143.大人になった君に会う
時は夕方。
カバンを持ったサラリーマン達が多くなってくるその時間帯に、俺は街の中心部近くのとある場所に立っていた。
(いよいよか……くそ、流石に緊張するな)
ようやく〝本題〟に取りかかると決めてから俺の心臓は高鳴りっぱなしだ。
なにせ、これに失敗してしまえば全ては終わりなのだ。
(……俺がしくじれば二周目世界の春華はずっとあのままだ。そして、この一周目世界の春華もいずれイジメに耐えかねて同じ状態になる)
のしかかる責任に、今まで生きてきた中で最大の重圧が降りかかってくる。
どんなに酷い目に遭っても受け身のままでいた陰キャの俺に、このミッションはあまりにも過酷すぎる。
(けど、そんなの関係ない……ハードルの高さ程度で誰が引き下がるかよ)
俺は元々根暗で意志薄弱などこにでもいる弱い男だ。
だが、今はこの胸には万難を排してでも目的と遂げるという確固たる想いがある。
その想いを支えているのは、無残だった一周目人生への狂おしい後悔だ。
もう二度とあんな想いはしない。
今忍び寄る最悪の結末を何がなんでも叩き潰す――そんな想いがある。
(そして、今はそれだけじゃない……)
思い起こすのは、二周目世界での光景だった。
高校生としての二度目の青春で、俺は取りこぼしていた多くの事を得た。
妹との関係の改善、学校の皆との青春、交友関係の広がり。
そして何より――春華と深い絆で結ばれた。
春華の眩い笑顔を、俺を映している瞳を、一緒に過ごした多くの時間が脳裏によぎる。
心の奥底から想いを寄せる少女がの未来を守る――その決意は、自分でも恐ろしい程の熱量で燃えさかっていた。
(時を駆ける陰キャを舐めるなよ……! こちとら自分の恋愛を成就するためなら歴史だって変える危険人物なんだからな!)
決意が固まったそのタイミングで、俺は歩みを止めた。
見上げる視線の先には、六階建ての大きな社屋ビルがある。
物産の大手会社であり、テレビCMなども流しているため知名度はそれなりに高い。
ここが、春華が通い続けた勤め先。
あの天真爛漫な少女の心を殺した忌むべき場所だった。
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(こんなに立派な社屋がある有名企業なのに……やっぱり内側は綺麗とは限らないんだな……)
前世で春華が破滅した時、社畜時代の俺は茫然自失となりながら、何かの間違えであって欲しいと祈りながら、その内容が載った記事を食い入るように読み込んだ。
結果として春華を破滅させた醜悪なイジメの惨状をつぶさに知る事となり、俺はトラウマを作ってしまったが――そのおかげで元凶たる会社の名前は記憶に刻み込まれていたのだ。
そして、今俺はその会社の入口が見える位置で、刑事の張り込みよろしくスマホをイジるふりして立っている。
会社から出てくるであろう、大人の春華に会うために。
(俺の目的はただ一つ…これから大人の春華を待ち受ける廃人化という最悪の事態を回避する事だ)
そして、それを為す具体的な手段は実に単純だ。
(春華は社内でひどいイジメに遭い続けて、結果として心を病んでしまった。なら、今日俺がそうしたように……春華にも会社を辞めてもらえばいい)
だが、その説得はかなり難しい。
なにせ、この一周目世界における俺と春華は『高校生の時のクラスメイト』というだけの関係であり、接点はとても希薄なのだ。
おそらく、春華は俺の事なんてとっくに忘れてしまっているだろう。
(それでもやるしかない……限りなく他人に近い状態からのスタートで泣きそうだけど、まずは春華と話ができる立場を手に入れる事からだ)
決意を固めた俺は、改めて会社の玄関を注視する。
もう一般的な退勤時間からは二時間ほど経過しており、その間に社屋から出てきた人物にそれらしき姿はなかった。
もしかしたら、今日は出張か何かなのかも――そう思った時だった。
「…………春華……」
社屋の玄関から出てくる女性の姿を視界に収め、俺は呆然と呟いた。
今の俺と同じ年齢――二十五歳となった紫条院春華はそこにいた。
まず目を奪われたのが、彼女の成熟した美しさだった。
高校生の時点ですでに天使のようだった美貌は、大人の艶と少女のあどけなさの残滓が矛盾なく合わさりもはや女神とすら言える。
服装はあまり洒落っ気のないレディーススーツだが、高校時代の春華をつい先日まで見ていた身としては、その大人のシンボルとも言うべき服によるギャップに見惚れる。
星の煌めきのような瞳も、艶やかな唇も、光沢を得て輝くロングヘアも、高校時代以上に輝きを放っており、その美貌に陰りはない。
だけど――
(……なんだよあの顔は……)
大人の魅力を纏う春華の表情からは、あの天真爛漫な輝きは消え失せていた。
まるで大切な存在を亡くした未亡人のように活力が失せており、色濃い疲労のみが浮かんでいる。
大人である事に疲れ果て、希望を失った一人の女性がそこにいた。
「……っ」
高校時代の花咲くような笑顔を知る俺としては、その深く心が傷ついた表情に胸が締め付けられる。
あの太陽のようだった少女がこんなにも顔を曇らせるまで、一体どれだけの苦痛を味わったのか――
(……胸が痛いけど今は考えるな。とにかく春華と接触しないと話が進まない……!)
訪れたチャンスに、俺はゆっくりと春華に近づく。
やっている事はストーカーそのものでしかないが、今の俺には路上で声をかけるしか接点を得る術はないのだ。
「す、すみません! ちょっといいでしょうか!」
「……?」
声をかけた俺へ向けて、春華がゆっくりと振り返って俺を見た。
その瞳は相変わらず宝石のように綺麗だが――その輝きには深い疲れによる陰がさしているように見える。
(……春華だ……本当に、大人の――)
正面からその容貌を見ると、纏う雰囲気と美しさに一瞬息を飲む。
俺が世界一好きな女の子が成長した姿に、つい胸が高鳴ってしまう。
「その、いきなり呼び止めてすみません。俺は――」
「――お断りします」
用意していた言葉を口にしようとした瞬間、春華のピシャリとした声が冷水のように俺へと降りかかった。
「私は貴方のどんなお誘いも応じる事はできません。わかってください」
何の感情も浮かべずに、春華は慣れきった事務手続きのようにそう述べる。
高校生の春華にはなかった無味乾燥な物言いと表情に、俺は少なからず衝撃を受けて固まる。
「では、これで失礼します」
「あ……っ」
言って、春華は踵を返してこの場から去ろうとする。
――行ってしまう。
春華が俺の目の前からいなくなってしまう。
そこで俺が激しい焦りを覚えたのは、高校生の春華を救う鍵が俺から遠ざかっていくから――ではなかった。
この疲れ果てた春華が、俺の目の届かない闇に消えていく。
定められた未来のレールに乗り、心を壊す未来へと至ってしまう――
あまりにも痛ましい顔をしているこの女性が苦悶の道へ戻ってしまう事に、俺は自分の神経が焼き付くような焦燥を覚えたのだ。
「言いたかったんだ……! 高校の時ずっと!」
春華に近づくために用意していた言葉は、全部忘れ去っていた。
変わりに自然と吐き出していたのは、俺の心に沈殿していた想いだった。
「あの頃の俺って全然女の子と話した事なかったから……! あの時、はる……紫条院さんが俺にオススメのラノベを聞いてくれた時、凄い嬉しかったんだよ!」
「え――?」
去りつつあった春華の足が止まり、見開いた瞳がこちらへと向く。
「あの後、せっかく紫条院さんがラノベの感想とか色々話しかけてくれたのに、俺と来たらいつもしどろもどろで……! 気を悪くしていたんだったら本当にごめん! 単に照れてまともに話せなかっただけなんだ!」
一息に想いを吐き出して、俺は荒い息を吐く。
ああくそ、何を好き勝手に叫んでいるんだ俺は。
俺にとっては陰キャな青春の中で唯一の美しい思い出だが、春華にとってはモブ男子Aとちょっと話した程度の事で、記憶に残っているはずが――
「…………新浜、君?」
「え……」
春華が口から予想に反して俺の名前が飛び出し、思わず目を見開いた。




