75.こんなのもう若夫婦じゃん
「新浜君、お味噌汁に入れる人参と大根ってどっちも拍子木切りでいいでしょうか?」
「ああ、それで頼む。いちょう切りでもいいけどウチはいつもそれなんだ」
「はい、了解です!」
魚を鍋に並べている俺の横で、紫条院さんが元気よく返事する。
幸いにしてウチの台所はコンロも三口あり、まな板を二つ(母さん用と俺用)を置くスペースもあるので、二人で作業することに問題はない。
「~~♪」
紫条院さんは大根と人参をトントンとリズミカルに刻んでいく。
社長令嬢という肩書きに反してその手つきは鮮やかで、普段からよく料理していることを伺わせる。。
「…………」
そしてそんな彼女の姿を、俺はついぼーっと見つめてしまっていた。
エプロン姿の紫条院さんが、ウチの台所で味噌汁を作っている。
まるで奥さんかお母さんのようにまな板に向かって背を丸め、この家の夕ご飯を作ってくれている。
その奇跡のような光景に……前世の俺が永遠に失ってしまったこの家の中で、青春の美しい思い出である愛しい女の子がいる尊さに目を奪われる。
「あれ? どうしたんですか新浜君? なんだかぼんやりしてますけど……」
「あ、いや、悪い。ちょっと料理の手順を思い出してたんだ」
俺は照れ隠しをするように誤魔化して、次の調理に取りかかるべく冷蔵庫から新しい食材を取り出そうとする。
そしてその最中に、味噌汁の具を刻んでいる紫条院さんの背後を通ると――
女の子の甘い匂いがフワっと香り、俺の顔がカっと熱くなる。
(う、うわっ! 今めっちゃいい匂いがした! い、いかん。会うのが久しぶりだからか、紫条院さんの魅力に敏感になりすぎてる……!)
春風のような脳を蕩かす香り、息づかい、ちょっと肩が触れ合った時に感じる微かな体温……その全てが俺の童貞回路を加熱させる。
二人で同じ台所に立つって、想像以上に危険な行為だこれ……!
「お味噌汁の具が切れました! もう鍋の中にいれちゃいますね!」
「あ、ああ、頼む。それにしても……なんだか紫条院さんもの凄く楽しそうだな」
「はい!新浜君のおうちでお泊まりなんて想像もしていませんでしたけど、なんだかとてもワクワクしているんです! 香奈子ちゃんや新浜君のお母様と話すことも、こうやって余所のおうちの料理をつくることも、とっても楽しいです!」
外の豪雨なんて嘘のように、紫条院さんは太陽そのままの笑顔で言う。
まるで初めてお泊まりをする子どものように、純粋な気持ちで『楽しい』と口にしている姿がとても眩い。
「それに……今はとてもすっきりしていますから」
「ん? すっきりって?」
「はい実は……昨日から人のことで悩みがあって、胸の奥に鉛を抱えているみたいに気持ちが沈んでいたんです」
「な、なんだって!?」
紫条院さんの口から出た『悩み』という言葉に、俺は血相を変えた。
なにせ、前世において紫条院さんを破滅させた元凶こそが彼女の内なる悩みや苦しみだ。苦痛を抱え込んで心の澱みを蓄積させてしまい、やがて取り返しのつかないことになってしまったのだ。
それは大人になってからの話だったが、俺が介入しまくった今世では本来の運命が大きく変わっている。なので、未知の破滅フラグが高校時代の彼女へ忍び寄っていても何らおかしくない。
「ど、どんな悩みなんだ!? いやがらせか!? それともストーカーか!? 頼むからどんな小さなことでも話してくれ! 俺じゃなくても、秋子さんや時宗さんに言ってくれればどうとでもなるから……!」
ちくしょう、紫条院さんを苦しめるなんて一体どこのクソ野郎だ!
男か女か知らんが、場合によってはボコボコにしてやる……!
俺の焦りまくった剣幕に、紫条院さんは包丁を手にしたまましばらくキョトンとした表情を見せ――
やがて、とても可笑しそうに、くすっと小さく笑いを漏らした。
「あ、いえ、ごめんなさい。私の『あの悩み』について新浜君がもの凄く真剣に心配してくれることが、嬉しいのと同時に可笑しくて……でも大丈夫なんです。それは今朝までの話で、悩んでいたことは私の考えすぎだとわかって全部解決したんです」
「そ、そうなのか?」
確かにさっきから紫条院さんが何かに苦しんでいるようには見えない。
そういうのを隠すのが上手い女の子じゃないし、どうやら本当に悩みは解決したらしい。
(それはいいけど……何でそれを言いながら俺の顔をじーっと見ているんだ?)
「もしかして……その悩みって俺に何か関係することだったのか?」
「ええと、それは……」
俺がそう訪ねると、紫条院さんは何故か少しだけ赤くなり言葉を濁した。
そしてそのまま何秒か沈黙し――
「ふふ、ちょっと恥ずかしいので――秘密、です」
頬を赤みを帯びたままイタズラっぽい笑みを浮かべ、人差し指を口に当てて紫条院さんは呟いた。
その秘密とやらは大いに気になったが、常にオープンな紫条院さんには珍しい恥じらいの表情と『シーッ』というしぐさの方に俺は目を奪われる。
何だかさっきから料理しているより紫条院さんに見惚れている時間の方が多いような気がする。
「ひ、秘密か……なら仕方ないな」
「ええ、でもいつかお話しして……あ、新浜君! 煮魚がそろそろよさそうですよ!」
「あ、いけね! って、味噌汁の具ももう柔らかくなってないか?」
「あ、本当です! じゃあもうお味噌入れちゃいますね!」
鍋が煮える音に促され、俺と紫条院さんは料理に戻った。
そして、そこからの進行は早かった。
お互いにノってきたというか、調理が進むごとに俺たちの波長はどんどんシンクロしていったのだ。
「キュウリ切れたけど、そっちの水で戻しておいたワカメはどんな感じだ?」
「はい、ちゃんと瑞々しいワカメに戻ってますからもう和えますね! あ、オクラは塩ずりしてそっちに置きました!」
「サンキュー! あ、それと何かもうちょっと作りたくなってきたから追加で玉子焼きとアスパラのベーコン巻きに取りかからせてくれ!」
「あ、ずるいです新浜君! なら私が一品受け持ちます!」
紫条院さんが言うとおり、二人でする料理はとても楽しかった。
気心が知れた相手との共同作業は、心がとても豊かになる。
息が合うことが心地良く、お互いがお互いの存在を意識して信頼し合うことが、スポーツで感じるような連携の高揚感を与えてくれる。
そして、これは俺だけが感じているのだろうが――ウチの夕飯を作るという日常のサイクルの中に彼女がいてくれることが、俺の素のままの世界に好きな人が馴染んでいるのが、とてもとても嬉しいのだ。
そうして、俺がその楽しい時間を伸ばしたいがために提案した追加の品も含め、俺たちは笑い合いながらどんどん工程を消化していく。
楽しい時間は、本当にあっという間に過ぎ去っていった。
「香奈子……あなた何してるの?」
「わわっ!? ママ、もう仕事終わったの!?」
私――新浜香奈子は廊下で不意にママから声をかけられて大いに慌てた。
「いえ、ちょっとトイレ休憩しに部屋から出てきたところだけど……本当に何やってるの? 柱の陰に隠れて台所を覗いてるように見えたけど……」
「いやその……とにかくアレ見てよ!」
「え? ……えっ!? 春華さんも一緒に料理してたの!?」
私がビシっと指さした先には、台所で一緒に料理している兄貴と春華ちゃんがいた。ママからすれば想像もしていないことだったろう。
春華ちゃんから『お夕飯作りを手伝いたいので、厚かましいですがエプロンを貸して貰えますか? 新浜君のシャツを汚すわけにはいかないので……』と申し出があり、私は『一緒にお料理イベント来たー!』と喝采を上げ、内心めっちゃニヤニヤしながらそれに快く応じた。
そして、私は全力で出歯亀を開始した。
二人で立つのがギリギリなあの台所で手が触れたりのハプニングが起こったり、兄貴がエプロン姿の春華ちゃんにドギマギしたり、そういう甘酸っぱい状況に期待してのことだったのだけど……。
「おお、紫条院さんの卵焼きぷるぷるで美味そうだなー」
「ふふっ、ありがとうございます。新浜君のアスパラのベーコン巻きも見ただけでワクワクしますね。お弁当の華って感じで!」
「今更だけど紫条院さんってめっちゃ庶民派だな……俺としてはそういう普通のごはんネタが共有できて嬉しいけど」
「それはもう、焼きそばが好物な女ですから!」
「あはは、そういやそうだったな! そういや今ちょうど縁日の季節で――」
そんな会話と温かい笑い声が台所から聞こえてくる。
最初こそ期待したとおり兄貴が紫条院さんのとの距離の近さに顔を赤くしていたりしたけど、今ではなんかごく自然に通じ合っており、和やかさと笑顔が満ちる空間になっている。
想定していた嬉し恥ずかしの方向性とはちょっと違うけど、ある意味私の想像以上に濃密な二人の世界を築いちゃってるよこれ……!
「な、なにあのほんわかとした雰囲気? 熱烈なラブはないけど通じ合ってる感が凄くない?」
「でしょ? こんなのもう若夫婦じゃんって感じだよね」
料理が進行するごとに二人の息がどんどん合っていき、お互いがあの空気をとても心地良く思っているのが見ているこっちにも伝わってくる。まるで昔からそうであったように、優しい尊重が二人の間にあるみたいだった。
ん? あれ? ならむしろ老夫婦って言ったほうがいいのかな?
「けど母さんはびっくりだわ……あんな綺麗なお嬢さんと本当に友達だっただけでもウソみたいなのに、あんな空気になるほど仲が良いなんて……も、もしかしてこれって冗談抜きで脈ありなの……?」
「ありあり超あり! 以前のクソ雑魚兄貴と違って今のスーパー兄貴は魂がめっちゃイケメンになってるし、脈がないわけないっしょ!」
「なんであんたがドヤ顔してるの……?」
ママのツッコミを受けながら、私は台所の兄貴たちを見つめていた。
あの二人が仲良くしているのが私はとっても快い。
あんな素敵な春華ちゃんが、兄貴のことを認めて好意を抱いてくれているのがめっちゃ嬉しいのだ。
「兄貴はマジで本当に本気だから……上手くいって欲しいなあ……」
「ふふっ、本当にそうね。私もあんな素敵な子は大歓迎よ」
思わずぽつりと口から出た呟きに、ママが微笑ましそうにくすりと笑う。
(あーもー、マジで頑張ってよ兄貴……! 私はもう春華ちゃんにお姉ちゃんになってもらう気満々なんだからね!)
美味しそうな匂いが満ちる台所の前で、優しい空気に浸りつつ仲良くやっている二人をさらにウォッチングしつつ、私は心の中でめっちゃエールを送った。




