82.あの頃に夢想した理想の夏を①
俺は居間のソファにだらーっと寝そべりながら、ぼんやりと窓の外眺めていた。
太陽に灼かれた地面から陽炎が立ち上っており、青い空の上には大きな入道雲が広がっている。そして車が行き来する音にセミがミンミンと鳴く音が混ざって響き、これ以上ないほどの『日本の夏』という雰囲気を醸し出していた。
「ついこの間に紫条院さんとこのソファで一緒に寝たなんて……本当に信じられないな……」
あの穏やかに語り合った雨の夜を、その後に一枚のタオルケットを被って迎えた朝を思い出すと、つい顔が紅潮してしまう。
(まあ、あの後は色々あったけどな……)
紫条院さんとの同衾の件について、父親の時宗さんに事故だということを電話で説明するのはそれなり苦労した。
そして、そのことについて紫条院さんはかなり気にしていたようで、電話でめっちゃ謝ってきたのだ。
『ごめんなさい、ごめんなさい! また馬鹿な文句をつけた父を宥めてもらったそうで……! 父には強く言っておきましたけど、そうなったのも元はと言えば私が浮かれて余計なことを言ってしまったせいで……本当に申し訳ありません……!』
しまいには『お詫びに何かして欲しいこととかありますか? 私にできることなら何でもします!』などと童貞の脳を破壊することまで言い出したので大いに慌てたが、あの件について俺は正直全然気にしていなかった。
時宗さんでなくても男親なら一言申したい案件だったことは確かだし、そもそもあの人が俺を本気で不逞の輩だと思っていたら、絶対にあんな和やかな『文句』じゃ済まないのは理解している。なんだかんだで、あの親馬鹿社長は本気でキレてはいないのだ。
古風な考えかもしれないが、娘を奪おうと画策している俺としてはあの程度の父親の憤慨くらいは受け止めるのが礼儀だとすら思っている。
まあ、そんな感じでお泊まりの後日談も終わっているのだが――
「…………もう紫条院さんに会いたくなってきたな」
あのお泊まりによって枯渇していた紫条院さん分(紫条院さんに接触すると摂取できる俺の活力源)をたっぷり補給できたはずなのに、あれから数日もしないうちにもうチャージが切れてきたのだ。我ながら燃費が悪すぎる。
夏休みが明けるまでまだ日があるのに、新学期まで彼女に会えないのがとても苦痛だった。
そしてさらに……もやもやしていることはもう一つある。
「…………このまま二度目の高二の夏を終わらせてしまっていいのか?」
前世における高校時代の夏休みなんて、『煩わしい学校に行かずにゲーム三昧できるぞ!』というだけの時間だった。それはそれで間違いなく楽しい時間だったのだが……それでも本心では渇望していたのだ。
漫画やラノベでしばしば描かれるような、青春に満ち溢れたひとときを。
高校生らしく、若く、熱く、深く思い出に残るようなそんな夏を。
この間のお泊まりイベントは青春リベンジを志す俺の気持ちを大きく満たしてくれたのだが……贅沢極まりないことに、俺の心は満足していない。なんというか、夏成分とでも言うべきものが不足しているのだ。
紫条院さんに会いたい。会って話をしたい。それと同時に俺の夏への憧憬が満たされるイベントが起きて欲しい……そんな想いを抱えて俺は物思いにふけっていた。
「ん? ……なんだそれ。『イベントが起きて欲しい』?」
頭に浮かんでいたそんな思考に、俺は思わず声を出してツッコんだ。
何故ならそれは、俺の前世における『都合のいいギャルゲーのようなイベントを夢見てただ待つ』というスタイルそのものだったからだ。
つい先日に香奈子が紫条院さんをお持ち帰りしてくるという前世にはなかったラッキーがあったばかりではあるが、あんなのは俺が前世とは違う行動を取り続けた末に偶発的に発生したバグみたいな事象だ。二度目を期待する方が間違っている。
「いかんいかん、俺の陰キャな部分がまた攻めの姿勢を忘れさせている! 何を夏ボケしてるんだ俺は! ただボーッと待ってて手に入るものなんて、せいぜい後悔くらいだって思い知ってるだろうが!」
そう、ただ待っているだけじゃ何も始まらない。
だからこそ、俺は残りの夏休みを有効活用する『何か』を計画すべきなのだ。
(しかし何がいいかな。紫条院さんを誘って何か夏らしいことをしたいんだけど、具体的にどんな……ん?)
ふとつけっぱなしのテレビに目を向けると、夏らしく海の特集をやっていた。
パラソルの下で寄り添うカップルや、浜辺のバーベキューで盛り上がる大学生の集団などが映されており大変妬ましい。
(そう言えば……紫条院さんってこういう大勢でワイワイする雰囲気が大好きだったよな……)
彼女が好きだと言っていた縁日のお祭りと、テレビに映る浜辺の雰囲気はとても似ている。雑多で庶民的で、やや混沌としているけどその分活力に満ちあふれており、照りつける太陽、熱い砂浜、どこまでも広がる青い海に誰もが浮き立っている。
(海……紫条院さんやクラスの友達を誘って海……! いいじゃないか、最高だ!)
二人っきりで海という選択肢も頭に浮かんだが、それは付き合ってもいない現在ではさすがに時期尚早だし、親御さんの許可が出るわけがない。
そもそも紫条院さんが好みなのは、みんなでワイワイする雰囲気だしな。
「よし、行き先は決まった! じゃあまずは紫条院さんを誘ってみよう!」
夏の締めくくりに最高の思い出を作るべく、俺は気炎を上げて携帯電話を取りだし――
…………そのまま携帯の通話ボタンを押す踏ん切りがつかずに20分ほどまごついた。
「あああああもおおおおおおおお! 何をブルってるんだ俺はぁぁぁぁ!」
テーブルの上に置いた携帯を前にして、俺は自分の情けなさに叫んでいた。
だがよくよく考えてみれば、俺は前世の男友達との間でさえ遊びの企画を自分から提案したことなんてなかった。
なのにいきなり意中の女の子を海に行こうと誘うのだから、ハードルが爆上げというレベルではない。
(とは言え……二人っきりで海に行こうってんならともかく、みんなで海に遊びに行こうぜって言うだけだろ! こんなんだから童貞兄貴って香奈子に馬鹿にされるんだ!)
さっきから何度も何度も紫条院さんにコールしようとして、そのたびに震える指先が通話ボタン押しかけては寸止めになっているのだ。
我ながら情けないことこの上ない。
だが、だからと言ってここで挫折する訳にはいかない。
こういう時は……アレを思い出せ。前世において、死ぬほどかけたくない電話のために勇気を振り絞ったあの時を……!
(粘着クレーマーに『そのような理由で商品交換はできません』と伝える電話とか、すぐキレる上司に『休暇中に申し訳ありません。極めて緊急の問題が発生して、私たちではどうにもできないので、システムの管理者IDを教えて頂けないでしょうか……』と聞いたりする電話とかな。あれは本当に億劫だった……)
なにせほぼ間違いなく礼儀知らずだの無能だのゴミだのと罵詈雑言の嵐になるからな。本当に電話に関してはろくな思い出がない。
(アレに比べりゃ好きな子に電話するのに何をビビる必要がある……! さあ、やるぞ! 俺は紫条院さんを海に誘うぞおおおお!)
そうして、過去の痛みをバネにして心にブーストをかけるといういつもの社畜式気合術で自分を突き動かし――俺は通話ボタンをプッシュした。




