77.眠れない夜に
今なお降り続けるこの異常な大雨について、俺は前世でも同じことを体験したはずだが全然憶えていなかった。
そもそも前世における俺の高校二年生の夏休みとは、部屋に引き籠もってラノベやゲームに興じていただけの日々だった。そのため道路が冠水しそうなほどの大雨が降ろうとも外に出てその様子を見ていなかったため、記憶に残っていなかったのだ。
(けど今になってようやく思い出した……この大雨って俺のベッドがぐしょ濡れになったあの時のやつかよ……!)
あの『あーん♪』で俺が赤面しまくって終わった夕食の後も色々あったが、夜もふけてきて新浜家はそろそろ就寝の時間となった。
そして、自分の部屋に戻った俺はとても無残な光景を目の当たりにした。
ぐっしょりとシーツが濡れたベッドに、その直上の天井からじわりと滲み出てはポタポタと垂れている透明な水滴。
誰がどう見ても完膚なきまでに雨漏りだった。
俺の寝床をピンポイントで狙撃したようなその有様に香奈子は大爆笑し、『あはははははははは! 兄貴マジ運悪すぎぃ! あ、春華ちゃんは私の部屋で寝るけど、なんなら兄貴も来る?』とふざけたことを言い、紫条院さんも『それはいいですね! 私は全然構いませんよ!』などと無邪気にもほどがある台詞で俺を大いに困らせた。
(まあ、さすがにそれは断ったけどな……)
いくら本人がいいと言っても男女が一緒の部屋で寝るのはさすがに問題がある。
というわけで俺は居間のソファで横になっているのだが――
(全っ然寝れねえ……)
ライトスタンドに灯るぼんやりとしたオレンジ色の明かりの中で、俺はもう何時間も眠りに入れていないことに辟易していた。
その原因は言わずもがなだ。紫条院さんが同じ屋根の下で寝ている――ただそれだけで童貞の俺はドキドキが溢れて気が昂ぶりっぱなしなのである。
(それでなくても今日は紫条院さんと一日中一緒にいて色々ありすぎたからな……一緒に料理をしたり、家族の目の前で『あーん』してもらったり……あ、あと下着姿を見てしまったり……)
今日という濃密なイベントの渦中にいる間は余裕がなかったが、こうして一人の時間を得るとついあの洗面所でのことを思い出してしまう。
透き通るような白い肌に、無駄な贅肉がなくすらりと美しい曲線を描くあまりにも魅惑的な肢体。清楚な下着に反してあまりにもたわわな二つの双丘。
そして、そんな眩しすぎる姿を露わにしつつ、俺のシャツを抱えて何故か気の毒なほどに慌てる天使の姿を。
(今更ながら容姿もプロポーションもパーフェクトなんだよなあ……それでいてあんなにも良い子なんだから母さんや香奈子じゃなくたって気に入るわな)
夕食後も母さんが洗い物をやっていると、紫条院さんは『あ、お母様。お手伝いさせてください!』といつもの輝く笑顔で申し出た。母さんはそこまでしてもらうのは悪いからとやんわり断ろうとしたが、『お母様』という言葉の甘美さに勝てずに並んで食器を洗うこととなり……結局母さんは新しい娘を得たかのようにはしゃいでいた。
「……ダメだな。どうしても紫条院さんのことを考えてしまって悶々とする一方だ。こりゃもう寝るのは無理だし起きてよう」
眠る努力を放棄した俺は、ソファから身を起こして台所でお茶の準備を始める。
ヤカンだと音が響くので電気ケトルでお湯を沸かし、紅茶の茶葉を入れたティーポットに注いでいく。ふわりと薫るダージリンの香りがとても心地良い。
と、その時――
「あ……新浜君、起きてたんですか……?」
「え……紫条院さん!?」
不意に聞こえた声に振り返ると、そこには香奈子の部屋で寝ているはずの紫条院さんがいた。ど、どうしてこんな深夜に起きているんだ?
「い、一体どうしたんだ? トイレなら廊下の突き当たりに……」
「あ、いえ、部屋で香奈子ちゃんとお喋りした後でぐっすり寝ていたんですけど、一時間前くらいに目が覚めてから全然寝られなくて……多分最近夏休みで全然疲れていないからだと思います」
今日の紫条院さんは雨の中を走ったりしたはずだが、それでも一眠りしただけで回復しきってしまったらしい。大人になってどんどん疲れやすくなる身体を経験している俺は、やっぱり10代の体力って凄いなと感心する。
「それでずっと目を閉じていたんですけど、台所から物音が聞こえてきたので何だろうと思って……その、新浜君こそどうして……?」
「ええと、実は俺も同じような感じなんだ。学校に行ってないから疲れてないし、おまけにいつものベッドじゃないからどうにも寝付けなくてさ」
まさか紫条院さんのことばかり考えて気が昂ぶってるせいとは言えず、俺は適当な理由をつけて誤魔化す。
まあ、それはさておき――
「あー……そのさ、今ちょうど紅茶を淹れてるんだけど、眠れないんだったら飲んでくか? 安い茶葉で悪いけど」
その誘いは、半ば衝動的に俺の口から滑り出た。
他人の家で目が冴えてしまった紫条院さんへの気遣いももちろんあるが、それ以上に俺が紫条院さんを深夜のお茶に誘いたかったのだ。
今の俺は一日中紫条院さんと接したせいで紫条院さん熱がとても高まっており、強く彼女を求めている。もっと彼女と話したい、この雨音だけが響く夜に二人だけの時間を共有したい――そんな熱が俺に誘いの言葉を言わせた。
「え、いいんですか? なら厚かましくご馳走になります! 正直全然寝れなくてどうしようかと思っていたので……」
眠れない同志を見つけたとばかりに紫条院さんがぱぁっと喜びの笑顔を浮かべる。
ただでさえ彼女への想いが高まっている俺はそんな花咲くような可愛さに普段より強く反応してしまい、頬に火照りを覚えた。
「よ、よしきた。それじゃ座って待っててくれ」
この薄闇で俺の真っ赤な顔が見えていませんようにと願いながら、俺は二人分のマグカップに紅茶を注いだ。元々眠れるまでゆっくり紅茶を飲んでいようと思っていたので、ちょっと多めに沸かしていたのだ。
「ほい、お待たせ……!?」
お盆に二つのマグカップを載せて居間に戻ると、俺は予想外の光景に戸惑った。
俺が『座って待っててくれ』と言ったのは夕食を食べたテーブルの長椅子にという意味だったのだが……なんと紫条院さんは俺の寝床になっているソファにちょこんと座っていたのだ。
「わあ、ありがとうございます! ふふ、なんだか夜中に飲む紅茶って大人な感じがして素敵ですね」
「あ、ああ……」
素直に喜びを露わにする紫条院さんを前にして俺が何かを言えるはずもなく、俺はソファの前にある丈が低いリビングテーブルに紅茶を置く。
そして、紫条院さんは「じゃあ、どうぞ新浜君も座ってください!」と自分のすぐ隣を手でポンポンと叩く。
俺は思わず生唾を飲み込んだ。
深夜のお茶をしようと言い出したのは俺だが、その距離はあまりにも近い。
紫条院さんの言葉だけじゃなくて、体温や匂いまで伝わってきてしまう。
(だ、大丈夫か俺? こんなに紫条院さん熱で頭がやられている状態のまま肩が触れそうな距離で隣り合ったら脳みそがオーバーヒートしないか?)
だがこの流れで俺が取り得る行動なんてただ一つであり……俺は意を決して紫条院さんと同じソファに腰を落とした。




