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短編小説

ぼくの家族は反面教師。長姉が次姉に婚約者を寝取られたそうです。

作者: レオナールD


「やあ、メリー。おはよう」


「あ、おはようございます。ライト坊ちゃま」


「お、おはようございます!」


 朝一番。今日もいつもと同じ時間に目を覚ましたぼくに、廊下ですれ違ったメイドが挨拶を返してくる。僕が生まれる前からこの屋敷で働いているメイドでメリーという名前だ。

 メリーの後ろには15歳くらいの少女が続いており、おどおどと緊張しきった様子で頭を下げてくる。

 おそらく、昨日から入ったという新人のメイドだろう。名前はたしか……


「君がシノンさんかな? これからよろしく頼むよ」


「あ、はい! 私の名前はシノンですけど……あの、ライト様はどうして私の名前をご存知なのですか?」


「おかしなことを聞くね。自分の家に仕えてくれている人の名前を知らないわけがないだろう?」


「…………!」


 ぼくが当然のように言うと、若いメイド――シノンが驚いたように目を見開いた。

 たしかに、高位貴族の中には使用人を代えの利く道具のように思っているものも多い。

 実際、この屋敷では100人近い人間が働いている。父も母も、二人の姉だって全員の顔と名前は把握できていないだろう。


(だけど……これがお爺様の教えだからね)


 ぼくの敬愛するお爺様は言っていた。

 人間関係の基本は相手を認識することだと。

 身分や立場に問わず、相手の名前と顔を認識することが円滑な関係を築くための第一歩なのだと。

 だから、ぼくはお爺様の教えに従って、日常的に顔を合わせる人間全員の名前を把握することにしている。


「私なんかの名前を……ありがとうございます! 頑張って、誠心誠意お仕えいたします!」


「うん、無理はしないようにね。何かあったらいつでも頼ってくれ」


「そんな……畏れ多いですよ! でも、お仕事は一生懸命やらせていただきます!」


 シノンが瞳をキラキラと輝かせて両手を合わせる。

 そんな元気いっぱいな後輩メイドに苦笑して、メリーが腰を折って頭を下げてきた。


「ほら。シノン、仕事に戻るわよ。坊ちゃま、それでは私達はこれで……」


「ああ、朝食の時にまた」


 メリーとシノンが仕事に戻るのを見送り、ぼくも玄関に向かって廊下を歩いていく。


 ぼくの名前はライト・レオンハート。

 レオンハート伯爵家の長男で後継ぎ。年齢は今年で12歳になった。

 いずれは家と爵位を継いで『伯爵』になる人間として、日々、様々な勉学を積んでいる最中だ。

 今日も早起きして剣術の鍛錬。その後は朝食を摂ってから領地経営について勉強する予定だったのだが……玄関ホールのほうから何やら騒ぐ声が聞こえた。


「ん……何かあったのかな?」


 ぼくが玄関ホールに行くと、そこで執事長と数人の使用人が慌てた様子で話している。


「……いけませんね。まさかこんなことになってしまうとは」


「とにかく、旦那様に連絡を! まさかカリーノお嬢様がこんな馬鹿なことをするなんて……!」


 執事長らの会話にぼくは眉をひそめた。

 カリーノというのは下の姉のこと。顔は可愛らしくいかにも男受けが良さそうな顔立ちなのだが、礼儀作法や勉学がとにかく嫌いで家庭教師から逃げ回っている不肖の姉だ。

 父親はどうにかして教育しなければと頭を悩ませているのだが、母親が猫可愛がりをするためまるで効果が出ていない。

 カリーノが問題を起こすのはいつものことだが……今日はかなり深刻な雰囲気である。


「セバス、何かあったのかい?」


「ライト坊ちゃま……それが、その……」


 ぼくが声をかけると、年配の執事長はあからさまに動揺して言葉を濁す。

 どうやら、ぼくに説明しづらい事態が起こっているようだが……次期伯爵として、なおさら把握しなくてはいけない。


「セバス、今日は父上が宮廷に泊まり込んで留守にしているから、嫡男のぼくが当主代理だ。問題が起こっているのなら隠さずに説明して欲しい」


「坊ちゃま……わかりました。お話します」


 執事長が覚悟を決めたように頷き、事情を説明する。

 ロマンスグレーの髭に覆われた口から語られたのは……思った以上に馬鹿馬鹿しく、けれど放っておくわけにはいかない騒動についてである。


 ぼくには2人の姉がいる。

 長姉のミランダ。次姉のカリーノ。

 下の姉のカリーノが奔放でワガママな性格であるのに対して、上の姉であるミランダ姉様(・・)は非常に聡明で賢い女性。

 容姿こそ平凡であるものの、昨年卒業した貴族学校では入学から卒業まで首席を譲らなかったほど才女だった。


 そんなミランダ姉様には婚約者がいる。

 ロードナイト公爵家の嫡男であるグレッド・ロードナイトだ。

 グレッドとミランダ姉様は半年後に婚姻を控えており、弟のぼくから見ても仲睦まじい婚約者だった。


 しかし……昨晩、そんな2人の関係を根底からぶち壊しにする事件が起こったのだ。

 昨日は急な大雨が降り、近くにある川が氾濫してしまった。そのため、姉に会いに来ていたグレッドは帰宅することができず、屋敷に泊まることになった。

 もちろん、ミランダ姉様とは別の部屋。貴族家の人間に婚前交渉などあり得ないことである。


 だが……今朝になって、グレッドが泊まった客間に別の人間がいるのが発見された。

 グレッドと次姉――カリーノが同じベッドで眠っていたのである。


 ミランダ姉様の婚約者であるグレッドが、よりにもよって義理の妹になるはずのカリーノと同衾していた。

 おまけに2人とも裸であり、何があったのかは明白。

 これだけでも大問題なのだが……さらに悪いことに、不貞をしていた2人の姿を発見したのが、グレッドを起こしにきたミランダ姉様だったのである。

 ミランダ姉様は卒倒して寝込んでしまい、不貞を見られたグレッドは顔面蒼白。カリーノだけが愉快そうに微笑んでいるという何ともカオスな状況が完成してしまった。


「なるほど……それは大問題だね。それで、グレッド義兄様……いや、ロードナイト公爵子息はどうしているのかな?」


 あえて呼び方を変えて尋ねると、執事長は沈痛な表情で首を振った。


「先ほどまで「違う」、「誤解だ」と喚き散らし、ミランダお嬢様に会わせろと騒いでいました。今は執事3人がかりで客間に押し込んでいます」


「その対処で正解だよ。くれぐれもミランダ姉様には会わせないように。相手が公爵家の人間だからといって容赦はしなくてもいい。ロードナイト公爵も納得してくれるはずだ」


「もちろんです。それとカリーノ様ですが……」


「あの女のことは報告しなくてもいいよ。どうせそっちも自室に閉じ込めてあるんだろう? 食事も与えなくていいから、一歩も部屋から出さないようにしてくれ」


 ぼくは鼻を鳴らして、怒りから拳を握りしめる。


「今は緊急事態だ。娼婦(・・)に構っている暇なんてないよ。これからのことちゃんと話し合おう」


「……畏まりました」


「まずは宮廷にいる父に連絡を。それからロードナイト公爵家にも事情を説明しないといけないかな。やむを得ない事態であるとはいえ、ご子息を軟禁する形になったんだから。ぼくが書状を書くから届けてくれ」


「承知いたしました。そのようにいたします」


「繰り返すけど、3人の当事者を会わせないようにくれぐれも注意してくれ……特にミランダ姉様がゲス共と顔を合わせないようにね」


「…………」


 執事長が無言で頷き、すぐに動き出す。

 優秀な使用人に心の中で称賛を贈りつつ……ぼくはロードナイト公爵への書状を用意するため、自室へと引き返した。




 それからすぐに父親であるレオンハート伯爵が宮廷から戻ってきた。

 ロードナイト公爵家からも使者が送られてきてグレッドを引き取っていき、後日、両家の間で話し合いが開かれることになったのである。



     〇          〇          〇



 数日後。

 レオンハート伯爵家にある執務室にて、ぼくは事の結果を聞かされることになった。


「……婚約破棄。まあ、妥当な結果になりましたね」


 話し合いは両家の当主の間で行われ、次期当主であるぼくやグレッドは加わることはなかった。

 後になって聞かされたのは予想通りの結果。ミランダ姉様とグレッドの婚約が破棄されたという結末である。


「だけど……カリーノとグレッドとの間で新しい婚約を結ぶって言うのは、さすがにないんじゃないですか? 姉の婚約者を誘惑するような淫乱女にご褒美を与えてどうするんです?」


「……仕方がないではないか。他にどうしろと言うのだ」


 ぼくは執務室の中央に立ち、奥の机についた父親を睨みつける。

 父親――レオンハート伯爵は神妙な顔をしており、何かを堪えるように唇を噛んでいた。


「どうしようもなかった……それが妹と婚約者に裏切られたミランダ姉様に対する言い訳になるのですか?」


「…………」


 どこか責めるようになってしまった言葉に、父親は長い沈黙を返してくる。


 両家の話し合いによって決まったのは婚約破棄だけではなく、新しい婚約もまた決定されていた。

 グレッド・ロードナイトは婚約者の妹であるカリーノに手を出してしまった。不貞をしたのはお互い様のため、慰謝料などが発生することはなかったが……こうなると、両家の間に大きな亀裂が入ってしまう。


 そもそも、ミランダ姉様とグレッドの婚約は、両家の間で行われる共同事業のためのものだった。このままでは、事業そのものが立ち消えになってしまい、莫大な損害が生じてしまう。

 そのため、カリーノとグレッドの間で新しく婚姻が結ばれ、共同事業の継続が約束されたのである。


「ぼくも貴族家の跡継ぎだから、政略というものは理解しています。だけど……ミランダ姉様の気持ちはどこに行くんでしょうね?」


 婚約者を妹に奪われた形になるミランダ姉様は、どれほど惨めな思いをしているのだろう。どれほど胸を痛めているのだろう。

 その心境は、まだ12歳の子供でしかないぼくには想像を絶するものであるに違いない。


「その話、もちろんミランダ姉様には話しましたよね? なんて言ってましたか?」


「……『承知しました』と。それだけ言っていた」


 父親はポツリとつぶやく。

 その表情は……深い深い悔恨に満ちていた。家のために娘を裏切る決断をした男の顔である。

 父親は決して、ミランダ姉様を憎んだりしていない。むしろ、ワガママ三昧なカリーノよりもよほど大切に思っていた。

 そんな愛する娘を、まったく非のない娘を傷つける選択をした自分に対して、激しい後悔をしているようだ。


(なるほどね……これが取り返しのつかない選択ミスをした男の顔か)


 机の上で両手を組んで項垂れている父親に、ぼくは心の中でそんなことを思った。


 昔、敬愛する祖父が言っていた。

 人生にはやり直しの出来ない失敗がある。たった1つの選択ミスがその後の生涯を決定的に狂わせてしまうことがある――と。

 そんなミスを犯さないようにするために必要なのが、他人の失敗に学ぶことである。失敗し、後悔している人間の姿をしっかりと目に焼き付け、同じ失敗を繰り返さないようにしろ――そんなことを言っていた。


(家のために大切な家族を捨てると、こんなに後悔することになるんだな。ぼくはそうならないように気を付けよう)


 項垂れる父親の姿を反面教師として目に焼き付け、ぼくはそっと執務室から出て行ったのである。



      〇          〇          〇



 執務室から出て行ったぼくが向かったのは、ミランダ姉様の部屋だった。

 ノックをして部屋に入ると、ミランダ姉様が部屋の整頓をしている最中らしい。床には乱雑に物が置かれている。


「姉様……大丈夫ですか?」


「ああ、ライト。様子を見に来てくれたのかしら? わざわざありがとうね」


 声をかけると、ミランダ姉様が微笑を浮かべて小首をかしげる。

 平凡な顔立ちではあるが、一目で聡明さと優しさが窺える笑顔。それはいつものミランダ姉様の微笑に見えたが……今日はどこか陰が差しているようだった。


「散らかっていてごめんなさいね? ちょっと部屋の整理をしていたのよ」


「……そうなんですか」


 ミランダ姉様は木箱に本や小物を詰めていた。

 箱の中に収められているのは、いずれもグレッドから贈られたプレゼントばかりである。

 どうやら、自分を裏切った婚約者の思い出の品を処分しようとしていたらしい。


「高価な品だと捨てるのももったいなくて困るわね。かといって、誰かにあげるわけにもいかないし」


「……古物商に売ってはどうですか? 売り上げは孤児院にでも寄付すると良いですよ」


「ああ、それは名案ね! グレッドのプレゼントが子供達のためになるのなら、それは素晴らしいことよ!」


 ミランダ姉様は両手を合わせ、おかしそうに肩を揺らす。

 一見して婚約者に捨てられた悲痛さなど感じさせないが……それがかえって、不安にさせられてしまう。


「……姉様、大丈夫ですか?」


「……大丈夫よ。心配かけちゃったわね」


 ミランダ姉様は儚げな笑みを浮かべ……そっとぼくの身体を抱きしめてきた。

 姉様の顔が見えなくなってしまうが、背中に回された両手がわずかに震えていることをぼくは見逃さなかった。


「……ライトは賢くて優しいから、きっと素敵な婚約者ができるわね」


「……どうでしょう」


「もしも将来、大切な人ができたら……その人を裏切っちゃダメよ? 無理をして愛さなくてもいいけど、あなたは誠実でいてね?」


「…………約束します。ぼくは姉様との約束を絶対に破ったりしませんから」


 ぼくはミランダ姉様の背中を抱きしめ返した。

 耳元で小さな嗚咽が聞こえるが……気が付かないふりをして、その背中をゆっくりと撫でる。


 ミランダ姉様のように優しい人だって、悪意ある人間から陥れられることがある。親しい人間に裏切られ、一方的に傷つけられることがあるのだ。

 ミランダ姉様はワガママ三昧なカリーノにも優しくしていたが……あの女に優しさを向ける価値などない。もっと厳しくワガママ女を叱りつけていれば、こんなことにはならなかっただろう。


(優しいだけじゃダメなんだ。時には厳しさや疑いをもって他者と接する必要がある……これもまた、1つの反面教師の形なんだろうね。もっともっと強くなろう。悪意を持って足を引っ張ってくる奴らを、残らず叩きのめせるくらいに)


 ミランダ姉様のぬくもりに包まれながら、ぼくはそんなことを思ったのであった。



     〇          〇          〇



 あの婚約破棄騒動から1週間後。

 ぼくは父親の名代としてロードナイト公爵家を訪れた。

 あれからふさぎがちになってしまった父親に代わり、グレッド・ロードナイトの様子を見に来たのである。


「お久しぶりですね……まだ『お義兄様』と呼んでもいいのですか? ロードナイト公爵子息」


「……君の好きに呼んでくれればいいよ。ライト」


 公爵家の応接間にて、久しぶりに顔を合わせたグレッドが力なく笑う。

 明るく快活な青年であるはずのグレッドは、以前とは見違えるように憔悴した姿になっていた。

 ソファに力なく座る男の頬は痩せこけており、窪んだ瞳の下にはくっきりと色濃い隈ができている。


「随分と……やつれましたね。裏切ったのは貴方のはずなのに、どうしてそっちが落ち込んでいるんですか?」


 格上の貴族家の人間に対して直接的すぎる言葉だが……どうしても聞いておきたかった。

 なぜ裏切った貴方の方が落ち込んでいるのだと。そんな資格があるのかと問い詰めずにはいられなかったのだ。


「ハハッ……何故だろうね。どうして、こんなことになってしまったのかな……」


 グレッドは力なく笑った。

 この世の何もかもを諦めたような絶望の表情である。


「ミランダを傷つけたいわけじゃなかったんだ。大切だった。愛していた。それなのに……たった一度の過ちで、大切なものを全て失ってしまった。何年もかけて築いてきた信頼を踏みにじってしまった。私はなんて愚かなんだろうね……」


「…………」


 後悔に満ちた言葉に、ぼくは眉間にシワを寄せた。

 そこまで悔やむのであれば、どうしてカリーノを抱いたりしたのだろう?

 カリーノは確かに美人だしスタイルも良いと思うが……そんな長所を台無しにするほどワガママで性格が悪い。一生と引き換えにするほどの価値があったのだろうか?


「誘われたんだ……カリーノに。前から慕っていたと。一晩だけでいい。今夜限りで忘れるからと。断ろうとした。断ろうとしたのに……彼女はドレスを脱いできたんだ」


「……断れば良かったじゃないですか。どうしてそうしなかったんです?」


「……たぶん、私が弱かったからだ。自分の欲望を振り払えるほど強くなかった。ついつい流されてしまったんだ」


 グレッドは応接間のソファに座り込み、ガックリと肩を落とす。

 ぼくよりも6つも年上の青年が、急に小さくなってしまったように感じられた。


「……ライト。子供の君に言うことではないけれど、男にはどうしても抗えない欲求があるんだ。悪いことだとわかっていながら、いや……『悪いこと』だからこそ、スリルに身を任せたくなる瞬間があるんだ」


「……言い訳ですか? 意味はよく分からないですけど、たぶん最低なことを言ってますよね?」


「……ああ、私は最低だよ。言い訳のしようがないほどに。君はこんな最低な男になってはダメだよ。理性を強く持って欲望に流されない男になってくれ」


 懺悔のように口にした言葉に、ぼくは深く溜息を吐く。


 欲望に流されてはいけない。理性を強く保て。

 新たな反面教師から得た教訓をしっかりと胸に刻み込み、ぼくは公爵家を後にするのであった。



     〇          〇          〇



 婚約破棄騒動から伯爵家の生活は大きく変わった。

 まず、家族と過ごす時間が減った。ミランダ姉様とは一緒に食事を摂るし、お茶を飲んだりもする。

 しかし、カリーノとは顔を合わせない。ミランダ姉様にも会わせないように使用人に言い聞かせ、食事の時間などもずらした。


 父親――レオンハート伯爵は宮廷に泊まり込んでおり、屋敷を留守にしている。

 その結果、12歳のぼくが領主代理として領地経営をすることになり、すっかり忙しくなってしまった。

 幸い、優秀な家臣が多いおかげでどうにかなっている。権限が増えてやれることが多くなったのも嬉しいことだ。


「ライトさん! ライトさんはいますか!?」


「……どうやら、うるさい人が来たみたいだ」


 その日、執務室で仕事をしていたぼくのところに招かれざる客がやってきた。

 執務を手伝ってくれていた執事長もあからさまに表情を顰める。


「ライトさん! これはどういうことですか!?」


 執務室に入ってきて喚き散らしたのは、ぼくの母親――レオンハート伯爵夫人だった。

 母親は南国の鳥のような高い声で「キーキー」と叫び、机で仕事をしているぼくのところに詰め寄ってくる。


「奥様、ライト様は仕事中です。後にしていただけませんか?」


「なっ……執事ごときが私に口答えをするつもり!? 私はライトさんに用があるのよ!」


「……構わないよ、セバス。ちょうど休憩しようと思っていたところだから、5分だけ相手になろう」


 優秀な執事に手を振り、ぼくは母親に目を向けた。


「何か用ですか、母上? ぼくがやっている領地経営の仕事よりも重要な用事なんですよね?」


「ッ……!」


 煽るような口調に、母親は化粧をした顔を引きつらせた。

 美人なのだが厚化粧でヒステリックな性格。こちらの都合を考えない自分勝手な人間。明らかにカリーノが母親似であることを確認した瞬間である。


「ライトさん、母である私を田舎で療養させるとはどういうことですか!? あなたは母を見捨てるつもりですか!?」


 母親の用件は予想通り。

 領主代理になったぼくは、屋敷から遠く離れた田舎にある別荘に母親を蟄居させることを決めていた。

 そもそも、カリーノの暴走は母親が甘やかして育てたことが原因である。

 元凶である人間に罰を与えないほど、ぼくは甘い性格ではない。母親には責任を取ってもらわなければ困るのだ。


「心配せずとも、カリーノの結婚式には参加させてあげますよ。それが終わったら、一生別荘から出すことはないでしょうが」


「あ、あなたは母親にどうしてそんな酷いことをできるのですか!? ライトさんには人間の血が流れていないのですか!?」


「……その言葉、そっくりお返ししますよ。母上の方こそミランダ姉様に悪いことをしたと思っていないのですか?」


 母親は婚約破棄騒動の際、ひたすらカリーノのことを擁護していた。

 カリーノがしたことを仕方がないことだと庇い、それどころか、グレッドが不貞をしたのはミランダ姉様に魅力がないせいだと言い切ったのである。


 母親は昔から、ミランダ姉様よりもカリーノのことを優先させていた。

 カリーノは性格に難こそあったものの、派手な顔立ちで若い頃の母親とよく似ている。一方でミランダ姉様は祖母に似ていた。母親は苦手意識を持っていた姑によく似たミランダ姉様のことを疎んでいたのだ。

 母親は次女ばかりを可愛がり、カリーノが欲しがればミランダ姉様のドレスやアクセサリーを奪って与えることすらしていたのである。


「貴女を放っておいてもロクなことにはならないでしょう? 子育てに失敗した自覚があるのなら、大人しく田舎に隠居してくださいよ」


「なんて冷たい子なの……! こんなこと、夫が許しませんよ!? 伯爵である夫に無断でこんな事をして、ただで済むと思っているのですか!?」


「ご心配なく。父上の許可は取ってありますので」


「え……?」


「父上も母上の暴走はもう放置できないと言っています。自分も仕事の引継ぎが終わったら行くから、先に待っているようにとのことです」


 父親は領主の仕事を僕に任せ、宮廷の仕事も辞すために部下に引継ぎを行っていた。

 家のためにミランダ姉様を傷つけたことが相当堪えたらしく、さっさと引退したがっている。


「そんなわけで……さっさと別荘に向かってくださいよ。この屋敷で貴女ができることは何もない」


「失礼いたします。奥様」


「なっ……は、離しなさいっ!」


 若い使用人が両脇から母親を抱え、引きずるようにして執務室から連れ出していく。


 母親はその日のうちに田舎の別荘に送られることになった。

 華やかな社交界を愛する母親がスローライフに耐えられるかは怪しいが……少なくとも、ミランダ姉様が味わった苦しみに比べれば何てことはないものだろう。


(子供を甘やかしてはならない。兄弟姉妹に差をつけて偏愛してはならない。貴女は母親としては失格でしたけど、良い反面教師でしたよ)


 母親を乗せた馬車が屋敷から出て行く。

 執務室の窓から去っていく馬車を見送り、ぼくはそんなことを思ったのである。



     〇          〇          〇



 12歳にして父から領主としての仕事を受け継ぎ、母親を田舎の別荘に追いやり……伯爵家の屋敷はすっかり寂しいものになってしまった。

 使用人など出入りする人間は多いものの、『家族』と呼べるのはミランダ姉様だけ。実質、2人家族である。

 もちろん、宮廷暮らしの父親もたまには帰ってくるし、次姉のカリーノもいるのだが……あの2人はぼくにとって家族とは呼び難い存在となっていた。


 色々と悪いニュースばかりの伯爵家だが……最近になって、良い出来事もあった。

 婚約者に裏切られてふさぎ込んでいたミランダ姉様に、良い男性が現れたのである。


 その男性と出会ったのは王家主催の夜会だった。

 婚約破棄以来、家に閉じこもりがちになっていた姉を気分転換として、パーティーに連れ出したのだが……そこでその男性と巡り合った。

 パーティーに参加することを渋っていたミランダ姉様であったが、「ぼくはまだ子供だからエスコートして欲しい」と甘えるとあっさり陥落した。ぼくの付添人として夜会に参加してくれたのである。


『これはこれは、ミランダ嬢!』


『お久しぶりですね、お元気でしたか?』


 パーティー会場に足を踏み入れた姉様に、大勢の貴族子弟が集まってきた。

 いずれも独身男性ばかりで、姉の心を射止めようと積極的に話しかけてくる。


『え、あ……はい。お久しぶりです』


 ミランダ姉様は困惑していたようだが……ぼくは特に驚いていない。

 姉様は才女として知られており、未来の妻として大勢の男性から欲されていた。

 グレッドとの婚約破棄の話が広まって以来、屋敷には連日のように婚約を求める手紙が送られてきている。

 それまで婚約者がいたため表には出てこなかったが……姉はモテるのだ。

 類まれな才女でありながら性格も良く、高慢に振る舞うことなく男を立てる……そんな姉は貴族家の妻として理想の女性。

 婚姻を求めるのは男爵などの下級貴族ばかりであったが、婚約者が決まっていない男はこぞって姉に婚姻を申し込んできた。


 僕がさりげなく姉の傍を離れて同年代の友人のところに行くと、姉の周りで話に花が咲く。

 姉は多くの男性から求婚を受けていた。


(これでいい。自分が誰かから求められていることを知れば、きっと立ち直るのも速くなるだろう)


 一方的に婚約破棄されたせいで、姉は『自分が劣っている』と劣等感に捕らわれるようになっていた。こうやって大勢の男から肯定されて求められれば、そうでないこともわかるはず。


 そんな夜会の結果、最終的に姉の心を射止めたのは隣国から留学に来ていた『男爵』だった。

 顔も良く、聡明な話しぶりの男爵と夜会をきっかけに交流を持つようになり、最近は文通も始めている。

 隣国に人をやって調べたが……その男爵の評判はかなり良い。素行にも問題はなく、姉様の相手として文句はなさそうだった。

 ミランダ姉様の顔は以前とは見違えるほど明るいものになっており、ぼくもホッと胸を撫でおろしたのである。


 そんなことがありながら時は過ぎていき、いよいよ次姉――カリーノとグレッドの結婚の日がやってきた。



     〇          〇          〇



 カリーノとグレッドの結婚式は、ミランダ姉様との式が行われるはずだった日程に開催された。

 式場をキャンセルするのがもったいなかったとか俗な理由ではなく、さっさとカリーノを屋敷から追い出したかったからである。


 あの事件以来、カリーノは屋敷の一室に閉じ込めてある。外出を許すこともなく、屋敷から1歩も外に出していない。

 カリーノを甘やかしていた母親はもういない。父親も反対することはなかった。


「やあ、カリーノ。ようやく結婚式だね?」


「ライト! あなたね、私を閉じ込めたのは!」


 結婚式が始まる前、カリーノのところに訪れると金切り声で怒鳴ってきた。母親とよく似たヒステリックな声である。

 カリーノは今日が結婚式ということもあってドレスを着ており、化粧だってしていた。しかし、その形相は鬼のように醜悪に歪んでいる。


「アンタのせいでパーティーにもショッピングにも行けなかったのよ!? どういうつもりなのよ!」


「問題のある人間を外に出せないのは当たり前じゃないか。よそで他の男と接触とかしたら、公爵家との仲にヒビが入るだろう?」


 カリーノとグレッドの不貞は2人の責任だったが、世間的にはグレッドに過失があるように思われている。ミランダ姉様を傷つけたことに罪悪感を覚えているグレッドが、姉に非がないことを知人に言ってまわったからだ。

 おかげで伯爵家側の傷が少なく済んだのだが……カリーノがまた問題を起こせば、そんな評価も一転することだろう。


「最低! 最っっっっっっ低! 私が公爵夫人になったら覚えてなさいよね! こんな伯爵家なんて潰してやるんだから!」


 カリーノはそんなことを叫んだ。左右のメイドが抑えていなければ、ぼくに掴みかかってきたことだろう。


「やれやれ。本当に馬鹿だなあ。君は本当に何もわかっていないんだね?」


 そんな愚姉にぼくは深々と溜息を吐いた。

 あの事件から半年間。ぼくはたっぷりと考える時間を与えたはず。

 それなのに……目の前の女はまるで学習していない。少しも自分の立場が分かっていなかった。


「ねえ、カリーノ。君は怖くはないのかい?」


 もはや「姉」と呼ぶことすらしたくない愚かな女に、ぼくは言い含めるように訊ねた。


「ミランダ姉様から婚約者を奪い取り、次期公爵夫人になったつもりのようだけど……本当に自分が幸せになれると思っているのかい?」


「な、何の話よ……当たり前じゃない!」


 呆れ返った視線にカリーノはわずかにたじろいだ様子だが、すぐに金切り声を上げた。

 家族としての最後の情で、ぼくは本当のことを教えてやる。


「公爵子息は君のことを抱いたけどさ。まさか、自分のことを愛しているから抱かれたとか思ってないよね? 彼は君のことなんて少しも愛してないよ?」


「あ、愛してない? そんなわけが……」


「あの人が君を抱いたのはたんなる欲望の処理。つまり……カリーノは『娼婦』として抱かれたんだよ」


「なっ……!?」


 カリーノは目を見開いて言葉を失う。あまりにも衝撃的な言葉に、パクパクと口を開閉させる。


「この間、公爵子息に会ったけど……彼はまだミランダ姉様に未練があるようだ。カリーノのことなんて少しも愛してないし、それどころか、ミランダ姉様との仲を引き裂かれたことを憎んでいる。君はこれから自分を憎んでいる男のところに嫁ぐことになるんだ……本当に怖くないのかい?」


「なっ……それは……えっと……あ……?」


「ミランダ姉様は類まれな才女として、公爵家の発展に貢献することを期待されていた。当然、公爵家の人間はカリーノにも同じことを期待してくるだろう。期待通りにできなければ、『姉とは違う』、『出来損ないの妹』だと蔑まれるだろう。本当に幸せになれるのかな?」


「そ、そんな……だって、わたしは公爵夫人に……」


「ちなみに、君がどんな扱いをされていたとしてもぼくらは助けない。公爵子息が他の女性と浮気をしようが、君のことを虐待しようがね。離婚したければ勝手にすればいいけど、この家に戻ってくることは許さないよ。その時は平民として生きていくといい」


 父親はカリーノのことを見限っている。

 母親はいまだに溺愛しているが……すでに追い出しており何の力もない。

 今日の結婚式には参列する予定だったのだが、別荘から脱走しようとして2階の窓から落ちて怪我をしてしまい、欠席することになってしまった。

 ミランダ姉様は優しいのでこんなクズにも手を差し伸べるかもしれないが……絶対に接触はさせない。今日の結婚式にも参加しない予定であった。


「レオンハート伯爵家にもロードナイト公爵家にも、君の味方はいない。カリーノ、君はこの世界に1人きりなんだよ? もう一度聞くよ、本当に……怖くはないのかい?」


 もうカリーノを助けてくれる人間はいない。

 ワガママ三昧に振る舞って、身勝手に他人を陥れた女には、味方はいなくなっていたのである。


「…………!」


「公爵子息に捨てられないようにね。公爵夫人という地位すら失ってしまったら、君にはもう何も残らないんだから」


 黙り込んでしまったカリーノに言い捨てて、ぼくは花嫁の部屋から立ち去った。

 直後、部屋の中から絶叫が上がる。


「悪いけど、メイドを手伝ってやってくれ。大変だろうからさ」


「わかりました」


「あまり暴れるようだったら、この薬を飲ませるといい。心を落ち着ける作用があるから」


 廊下で待機していた執事に命じて、ぼくはさっさと廊下を歩いていった。


 その日、狂乱していたカリーノは何とか落ち着きを取り戻し、結婚式を行った。

 伯爵家と公爵家の結婚式だけあって参列者は多かったが……ほとんどの参列者が興味のなさそうな顔をしており、事務的に参加したことがわかる。


 花嫁の表情は暗かったが、精神安定剤のおかげで暴れることはなかった。

 対照的に、花婿であるグレッドの瞳は憎悪と妄執に爛々と輝いている。結婚後、カリーノがどんな扱いをされるか、その瞳だけでよくわかる。


(誰かを裏切り、陥れたとしても、本当の意味で幸せにはなれない。カリーノ、君は最低の姉だったけど、反面教師の教材としては最高だったよ)


 ぼくは次姉に対する最大限の称賛を胸に、2人の門出を見送ったのである。



     〇          〇          〇



 こうして、伯爵家を揺るがせた婚約破棄騒動は幕を下ろした。

 その数ヵ月後、尊敬している方の姉であるミランダ姉様は隣国に嫁いでいくことになった。

 お相手はかねてよりの文通相手。あの夜会で知り合った男爵である。


 驚かされたのは、その男爵が本当は隣国の第3王子だったこと。

 偽名を使ってお忍びで我が国に訪れていたところを姉と出会い、その聡明さに惹かれて交際を願い出たらしい。

 第3王子は父王から『大公』の地位を賜り、ミランダ姉様は晴れて大公夫人として迎えられることになったのだ。


 次期公爵であるグレッドから婚約破棄されたミランダ姉様が、より上の地位である大公家から迎えられることになった。

 誠実で善良な人間が最後には報われて幸せを掴む。これもまた1つの教訓である。反面教師とは異なる人生のお手本なのだろう。


 ちなみに、ミランダ姉様が嫁ぐのと同時に父親は引退して、母親のいる別荘へと向かっていった。

 父親は最後にミランダ姉様に深く謝罪して仲直りしており、ようやく婚約破棄によって悪化した関係が修復されたらしい。


 母親は別荘から逃げ出そうとしたときの怪我で腰を悪くして車椅子生活になっており、父親から介護を受けて暮らしている。

 こちらの屋敷に帰りたがっているようだが……こちらは姉に対する謝罪の手紙すら送ってくることはなかったため、戻すつもりはない。


 また、ロードナイト公爵家からは連日、カリーノからの手紙が送られてきている。

 予想通りというか、やはりグレッドとの夫婦仲は良くないらしい。もちろん、助けるつもりはないので放置していた。


「そういうわけで……ぼくは屋敷に1人きりになってしまったね」


 両親も2人の姉もいなくなり、ぼくは使用人と屋敷に残された。

 そんなぼくのところにも、連日のように若い令嬢から婚姻の申し込みが届いている。


 12歳で伯爵家を継いだぼくは社交界ではそれなりの有名人であり、おまけに隣国の大公家とつながりができたことで一気に名前が知られてしまった。

 婚姻を申し込んできた令嬢の中にはこの国の王女殿下の名前まであったりしたのだが……できれば、それは見なかったことにしたいものである。

 伯爵家と王家ではとても釣り合わない。一生、尻に敷かれる未来が見えてしまう。


「家族のおかげでたくさんのことを学ばせてもらったし……ぼくは失敗しないように、慎重に生きて行こう」


 多くの反面教師の顔を頭に思い浮かべて……ぼくは王女殿下から送られてきた婚姻の申し込みにどう返事をするべきか、頭を悩ませるのであった。






おわり



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― 新着の感想 ―
[良い点] 十二歳でこの冷静さは恐ろしい。ですが当主になるにはこれくらいの実力が必要ですよね。 面白かったです。
[良い点] 主人公が恐ろしいほどリアリストで笑った 化け物だな [気になる点] グレッドは酒で酔っ払ったとかにすれば良かったんだけどな
[良い点] 主人公を第三者に常においてこれをシリーズとして読んでみたい気がします。 [気になる点] グレッドがあっさり引っ掛かりすぎて謎でした。 気の迷いだとしても婚約者の家でするか? 話の展開のため…
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