88.紫条院家の者全員が知っていますよ
紫条院さんの水着を最初に拝むという身に余る光栄に浴した後――
俺達は銀次達と合流したのだが、ナンパの魔の手から助けていたと話すと筆橋と風見原は「一人にしてごめんなさい……!」と紫条院さんに何度も頭を下げて謝った。
「漫画のテンプレみたいなナンパがそんなにホイホイ寄ってくるとは……ちょっと認識が甘かったです。サーロインステーキが転がっていたらハイエナをどんどん呼び寄せてしまうんですね……」
「うん、女の子同士で気を付けないといけなかったのに、ごめんね春華。やっぱり飢えた狼たちがいる中でローストチキンを歩かせたらダメってことかぁ……」
「いえ、それは全然大丈夫なんですけど……どうして二人とも例えがガッツリしたお肉なんですか……?」
「いえ、その水着姿を見たら自然に……」
「だって……ねえ……?」
二人は紫条院さんのカロリーが行き渡って豊満に成長した身体へ視線を向け、『一体何を食べたらこんな恵まれた身体になるの……?』と感嘆と羨望が混じった顔になっていた。
「しかし新浜……お前、紫条院さんの水着姿見て興奮でぶっ倒れたりしなかったのか?」
俺の耳に顔を寄せ、ボソボソと銀次が聞いていくる。
おそらく、『普段からあれだけ紫条院さん命!みたいなお前が彼女の水着姿とか見たら脳みそがパーンってなると思ってた』と言いたいのだろう。
「いや、倒れはしなかったぞ。まあ、紫条院さんの水着姿が美しすぎて実は数秒くらいマジで呼吸を忘れてたけど」
「普通なら冗談だけどお前のことだからマジなんだろうな……もうちょっと気を付けて生きろよお前……」
銀次が呆れた様子で言う。
いや、そうは言うがな。紫条院さんが恥じらいながらパーカーのファスナーを開いていくところとか……なんかもう、凄かったんだぞ?
「そういや銀次。お前、紫条院さんの水着姿を見ても妙に平然としてるな? 筆橋さんと風見原さんの水着で照れまくって耐性がついたのか?」
「ああ、いや、友達が好きな子の水着姿をしっかり見たら悪いと思って、紫条院さんを見る時は薄目にして直視を避けてるんだよ」
「さっきから妙に細目だと思ったら……お前、いい奴過ぎない……?」
そりゃ本音で言えば紫条院さんの水着姿なんて俺以外のどの男にも見て欲しくないが、まさかそんな男心を汲み取ってくれるとは……。
「さて! それじゃあ全員揃ったことだし早速海入ろっか! あ、でもその前に全員で準備体操ね! こればっかりはおろそかにしちゃダメだから!」
スポーツ少女の筆橋がパンと手を打って皆へ促し、紫条院さんの水着姿を見てすでに満足していた俺は、そもそも俺達はそのために来たのだったと本来の目的を思い出す。
そうして――前世ではあり得なかった女の子たちと海で遊ぶという一日は、さらに次のステージへと移っていくのだった。
「あははははははっ! もう、美月さん! そんなにバシャバシャしないでくださいーっ!」
「ふふふふ……! それは無理な相談です春華! 友達と海に来てキャッキャウフフできるとか私は今、人生最大にテンション上がってますから……!」
浜辺から見つめる先に広がっている光景は、眼福としか言いようがなかった。
紫条院さんと風見原の二人が海の浅瀬に浴したまま、楽しそうに水のかけ合いをしているのだが、二人とも実に楽しそうだ。
紫条院さんのみならず、風見原も今イチ交友関係が乏しいタイプ(ぼっちと言ったら顔を真っ赤にして怒られた)ようで、ああやって友達と海でジャレ合うというシチュエーションに夢中になっており、かつてないほどにはしゃいでいる。
(ちょっと目の毒なとこあるけどな……)
風見原は妙なおっさん気質があり、たまに紫条院さんにボディタッチを仕掛けて彼女を真っ赤にしつつ「ひゃんっ!?」と変な声を出せている。
それに対して紫条院さんも「も、もう、やりましたね美月さん! なら私もこうですー!」と抱きついて一緒に海に沈むという可愛い技を披露するのだが、少女たちの濡れた水着同士が密着して肌が触れ合うのは、なんとも悩ましい光景だった。
ちなみに筆橋は「海だぁぁぁぁぁぁ! 泳ぐぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」と絶叫して突撃し、スポーツ少女の本領を発揮している。今はやや沖の方をサメと見まごうようなスピードで爆走して水しぶきを上げているのが見える。
(良かった……みんな本当に楽しんでくれているな)
こうして、好きな人や友達が心から楽しんでいるのを見るのは本当に嬉しいことだった。自分の発案したことが誰かの笑顔になるというのは、前世じゃ中々ないことだったせいでなおさらそう感じる。
「新浜様。楽しんでおられますか」
「え? あ……夏季崎さん!」
パラソルの下に座っている俺のそばに、いつの間にか今回の運転手を担当してくれている夏季崎さんがいた。
場所に合わせたのか、スーツからアロハシャツに着替えており、見た目は完全に子どもを海水浴に連れてきたお父さんだ。
「皆さんの邪魔にならないように引っ込んでいるつもりでしたが……新浜様には一言お礼を言っておかねばと」
「お礼……ですか?」
「ええ、お嬢様に近づいていたあの不埒なナンパ男たちのことです。実はあの時私が割り込む寸前だったのですが……先を越されてしまいましたね。気付きの早さもその後の穏便な撃退方法も見事でした」
「えっ……!? そんなに近くにいたんですか!?」
そこまで知っているからにはかなり近くで聞いていたのだろうが、全然気付かなかった。そう言えば、今も近くに来るまで全然気配を感じなかったような……。
「はい、お嬢様やそのご学友の皆様をトラブルから守るつもりで遠くから見守っており、あの事態に急ぎ走ったのですが……お嬢様が絡まれてから1分足らずで新浜様が駆けつけて流石に驚きました。恋愛の力とは凄いものですね」
「い、いえ……そんな……」
夏季崎さんは本気で感心してくれているらしいが、俺の恋愛脳が雑多な人混みの中から無意識的に紫条院さんをサーチしたのは、ある意味ストーカーの資質のようであんまり誇る気にはならない。
「それに、対話で引き下がらせて頂いたのは本当に助かりました。もし彼らが暴力に訴えるようでしたら、私が割って入って『お話』しないといけませんでしたからね」
「ヒェ……」
普段は全身スーツだからわからなかったが、穏やかな笑顔で言うアロハな夏季崎さんの身体は、細身ながら警察か自衛官もかくやとばかりに筋肉がムキムキだった。明らかにただの運転手さんに必要なマッスルではない。
しかも……口調も表情も穏やかだが、その声にはナンパ男たちに対して明らかに冷たい怒りがある。やはり紫条院さんは、家の使用人的立場の人たちからとても愛されているらしい。
「ともかく、新浜様が駆けつけたからこそ、お嬢様は怖い思いを引きずることもなく、ああして海を楽しめているのだと思います。同僚の多くも応援しておりますので、その想いの深さとハートの強さで今後もしっかりと励んでくださいませ」
「あの……もしかして、俺が春華さんのことが好きって紫条院家に勤めている人には結構バレて……?」
「はは、結構どころか紫条院家の者全員が知っていますよ」
「ふぁっ!?」
「何せ同僚たちの間では最大にホットな話題ですからね。あの日に大人げなさ全開の旦那様と渡り合ったことは周知のことですし、何より奥様が嬉々として何度も話題に出しますからな。知らないのは当のお嬢様だけかと……」
ちょ、えええええええ!?
な、何してくれてんだ秋子さん!
なんで家全体に俺の恋愛感情を触れ回っちゃってるの!?
「ははは、何やら驚いていらっしゃるようですが、私はそろそろまた引っ込んでいますね。ああ、それと――」
俺の驚きをよそに夏季崎さんは踵を返し、立ち去る直前で背中越しに言葉を投げかけてきた。
「新浜様は大人顔負けの気遣いや冷静さが持ち味だとは思いますが――堅物のまま若い時代を過ごしてしまったおっさんとしては、こういう場ではもっとはっちゃける事をおすすめしますよ」
そう言って、隠れマッチョ運転手は去って行った。
同じようなおっさん時代の経験がある俺には、その言葉はおそらく夏季崎さんが想像しているよりずっと染みる。
「やっぱ若さが足りなく見えるんだろうなあ俺……」
熱い陽光に照りつける下で、俺はポツリと呟いた。




