78.真夜中のお茶会
隣に座ると、さっきまで薄闇でぼやけていた紫条院さんの姿が鮮明に見える。
着ているパジャマは香奈子プレゼンツであり、『やっぱり私やママのじゃサイズ的に春華ちゃんに着せるの苦しいから仕方ないよね!』と何故か嬉々とした顔で俺のタンスを漁ったのだ。
まあそのチョイス自体は寝間着として至極真っ当だった。
無地の真っ白なTシャツと紺色のショートパンツというラフな格好だが、普段のスカート姿とはまた違う活発な雰囲気が出ていてとても良い。
(けどやっぱりこの距離はなんかマズい気がする……エアコンは入れているのに熱で頭がクラクラしそうだ……)
紫条院さんからは女の子特有の甘くて良い匂いがダイレクトに薫ってくるし、一見色気のないショートパンツからすらりとした白くて長い足が惜しげもなく晒されており、靴下すら履いてない完全な生足が非常に目に毒だった。
「それじゃあ頂きますね」
そして当の紫条院さんはというと、俺の葛藤に気付いていない様子でマグカップを手に取り、ふーっ、ふーっと息を吹きかけて小さく紅茶を口に含んでいる。
「ふう……美味しいです。とっても気持ちが落ち着きます」
「そ、そっか。なら良かった」
若々しい高校生の肉体がもたらす思春期な煩悩を落ち着かせようと、俺も紅茶を啜る。なんの変哲もないダージリンだが、この深夜に二人っきりというシチュエーションのせいか、普段より遙かに美味く心が休まる味がした。
「それにしても……今日は楽しかったです。新浜君のお母様はとても優しい方でしたし、香奈子ちゃんもとても可愛くて……」
「そう言って貰えたらホっとするよ。特に香奈子とかめっちゃ懐いていたけど、馴れ馴れしい妹でごめんな」
「とんでもないです! あんなに愛らしい子が妹なんて、新浜君が羨ましくなったくらいですよ!」
「そ、そうか?」
可愛いのはまあそのとおりかもしれないが、やたらと距離感が近い奴でもあるので紫条院さんの迷惑になっていないか心配だったんだが……。
「ええ、そうです! それにお友達の家にお泊まりするなんて初めてなので本当に楽しくて……眠れないのは疲れが浅いこともあるんですけど、まだ気分が昂ぶっているのもあるんだと思います」
そこで、紫条院さんは隣に座る俺へと顔を向けた。
ほぼゼロに近い距離で俺と彼女の視線が触れ合い、心臓が高鳴る。
「だから、少し……名残惜しい気もしています。もう少しこの時間が続けばいいなって」
暖かい紅茶を飲んでほんの少しだけ頬に赤みがさした顔で、紫条院さんは笑みを浮かべた。俺がいるこの家での一日を惜しむほど楽しかったと――そう言ってくれているのだ。
「……実は俺もそうなんだ」
「え……?」
「紫条院さんと自分の家で一緒に過ごすなんて予想もしていなかったけど……一緒に料理して、たくさん喋って……ずっと心が躍りっぱなしの楽しい一日だった」
深夜に紫条院さんがすぐ隣にいるという通常ありえない状況のためか、心の言葉がするすると照れもなく口から吐き出される。あるいは夏という季節が俺の口を軽くしているのかもしれない。
「だから……紫条院さんのお泊まりが終わるのがちょっと寂しい」
俺がそう呟くと、紫条院さんは目を見開いた。
そして、そこで俺も自分の言葉の意味に気付く。
紫条院さんが言った『名残惜しい』は俺の家族を含めた新浜家全体に対しての言葉だが、俺の『寂しい』は俺が紫条院さんともっと一緒にいたいということに他ならないのだ。
「え、えと、その……ありがとうございます……」
「あ、いや、うん……」
ちょっと頬の赤みが増した紫条院さんが声を乱してそう言い、俺も同じような状態で何の芸もない返事を返す。
さっきとはまた別の事情で落ち着かなくなってきた心をなだめるようと、俺はまだ熱い紅茶を大きく一口啜った。……砂糖は入れてないのに妙に甘い。
「……雨、まだ止まないな」
「あ、はい。天気予報だと朝には止むらしいですけど……」
珍しいことに、俺たちの会話はそこで少しの間途切れた。
とても明るい紫条院さんと、彼女と1秒でも長く話していたい俺が揃えば普段会話のネタが尽きるなんてことはないのだが、まるでお互いがこの空気を無言で堪能しているかのように小さな沈黙が訪れる。
(でも全然気まずくなったりしないな……出張やらで会社の上司や先輩と二人っきりになると場がもたなくて、何か喋らなきゃってあんなのに焦ったのに……)
外では未だに降り続けており、本来静寂であるはずの深夜に雨水がアスファルトの上で弾ける音がずっと奏でられている。
それによってほんの少しだけ非日常となったこの部屋で、ただお互いが紅茶を啜る音だけが響く。
それからややあって――俺が『明日も明後日も紫条院さんにこの家にいて欲しいなあ』などとぼんやり考えていると、そんなことは死んでも許さないであろう人物を思い出した。
「あー……ウチとしては名残惜しくてもやっぱり家には帰らなきゃダメだな。多分時宗さんが死ぬほど心配しているだろうし……」
「それは……ふふ、確かにそうですね。お父様は昔から私が一人でどこかに行くことを過剰なまでに心配する人だったので、明日一番に電話かけてきそうです」
なんなら社長自らが車で迎えに来て俺に『お前本当に不埒な真似はしてないだろうなオラアアアアアん!?』くらいは言ってくるかもしれん。
うっかり下着姿の紫条院さんとニアミスしたことや、『あーん』のことは口止めしておくべきだろうか?
「さっき紫条院さんはウチの家族を褒めてくれたけど、そっちの家の秋子さんも時宗さんも本当にいい親だよな……娘が大好きだっていうのは毎回凄く伝わってくるよ」
名家で大金持ちの一家とくればドラマや小説においてはあまり性格が良くないのがテンプレなのだが、あの二人は紫条院さんの両親だけあってとてもちゃんとした人たちだった。まあ、時宗さんについては親馬鹿をもう少々控えるべきだと思うが……。
「ふふ、そう言って貰えたら嬉しいです。私は両親を目標にしているみたいなところがありますから……」
「ん? 目標って?」
「ええ、小学校の時に書きませんでした? 『将来の夢』っていう作文」
「ああ、俺の学校でも書いたけど……」
幼いころ必ず書かされる自分の夢。理想の未来像。
スポーツ選手とか宇宙飛行士とか、子どもたちが思いのままに書き滑らせる最も無邪気でどこまでも純粋な未来への希望だ。
(俺は……一体なんて書いたんだっけか?)
あまりにも暗い現実を見続けたせいか、もうそれは霞がかかったかのように思い出せない。あの頃の俺は、一体自分の未来にどのような夢を見ていたのだろう?
「その、ありがちですけど……私の夢は『お母さん』でした。そして実を言えば……それは今も変わっていないんです」
それを語るのはやや恥ずかしいのか、照れた様子で紫条院さんが言う。
「私は昔から両親が大好きで、お父様とお母様は私に幸せのお手本を見せてくれました。だから仕事もしてみたいですけど……最終的にはただ幸福な家庭を築きたいんです」
「そう、なのか……?」
それは俺にとって少々驚きだった。
紫条院さんは誰も及ばない魅力を持っているのに、普段からあまり恋愛を意識している様子ではなかった。
けれど、もっと先の話である家庭を築くということについては、夢と定めるほどに思い入れがあるらしい。
「はい、たくさんの女の子がそう願うみたいに、ただ普通にお嫁さんになって、子どもを産んで、その子や夫になった人にごはんを作ってあげたり……そういう幸せが欲しいんです」
家柄、財力、美貌の全てを持つ少女は、優しい笑顔でその平凡で優しい夢を語る。
特別な何かではなく、家族という繋がりが欲しい――それはありきたりかもしれないがとても美しい想いであり、何よりも純粋で尊かった。
「……っ」
だが――俺は知っている。
前世において、その夢が無残にうち破られたことを。
「え!? に、新浜君、どうして泣いて……!?」
「あ、いや……ちょっと熱い紅茶を飲んだから……」
ともすれば零れそうになる涙を懸命に堪えて、何とか誤魔化す。
大人としての理性を総動員してもなお、俺の内で荒ぶる痛ましい感情は収まってくれなかった。
(そうだ……決して特別でも何でもない夢だ……紫条院さんの魅力と優しさなら絶対に幸せな家庭が作れただろうに……)
そんな女の子らしい平凡な夢を、紫条院さんは社会に潜むくだらない悪意によって壊された。ひどいイジメに遭い心を病んで人形のようになった時、秋子さんや時宗さんが一体どれほど嘆き悲しんだのか……想像するに余りある。
(なんでそうなるんだろうな……俺も紫条院さんも……)
俺たちはただ真面目に働いていただけだ。
俺の場合は選択のマズさや状況を変えられない心の弱さという問題があったのは認めるが、それでも俺なりに必死に生きていたのだ。
なのに、俗悪な奴らに痛めつけられた末に俺たちの人生は終了した。
叶うはずの夢も、夢想した未来も、何もかも潰えてしまったのだ。
(今世では絶対そうはさせない……俺が今ここにいるのは俺の人生を取り戻すことも目的だけど、何より紫条院さんを守るためだ! 誰でもない、俺がそう決めた……!)
「紫条院さんは……絶対いいお母さんになれるよ。俺が保証する」
「え……?」
「誰もが見惚れるように可愛くて、太陽みたいに暖かくて優しい。さらに料理の腕前はその辺の主婦が及びも付かないようなレベルで、人として大事なものを全部持ってる。これで幸せになれなければそんな世界の方が間違ってる……!」
「ふ、ふわぁ!? に、ににに、新浜君!?」
思い人の顔を見ながらその美点を列挙する俺に、紫条院さんは顔を赤らめて大いに慌てた。
後になって冷静に考えると、この時の俺は正気ではなかった。
廃人のようになってしまった前世の紫条院さんを想って感極まっており、理不尽への怒りと運命への反骨心がない交ぜになって頭がバーストしていたのだ。
「だから安心してくれ。その夢も幸せも俺が守る。俺が絶対に紫条院さんを幸せにしてみせる……!」
「ひゃぁ…………!?」
きっぱりと言い切った俺の言葉に、紫条院さんは目を見開いて固まった。
そしてみるみる内にその頬を朱に染めていき、なんだかとても混乱している様子だった。
(――はっ!?)
そしてそこで、俺はようやく自分の発言の重大さに気付く。
普段恋愛のことばかり考えている俺だが、今言った台詞は紫条院さんを絶対に破滅から守ってみせるという純粋な使命感からのものだった。
だがそんなことがわかるのは俺一人だけで、言葉だけを抜き出せば君が欲しいという意味にしか聞こえないだろう。
「いや、その……! とにかくその夢は絶対に叶うし、俺は全力で応援していると言いたかったんだ!」
「は、はい……そうですよね。なんだかドラマで聞いたような台詞だったのでちょっと驚いてしまいました……」
お互い赤くなった顔を冷ますように、すぐ隣の座る相手の顔を見ないようにして言う。普段恋愛的な言葉への反応がすこぶる鈍い紫条院さんだが、これも夏の夜の魔力なのか普段より天然さが消えているような気がする。
「……でも……そんなふうに言って貰えて嬉しかったです。本当に新浜君は、私なんかにいつも親身になってくれて……」
まだ頬に赤みを残した紫条院さんが、ぽつりと呟く。
とても穏やかで、静かな喜びがこもったような響きだった。
「ああ、やっぱり名残惜しいですね……こういう時間、私は好きです」
祭りの終わりを惜しむかのような言葉はとてもいじらしく、俺の胸に喜びが溢れる。そして、俺も同じように思っていることはわかりやすい形で伝えたかった。
「その……また、メールもするし電話もするよ。それに――」
それを口にするのは若干の勇気が要った。
けれど、ためらいはない。後で時宗さんがキレるかもしれないが、そんなことを怖れて恋愛はできないのだ。
「今回のことは香奈子がお世話になった流れでの突発的なことだったけど……今度は俺の方からちゃんと誘うよ」
「……!」
我が家への紫条院さんの訪問について、唯一残念だったのはこれが俺の意思でのお誘いではなかったことだ。俺がすでに紫条院家に招待されているのだから、逆をしても何も問題なかっただろうに、童貞故に『家に呼ぶとしても交際にこぎつけた後』という考えに固定されていたのだ。
……まあ、さすがにお泊まりはこんな状況でもないとマズいことだし、普通の招待でも親馬鹿社長の許可を取るのが最大の難関だが。
「だから……是非またウチに遊びにきてくれ。家族も喜ぶからさ」
「――はいっ!」
俺の精一杯の言葉に、紫条院さんは想像以上にぱあっと顔を輝かせた。
それこそが俺が守るべきもの。まるで夏の太陽の下で咲くひまわりのように、どこまでも明るくて眩しいほどの笑顔だった。
【作者より】
申し訳ありませんがしばし更新をお休みします。
リアルの事情もありますが、内容を少し落ち着いて考えたいというのも大きいです。エタることは絶対にないと断言しますので、どうかご承知おきください。




