といえば『月女神』、『月女神』といえばグレイシア家という切っても切れない関係といえる。
そしてそのグレイシアに受け継がれる宝玉が、今話題の中心に挙がっているのだ。
ソティスの確認を受けたオーウェンは声に怒りをにじませながらも、明朗に応じる。
「あぁ、そうだ。お前はそれをつけるのには相応しくない。即刻はずせ」
「恐れながら殿下、いくら殿下とはいえ、我が家の持ち物についてご命令されるのは如何なものかと思いますわ」
並の令嬢ならば泣き出してしまいそうな威圧感が漂う中、ソティスは落ち着き払って言う。
堂々としたその態度は、怒れる王族を前にしてはあまりに不遜だ。しかしオーウェンの立場はまだ複数いる王子の一人でしかなく、他家の、それも筆頭公爵家の事情に介入するのはいささか度が過ぎているように思われても仕方がない。観衆も確かにと頷きかけたが、オーウェン一行とて考えなしにこの断罪劇を始めたわけではない。側近であるオリヴァンが、流れを変えるために一歩前へと出る。
「グレイシア家の宝ということは、ラティナ嬢のものでもあるということでしょう」
控えめながら、宰相子息として優秀な成績を収めている彼の言葉には説得力がある。
「更に付け加えるならば、『月女神の涙』はグレイシア家の宝であると同時に国宝でもあるはずです。それならば、次期王太子である殿下が気にかけるのも当然ですよね」
『次期王太子』、その言葉に静まり返っていた会場が再びざわめく。
当代国王がまだ王太子の指名をしていないことは周知の事実で、貴族の注目の的。第一王子であり今節で学園を卒業するオーウェンを筆頭に、留学中で二歳年下の第二王子ライアン、そして末弟の第三王子ディランと、年が近く才能に甲乙付け難い王子がいるため、王も決めかねているのだろうと専らの噂だった。
しかし、なるほど。
オーウェンの卒業を待っての発表予定だったのかと多くの生徒が納得する。渋い顔をしているように見えるのは、第二・第三王子に近しい者だろうか――オーウェンはオリヴァンにさりげなく目くばせをしてからソティスを見据えた。
「王太子かどうか以前に、俺はこのラティナを愛しく思っている。愛しい者が助けを求めているのに、放っておけるわけがないだろう?」
「オーウェン様……!」
潤んだ瞳で王子を見つめるその美貌はまさに『姫』と呼ぶに相応しい。オーウェンが王太子ならばラティナが王太子妃になるのだろうと、二人を祝福する雰囲気が会場を覆う。
けれど、一方のソティスはまたもや首を傾げた。
「ラティナが助けを?」
その仕草に、苛立ったオーウェンは語気を強める。
「あぁ、そうだ! お前が不当に宝を得ようとしている、そうなれば国にも大きな損害を与えることになると憂慮してな!」
「……ラティナがそう申し上げたのなら、何か勘違いがあるようですわね。今日私がこれを身に付けているのは、一族の決定あってのことですのよ」
扇を広げて優雅に口元を隠しながらため息をつく様は、昨今平民の間で流行っているというロマンス小説の悪役令嬢さながら。双子でありながらラティナとソティスはこうも違うのかと、オーウェンは思わず苦虫を嚙み潰したような顔になる。
「そうなるよう、お前が画策したのだろう?」
「画策……?」
虚を突かれたようなソティスの様子に、オーウェンは隙を逃さずに畳みかける。
「加護の宝玉は、持つ者の力を増幅する。お前はその力欲しさに、公爵にねだって『涙』を得たのだろう。なんせラティナは『月女神の再来』と言われるほど有能で美しい。双子でありながら己より優秀なラティを妬んでいたんじゃないのか? 『涙』を手にすればラティよりも力が得られると考えたとしても不思議じゃない。それに、ラティは学園内でその名を知らない者はいないほど慕われているのに、グレイシア家での扱いは酷いものだと言うじゃないか。優しいラティはずっとお前をかばっていたが、大方お前が虐めを先導したのだろう?」
さながら演説のように堂々と、敢えて周りに聞かせるようにオーウェンは声を張る。
全て、ソティスの悪行を周知させるため。
その目論見通り、大人しく目立たない令嬢とばかり思われていたソティスは実は『悪女』だったのかと、ひそひそと噂話が囁かれ始める。
『恋人であるラティナ様を救うために王子殿下が動いたのだ』
『こうなってはソティス様はもう社交の場には出てこられないだろう』
『双子の姉妹に虐げられるなんてラティナ様が不憫だ』
囁かれた殆どはラティナに同情しソティスをなじるものだったが、そうした状況になっても依然としてソティスは平然としている……だけでなく、ふぅと一つため息をついた。
それにいち早く気が付いたのはオリヴァンだった。
「ソティス嬢、何か反論でもあるのですか?」
「反論と言いますか、ラティナの言うことを真に受けてそこまで仰るなんて、我が家もお父様も余程間抜けだと思われているのかと憂慮しておりました」
「……なんだと?」
ソティスの声は呟きほどの小さなものだったが、明らかに呆れ混じりのものだった。オーウェンがこめかみをぴくりと反応させるのも関係なしに、ソティスは続けて言葉を放つ。
「我がグレイシア家は長年にわたり王家を支え、その地位を守り続けた公爵家の一つ。その当主たるグレイシア公爵が、娘の我が儘一つで家宝を与えるほど間抜けだと、殿下はそう仰るのでしょう?」
真偽はともかく、ソティス個人の行いを非難するだけならば、まだよかった。
けれど、先ほどの言葉は言外にグレイシア公爵をも貶めるものになってしまっていると、正義感あふれる王子は今更ながらに気が付く。
「それは!」
はっとしたオーウェンが口を挟もうとするより早く、ソティスは言葉を続ける。
「そもそも、殿下は前提が間違っておりますわ」
ソティスは、手持ち無沙汰に扇を弄りながら語る。
「『涙』を始めとする宝玉が持ち主の力を増幅する、というのは確かです。けれど持ち主に一定以上の加護がなければ、ただの宝飾品になってしまうことはご存知ありませんでしたか?」
それこそ幼子でも相手にしているようにゆっくりとした言葉に、オーウェンは再び強くソティスを睨みつける。
「そんなことは王族ならば誰でも知っている! 論点をずらすな」
グレイシア公爵をも敵に回してしまうかもしれないということは一旦置いておこうと、オーウェンは考えを巡らす。ラティナから聞く限りでは、公爵はソティスの甘言にのせられているだけに違いない。ソティスはこのところ足繁く公爵の執務室に通っていたというし、公爵も根負けしてしまったのかもしれない。
兎にも角にも今はソティスに罪を認めさせることが先決だし、彼女の企みが明るみになれば公爵も目を醒ますに違いない。
オーウェンは隣で不安げに瞳を揺らす愛しい少女に目をやると、安心させるように頷いてみせた。
「今は『涙』の効果を議論しているのではない。それを不当に手に入れたソティス・グレイシアの、お前の罪を問うているんだ」
ソティスに罪を認めさせ、国宝の在り方を正しく管理する。それが自らの王太子としての第一歩だと、オーウェンは覚悟を決めた。
断罪しなければならないのが、愛する人の妹だということに心が痛まないではないけれど、悪を罰して道を正すのが王族の務めだ。ラティナにとっても、害としかならない姉妹ならば縁を切ってしまった方が身の為になるに違いない。
それなのに、ソティスはやはり、悪役令嬢もかくやと思われるほど往生際が悪い。
「ですから、私が不当にこれを手にしたということ自体が間違いなのですけれど」
彼女はあくまでその正当性を譲らないらしい。
学園中の生徒に囲まれ、王子に断罪されているというのに何という図太さだろうか。
「……お前が手にするのが正当だというのなら、ラティナにだってその権利はあるだろう」
そのあまりの自信に気圧されながらも、オーウェンは反論する。
ソティスの示す『正当性』とは何だろうか。
グレイシア家の者だということか?
それとも『加護』を持っているということか?
グレイシアの次代を担うということか?
それらは全てラティナにも当てはまるものであるし、双子とはいえ姉であり優秀なラティナの方がよほど家宝を受け継ぐ正当性があるではないか。
落ち着いて考え直したところで、やはり同じ答えに行き着く。
「よく考えてみろ、同じように加護を持っていても、ラティナはお前とは違って強力な力を……何だその表情は」
身の丈を分からせてやろうとしていたはずなのに、ソティスは悔しがるでも怒るでもなく、憐れむような眼をオーウェンに向けている。
「いえ、殿下は本当にご存知ないのですね」
仮にも一国の王子であるオーウェンは、記憶にある限りそのような視線を向けられたことはない。
初めての憐憫の眼差しに、怒りとも羞恥とも焦りともいえる感情がぐっと押し寄せてくる。
「……なっ!」
「ソティス!」
あふれ出る感情を払拭するように大きな声を出しかけるが、それより早くラティナが叫ぶ。
「王太子になる方に向かって、あまりにも不敬よ! 私のことは如何様にでもすればいいけれど、オーウェン様に失礼な態度をとるのは許せないわ」
先ほどまでソティスを前に震えていた彼女が、オーウェンの為に必死に立ち向かっている。
その姿に、オーウェンの胸に今度は暖かいものがこみ上げる。
(そうだ、自分はこの儚くとも強い彼女を守らなければ)
彼女に守られているようでは情けないと、オーウェンはラティナの肩を抱き寄せた。
「大丈夫だよ、ラティ。何か知らないことがあるというのなら聞いてみようじゃないか」
「オーウェン様、聞く必要ありませんわ!」
「いや、彼女がどんな言い訳をするのか、興味がある。聞いたところで、何も変わらないだろうけどね」
「でしたら、やっぱり聞く必要ありませんわよ。オーウェン様のお耳が汚れるだけだもの」
「ラティ、君はやっぱり『月女神』のように優しいね。でも聞いた上で、それを否定してやればいいだけだろう……さぁ、ソティス・グレイシア。言いたいことがあるのならば言えば良い」
見つめ合って二人の世界に没入していたオーウェンが再びソティスに目を向けると、ソティスは変なものでも飲み込んだような微妙な顔をしている。
「どうした、ソティス・グレイシア。俺が何を知らないというのか、言ってみろ」
「いえ……」
先程までとは打って変わって歯切れが悪くなるソティスに、オーウェンはふっと呆れたような息を漏らす。
「なんだ、何も言えないのか?」
結局のところ、出まかせにはったりを言っていただけだったのだろうか。悪あがきにしてもお粗末すぎる。
「何も言うことがないのなら、こちらの主張を通しても良」
「いや、こんな茶番に巻き込まれたら、そりゃあ何も言えないでしょう」
改めてこの断罪劇を進めようとしたオーウェンの言葉が、朗らかな声に遮られる。
「ライアン? どうして君が」
群衆の合間を縫ってソティスの横まで出てきたのは、ライアン・フラーゲン第二王子。隣国への留学中であるはずの、オーウェンの腹違いの弟だった。
「丁度帰国したところだったんです。パーティに招待されたから参加してみれば、くだらない難癖をつける声が聞こえてきたもので……ソティス嬢一人でも大丈夫だと思っていたんだけど、あまりに酷い茶番だからちょっと助太刀に」
快活ながらも苦笑を浮かべるライアンの登場に、聴衆は再び騒めき始める。
王妃の子・オーウェンと側妃の子・ライアンは腹違いの兄弟で、性格も異なる。ただ王妃と側妃の仲が比較的良好であるために、二人の義兄弟もつかず離れずの関係を保っている――というのが、世間一般の見方だった。
けれど、どうやらライアンはソティスを擁護しに来たらしい。王子同士が公衆の面前でやり合うとなると、単なる断罪劇では終わらなくなってしまう可能性がある。野次馬たちにも、ちょっとした緊張感が走る。
「くだらないとはどういうことだ、ライアン? ソティス・グレイシアの肩でも持つつもりか?」
くだらないだの茶番だのと侮られたオーウェンの空気もピリつきを見せる。あと少しでソティスを断罪し、ラティナを救い出せるところだったのに、水をさされたのは非常に面白くない。
「兄上、冷静になりましょうよ。肩を持つも何も、」
ライアンはソティスの横に並ぶと、にこやかに彼女に笑いかける。
「彼女のどこに瑕疵があるんです?」
「……お前まさか、この悪女に、」
その笑みを前にして、オーウェンが言い終わらない内にソティスが静かに口を挟む。
「ライアン殿下、手助けなど必要ありませんわよ?」
何をしに来たのだとでも言いたげな瞳で、だが僅かに頬を膨らませる様は、悪女というには少々可愛すぎる。
「わかっていますよ。それでもきっと兄上は貴女が何と説明しても信じないでしょうから、第三者が入った方が良いかと思いまして」
頬を緩ませて応えるライアンの態度も相まってオーウェンの文句も止まるが、真っ先に気を取り直したのはオリヴァンだった。
「ライアン殿下、もし場を乱すのが目的でしたらご退場頂けませんか」
「いや、そんなつもりはなかったんだけど……そうだね、面倒な話はさっさと済まそうか」
どうやら本格的にオーウェンと対立するつもりらしいライアンの言葉に、オーウェン本人のみならずオリヴァンも眉をひそめる。ラティナはただオーウェンにすがり、時折ソティスに厳しい目を向ける。
「兄上。ソティス嬢には『涙』を持つ権利はなく、ラティナ嬢こそが相応しいと仰っていましたが、その根拠は何ですか?」
「根拠だと? そんなものさっきも言っただろう。ラティは『月女神の再来』と渾名されるほど皆から慕われている。それこそが証だろう」
「兄上……それは本気で言っていたんですか?」
再び呆れたような目を向けられ、オーウェンはカッとなる。
「どういう意味だ!」
「落ち着いてください。そもそも第一王子である貴方が何故おかしな勘違いをしているのか分かりませんが、この国で現在『月女神』と呼ばれているのはラティナ嬢ではなくソティス嬢のはずですよ」
「……は?」
一体ライアンは何を言い出すのかと、オーウェンは訝しがり、周りの生徒たちも揃って怪訝な顔をする。
いや、どう見ても『月女神』らしいのはラティナだろう。
煌めく銀の髪に澄んだ蒼い瞳。声は鈴を転がしたように可愛らしく、聞く者を惹きつける。その容姿は勿論女神の名に相応しいものであるし、慈愛の心を持ち月のように学園を照らしてきたのはソティスではなくラティナだ。同じ銀髪を持っていようと、血のように紅い瞳な上、いつもどこにいるとも分からないようなソティスでは決して『月女神』たり得ない。
「ライアン殿下は悪女に籠絡されておかしくなったのか」と呟く者さえ出始める始末。当のソティスでさえ、居た堪れないように扇で顔を隠してしまっているし、場の空気を何とかせねば、とオリヴァンが口を開きかけるが、
「ライアン様!」
誰よりも早く、会場中に響く声を上げたのはラティナだった。
「もしかしたらソティスからおかしな話を聞いたのかもしれませんが、それは嘘です。オーウェン様が言ってくださるように、有難くも『月女神』と皆様に呼んで頂いているのは私なのです」
切々と訴えるラティナは儚げで美しい。男子生徒だけでなく女子生徒でさえ「この方を守らなければ!」という熱に浮かされてしまうほどの魅力が彼女にはあった。
「お願いです、どうかソティスに騙されないでください!」
潤んだ瞳に見つめられて、けれどライアンは「ははっ」と面白そうに笑った。
「いやぁ、上手いね。ソティス嬢なら絶対に使わない手ですね?」
笑いながら、最後は隣のソティスに問いかけるように顔を向ける。
「……私にはラティナのような要領の良さはありませんもの」
「あれは要領が良いって言うのかなぁ」
むくれたようなソティスと首を傾げるライアン。悲壮感を携えて訴えていたラティナは一瞬で蚊帳の外だ。
「ら、ライアンさま……?」
「あぁ、ごめんね、ラティナ嬢。もしかしたら兄上はその手で騙せたのかもしれないけど、僕は紛れもない真実を知っているから揺らぐことはないですよ」
穏やかだが芯を貫くライアンの言葉に、今度はオーウェンが眉を顰める。
「私が騙されただと? ラティナが嘘をついたとでもいうのか?」
オーウェン自身が侮られたからか、それともラティナに対する扱いのせいか、何れにせよその言葉には怒りが滲んでいる。
「だから落ち着いてください、兄上。そうすぐに揺さぶられていては、社交も政治もやっていけませんよ」
「……っ!」
オーウェンは怒鳴りかけたのをどうにか理性で飲み込む。こればかりはライアンの言うことが正しい。すぐに感情が表に出てしまうのはオーウェンの欠点だ。
「では、その『紛れもない真実』とやらを聞かせて頂けませんか」
オーウェンに代わってオリヴァンが、話を本筋に戻す。
「単純に『月女神の再来』がソティス嬢のことを指すということですよ」
「だから、それはソティスの嘘で……!」
「ソティス嬢は僕に何も言っていませんよ」
ライアンは言い募ろうとするラティナを軽くいなすと、ね?と軽くソティスに問いかける。
扇の影に顔を隠していたソティスは観念したように息を吐くと、「そうですわね」と小さく答える。そしてラティナとオーウェンに向き直った。
「この件について、私からライアン殿下に何かをお伝えしたという事実はございません。自分から『私は月女神の再来と言われているんです』だなんて申し上げるのは、考えただけで顔から火が出そうですもの」
本当に恥ずかしそうに、何なら嫌そうに言う姿に、先程そう自称したばかりのラティナは思わず口を引き結ぶ。
「ラティナが第一王子殿下に何と説明したのかは分かりませんが、その渾名は私たちが生まれたばかりの頃、まだ見た目にも差がなく性質も何も分からない時につけられたものですわ。皆様がお考えのように『ラティナが月女神のように清らかで美しいから』というのが由来ではありません」
ソティスの平然とした説明に、
「そんなことは分かっている。ラティナは見た目だけで『月女神』と呼ばれているわけではない。加護の力に優れているから、そう呼ばれているんだ」
オーウェンも落ち着き払って返すが、どこ的がズレている。
「えーと、兄上? だから、その加護に優れているのがラティナ嬢ではなくソティス嬢だという話なんですよ」
「何を言うかと思えば……それは君がソティス・グレイシアに騙されているんだろう」
主張を譲らないオーウェンに、頷きながら瞳を潤ませるラティナ。それに対してライアンは今日何度目かになるため息をもらす。このままでは話は平行線のままだ。
「ですから、ソティス嬢は僕に何も言っていませんって」
そして、
「僕に教えてくれたのは、王家の鑑定士です」
鑑定書も持ってくれば良かったですね、と独りごちた。
「王家の鑑定士だと?」
眉を上げるオーウェンに対し、ぴくりと肩を跳ね上げるラティナ。
ライアンは「僕が説明した方が良いと思うので」とソティスに断ってから話を続ける。
「そうですよ。加護の力は国の安寧にも密接に関わるもの。加護を持つ者が生まれたら速やかに王に報告が行きますし、その力の測定も王家専属の魔術師が複数人がかりで行います。……宰相の息子とは言えナイデールが知らなかったのは無理もありませんが、どうして兄上がグレイシアの双子令嬢について勘違いなさっているのか不思議だったんです。そもそも鑑定のことすらご存知なかったのですね」
その言葉に、オーウェンはこれまでとは違った意味で顔を赤くする。
「記録によると、生後僅かな時に双子令嬢は鑑定を行っていますが、その時点でソティス嬢の能力値の方が高いと判明しています」
知らなかった。
いや、厳密には王家の魔術師の存在は知っていたが、加護の力についてそんな測定が行われていることを知らなかった。なぜ自身も加護を持っているはずのオーウェンが知らなかったのかは一先ず置いておくにしても、鑑定士の存在やその結果については王宮に確認すればすぐに分かる話だ。それなのにライアンが偽証する必要はない。となると――
「嘘よ!!!!」
呆然とするオーウェンをよそに、ラティナが殆ど悲鳴のように声を上げる。
「かんていしょ? 鑑定書ですって? そんなものがあるなんて……きっとライアン様が聞き間違えたのだわ! 私がソティスに負けるわけないでしょう!」
激しく肩をいからせる様は、先ほどまでのか弱く王子にすがっていた姿とは微塵も一致しない。あまりの剣幕に、オーウェンの額には嫌な汗が浮かぶ。
「ラティ……ラティナ、どうしたんだ?」
こんなに鬼気迫った様相で否定していては、逆にライアンの言葉が全て正しいのだと、そう言っているように聞こえてしまう。
「オーウェン様だって、私は『月女神』のようだっていつも言ってくれたわ!」
「ラティナ、大声を上げるのはあまりに品がないわ」
対してソティスは始めからずっと調子が変わらない。
「騒がなくても、そんな恥ずかしい渾名なんていつでも譲ってあげるって言っているでしょう」
「だったらその首飾りもちょうだいよ!」
「それとこれとは話が違うわ」
たがが外れたように騒ぐラティナに宥めるソティス。この一瞬だけで、今まで学園で築かれていた二人の印象ががらりと変わる。
「……鑑定士に確認しても良いですが、兄上も今のお二人の会話で真実が分かったんじゃないですか」
「は、いや……あぁ、何がどうしたのか『月女神』の名を元々与えられていたのはソティス嬢、らしい……だが……いや、それでも」
戸惑いのためか、オーウェンの言葉はふわふわと定まらない。ライアンはやれやれと頭を掻くと改めて声を張る
「まぁ、ご本人は嫌がっていますが『月女神』と称されているのはソティス嬢で、それ故に『涙』を正当に託されているのだとご納得頂けますか」
「それでも……いや、そうだ、その力には、どのくらい差があるというんだ?」
それが僅かな差であれば、まだどうとでもひっくり返せるとばかりにオーウェンは尋ねる。それに答えたのはソティスだった。
「私が始めに、ある程度の加護の力が無ければ宝玉もただの宝飾品だと申し上げたのを覚えておいでですか? ラティナにとって『涙』は宝飾品、力は私の百分の一あれば良いくらいかと」
予想以上の差に、オーウェンとオリヴァンは揃って顔を見合わせる。
「ラティナが特別弱いのではありません。殿下たちに『有能』と評価されるくらいに繕える力はあるのでしょう。逆に私がグレイシアの歴史の中でも強力な加護を授かっているようなのです。だからこそ、おかしな渾名が付けられたのですが」
「『グレイシアの双子令嬢』と『月女神の再来』という言葉が、その由来もあやふやなまま勝手な印象で広まった結果、学園という狭い世界の中ではラティナ嬢が『月女神』なのだと誤解されていたようですね」
ソティスに捕捉するようにライアンが言えば、すぐさまラティナが絶叫する。
「誤解なんかじゃ! ……もがっ」
「話がややこしくなるから、申し訳ないですが少しだけお黙りください」
ラティナの口を封じる術を施したのは、意外にもオリヴァンだった。冷静に状況を見ることには長けている分、ここでラティナが騒げば騒ぐほど分が悪くなることを悟ったのだろう。ライアンがわざわざ『王家の鑑定士』を持ち出してまで説明しているのだ、ソティスとラティナの鑑定結果は恐らく事実。ひいては『涙』を持つ権利、力量差についてもも事実と見るしかない。
オーウェン側にできることとしては、どれだけ傷を浅く済ませるか、そしてどれだけソティスの瑕疵を見つけられるかだ。第一王子という立場であっても、強力な加護を持つ公爵令嬢にただ難癖をつけて貶めただけという結果になってしまっては、今後への影響が出かねない。事実、周囲の野次馬の目は明らかに最初とは異なってきている。
もはや、ラティナの為というよりはオーウェンの身を守るための戦いをしなければならないとオリヴァンは判断したのだ。
「……場所を移しますか?」
本来はパーティが行われている場で、この諍いはあまりにも生徒の目を引いてしまっている。このまま醜態を晒すのも良くないだろうとライアンが提案するが、オリヴァンは軽く首を振る。オーウェンが劣勢のままここを去るわけにはいかない。場所を変えるのであれば、オーウェンの『勝ち』を印象付けてからだ。
オリヴァンの目配せを受けて頷いたオーウェンは軽く深呼吸すると、改めてソティスを見据えた。
「『月女神』の呼称に誤解があったことは分かった。その力量の差が本当ならば『涙』をソティス嬢に渡した公爵の判断には納得できる」
あくまで、オーウェンが認める対象は公爵。対ソティスにはもう一つ、追求せねばならないことがあるのだ。ラティナの様子を思い返して一瞬嫌な予感が走るものの、一度振り上げた拳をただで下すことはできない。
「だが、それではラティナに対する虐めについてはどう釈明するつもりだ」
「虐め……? あぁ、ラティナが助けを求めたと仰っていましたね。我が家でラティナに酷い扱いをしているということでしたかしら」
平然と返すその様は、どうしてもオーウェンの胸をざわつかせ、そして苛立たせる。
「加護の力量差が分かった今、逆に虐めについては合点がいった。初めはソティス嬢がラティナを妬んでことを起こしたのだろうと思っていたが、そうではなく見下していたのだな」
言いながら、その言葉がすとんとオーウェンの胸に落ちる。
(そうだ、ソティスは周りを、この第一王子オーウェンでさえも見下しているからこの態度なのだ)
そうに違いないと思うと、余計に腸が煮えたぎるような思いがするが、努めて冷静であろうとオーウェンは気を付ける。この後はどんな些細なことでもこちらが不利になるような点は見せてはいけない。
「口を挟んで申し訳ないですが、兄上。その虐めとはいったいどのような内容なのですか? それが分からなければ、ソティス嬢は肯定も否定もできないかと」
ライアンのいうことはもっともだ。ここでオーウェンに正当性を取り戻すのであれば、ここでソティスの行いを詳らかにして、それを認めさせなければならない。
ちらりとラティナに目をやると、いくらか冷静さを取り戻したのか大人しくしている。オーウェンからの視線に気が付くと、唇の端を上げてこくりと頷いてみせた。
ここまで来たらやるしかない。オーウェンは覚悟を決めて口を開く。
「まず、今追及している虐めは屋敷のみで行われていたものと聞いている。おそらく学園では生徒の数も多く、ラティナに心惹かれる者も多いため行動に移せなかったのだろう。一方でグレイシア邸内では加護を理由に侍女たちをも扇動できたのだと考える」
「つまり、私が侍女に指示してラティナへ害を成したと?」
顔の半分が扇子で隠れているために正確な表情は読めないが、ソティスの紅い視線がオーウェンに突き刺さる。
「……っ、そうだ! 暴力こそなかったものの、日々の衣服は粗末な仕立てで、食事の皿はソティス嬢とは区別されて冷たいパンを食べることもあったという。側に仕える侍女の数も家庭教師の数も違うというではないか。同じ家の双子でそのような差がつけられて、ラティナはどれだけ惨めな思いをしたと思う? 侍女にまで『ラティナのような者がこの屋敷に居るとグレイシア家の品格が疑われる』と暴言を吐かれるといって、毎日ラティナは苦しんでいたんだ」
「暴言、ですか。我が家の使用人に、そのような不教養な者がいるとは驚きですわ」
どこか他人事のような態度に、オーウェンはついまたカッとなる。
「驚きだと? それをお前が指示しているのだろうと言っているのだ!」
「殿下!」
声をおさえてください、とオリヴァンが囁き、オーウェンはふぅと細く息を吐く。
「そのようなグレイシア家での差別が本当だとしたら問題だ。いかに力に優れていようと、グレイシア家の頂点に立つのが人間性に難がある者ではいけないだろう」
オーウェンの言葉を受けて、ソティスは暫く考えた様子を見せてから口を開いた。
「差別……それを差別と言うのかどうかは存じ上げませんが、私の侍女数、部屋の大きさやドレスの枚数とラティナのそれが違うのは本当ですわ」
「やはり!」
オーウェンの目は鬼の首を取ったように輝く。
「でも、それの何が問題ですの?」
始めのように、こてりと首をかしげるソティスは、強がりでもなんでもなく言葉通りに「何が問題なのか」を理解していないようだ。
「ははっ、ほら、やっぱりそうだったんだな! 双子の姉妹間での差別を当然のものとして疑いもしない者がこんなに堂々としていてよいだろうか?」
聴衆にも問いかけるように、オーウェンは再び声を張り上げたが、ライアンを始め他の生徒たちもどことなく微妙な表情をしている。味方であるはずのオリヴァンさえも、何事かを考えこんでいる。勝ち誇った顔をしているのは、被害者であるはずのラティナのみ。
「ど、どうした、オリヴァン! これで言質がとれたんだぞ」
「フラーゲン王国第一王子殿下」
慌てるオーウェンに、ソティスがいやに畏まった呼びかけをする。
「殿下は、城下町に住む民衆と同じ食事、同じ衣服、同じお部屋で生活なさっているのですか?」
「いきなり、なんだ。そんなことと今の件は話が……」
妙な焦りと意図の読めない問いかけに、オーウェンの胸中に走る嫌な予感が強くなる。またもや論点をずらすつもりかと撥ねつけようとしたが、それでソティスの態度が変わることはない。
「お答え頂けますか」
もう一度強く見つめられ、オーウェンはたじろぎながらも口を開く。
「同じな訳がないだろう、当たり前だ」
その答えはソティスの想定通りのものだったようで、眉一つ動かさないまま更に問いかけを重ねる。
「では、それは差別ですか。殿下は民衆を貶めているのでしょうか」
それは聞きようによっては酷く王子を馬鹿にした言葉だ。抑えようとしていたオーウェンの語気が再び荒くなってしまうのも、当然といえば当然だった。
「何を言う、王族としての品位を保つためには当たり前のことだろう! 無駄に民衆を苦しめているのでなければ、王族がそれ相応の生活をするのはむしろ義務だ」
「では、我が家でのことも当たり前のことだとはお思いになりませんの?」
ラティナのグレイシア家での扱いと王家の義務とに何の関りがあるのかと、オーウェンが叫びだしそうになったところで、ソティスは心底不思議そうに問う。
「だから、それとこれとは話が違うだろう!」
響き渡る激高。静かな広間の空気が更に硬くなる。
「……差し出がましいようですが、話を潤滑に進めるためにまた少し口を出しますね」
ライアンがそっと手を上げる。
「兄上は話が違うと言いますが、事実ソティス嬢の喩えは適切ですよ」
「どういうことだ」
「兄上は何故だかソティス嬢の加護の力量をご存知なかったようですが、『月女神の加護』の重要性は流石にご理解してらっしゃいますよね」
ライアンの言葉はまるで年下に教え諭すようなもので、兄であるはずのオーウェンは非常に居心地の悪い気分になる。
「馬鹿にするな。『月女神』だけでなく『大地』も『天空』も同じだけ重要だろう」
その言葉に、オリヴァンも迷いを見せながらもそのはずだと頷く。王家の『太陽神』と並んでどの加護も欠かせないもので、四つ揃って初めて国に安寧が訪れ民は安心して暮らせるとも言われている。
「確かに、四つの加護はどれも大切です。けれどまず根底に『月女神』の祈りがなければ国は災厄に包まれます」
太陽神からは悪を払う勇気と国を導く力を
大地の神からは土属性の魔力と国を守る防御の力を
天空の神からは風属性の魔力と悪を浄化する力を
そして月女神からは民衆を癒し悪を生まない祈りの力を
それが、この国に生まれた者ならば子どもでも知っている物語に語られる加護の説明。
どれも魔物の類から国を守り安寧をもたらすには必要だが、『太陽神』『大地』『天空』は瘴気の発生・魔物の襲来から後手になって守る力であるのに対し、『月女神』の祈りはまずその発生から抑えるという対魔物に対してはその根源から対処できる唯一の力なのだ。
「ここ四十年以上、強い『月女神の加護』を持つ者は生まれていませんでした。その分、他の三つの加護で瘴気と魔物には対応してきました。対応はしてきましたが……魔物の発生に先んじて対処はできないために、根源の解決には至らない。それでも四十年間も『月女神』の恩恵がなければ、それを忘れてしまう者も多いようですね……兄上のように」
ライアンの説明はオーウェンもどことなく耳にしたことがあるものだった。それでも、とりあえず四つの加護のいずれかがあれば大きな問題ないのだろうという認識で聞き流していたところでもあった。
「兄上だけでなく、特に『大地』と『天空』の両公爵家は『月女神』に頼る必要などない、この二家で協力すれば国は守られるという考えをお持ちです。何なら王家の『太陽神』すら不要だと」
今現在、両家の者は学園に在籍していないために言葉を濁さず言えるからと、ライアンはどことなく晴れやかな顔をしている。勿論、その両家派閥の家に属する者はいるがそれはさほど大きな問題ではない。
「なんと不敬な!」
けれどライアンと正反対に怒りを全身に表しているオーウェンは、言外にその事実を初めて知ったのだと言っているようなものだった。
「そうですねぇ。だから王家派である王家・グレイシア家とデラファルト・フェリド両家で長らく対立してきました。そして王家派が長らく待ち望んでいたのが、ソティス嬢――強力な『月女神の加護』を持つ者なのですよ」
オーウェンの目が大きく見開かれる。
「そうです。それだけ、ソティス嬢は重要な存在なんです。国を守る上でも……王家を守る上でも。だからこそ、大切にされる。グレイシア公爵家では勿論、当時は王家でもソティス嬢の誕生を一族を上げて喜んだと聞いていますよ」
オーウェンやオリヴァンを含め、会場中の者がその言葉の意味をかみしめる。
それぞれの家の立場によって派閥は別れようとも、現王家が国の実権を握っていることに違いはなく、そしてその力を支え国の安寧を守っているのがソティスなのだ。どれだけ彼女が重要な位置づけにあるのかを考えるにつけ、ラティナの信奉者であった者ほど背筋に冷たいものを感じた。
そんな中、ソティスがそっと口を開く。
「私は大仰なことがあまり好きではないので、王家からの支援は控えてくださるようお願いしていますが、それでもこの力がグレイシアの、一族の悲願であったと言われたら納得しないわけにも参りません。家の為にも私の存在を他の公爵家に誇示しなければならいと言われたら、それを受け入れてきました。その結果が今の屋敷での扱いなのですが……それは殿下の仰る差別なのでしょうか」
ソティスの説明は筋が通っている。それでもまだ、オーウェンは退くに退けなかった。
「だがっ、それは、そうだ、それはラティナを貶めて良い理由にはならないだろう!」
ソティスが格別な扱いをされるのが納得できる理由であったとしても、それすなわちラティナに粗末なものを与えて良い理由にはならない。どうにかソティスから謝罪の言葉を引き出せないかと、オーウェンは殆ど祈るように言葉をぶつける。
「殿下の御目に、ラティナは映っていないのでしょうか?」
「どういう……意味だ」
「ラティナの今日のドレスを、ご覧になりまして?」
そんな質問に、オーウェンは何を今更、と一瞬戸惑う。
勿論見ている。控室までラティナを迎えに行ったのも、会場内でずっとラティナの傍に居たのもオーウェンだ。今だって、少し視線を動かせばラティナのドレスが目に入る。
ラティナの瞳に合わせたのか蒼を基調とした、淡い色味のドレス。何重にもレースが重ねられ、胸元は細かく金剛石らしき宝石が刺繍されている。ラティナの華奢ながらも女性らしい体型にぴったりあった意匠……そこまで確認して、オーウェンはやっと気づいて歯を食いしばる。
「お気づきになりまして? ラティナがお父様におねだりして王都一番のデザイナーに作らせた一級品ですのよ」
そう言うソティスのドレスは黒に近い紺色に銀糸で刺繡がしてあるものの、宝石が縫い込まれているわけでも特別華美なわけでもない。当然生地は高級品だろうが、大人しいデザインであることもあってかラティナのドレスの方が数段手が込んでいそうな印象を受ける。
そのようなドレスを纏っているラティナが、邸では粗末な扱いを受けているというのは一瞬の内に信憑性のない話になってくる。いや、よく気をつけて見ていれば、端から信憑性などなかったのかもしれない。
「我が家で、私が“特別扱い”されているのは事実ですし、それはある種当然のこととして受け止めています。けれど、その反面でラティナを貶めて粗末な扱いなどしておりません。公爵は私の力は力として大事にしておりますけれど、父としてはラティナに不憫な思いはさせてはいけないと気を配っておりますもの」
「で、では侍女からの暴言は……」
「それは日々公爵家に仕えるものとして己を律して働いている皆と雇い主である公爵を侮辱するものですわね。私たちは公爵家の娘としてそれなりに厳しく教育を受けておりますので、相応しくない言動があれば侍女からも苦言を呈されることもあります。講師の人数が違うというのは私も初めて聞きましたが……ラティナ、あまりお勉強が好きではありませんものね」
至極当たり前のように述べるソティスに対して、口を封じられているラティナはただ顔を赤くしてぷるぷると震えている。
グレイシア公爵家を調査するまでもない。ラティナの様子からして、これも全てソティスの言うことが正しいのだ。……むしろ、前もってグレイシア家について調べておけば良かったのか。それともラティナの言葉に耳を傾けたところから間違っていたのか。
オーウェンは唇をかみしめる。
結局、オーウェンはラティナの涙に踊らされただけだったのだ。膝から崩れ落ちそうになるほどの脱力感に囚われながらも、オーウェンはオリヴァンに口封じの術を解かせた。
「……っぷは! オーウェン様、お願いです! ソティスに騙されないでくださいっ」
あれほどまでに苛烈な様子を見せておきながら、一瞬で薄幸の令嬢の如くオーウェンの腕にすがる態度の変化は逆に見事というしかない。
「ドレスは毎年ソティスの方が多く仕立ててしますしっ」
「祈りのお仕事に必要な分を余分に作って頂いているだけよ」
「お部屋はソティスの方が日当たりの良い広い部屋ですし!」
「お父様のお仕事の補佐をするには書斎に近い方が良いし、書類を管理する分広い部屋が必要だったのよ。その代わりにラティナは湖畔の別荘を頂いていたじゃない」
「お食事はいつもソティスの方が種類が多くて豪華だし」
「ただあなたが偏食して食べないからでしょう、同じ料理人が同じように作っているはずよ」
「~~~~~~! うるさいわよ、ソティス! 妹のくせに!」
「……双子なのだから姉も妹も大差ないと思うけれど」
どんなに可憐な見た目をしていても、どうにかソティスを悪者にしようとする姿は、あまり美しいものではない。
「ねぇ、オーウェン様! 私は美しいでしょう? 女神のようでしょう? ソティスなんかよりもっともっと、私が一番であるべきでしょう?」
あるいはラティナは心の底から「ソティスと差別され格下の扱いを受けている」と思っているのかもしれない。今現在身にまとっているドレスが証明しているように、公爵家令嬢として十分な待遇を受けているにも関わらず、誰よりも何よりも優先されていなければ気が済まないのだ。
オーウェンはラティナに揺さぶられながら、ぼんやりと目の前の彼女を見つめる。
被っていた猫が剝がれ落ちたラティナは、女神などではなく他人を蹴落として優位に立ちたい一人の少女でしかない。
そしてラティナを信じ込んで明確な裏付けもないままソティスを断罪しようとしたオーウェンもまた、国民に誇れる王子などではなかったのだ。
「もういい」
オーウェンはまだ尚ソティスの『悪行』を並べ立てているラティナの腕をつかむ。
「もういい、ラティ。話なら、また後で聞くから」
そのいつにない迫力を持った瞳に、ラティナは押し黙る。それを確認してから、静かになった会場でオーウェンは頭を下げた。
「ソティス嬢、申し訳なかった。皆も、折角のパーティの時間を潰して悪かった」
一国の王子からの謝罪に野次馬と化していた生徒たちはまごつくが、ソティスは一つ頷いて返す。
「こちらこそ、ラティナが申し訳ありませんでしたわ」
あくまでこの件の原因はラティナだとするその言葉に、オーウェンは苦笑する。
そして
「行こう」
ラティナの手を引いて、オーウェンは踵を返して扉へと向かう。後を追ったオリヴァンを含め、三人の姿が扉の向こうに消えてから、改めてパーティの開始が宣言されるのだった。
******
――その後、オーウェンは自らパーティでの一件を王に報告し、遠方にある王領での謹慎処分を受けたという。ただし、その謹慎にはラティナを伴っており、いずれ王子は臣籍降下して結婚するのではないかと噂されている。
「兄上のことだから、ラティナ嬢のことはあっさり捨て置くかと思いましたが、意外でしたね」
王室庭園の東屋で紅茶を口に運びながら、ライアンは呟いた。
「そうですか?」
その向かいでは菓子をつまむソティスが首を傾げていた。今日は白を基調とした淡い色に瞳と同じ紅色のラインがアクセントになったシンプルな衣装をまとっている。
先日のパーティでの一件のお詫びと報告がしたいと、ライアンがソティスを茶会に招いたのだ。茶会とは言っても大仰なものではなく、二人でお茶を時間を過ごしているだけではあるが。
「姉妹喧嘩に巻き込んで少し険悪にはなってしまいましたけれど、元々二人は愛し合っていたのでしょう?」
ソティスは学園でも度々オーウェンとラティナが二人でいるのを見かけていたし、屋敷ではラティナから「私は王太子妃になるのだから!」と何度も聞かされていた。実際に王太子妃になれるのかは別としてそれなりに良い仲なのだろうと推測できたし、事実パーティでもオーウェンはラティナを「愛しい」だとか、言っていたはずだ。
「うーん……愛し合っていたのはそうでしょうが、仮初というか一時的というか、そんなところかと思っていたもので」
ライアンからして見ると、ラティナの目的は『王太子』と結ばれることだったのだろうし、オーウェンも勢いで突っ走っている感があった。だから、ラティナの本性が明らかになってはこの先上手く行くまいと思っていたのだ。
何も隠し立てがなくなったことで、逆に上手くいったのだろうか。恋愛とは分からないものだ。
「……ところで、ですね」
カップのお茶を飲み干してしまったところで、ライアンは改めてソティスに声をかける。控えていた侍女は二杯目を注ごうとする素振りを見せたが、それを断ってソティスに向かって背を伸ばした。
「王太子の任命についてはもうお耳に入っていますか?」
パーティの件でとソティスを呼び出したものの、ライアンにとっての本題はここからだった。
「えぇ、聞き及んでおりますわ。殿下に内定したのですよね」
そうだとは思っておりましたが、とソティスは微笑む。
あのパーティでオリヴァンはオーウェンを「次期王太子」と言ったが、実のところそれは見当違いなものだった。元々直情型で思い込みの激しい部分があったオーウェンは、王に向いた気質ではなかったのだ。多少の加護があることと「第一王子」という身分に安心して、それ以上の努力をしていないようにも、ソティスには見えていたのだという。
大して関わりの深くないソティスがそう思うくらいなのだから、平和な時代の賢王と名高い現国王が簡単にオーウェンを王太子にするはずもないだろう、と。
したり顔で頷くソティスを前に、ライアンはどこか落ち着かない様子を見せる。
「でしたら、あの……」
いつでも快活なライアンが珍しく言い淀むものだから、ソティスはきょとんと目を瞬かせる。
「何ですの?」
「あー……!」
がしがしと大きく後ろ頭を掻くと、
「やっぱりロマンチックな雰囲気作りなんて僕には向いていないので、はっきり言いますね」
ライアンはきりりとソティスを見据えて声を張った。
「王太子の地位に就いて、僕はより一層研鑽を積むつもりでいます。そして、この先を共に歩んでいくのはソティス嬢が良いと、思っています。どうか、僕の妻になってもらえないだろうか!」
言葉はシンプルだったが、側に控えている侍女が顔を赤らめるほどには熱のこもった眼差しと声だった。そんな熱烈な求婚を受け、間髪をおかずに
「はい、喜んで」
ソティスはさらりと答えた。
「……え、良い、んですか?」
「はい、勿論です」
ライアンは自分で求婚しておきながら、あまりにもあっさりとした返答に戸惑う。一方のソティスは引き続きお茶を飲みながら、このクッキー美味しいですわねなどと言っているのだから、その温度差はうっかり風邪を引いてしまいそうなほどである。
「ソティス嬢、王太子妃になるということですよ。本当に良いのですか」
ライアンがつい何重にも確認してしまうのも、無理からぬ話だろう。
「そんなに確認しなくとも、わかっておりますわ。というよりむしろ、殿下にお尋ねしたいのですけれど」
「何でしょう?」
「仮にも王族と公爵家の婚姻で、事前に何の根回しもないとお思いですか?」
「いや、それは……」
勿論、確かに根回しは必要だ。ライアンとて、何もいきなりソティスに求婚したわけではない。先日の一件があるまではこんなに早く王太子に指名されることになるとは思ってもみなかったけれど、この立場でなら『月女神』のソティスに求婚しても良いだろうと父王に許可を取った。この茶会にソティスを招くにあたって、グレイシア公爵にも許可を得た。
それでも王家から公爵家への通達としなかったのは、ソティスの意思を大事にしたかったからだ。庶民的と言われるかもしれないが、自分の口で想いを伝えたかったというのもあった。
それなりの根回しと覚悟は持っていたはずだとたじろぐライアンを尻目に、ソティスはゆっくりとカップをソーサーに戻す。そして、
「私、10の時から結婚するならライアン殿下でなくては嫌だと、お父様には言っておりましたから」
ニコリと笑った。
「じゅう……10歳?」
というと、7年前。ライアンがちょうどソティスに一目惚れしたのと同じ時期だ。
「陛下にとってもお父様にとっても、私が王族と婚姻を結ぶのは丁度良かったようで、当時から二つ返事で了承頂いてましたの。そうでなければ、私たちの立場で婚約者がいないというのもおかしな話でしょう?」
「それは、確かに」
単純に、ソティスはその加護の扱いも含めて慎重に嫁ぎ先を検討されていて、王子3兄弟については誰が王太子となるか分からない段階では婚約者を決めきれないのだとばかり考えていたライアンは変に感心してしまう。
ソティスは昔からライアンとの結婚を考えてくれていて、だからこそ婚約者を見つけるという話が持ち上がることもなかったのだ。それはつまりソティスも長くライアンを想っていたということで……遅まきながらそれを察して、ライアンは思わず頬を染めた。
「で、でも! それなら公爵も王もそうと知らせてくれたら……」
両想いだと知っていたなら、王都から遠く離れた留学中にヤキモキすることもなかったのに。そう呟くライアンに、ソティスは面白そうに笑った。
「私たち、きっと似たもの同士なのですわ」
「似たもの?」
「ライアン殿下だって、今日私に直接言ってくださったでしょう?」
愛する人とずっと側にいたい。
けれど家を通すと政略結婚になってしまう。
相手の気持ちが自分にないのに、家と立場のせいで縛り付けるのはお互いに辛いだけ。
「私も、ライアン殿下の心からの気持ちが知りたかったのですわ」
彼女はそう言って柔らかく微笑む。ライアンはその笑みに、もう何度目にもなる胸の高鳴りを感じた。
「……もう、僕の心からの気持ちは伝わった?」
「はい、充分に」
照らすのが月光だろうが日の光だろうが、関係ない。
ソティスはライアンにとって唯一の女神で、ただ一人の愛する女性だ。
「私、きっと今世界で一番幸せです」
そのきらめく表情は誰よりも美しい。
この輝きを生涯守り続けるのだと、ライアンは決意を新たにするのだった。