91.ゆらゆらと揺れる海の上で①
取り立てて特別な事はないはずの海の家メニューはすこぶる美味しく、俺達は『ちょっと注文しすぎたか……?』と心配になるような量を、あっという間に平らげた。
以前に紫条院さんと文化祭で同じような話をしたが、やはり海で友達と一緒に食べる屋台メシの味は格別であり、皆も同様の様子で若い食欲を旺盛にしていた。
そして、今日という日は午後を迎えていくのだが――
「ふー……流石にちょっと疲れたな」
俺は木の葉のようにゆらゆらと海に揺られながら呟いた。
やはり十代の体力はとてつもないものがあり、午後に入っても皆のパワーは全く衰えなかった。
陸上部の筆橋はうっすらと日焼けした小麦色の肌を見せつつ、とても上機嫌に「へい男子ー! 私と泳ぎで勝負しようよ!」と言って俺と銀次に遠泳対決を申し込んできたのだが、当然のことながら俺達は揃って惨敗だった。
「え、もう撃沈!? まだ1㎞も来てない距離なのに!?」などとメチャクチャを言うスポーツ少女に俺達内向的なオタク二人は揃って「「運動部の基準で言うなよ!?」」と大いに反論した。体育会系は往々にして自分たちのオバケ体力を標準にして考えるから困る。
メガネを外した風見原は水着姿と相まって普段とは違う大人びた渚の少女的な雰囲気を出していた。だが中身はやはりいつものマイペース少女であり、「砂浜に埋まってみたいので協力してください」と唐突に言い出した。
電波でも受信したかのような閃きを即座に実行したがるあいつに俺たちはやや面食らったが、それなりに楽しみながら全員で穴を掘ってその中にしっかり埋めてやった。
どうやら熱砂ダイエットをしたかったようだが――
「熱ぅぅぅぅぅぅぅぅっ!? だ、ダメですこれ! 塩釜焼きにされてる鶏の気分です! 骨まで火が通っちゃいますって!」
地中から飛び出た砂蒸し少女は早々にギブアップして、その様は見ていた俺達は砂だらけになった格好のままつい噴き出してしまった。どうやら日差しが強すぎて熱がこもりすぎたらしい。
まあ、そんな感じで――すでに午後に入ってからそれなりの時間が経った。
相変わらず天気は快晴そのもので、周囲から聞こえてくる海水浴客たちの楽しげな声は未だ衰えることがない。
「気の合う奴らとレジャーって本当に楽しいな……リア充達がやたらと海に来たがる理由がちょっとわかったかもしれん」
ぷかぷかと海に浮かびながら、俺はぼんやり呟いた。
仲のいい奴らと一緒に海に来るのは想像以上に楽しい。
さんさんと注ぐ太陽の光を浴びて、海でバシャバシャとじゃれ合っていると、余計な事が全部頭から消えて、子ども時代に帰ったようにただ『楽しい』だけが残るのだ。
とは言え、俺も午前から午後にかけて遊びまくったのでちょっと疲れた。
そんなわけで、たまたま一人になったこの時間は海水浴場の端にある目立たないスポットで休んでいるのだが――
「……に……はま……ん!」
「ん……この声は……?」
潮騒に紛れてよく聞こえなかったが、耳に届いた小さな声に俺の脳が敏感に反応した。何故なら、それは俺にとって絶対に聞き逃せない声だったのだ。
「新浜君! こっちですこっち!」
「え? 紫条院さん……? ってうわ!? な、何だそれ!?」
声がした方向へ視線を向けると、水面に浮かぶ巨大なビニール製マットが視界を占有し、俺は目を瞠った。
空気を入れて膨らませているのでカテゴリとしては浮き輪(?)なんだろうが、目を引くのはそのサイズだ。人間が二人は寝そべることができそうで、まるで海に浮かぶダブルベッドである。
「ふふ、期待通りの反応をありがとうございます。凄いでしょうこれ!」
浮きマット(と勝手に呼称する)の後ろにいた紫条院さんは、俺のリアクションに満足そうな声で言った。どうやらこのデカブツを押してゆっくりと泳いできたらしい。
「あ、ああ、このデカさは流石に驚いた……どうしたんだこれ?」
「小さな頃に一目惚れして親に買って貰ったものを、家の倉庫から引っ張り出してきたんです! さっき膨らませてからしばらくこれで遊んでいたんですけど、新浜君に見せたくて運んできました!」
とっておきの玩具を快活な笑顔で紹介し、紫条院さんは水面からざばっと浮きマットの上に乗ってその縁に腰掛ける。
少し小麦色に近づいた肌からしたたる水滴が、ポタポタと浮きマットの上に落ちていくのが何故かとても扇情的に見えてしまう。
「新浜君もどうぞ! ちょっと疲れているみたいですし、座っていってください!」
「えっ!?」
朗らかに言い、紫条院さんは自分の隣のスペースを手でポンポンと叩く。
いつもの事ながら、その顔には無邪気かつ満面の笑顔を浮かんでおり自分のお誘いが目の前の童貞男子に与えている衝撃には気付いていない様子だった。
(え、いや、そりゃ嬉しいけど……! )
隣に座るだけでも未だに赤面するのに、今の俺たちはお互いに水着なのだ。
本当に最低限の布面積しかないこの状態で肩を寄せ合って座るのは、先日に自宅のソファで一緒に座った時とは全く違う危うさがある。
とは言え、凄くいい笑顔で自分の隣をポンポンしている紫条院さんのお誘いを俺が断れるはずもない。
「じゃ、じゃあ失礼して……よっと」
浮きマットまで近づき、体重で転覆させないように注意しながら身体をその上へと登らせて、ゆっくりと腰掛ける。
マットの見えない部分に転覆防止の重りでも取り付けてあるのか、その浮力と安定性は大したもので、人が二人も縁に座ってもバランスが崩れる様子はない。
そして……この状況の破壊力を本当に理解したのはその直後だった。
「ふふ、いらっしゃい新浜君」
「あ、ああ……お邪魔します」
(ち、近い……! 腰とか足が当たってる……!)
紫条院さんに促されるままにすぐ隣に座った俺だが、この浮きマットは空気で膨らんでいるため、人間が二人ごく近距離で座ればその分お互いの身体はお互いの方向へと微かに沈む。
そしてその結果として……お互いの腰や太もも一部が接触してしまうのだ。
しかも――
「あ、大丈夫ですよ! 二人で座ってもひっくり返ったりしないのは、さっき美月さんや舞さんと一緒に試しましたから!」
ぱぁっと花咲くような笑顔で言う紫条院さんは、その柔らかそうな肢体を無防備に晒してくる。すぐ隣に男子がいるというのに、その魅惑の身体を少しも隠す様子がない。
ちょっと隣へ視線を動かしただけで、彼女のほっそりした腕、眩しすぎる足、豊満な胸、おへそが見えるお腹、艶めかしいうなじなどがゼロ距離で俺の視界へ飛び込んでくる。その破壊力に俺の血流は一気に早くなり、夏の熱気よりもなお体温が上がってしまう。
(数メートルくらい距離を空けてもとんでもない破壊力だったのに……この距離はなんかこう、本当に許されるのか……!? 水着に近づきすぎた罪で逮捕されたりしないだろうな!?)
本当に今更だが、水着って布面積的には下着以下なのに男女ともにこれを健全なものとして受け入れているのが不思議になってくる。実際、このまま水に濡れた天使を直視しすぎたら、俺の童貞マインドが爆発四散してしまいそうだ。
「そ、その……それにしても、こんな端っこでぷかぷか浮いてた俺をよく見つけられたな」
なるべく紫条院さんの方を見ないようにして、俺は口を動かした。
会話していないと、どうしても視界が気になって思考がオトコノコ的な方向でブレまくってしまう。
「あ、はい。それが……さっき山平君が来て舞さんと美月さんと何か話したかと思うと、三人ともにこやかな表情になって『自分たちはちょっと休憩するけど、新浜君があっちでヒマそうにしてたから、ちょっと相手をして欲しい』みたいな事を言われたんです」
「へ……? 銀次が何で……」
銀次はさっきまで俺と一緒にいたが、ちょっとトイレに行くからお前はここにいろよと妙に念を押していったのだ。
だからこそ、俺は一人でぼんやりと身体を休めていたのだが――
(あ……!?)
思い出したのは、昼メシの時に銀次が言っていた『昼寝とかするなよ』『俺も風見原さんも筆橋さんも、お前の事を応援してるってことだよ』という意味深な台詞だった。
そして風見原、筆橋と何かを共謀していたらしき話からするに……。
(あ、あいつら……! もしかしなくても、これって俺と紫条院さんを二人っきりにしようっていう魂胆かよ!?)
誰の発案かは知らないが、もう午前中には三人の間で合意が成されていたらしい。もしかしたら、海に行く前から密かに企んでいたのかもしれない。
(まったくもう……世話焼きな奴らめ)
ニヤニヤしながら紫条院さんに俺の居場所を伝えたというあいつらの顔を思い浮かべると、絶対に面白がっているだろと思う。だがそれでも、この海で二人っきりになれたこの状況は気恥ずかしくも嬉しくないわけがない。
「その、もしかして一人で楽しんでいたのなら、ごめんなさい。でも……」
すぐ隣に座る紫条院さんが、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
さっきまでかなりテンションが高かったはずだが、こうして隣り合って座ってから物腰はむしろ静謐なものへと変わっている。
「変な話ですけど、新浜君が一人でヒマしているなんて聞いたら、なんだかとても『もったいない』なんて感じてしまって、つい来ちゃいました。ご迷惑じゃなかったですか……?」
「は!? いやいや迷惑な訳ないって! 海に揺られているより紫条院さんと一緒にいた方が百倍楽しいに決まってるだろう! ……あ」
反射的にオブラートに包まない未加工の気持ちをぶちまけてしまい、俺は顔を羞恥に染めた。水着の紫条院さんが隣に座っているという特殊な状況に、つい頭で思った事がすぐ口から出てしまったようだ。
「そ、そうですか……百倍はちょっと言い過ぎですけど、ありがとうございます……」
ストレートすぎる俺の言葉に流石に紫条院さんもやや面食らった様子で、照れたような笑みを返してくる。
「でも、それなら……」
安堵するように一息つき、紫条院さんは俺の顔を見上げるような……俗に言う上目遣いで俺の顔を瞳に映す。
「このまま、私のお喋りに付き合って貰ってもいいですか……?」
肩がたびたび触れてしまう距離でおずおずと切り出した少女のお誘いに、俺が断る理由は何も無かった。




